2014年1月12日日曜日

どういう心がまえで集うのか

どういう心がまえで集うのか 
2014年1月12日、吉祥寺福音集会
ゴットホルド・ベック

マルコ
1:21 それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。
1:22 人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。
1:23 すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。
1:24 「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」
1:25 イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。
1:26 すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
1:27 人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」
1:28 こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。

昨日は音楽会(武蔵野よろこびへのコンサート)だったから、遠くまで行けなくなってしまった。だいたい毎週、土日には遠くまで行きます。今週は石垣島へ、また行くようになります。そこへ行くのは本当に楽しみですね。皆、心をひとつにして、イエス様だけに中心になってもらいたいという思いがあれば、やはり祝福されます。結果として、安心して、前向きに生活できます。それが、もっとも大切なのではないでしょうか。

今の世界はもう、めちゃくちゃで、よくなる可能性はない。けど、我々、イエス様を信じる者は『プラス・アルファ』(を持っている)と言えます。主は近い。毎日、『今日、来られるかもしれない』と考えると、もう心配しなくてもいい。『心配したら、元気になった』と、言える人はいないでしょう。思い煩うな。心配するな。恐れてはいけない。これこそ、いちばん大切なよく効く薬なのではないでしょうか。

昨日は、どういう心がまえで皆、集会に出たのでしょうか。あるいは、今日、どういう気持ちで出たでしょうか。おそらく、『時間をつぶすために行こう』と思う人はいないでしょうし、あるいは、他の仕事が何もないから、退屈にならないために来た人もいないでしょう。やらなくてはいけないことがいっぱいある。けど、どうしたらいいか、まったく、分からない。

したがって、どういう心がまえで集会にでるかということについて考えるのが大切なのではないか。今日は、(一)イエス様御自身、どういう心がまえで集ったのでしょうか。(二)、当時の初代教会の兄弟姉妹はどういう心がまえで集会に出たのでしょうか。そして、(三)、我々はどういう心がまえで集会に集うべきなのでしょうか。

イエス様は、会堂に入って、福音を、喜びの訪れを、宣べ伝えました。当然です。イエス様が福音だけを、宣べ伝えられるところには、必ず悪魔も攻撃します。したがって、イエス様は悪魔を攻撃するために会堂に入ったのです。いうまでもなく、イエス様の悪魔に対する武器は、いつも、聖書、みことばでした。イエス様は、すばらしい説教をするために、また、それがすばらしい話だったと人々に褒められるために、会堂に入ったのではありません。イエス様が会堂を訪れたのは、悪魔に対する攻撃でした。

当時の聖書学者たちは、たしかに立派な学校教育を受けた者だったでしょう。みな、聖書をよく勉強した人々でした。そして、安息日ごとに聖書について話しました。けども、イエス様と当時の聖書学者たちとの間には、大変な大きな差がありました。

マルコ
1:22 人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。

1:27 人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」

このイエス様のいわゆる『新しい教え』によって、人々は目覚めさせられました。私たちは、人間的な知恵による古い教えを持っているか、あるいは、主イエス様の『新しい教え』を持っているかのどちらかです。権威をもっていない者は、いつも人間の知恵を必要とします。人間的な知恵は、人を目覚めさせることはできません。それは、目を覚ます薬ではなくて、睡眠剤のようなものなのではないでしょうか。イエス様は悪魔を攻撃するために、会堂へ行かれました。この会堂には、悪霊に憑かれた者がいました、この人は悪魔の奴隷でした。悪霊に憑かれた者はいつも危険です。なぜなら、悪魔がその者を支配していて、その人を通して話をするからです。

マルコ
1:23 すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。
1:24 「・・・私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」

汚れた霊につかれた人は、小さな声で何かをささやいたのではない。叫んだ。必ず、大きな声で叫んだに違いない。『私たちはあなたがどなたか知っています。神の聖者です。すなわち、あなたは罪を犯さないお方であり、罪を犯す可能性を持っていない方です。』悪霊たちは、イエス様を見たとき、なんと言って叫んだのでしょうか。ドイツ語の聖書では、悪霊たちがイエス様に、『止まって!』と叫んだとあります。イエス様が集会所を訪れたのは、いつも悪魔に対する攻撃でした。ですから、悪霊たちは、『止まって、こっちへ来ないで』と、主に叫びました。

マルコ
1:24 ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。

ここでは、『私たち』という複数形を用いています。これは、その人に棲んでいた悪霊たちを意味しているのです。悪霊たちは、イエス様を知っていました。すなわち、悪霊たちは、イエス様が生きるまことの神の御子であるということを知っていたのです。

マルコ
1:24 ・・・・私たちはあなたがどなたか知っています。神の聖者です。

イエス様の最大の敵である悪霊たちがした、『あなたは神の聖者である、罪を全く知らない方である』という告白とは、すごい告白です。イエス様こそ、約束された救い主であり、イエス様こそが、まことの解放者であることの証明でもあります。イエス様がカペナウムの会堂に現れたので、悪霊たちは、『止まって、入らないで』と叫びました。イエス様はなぜ、カペナウムの会堂堂に行かれたのでしょうか。悪霊たちを攻撃するため、悪魔を滅ぼすため、また、人を解放するため、自由にするためです。言うまでもなく、悪魔が抵抗したので、イエス様と悪霊たちとのあいだに、闘いが生じたのです。誰が勝ったのでしょうか?

マルコ
1:25 イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。
1:26 すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
1:27 人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」

これが我々の主イエス様です。どんな悪魔も、イエス様に逆らうことはできません。イエス様は勝利者です。いつ、いかなるところでも勝利者です。イエス様は神の聖者です。まったく聖い、透き通っておられるお方です。光そのものです。けど、私たちは重荷を背負っている人間です。悩む者です。

初代教会の兄弟たちもそうでしたが、彼らはいったい、どういう態度をとったのでしょうか。

使徒
2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
2:43 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。
2:44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
2:45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
2:46 そして毎日(・・・・日曜ごとではない・・・・)心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

言えることは、初代教会の人々は、一生懸命にみことばを読む人々でした。すなわち、主は彼らに語りかけることができたのです。彼らはお互いに密接な交わりをもっていたのです。また、彼らは、大きな喜びをもってパン裂きをしていた。また、いっしょに食事をしたとあります。彼らは祈りの人々でした。いつも、主とのつながりを持っていたのです。彼らは毎日、集まりにまいりました。そして、彼らは日曜だけではなく、毎日、主を褒めたたえる人々でした。主の答えは、47節にありますように、『主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった』とあります。

私たちは、家族の人々、親戚たち、知り合いの人々が次々に救われるように、期待をもって祈ろうではありませんか。私たちが期待をもって信じれぱ信じるほどイエス様は多くのことをなさってくださいます。私たちがイエス様にいくら信頼してもしすぎるということはありません。初代教会について言えることは、一日で三千人が救われたのであります。それから、短い間に五千人ほどの男たちが導かれ、救われたと、聖書は言っています。

使徒
6:7 こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。

聖書をみると、五旬節のあと数週間のうちに、信ずる者の数は一万人以上になったのです。この救われた人々は、毎日、集まっていました。いつ、また、どれぐらい長くかは知りませんが、とにかく集まりました。未信者が集会に集まると、その人々は顔を伏せ、主を拝み、まことに生きる神があなた方のうちにいると、認めざるを得なくなったのです。

第一コリント
14:24 しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者がはいって来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、
14:25 心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。

イエス様がカペナウムの会堂を訪れたのは、悪魔に対する攻撃でした。初代教会における集会を訪れたことは、まったく同様に、悪魔に対する攻撃でした。初代教会の兄弟姉妹は悪魔を攻撃したのです。悪魔のわざを減ぼすために集ったのです。また、備えられたたましいをイエス様のところに導く、というただひとつの祈り、また、願いを持っていたのです。

イエス様が、また、初代教会の兄弟姉妹がどういう心がまえで集会に訪れたのかを見てきました。けど、私たちの場合は、いったいどうでしょうか。私たちは熱心にみことばを慕うのでしょうか。主は毎日、我々に語りかけることができるのでしょうか。私たちは初代教会の人々のように、心からの親しい交わりを持っているでしょうか。私たちは、パン裂きを行い、イエス様を思うとき、大きな喜びに満たされのでしょうか。私たちは、主との交わりを持つ祈りの人なのでしょうか。私たちは、できる限りしばしば、集会に集まるのでしょうか。私たちは毎日、初代教会の兄弟姉妹と同じように、感謝と賛美に満ちているのでしょうか。もし、私たちがこの質問に対して全部、合格するならば、主は毎日、人々をお救いになるに違いない。

『止まって!』と、悪霊どもは叫びました。このように今日も叫んでいます。私たちも、悪魔に攻撃されている者です。朝、目を覚ましたら、まず、イエス様のことを考えてください。あなたを愛してくださった大きなイエス様の愛を考え、イエス様が今日も、自分のうちに住んでいることを感謝してください。一日中、私たちがどこにいても、悪魔は我々を攻撃しています。集会に集うときも、悪魔は攻撃しています。悪魔が自分を攻撃しないのならば、鉄砲の無駄玉のように、何の役にも立ちません。もし、悪魔があなたに何もしないのならば、あなたは悪魔を危険とはせず、イエス様も必要とはしないでしょう。

悪魔は攻撃しています。攻撃されていることは、いつも、どこでも覚えるべきです。私たちは、どういう心がまえで集会に集うのでしょうか。飢え渇きをもって、聞く耳をもっているのでしょうか。詩篇の作者であったダビデのように思うのでしょうか。

詩篇
42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。

このような要求をもっているのでしょうか。集会に集うとき、話しをしている兄弟のために祈っているのでしょうか。しばしば、非常に話しにくいものです。どうしてでしょうか?なぜなら、悪魔は寝ないでいつも攻撃しているからです。話しをしている兄弟が、人間のことばではなく、御霊がイエス様を証しすることができるように、そのために祈るべきなのではないでしょうか。聖霊だけが、イエス様を知っておられます。ですから聖霊だけが、イエス様を証しすることができるのです。私たちは、いくら考えてもイエス様のすばらしさを想像することができません。イエス様の十字架の大切さを生きている間にははっきり、つかめないでしょう。

集会に集うとき、来られたすべての人々のために祈るべきなのではないでしょうか。これはどうしても、必要なことです。集会のあいだ、ひとりひとりのために祈りましょう。また、ひとりひとりのために何を祈ったらよいか、主に尋ねましょう。もし、未信者がいたら、その人々が、イエス様のところへ導かれるように、心から祈ってください。

言うまでもなく、自分自身のためにも祈るべきです。何があっても、イエス様をよりよく知りたいという願いを持つことこそが大切です。『主よ、語ってください、しもべは聞いております、私をあなたのかたちに変えてください』と、毎日、祈るべきなのではないでしょうか。

どういう心がまえで集会に集うべきなのでしょうか。もし、主を知らない人々がいるとすれば、悪魔の奴隷がそこにいるのだ、ということを覚えるべきです。けど、主を信じるものはみな、イエス様に大いに愛されている者です。悪魔の奴隷と、イエス様に愛されている者が一緒にいるわけです。そこには、議論が起こるに違いない。

あらゆる、どんな集会も、私たちが考えている以上に大切です。集会に来て、『自分は熱心な者だ』と考えると、イエス様の妨げになります。『イエス様をもっと知りたい、イエス様に会いたい』という期待をもって来るべきです。集会に来て、自分は何の価値もない者だと考えるならば、それも、イエス様の働きの妨げとなります。イエス様は、あなたと話したく思っておらます。

イエス様は、人のたましいを救うために、一人一人を用いようと望んでおられます。すなわち、全能の主が今日、来られた一人一人を必要としています。救いを滅びゆく人々に伝えるために、主はあなたの口を必要としています。霊的に死んでいる人々を集会に招くために、イエス様はあなたの足を必要とおられます。イエス様とあなたが、共に働くことが要求されています。主はあなたを必要としています。もし、私たちが日曜学校を持つならば、悪魔に対する攻撃でもあります。悪魔はできるだけ、子どもたちを引きとめようとしています。礼拝のときも同じです。悪魔は、我々に『仕事の方が大切だ』といいます。けども、イエス様は、日曜に私たちを特別に祝福したいと望んでおられます。初代教会の兄弟姉妹たちは、毎日、集まりました。

集会には、いつも悪魔の攻撃があります。悪魔は絶望的に抵抗して、人のたましいをイエス様に渡すまいとします。私たちは集会に行くたびに、ひとつの願い、すなわち、『イエス様のためにたましいを救う』という願いに満たされていなければなりません。

イエス様は、悪魔と結びついた者を『神の子』とするために、あなたを必要としています。覚えるべきなのは、主は何でもできるお方です。けど、このお方はどうしようもない我々を必要としています。そして、このお方は私たちに必要な力を、必ず与えてくださいます。

マタイ
10:1 イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。

10:8 病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

『ただで受けた』とは、(弟子たちが)力を受けたことを言ってるのです。ですから、弟子たちは本当に変わりました。前よりもがんばったというより、上からの力を受けたのです。私たちも、力を受けたのでしょうか。もし、受けたなら、そのカを用いることができます。何でもおできになるお方が、我々を必要としています。主は私たちに、超自然の力を与えようと心から願っておられます。

イエス様がカペナウムの集会を訪れたのはどうしてでしょうか。今、話したように、時間をつぶすためではなく、悪魔に対する攻撃だったのです。初代教会の兄弟姉妹の集まりはいつも、悪魔に対する攻撃でした。我々の集まりはどうでしょうか?私たちは、悪魔を攻撃するのでしょうか。私たちを通して、人々をイエス様の御許に導かれるのでしょうか。イエス様は、一人一人を自分の栄光のために用いたいと望んでおられることを考えるべきです。

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