2013年1月29日火曜日

主の栄光を見る

主の栄光を見る
2013年1月29日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
1:15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」
1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
11:2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
11:6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。


11:11 イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」
11:12 そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」
11:13 しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。
11:14 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。
11:15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」

11:17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。
11:18 ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。
11:19 大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。
11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。
11:21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
11:22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
11:24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
11:27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」

11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
11:40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
11:42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
11:43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
11:45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。

第一コリント
6:12 すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。
6:13 食物は腹のためにあり、腹は食物のためにあります。ところが神は、そのどちらをも滅ぼされます。からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです。
6:14 神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。
6:15 あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。
6:16 遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。
6:17 しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。
6:18 不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。
6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

今日、一緒に考えてみたいテーマは、主の栄光を見ることです。主の栄光を見ると、当然ですけど、結果として、感謝せざるを得ない。主を礼拝せざるを得なくなります。主がご自分の栄光を現された箇所をちょっと一箇所、読みます。ヨハネ伝の二章です。主が初めて、奇跡をなされたことです。

ヨハネ
2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。(・・・・『お母さん』ではなくて、『女の方』・・・・)わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
2:6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
2:7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。――彼は、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。

聖書を読むと、多くの人が、「水がぶどう酒になることなんて、不可能ではないの?」と言います。けど、それは、聖書に書いてありますから、疑うことのできない事実です。しかし、多くの人は、この奇跡がいちばん、大切だと思っています。しかし、水がぶどう酒になったことがいちばん、大切なのではありません。十一節ですね、「イエスはその栄光を現された」と書いてあります。これが問題です。主イエスが栄光を現されることが問題です。私たちの生活が、イエス様の栄光を現しているかどうか、これこそ問題です。生きておられる主なる神が、我々の暗い生活の内に入ってこなければなりません。

イエス様が、水をぶどう酒に変えることができる・・・・それを、別に見る必要はありません。ただイエス様だけを見るべきです。すなわち、私たちの生活が、主イエス様の栄光を現さなければならないということです。我々の生活は、鏡のように主イエス様の栄光を受け入れ、また、外に現していかなければいけません。

イエス様の栄光を鏡のように反射していなければいけません。コリント第二の手紙、よく知られている箇所ですけども、パウロは、コリントにいる兄弟姉妹に、次のように書いたのです。

第二コリント
3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

私たちの生活が、主イエス様の栄光を現しているかどうかが問題です。

今日のテーマは、『イエス様はご自分の栄光を現された』というものです。三つの問いについて、一緒にちょっと考えてみたいと思います。第一番目、イエス様は、今日(こんにち)でも、ご自身の栄光を現されるのでしょうか。二番目、どうしたら私たちは、主の栄光を現すことができるのでしょうか。そして、三番目、どうして主イエス様は、ご自分の栄光を現されるのでしょうか。

まず、第一番目、イエス様は、今日、この時代にも、ご自身の栄光を現されるのでしょうか。どうでしょう?いいえ、イエス様は、ご自身の栄光を、私たちの中、また、私たちを通して現されませんと、言わなければいけないのではないでしょうか。初代教会においては、イエス様は、ご自分の栄光を現してくださいました。それは、確かです。なぜなら、土台が必要だったのであり、また、その上に築き上げる必要があり、福音を全世界に宣べ伝える必要があったからです。けど、今のこの終わりの時に臨んではどうでしょう。

二番目、そうしたなら、どうしたら私たちは、イエス様の栄光を現すことができるのでしょうか。

そして、三番目、イエス様は、どうしてご自分の栄光を現されるのでしょうか。それは、我々のためでもなく、主ご自身のためです。それは、はっきり知らない、計り知れない愛そのものなのではないでしょうか。

まず、イエス様は、今日この時代にもご自身の栄光を現すのでしょうか。ある人々は、今日ではイエス様は、ご自身の栄光を現されない、奇跡を行なわないと言います。また、ある人は、主の生きておられる時もイエス様は、実際には、奇跡を行なわなかった。あれは単なる童話にすぎないと言います。

けれども、今日でも、イエス様は奇跡を行なっています。今も、イエス様の奇跡を見たい、経験したいと思っている人もいます。私たちの主は、今日でも、奇跡を行なうお方です。救われた人々を見ると、それがもちろん解かります。どんな信者も、「私は今まで、罪の内に死んでいた者だったが、今は悔い改めて、信仰と主のあわれみによって、新しく生まれ変わった」と言えます。

これは奇跡です。この奇跡は、確かに説明することができません。しかし、事実です。ところが今日、イエス様は、信者たちの生活の内に奇跡を行なっておられるのでしょうか。この問いに答える前に、違う問いを設けましょう。すなわち、イエス様は、いかにして、ご自分の栄光を現すのでしょうかという問いを設けます。

イエス様は、人間を通して、ご自身の栄光を現します。問題は、主が我々を使うことができるかどうかということです。悪魔は、自分に賛成する者は、それがどんな人であれ、全部、用います。今日、問題となるのは、イエス様が栄光を現されるかどうかということです。今日、来られたお一人お一人を通して、ご自身の栄光を現すことができるかどうかです。

イエス様は、今日でも、奇跡を行なうでしょうか。はい、行ないます。イエス様は、どこでご自身の栄光を現されるのでしょうか。イエス様は、我々の生活の困難のさなかにおいて、ご自身の栄光を現します。

今日でも、天は開かれています。イエス様の洗礼、変貌、よみがえり、昇天、五旬節、これらはみな、今日でも、天が開かれているという証拠です。天は、もうすでに開かれていますから、我々の祈り、熱情、献身などが、天を開くのではありません。高められた我々の救い主は、あらゆる力をお持ちですから、我々は開かれた天を持っていることになります。

したがって、我々の生活を通して、私たちは主の栄光を現すことができるわけです。ですから、私たちは、申し訳けを言うことができません。私たちの荷は重過ぎる。私の状態は希望がない。私の家は暗い。私の職場はダメだ・・・・などという申し訳けはできないはずです。もし、イエス様がひとこと、語りかけるなら、私たちの暗い生活に光が差し込みます。イエス様は、今日でも、「光よあれ」と言えるのです。イエス様がそう言われれば、我々の生活は主の栄光を現します。

今日のテーマは今、話したように、「イエス様はご自分の栄光を現された。」三つの問いについて、一緒に考えてみようと言いました。まず、イエス様は、今日でも、ご自身の栄光を現されるのでしょうか。そうです。

二番目、どうしたら私たちは、主の栄光を現すことができるのでしょうか。大小にかかわらず、奇跡が問題ではなく、主の栄光が問題です。ところで、イエス様はいかにして、ご自分の栄光を現されるのでしょうか。

このカナの婚礼は、奇妙な婚礼でした。普通の結婚式では、花嫁、花婿が大切です。けれども、ここでは、あまり重要視していなかったようです。中心人物はイエス様でした。もし、イエス様が、我々の生活の中心になければ、それは、我々の困難の原因となってしまいます。もし、イエス様が、我々の内に住み、我々とひとつになるなら、イエス様は私たちの生活の中心点となります。そうならば、当然、私たちの生活は主の栄光を現すことになります。

イエス様は、この婚礼に招かれたのでした。イエス様は、単なる客ではなく、婚礼の中心になってしまいました。イエス様が、我々の生活の中心におられなければいけません。イエス様は、我々と一つになろうと思っておられます。私たちが、イエス様と一つになったら、私たちの生活に奇跡が行なわれます。これは恵みの奇跡です。

もし、イエス様が、我々の生活の中心になければ、それは、我々の困難の原因となってしまいます。もし、イエス様が、私たちの内に住み、我々と一つになるならば、イエス様は私たちの生活の中心点になり、そうなれば当然、我々の生活は主の栄光を現すことになります。

いかにして、イエス様の栄光は現されるのでしょうか。それは、イエス様を通してのみ、可能です。主が我々の生活の中心になると、ひとつの兆候が現れます。我々の欠乏が見えてきます。葡萄(ぶどう)酒はなくなってしまいました。人間は、いつも何か役割を演じようとします。イエス様の前でさえそうです。自分を空しくすれば、主が何か行なうことができます。逆に自分で何かをやろうとすれば、主は遠のいてしまいます。

イエス様のご臨在にともない、我々の欠乏が現れます。私たちが、自分の生活を富んだものと思っている限り、イエス様は、自分のご栄光を現すことができません。私たちは、いったいどうしたら、主の奇跡の力を経験できるのでしょうか。イエス様が、我々の毎日の実際生活の中心点となったら、私たちはそれを経験します。

私たちは、困難のさなかで、カナの婚礼の時のイエス様の母のように振る舞いますか?彼女は、花婿や料理頭に困ったことを告げずに、すぐにイエス様のところへ行きました。彼女は、ゆるぎない確信を持ってイエス様のところへ行きました。それは、「イエス様はできる、また、イエス様はそれをやってくれる」という確信でした。

私たちは同じように、この確信を持って、イエス様に近づくのでしょうか。私たちは、『イエス様はできる』という確信とともに、『イエス様はやってくださる』という確信を持っているのでしょうか。どうか、イエス様が、十字架でなされたことに対し、もう一度、目を開くべきなのではないでしょうか。イエス様が十字架に架けられる前になされたことは、全部、十字架を見て行なわれたのであり、十字架の後で成されたことは、十字架の結果、成されたのです。

いかにして、イエス様の栄光を現すことができるのでしょうか。イエス様の母の是認されたことを、私たちも是認しなければいけません。イエス様の母は、イエス様の愛のないように思われる答えを是認しました。「婦人よ、あなたはわたしと何のかかわりがありますか。」これは、あなたとわたしの考えは全然、違うという意味です。「あなたはそう言いますが、わたしはそれを行ないません」という意味です。これは、非常に強い言葉です。イエス様は、ご自身の母とのあいだに分かれる線を、はっきりと引かねばなりませんでした。「あなたはわたしのお母さんだから、そうしましょう」とは、イエス様は言いませんでした。勧められたからではなくて、彼はいつも、行動する前に、いろいろなことを考える前に、祈ったんです。お父様、どうしましょうか。御心は何ですか。『わたしの思いではなく、御心だけがなるように』と、イエス様は祈り続けました。ルカ伝の十四章、二十六節、やはり厳しいことばが書かれています。「憎む」ということばが使われています。

ルカ
14:26 わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。

これは、イエス様のご命令です。このカナの婚礼でイエス様は、ご自分のこのことばを証明されました。「わたしとあなたの自然の関係は大切ではない」と、イエス様は母に言われました。イエス様は、決して私たちのために栄光を現されません。ご自身のためにのみ、栄光を現されます。イエス様とお母さんの自然関係のゆえに、イエス様は栄光を現しませんでした。同じように、イエス様は我々の困難、苦しみ、祈りのゆえに栄光を現しません。イエス様は主であられますから、ご自身のために栄光を現されるのです。

私たちは、どうしたら主の栄光を経験することができるのでしょうか。イエス様が、我々の生活に入ることによって、主の栄光を経験することができます。イエス様は、我々を矯正しなければいけません。自分は大丈夫だと思っている人は災いです。「わたしの時はまだ来ていません」と、イエス様は言われました。「忍耐しなさい」という意味でしょう。

忍耐を学ぶことが問題ではなく、忍耐を持つことが問題です。なぜなら、忍耐は決して、学ぶことができないからです。忍耐とは、イエス様の下に仕えることです。イエス様の母は、それをしました。私たちは、忍耐を持っているのでしょうか。私たちは、イエス様の下に仕えているのでしょうか。「あなたがたに必要なのは忍耐である」と、ヘブル書の著者は書いたのであります。

最後まで耐え忍ぶ者は、主の栄光を経験するのです。イエス様は、「わたしの時はまだ、来ていません。」もちろん、イエス様の時は来ます。私たちは待たねばならないかもしれない。けども、イエス様の時は必ず来ます。イエス様は、ご自身の栄光を必ず現します。

いかにして、イエス様の栄光を経験することができるのでしょうか。私たちが信仰の従順を学べば、イエス様の栄光を経験します。イエス様でさえ、従順を学んだと聖書は言っています。

ヘブル
5:8 キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、
5:9 完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、・・・・

イエス様の母であるマリヤは言ったのです、「この方があなたがたに言いつけることは、何でもしてください。」ここでは、使徒信条や教義が大切なのではなく、生きていることばが大切です。『あなたがたに言いつけることは』という、このイエス様のことばが大切です。祈りながら聖書を読み、イエス様のことばを聞き、それを、私たちの行為に移さなければなりません。

「この方があなたがたに言いつけることは、何でもしてください」と、マリヤは心から言えたのです。また、イエス様は言われました、「かめに水をいっぱい入れなさい。」この命令に従うことは、難しいことではなかったんです。もうひとつの、「さあ、汲んで料理頭のところに持っていきなさい」というイエス様のご命令を実行するのは、難しくなってきました。これは、私たちにも言えることです。一方の命令は簡単ですが、もうひとつの命令には、尻込みします。

水がめに水を入れることは考えられることです。当たり前のことです。けども、それを料理頭のところに持って行くのは、ばからしいことなのではないでしょうか。葡萄酒ではないからです。しかし、彼らは、その水を料理頭のところに持って来ました。そこでイ、エス様は、ご自身のご栄光を現すことができたのです。この栄光を現す秘密は、主のことばに対する従順でした。

今日のテーマは、「イエス様はご自身の栄光を現された。」

二つの問いについて、今まで考えてまいりました。一番目、イエス様は、今日でも、ご自身の栄光を現されるのでしょうか。二番目、どうしたら、私たちは主の栄光を現すことができるのでしょうか。

そして、最後に、どうして、何のため、イエス様は、ご自分の栄光を現されるのでしょうか。答えは、私たちが、主イエスと似る者となるためです。イエス様は、我々のために、栄光を現しませんでした。ご自身のために栄光を現されました。しかし、イエス様の御心は、私たちがイエス様の姿に似た者となることです。ですから、イエス様は栄光を現されました。

私たちは、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて行かなければいけません。何のために、イエス様は、ご自身の栄光を現されたのでしょう。もちろん、弟子たちの信仰を強めるために・・・・。書いてあるんですね、『弟子たちはイエスを信じた』とあります。弟子たちが、新しく献身するために、イエス様の栄光を経験した者には、ただひとつのことができます。自分のいのちを、新たに主に捧げることです。

弟子たちが新しく、主を礼拝するために、自分のからだをもって、神の栄光を現しなさいとパウロは書いたのであります。私たちは、自分の全生涯を今日、あらためてイエス様に捧げようと思わないでしょうか。我々の生涯を通してイエス様が、ご自身の栄光を現されたら本当に幸いと思います。

おわり

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