2013年2月12日火曜日

主のために生きる大切さ

主のために生きる大切さ
2013年2月12日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ローマ
6:12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
6:13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
6:14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。
6:15 それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。
6:16 あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。
6:17 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、
6:18 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。
6:19 あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。
6:20 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。
6:21 その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。
6:22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。


7:14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。

第二コリント
5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

今日のテーマは、「主のために生きる大切さ」としたいと思います。今、読んだ箇所だけではなく、似ている箇所は、もちろん、新約聖書の中にいっぱいあります。たとえば、パウロは、ローマ書に書きました。

ローマ
12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

コリントにいる兄弟姉妹に、パウロはまた、書いたのです。

第二コリント
8:5 そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。

もちろん、パウロだけではなく、ペテロも全く同じように、当時の信じる者を励ましたのであります。

第一ペテロ
4:2 こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。

こういう箇所がみな強調しているのは、主のために生きることこそが、考えられないほど大切なだけではなく、すばらしい特権なのではないでしょうか。一つの質問について、一緒に考えたいと思います。すなわち、いわゆる献身した生活とは、いったい何なのでしょうか。

献身は、主に捧げた自由意志の供え物です。その供え物というのは、自分自身であり、それは、もはや人間の欲望によらず、主の御旨によって過ごすためであり、前に読んだ聖句の中ではっきり記されています。

すなわち、「あなたがたのからだを神に捧げなさい。」また、「彼らは、自分自身をまず、主に捧げたのである」とは、自由意志の供え物を意味しています。その供え物は、自分自身です。と言いますのは、『あなた方のからだを神に捧げなさい。彼らは自分自身をまず主に捧げたのである』と、書いてあります。

献身は、主に捧げた供え物です。だから、「あなたがたのからだを神に捧げなさい。彼らは自分自身をまず、主に捧げた」と書き記されています。そして、この献身の結果は、肉における残りの生涯を、もはや、人間の欲望によらず、主の御旨によって過ごすためであるとあります。したがって、私たちは、ちょっとだけ五つの点について、一緒に考えてみたいと思います。

第一番目、供え物。二番目、自由意志の供え物。三番目、自分自身の供え物。四番目、主に対する供え物。そして、五番目、主なる神の御旨によって過ごすことの大切さについて、ちょっと一緒に考えてみたいと思います。

まず、供え物について考えましょう。献身は、満たした手を意味しています。すなわち、旧約聖書の時代、主なる神を崇拝する人々は、自分のもっとも良い物を持って、主に捧げたんです。満たした手で礼拝する者は、主の御前に出るわけです。これは献身です。

同じように、主から救われた者は、大喜びで自分自身を主に捧げます。昔、多くの人々は、奴隷として、取り扱われました。ある日、恐ろしくて震えている奴隷が、競売の場所に立ちました。今まで、彼は、奥さんと子供たちと一緒に、もちろん、奴隷として働いてきたのです。しかし、今から、離れるかもしれない。喜びなしに、彼は恐ろしい競売の終わりを待っていました。最後に、良い着物を着ている主人が、彼に向かって、「ねえ、私はあなたを買ったよ。あなたは自分のものだ」と、言いました。「はい、ご主人様」と、彼は素直な声で答えました。「私は、あなたを高い値段で買ったよ。」奴隷はうなずいて、痛く泣きながら賛成したんです。けど、「私は、あなたを買ったばかりでなく、あなたを自由にするために買ったんだよ。さあ、あなたは自由です。どこへ行ってもよろしい」と言った時、奴隷はひれ伏して、「いいえ、ご主人様、私はいつまでもあなたの奴隷として働きたい。どうぞ、あなたに仕えることを許してください」と、答えました。

同じように、イエス様は、我々を悪魔の奴隷から解放されました。イエス様は、神の小羊として、ご自分の血によって、我々のために、代価を払ってくださいました。私たちも、この奴隷と同じように、主の御前にひれ伏し、私たちの全生涯を、私たちの救い主として、救い主に捧げようと思わないでしょうか。

イエス様は、我々の全生涯の生贄(いけにえ)、供え物を欲しいのです。これは、絶えず覚えるべきです。ですから、パウロは、いつも大喜びでキリストの僕(しもべ)、すなわち、『主イエスの奴隷であるパウロ』と書いたのです。

同じ事実が、イエス様の生活によって明らかになります。

ヘブル
10:5 ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。

10:7 そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』

10:10 このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。

この聖句は、詩篇から取られました。

詩篇
40:6 あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。

ヘブル書のことばと、今、読んだ詩篇のみことばは、意味として、同じですが、言葉の使い方はちょっと違います。「あなたは、いけにえやささげ物を望まない」という表現は、ヘブル書と詩篇で同じです。しかし、次の、「わたしのために、からだを備えてくださった」とは、ヘブル書の手紙にだけ書いてあります。その代わりに、詩篇では、「あなたは、わたしの耳をつきぬいた」と書いてあります。けれども、これは、いったい何を意味しているのでしょうか。

もし、自由にさせられた奴隷が、自由意志で、主人の家で働き続けたい時、戸の柱に立たなければなりませんでした。そして、主人は、きりを持って奴隷の耳を突きぬきました。突きぬきられた耳は、自由意志で、全生涯を愛する主人に捧げたことを意味しています。聖霊は、イエス様は、いかにして父の御旨に従ったかを示すために、この耳を突きぬくことを用いています。「あなたは、いけにえと供え物とを喜ばない。あなたは、わたしの耳を突きぬいた」と、あります。

また、イエス様は、パリサイ人たちに向かって、「わたし自身の考えでするのではなく、わたしを遣わされた方の御旨を求めているからである」と、言われたのであります。また、「わたしは、あなた方の中で、給仕をする者のようにしている」と、イエス様は言われたのです。イエス様は、自分の意思、自分の全生涯を大喜びで父に捧げました。我々の場合はどうでしょうか。はたして、自分の全生涯を、自分を愛していらっしゃるイエス様に捧げようと思わないのでしょうか。私たちは、主のものであるかどうかが、今、問題ではなく、大切なのは、私たち一人ひとりが、もうすでに、主の所有物である自分を主に捧げたかどうかが疑問です。

生まれ変わった者だけが、主に献身することができるのです。したがって、救われるために、別に献身しましょうなどと言うのはおかしい。馬鹿らしいことです。私たちは、主のものだからこそ、新しく主に全生涯を捧げましょう。私たちは、私たちのものではない。なぜならば、主が高い代価を払いましたから。聖書は言っています。

第一コリント(口語訳)
6:19 あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。
6:20 あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。

主に対する供え物は、もうすでに主に属している者を意味しています。尊い血潮によって清められた全生涯を、主に捧げましょう。イエス様は、我々の供え物を、いつも受け入れます。なぜなら、もうすでにご自分のものであるからです。

ある日、金持ちが宝石店に行って、とても高いダイヤモンドを買ったけれども、買った金剛石(ダイヤモンド)を持ち帰りませんでした。しかし、次の日、その宝石商人は、反対して、買ったダイヤモンドをあげなかったのです。法律的にはこのダイヤモンドは、金持ちのものでしたが、商人の不正によって役に立ちませんでした。私たちは、この不正な宝石商人に似ているのではないでしょうか。「あなたがたは知らないのか。自分のからだは聖霊の宮である。あなたがたはもはや、自分自身のものではない。あなたがたは、もうすでに代価を払って買い取られたのです。」

私たちは、続いて、自分で支配者となりたいのでしょうか。尊い血潮によって清められた全生涯を、主に捧げましょう。私たちは、突きぬけられた耳を持っているのでしょうか。『突きぬけられた耳』は、自由意志で、全生涯を愛する主人に捧げたことを意味しています。

二番目、主に対する供え物は、自由意志の供え物であるべきです。主なる神は、人間の意思を尊敬しますから、決して強制しません。イエス様は、我々の心の戸の前に立って、願って、叩き、泣いておられるかもしれない。しかし、私たちに決して、強制しません。主のみことばは、我々に当てはまるのでしょうか。「わたしは、お前を幾たび集めようとしたことであろう。お前を幾たび集めようとしたことであろう。それなのにお前は、応じようとしなかった」と。

【参考】マタイ(口語訳)
23:37 ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。

私たちは、主に次のように言いたいのでしょうか。「主よ、あなたは、私のためにいちばん高い代価を払ったことを、私は知っている。しかし、献身するために今は適当な時期ではないのだと思います。私は、いろいろな計画を持っていますし、そして、快楽が欲しいのですから。今は全生涯を主に捧げたくないのです」と、主に言えるのでしょうか。

ご存知のように、イスラエルの民の第一の王様は、サウルという王様でした。彼が王様になった時、サムエルという預言者は民に言った。

第一サムエル(口語訳)
10:24 サムエルはすべての民に言った、「主が選ばれた人をごらんなさい。民のうちに彼のような人はないではありませんか」。民はみな「王万歳」と叫んだ。

10:27 しかし、よこしまな人々は「この男がどうしてわれわれを救うことができよう」と言って、彼を軽んじ、贈り物をしなかった。しかしサウルは黙っていた。

同じように、私たちの王様である主イエス様は、ご自分のご栄光を捨てて、弟子たちの中で給仕をする者のようにしていた。私たちのために、十字架に犠牲の死によって、罪そのものとされました。イエス様は、私たちが愛を持つように、罪とされました。しかし私たちは、今までに、主に献身しようと思いませんでした。それにもかかわらず、イエス様は、私たちを強制しなかったんです。決して、強制しません。

イエス様は、サウル王と同じように、黙っていた。なぜなら愛は、自由意志の供え物を欲しいのであるから。匂いなしの薔薇(ばら)、天から降った汚い雪はありえないことです。しかし、同じように、強制した献身はばかげたことです。自由意志の供え物は、主の心を喜ばせる献身です。イエス様の犠牲の死は、自由意志の供え物、本当の献身でした。もし、私たちが、イエス様の大いなる苦しみと尊い血潮を考えると、これは言い表すことのできない、父なる神の偉大なる愛であることを認めざるを得ません。

ところで、私たちが、心をかたくなにして、主に全生涯を捧げたくないという状態を取れば、イエス様は、黙っておられます。決して、強制しません。私たちの愛する主の声を聞きましょう。

黙示録(口語訳)
3:20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。

私たちは、自分の心の戸を開こうとしませんでしょうか。主に自分の全生涯を明け渡そうとしないのでしょうか。自分のいちばん愛したものも主に捧げようとしないのでしょうか。

自分の全生涯を主に捧げた人々は決して、損をしません。「だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」とあります。これは、主との親しい交わりを意味します。主との交わりは、何という大きな富でしょうか。

三番目、主の欲しいものは、私たち自分自身です。金や時間や奉仕は、主の心を満足させられません。「主は愛なり。」したがって、主は、我々の心を欲しいのです。箴言の二十三章の二十六節、ソロモン王は次のように書いたのです。主の口になって、言ったのです。

箴言
23:26 わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ。あなたの目は、わたしの道を見守れ。

もちろん本当の献身をした人は、自分の金や時間や才能を全部、主に捧げます。しかし、多くの信者は、自分の力を尽くし、金や時間を捧げます。ところで、これは充分ではありません。主に喜ばれる供え物は、自分自身です。と言いのは、「あなた方のからだを神に捧げなさい」と書いてあります。初代教会の兄弟姉妹たちについて、パウロは次のように証ししました、「彼らは、自分自身をまず主に捧げたのである」と。主は、イエス様は、私たちの罪のためにご自身を捧げられました。私たちは、自分を主に捧げようと思いませんか。

パウロはいつも、私たちの主イエス・キリストについて語っています。もし、私たちが自分を主に捧げなかったら、主を主として、まだ受け入れていません。あらゆる信者は、イエス様を自分の救い主として受け入れたことは明らかです。「イエス」は、何を意味しているのでしょうか。マタイ伝、一章二十一節を見ると次のように書かれています。天の使いの言った言葉です。

マタイ
1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。

したがって、イエスという名前は、「救う者」、「救い主」を意味しているのです。すなわち、過去におけるイエス様は、私たちを罪の債務から救ったのであり、現在におけるイエス様は、私たちを罪の力から解放され、未来におけるイエス様は、私たちを罪の臨在から救うお方です。

私たちは、赦された罪に対する平安を持っていますし、また、打ち勝った罪の勝利を経験します。そして、将来における私たちは、無くなった罪の栄光の日を待ちます。イエス様は、本当に偉大なる救い主です。私たちは、パウロと一緒に、「私は自分の信じてきた方を知っている」と、言うことができれば本当に幸いです。

この偉大なる救い主であるイエス様は、「いつも生きていて、私たちのためにとりなしておられるので、イエス様によって神に生きる人々を完全に救うことができる」と、ヘブル書、7章25節に書き記されています。

【参考】ヘブル(口語訳)
7:25 そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。

どんな苦しみや困難があっても、私たちの救い主は、決して、失敗しないのです。彼は、あらゆる悲しみを解決する救い主です。たしかにイエスという名は、救い主を意味しているばかりでなく、この偉大なる尊い、救いの業を行なったお方です。イエス様は、我々の救い主です。これは、我々の永遠にわたる喜びです。

さて、キリストという名前は、『油注がれた方』を意味します。そして、イエス様は、ご自分の霊をもって、我々にも注がれました。ですから、私たちは、主イエス様を、キリストとして『油注がれた方』として知るようになったのです。パウロはコリントにいる兄弟姉妹に、次のように書いたのであります。

第二コリント
1:21 私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。
1:22 神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。

ヨハネも、当時の信じる者に、また、次のように書いたのです。

第一ヨハネ
2:20 あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、だれでも知識を持っています。

聖霊、すなわち、神の霊、主イエス様の御霊は、我々の内に宿っているのです。聖霊は、我々を慰め、導き、清め、主イエス様のものを現し、イエス様に似た者とし、私たちに愛と平安と喜びを与えてくださいます。救われた者は、主イエス様を救い主として、また、油注がれた方として受け入れました。

ところで、もしイエス様が、我々の救い主だけであるならば、祝福の満たしを経験しません。祝福の満たしへの道は、イエス様の絶対的な支配です。イエス様の絶対的な支配のもとに充足していることによってのみ、満たしがやって来ます。イエス様の絶対的な支配のもとに充足しているのは、奴隷のみじめな生活ではなく、勝利と栄光と満たしを意味しています。これは事実です。

イエス様が主でなければ、それは、我々の困難、霊的な弱さと失敗の源です。イエス様が我々の救い主であることは、本当にすばらしい現実です。けれども、イエス様は、救い主であるばかりでなく、我々の主、支配するお方とならなければなりません。私たちは、パウロと同じように、「私の主、イエス・キリスト」と言えるのでしょうか。

主とは、主人、支配者を意味します。したがって、私たちは、全生涯を主に捧げたかどうかが問題です。イエス様は、我々の金、我々の時間、我々の才能、私たちの奉仕を支配することができるのでしょうか。私たちは、イエス様を『主』と名づけられるでしょうか。自分の力で、これはあり得ません。聖霊によらなければ、誰も、イエス様は主であると言うことはできないとあります。

第一コリント
12:3 ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。

また、パウロは、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださる」と、書いたのであります。ローマ書の八章十六節です。『私たちの霊とともに』と、書いてあります。私たちの考え、また、私たちの感情や志すことと共にではなく、『私たちの霊とともに』と書いてあります。

どうでしょう。御霊自ら、我々の霊とともに、私たちの罪が赦されている、また、私たちが神の子であることを証ししているのでしょうか。しかし、同じように、聖霊自ら、我々の霊とともに、私たちが主イエス様の支配のもとにあるということについて証しするでしょうか。イエス様は、我々の生涯の絶対的な支配を持っているのでしょうか。初代教会の兄弟姉妹について書かれています。すなわち、「彼らは、自分自身を、まず主に捧げたのである。」

ヨハネ
20:1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20:2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」

20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」

21:7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。

マグダラのマリヤ、トマス、ペテロ、ヨハネは皆、イエス様を『主』と名づけられたのです。彼らは、全生涯を愛する主に大喜びで捧げました。イエス様は、彼らを強制しなかったんです。彼らは、意識して自由意志で、自分自身を愛する主に捧げました。初代教会の兄弟姉妹は、イエス様を主として認められ、自分自身をこの主に捧げたのです。イエス様は、我々一人ひとりの救い主だけではなく、我々の油注がれた方、すなわち、主なのでしょうか。

四番目、私たちは、主の御心にかなう供え物、主ご自身に捧げられた供え物であるべきです。召しに対する(供え物)、また、働く場所や働く方法に対する供え物ではなく、主ご自身に対する供え物であるべきです。ある人々は、主に捧げた生活と、伝道者になることは同じだと考えていますけど、これは大きな間違いです。問題なのは、主ご自身に捧げられた供え物です。もし、この問題が解決したら勝利を経験します。

聖書は言っています。彼らは、自分自身をまず主に捧げたのである。『彼らは、自分自身をまず主の御心に従って、主に捧げ、また、私たちにも捧げたのである』とあります。

【参考】第二コリント(口語訳)
8:3 わたしはあかしするが、彼らは力に応じて、否、力以上に施しをした。すなわち、自ら進んで、
8:4 聖徒たちへの奉仕に加わる恵みにあずかりたいと、わたしたちに熱心に願い出て、
8:5 わたしたちの希望どおりにしたばかりか、自分自身をまず、神のみこころにしたがって、主にささげ、また、わたしたちにもささげたのである。

多くの信者は、熱心に主のために働き、他の人々を救おうと努めています。しかし、何とわずかな実、永久的に残る実でしょう。どうしてでしょうか。彼らは、決して、自分自身を主に捧げなかったからなのではないでしょうか。初代教会の兄弟姉妹は、まず、自分自身を主に捧げたとあります。主は、私たちを、ご自分の器、ご自分の道具として、いつ、用いるのでしょうか・・・・ということは解かりません。また、主は、どんな奉仕のためにお使いになるだろうということも解かりません。しかし、イエス様は、私たちの罪のために、ご自分を捧げられましたから、私たちも、主に全生涯を捧げましょう。

最後に、五番目、自分自身を自由意志で、主に捧げる供え物は、自分の意思によらないで、主の御旨(みむね)によって過ごすことのためです。主の御旨によって過ごすことが問題です。

主に捧げられた生活の目的は、御心が行なわれることです。肉の思いと、主の御心は正反対です。生まれながらの人は、主の完全な御心に対して、騒動を起こします。イエス様の偉大なる救いを受け入れた人間は、主の御心を行なおうと願っています。献身の結果は、肉における残りの生涯を、もはや、人間の欲望によらず、主の御旨によって過ごすためです。

私たちは、自分自身を主に捧げようと思わないでしょうか。あの奴隷と同じように、自由意志で、全生涯を、大喜びで、主に捧げましょう。最後に、もう一箇所、読んで終わります。

第一歴代誌
12:18 そのとき、御霊が補佐官の長アマサイを捕えた。「ダビデよ。私たちはあなたの味方。エッサイの子よ。私たちはあなたとともにいる。平安があるように。あなたに平安があるように。あなたを助ける者に平安があるように。まことにあなたの神はあなたを助ける。」

私たちは、尊い血潮と、イエス様の言い表すことのできない尊い犠牲の死を考えると、同じように叫ばざるを得ないのではないでしょうか。「主イエスよ、我々はあなたのもの。生きていらっしゃる神の子よ、我々は、あなたと共にある。平安あれ、あなたに平安があれ。あなたを助ける者に平安があるように。」

これこそが、自由意志の献身なのではないでしょうか。

おわり

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