2014年1月21日火曜日

まことの礼拝(2014年)

まことの礼拝
2014年1月21日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

黙示録
5:12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
5:13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
5:14 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。

ヨハネ
4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。

主を拝むこと、礼拝することとは、もっとも大切なのではないでしょうか。ダビデは、主の御心にかなう人と呼ばれました。彼は、どうして、御心にかなう人であったかと言いますと、主を拝んだ、主を礼拝した男だったからです。


第二サムエル
22:47 主は生きておられる。ほむべきかな。わが岩。あがむべきかな。わが救いの岩なる神。

結局、主はあがむべき――礼拝すべき――であると、ダビデは、もちろん、確信しました。

今、読んできてくださったヨハネ伝四章は、礼拝について考えると、いちばんよく知られている箇所なのではないかと思います。四章二十三節、「しかし、真の礼拝者たち。」真の礼拝者がいると、表面的にだけ礼拝する人々もいます。本物があれば、必ず偽物もあります。そして、悪魔こそが礼拝を求めています。

マタイ
4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」

そしたら、あなたは十字架に行かなくてもすむ。苦しまなくてもけっこう!

マタイ
4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」

悪魔は、礼拝の大切さをよくわかっている。結局、将来について考えると、何が起こるようになるか、成されるようになるか、今、黙示録五章の中で書かれています。

黙示録
5:12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
5:13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
5:14 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。

天国で、将来は、礼拝に満ちたところです。もちろん、永遠にわたる礼拝になります。表面的に礼拝する者がいると、本物もいます。そして、もちろん、イエス様は本物を探しておられます。このヨハネ伝、四章二十三節によると、明日、明後日、再来年ではなくて、今がその時であると書き記されています。主を礼拝することこそが、考えられないほど大切です。

イエス様を知り、イエス様の前にひれ伏し、また、自分の理解しがたい悩みは主の道である、主が許したものである、主のせいであると認めた人々は、必ず、まことの礼拝に導かれます。イエス様は、霊とまことをもって礼拝する、真の礼拝者を尋ね求めておられます。本当は、我々の全生涯そのものは、主に対する真の礼拝、そのものであるべきなのではないでしょうか。

私たちは、日曜の朝、いったいどういう気持ちで集会に集うのでしょうか。もっともっとイエス様を知りたいという、ひたすらなる願いをもって集まるのでしょうか。イエス様の弟子たちは、主を礼拝するようになったと、聖書は言っています。

マタイ
14:24 しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。
14:25 すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
14:26 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
14:27 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。

主の弟子たちは、嵐の真っ最中、海の真ん中に出ていて、荒れ狂う波をいかんともすることができないでいました。そこにもってきて、変な姿が現れましたが、弟子たちはなおさら、恐れおののきました。彼らは、『幽霊だ』と叫んだと、聖書は言っています。けど、幽霊ではなかったよ。これはイエス様でした。しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。イエス様がご自身を啓示してくだったから、弟子たちは、主を知るようになりました。イエス様を知ることこそが、主に対する礼拝のもとです。主を知らなければ、誰も、本当の意味で主を礼拝することができません。三十三節には、『そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んだ』――礼拝した――と書いてあります。

【参考】マタイ
14:33 そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。

旧約聖書から、もう一箇所、読みます。

第二歴代誌
33:10 主はマナセとその民に語られたが、彼らは聞こうともしなかった。(・・・・聞く耳がなかった・・・・)
33:11 そこで、主は(・・・・結果として・・・・)アッシリヤの王の配下にある将軍たちを彼らのところに連れて来られた。彼らはマナセを鉤で捕え、青銅の足かせにつないで、バビロンへ(・・・・外国まで・・・・)引いて行った。
33:12 しかし、悩みを身に受けたとき(・・・・そのとき初めて・・・・)、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、
33:13 神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。

ここでは書いていないけど、当然です。彼は、心から礼拝するようになったに違いない。彼は、いったい、いかにして、主を知ることができたのでしょうか。いろいろな苦しみを通してです。彼は、敵によって、鉤で捕え、青銅の足かせにつないで、バビロンへ――敵の国へ――引かれたのです。けど、それは、終わりではなかったのです。悩みを通して、理解しがたい導きを通して、彼の心の目が開かれたのです。そして、マナセは、主こそ神であると、体験的に知るようになりました。

私はいったい、どういうふうに真の礼拝者となることができるのでしょうか。主なる神が私たちの天のお父様であり、また、私たちは、この偉大なる主の子供であるという知識を持つことが十分です。私たちは、主をすべてを支配しておられるお方として知る必要があります。主を知ることは、『自分は徹頭徹尾、主のものである。自分の持っているものすべては、主のものである』ということを意味しているのです。主を主として知るようになった者だけが、霊とまことをもって礼拝することができます。

イエス様の弟子たちが、波の上で主の御声を聞いた時、すなわち、主がご自身を啓示してくださった時、彼らが、それは主である・・・・と知るようになり、結果として、主を拝むようになりました。マナセ王は、それが主の導きであると知った時、それが主であることを知りました。主を知り、主の前にひれ伏し、また、自分の理解しがたい悩みは、主のせいである、主の導きであると認めた人は、礼拝に導かれます。今日なお、主は、我々の真ん中にご臨在しておられ、霊とまこととを持って礼拝するまことの礼拝者を尋ね求めておられます。

ヨハネ
4:23 ・・・・真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。

ひとつの質問が出てきます。すなわち、礼拝とは何でしょうかね。二つのことが言えます。第一番目、主の道、主の導きに、全き心からなる賛意を表することです。二番目、すべてのことを主の御心のままにお委ねすることです。主の道に己(おのれ)を委ねることです。主のなさること、主の導きは、主の道です。主は、ご自身のなさること、また、ご自身の導き、経験によって、私たちが、主に目を開く、その結果、私たちが自発的に、心から、主を礼拝せざるを得なくなるように、主は働いておられます。主に心から礼拝を捧げうる人のみ、主の道を歩み行くことができます。主の道を知り、主の道を喜ぶ、これこそがいちばん、大切な我々に与えられている課題なのではないでしょうか。そうなったなら、私たちは結局、変えられます。主が、支配しておられます。偶然はない。全部、主の御手から受け取れば、やはり喜ぶことができるだけではなく、礼拝せざるを得なくなります。

主を礼拝したモーセについて、ちょっと考えたいと思います。このモーセは、エジプトの国からイスラエルの民を導き出した男です。

出エジプト記
34:5 主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。
34:6 主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、
34:7 恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」
34:8 モーセは急いで地にひざまずき、伏し拝んで、
34:9 お願いした。「ああ、主よ。もし私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか主が私たちの中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民は、うなじのこわい民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自身のものとしてくださいますように。」

「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者」と、書いてありますが、モーセは、この恵みのことばを聞いた時、主を礼拝せずにはおられませんでした。けど、この恵みのことばとともに、モーセは、七節の後半のごとく、「主は、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に」という厳しいことばを聞いた時、モーセは、主の前に、まず己の罪を赦してくださいと謝る前に、主を礼拝いたしました。モーセは、急いで地にひざまずき、伏し拝んだ。結局、『主を礼拝した』とあります。

主の恵みのみことばを聞いたとき、主を礼拝することは、そんなに難しくない。簡単でしょうけど、厳しいみことばの前にあっても、主を礼拝するということは、きわめて難しいことです。

礼拝とは何でしょう。今、言いましたように、主の導きに、全く心からなる賛意を表することであり、すべてのことを主の御心のままにお委ねすることです。主の道に己(おのれ)を委ねることです。私たちは、しばしば、「主よ、御心をこのようにしてください。この環境を変えてください」と祈り、叫び求めます。それは必ず間違っているわけではないけど、礼拝ではない。単なる祈りです。祈りは、我々の願いの言い表しであり、礼拝は、己の全てを何もかも、主にお委ねすることです。

十字架につけられる前、イエス様は、ゲッセマネの園で祈られました。

マタイ
26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

イエス様の変わらない態度とは、こういうものでした。イエス様の祈りは、自分の願いの言い表しというよりも、まことの礼拝でした。すなわち、『わたしの願うようにではなく、あなたの御心のようになさってください。』

モーセに続いて、イスラエルの歴史の最も優れた王、ダビデをちょっと観察してみましょうか。

第二サムエル
12:13 ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。
12:14 しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」
12:15 こうしてナタンは自分の家へ戻った。主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を打たれたので、その子は病気になった。
12:16 ダビデはその子のために神に願い求め、断食をして、引きこもり、一晩中、地に伏していた。
12:17 彼の家の長老たちは彼のそばに立って、彼を地から起こそうとしたが、ダビデは起きようともせず、彼らといっしょに食事を取ろうともしなかった。
12:18 七日目に子どもは死んだが、ダビデの家来たちは、その子が死んだことをダビデに告げるのを恐れた。「王はあの子が生きている時、われわれが話しても、言うことを聞かなかった。どうしてあの子が死んだことを王に言えようか。王は何か悪い事をされるかもしれない。」と彼らが思ったからである。
12:19 しかしダビデは、家来たちがひそひそ話し合っているのを見て、子どもが死んだことを悟った。それでダビデは家来たちに言った。「子どもは死んだのか。」彼らは言った。「なくなられました。」
12:20 するとダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、着物を着替えて、主の宮にはいり、礼拝をしてから、自分の家へ帰った。そして食事の用意をさせて、食事をとった。

聖書は、ダビデについて、「彼は神の心にかなう者だ」と言っています。いったいどうして?ダビデは、主を拝むまことの礼拝者だったからです。ダビデの歌った詩篇を読むと、ダビデは、もっとも深いどん底の苦しみにあっても、また、非常な絶望に陥っているときも、逃れ道が見えず、前途が真っ暗のときも、ひたすらに主を礼拝する礼拝者でした。主なる神の道や導きは、いつも、我々の願いと同じとは限りません。ダビデの場合もそうだったのです。彼の祈りは、彼の思ったようには聞かれなかったのです。この主なる神の御心にかなう人、ダビデに、「あなたに生まれる子は必ず死ぬ」という恐るべきことばがのぞみました。ダビデは、自分の子を愛し、主に請い求め、断食し、地に伏して、ひたすらに祈り求めました。しかし、『その子は死んだ』と、聖書は言っています。多くの人々は、かかる立場に置かれるとき、どうして、なぜと言うでしょう。けど、ダビデは、主の宮に入り、礼拝をしたとあります。

礼拝とは何でしょう。主の導きに、全く心からなる賛意を表することです。全てのことを主の御心のままに、お委ねすることです。主の導きに己を委ねることです。ダビデは、いつもこの態度を取りました。

ちょっと一箇所、見ましょうか。よく引用する大好きな箇所のひとつです。ダビデの心からの祈りです。そのとき、もちろん、ダビデは、この世界を支配する王でした。けれど、主の前に彼は、全部きれいに忘れました。

第一歴代誌
29:10 ダビデは全集団の目の前で主をほめたたえた。ダビデは言った。「私たちの父イスラエルの神、主よ。あなたはとこしえからとこしえまでほむべきかな。
29:11 主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。
29:12 富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。
29:13 今、私たちの神、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。」

これはダビデの心からの告白でした。彼は、この態度を取ったから結局、主の御心にかなう人と呼ばれるようになりました。

最後に、もう一人の男について、ちょっとだけ考えて終わります。すなわち、非常に苦しんだヨブについてです。

ヨブ
1:13 ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、
1:14 使いがヨブのところに来て言った。「牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、
1:15 シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
1:16 この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
1:17 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
1:18 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。
1:19 そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです。
1:20 このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、
1:21 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
1:22 ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。

ヨブのそれまでに持っていた財産の全部が取り去られ、愛する十人の子供も全部、死んでしまいました。多くの人々が、あの神に仕える人が、どうして、こんな苦しみにあうのでしょうかと、いぶかしく思ったに違いない。けど、ヨブはどうでしょう。ヨブは礼拝したと、書いてあります。「主の御名はほむべきかな」と、彼は告白しました。「主の御名はほむべきかな。」これこそ、彼の切なる願いでした。

私たちは、主の道に従うことを学ばなければなりません。そして、これはただ、こういうふうに礼拝することによってのみ、できうることです。何千年も前に、ヨブは、次のように証ししました。『私は知っている。私を贖う方は生きておられます。』このヨブは、短期間のうちに、彼の全財産、冨も宝も、また、子供たちも、自分の健康も失ってしまいました。けれど、彼は不平や不満を言わず、主の完全な愛をも疑いませんでした。たとえ彼が、主の導きを理解することができなかったとしても、彼は、主なる神を、次の言葉をもって、礼拝したのであります。「私の造り主なる神は、夜には、褒め歌を与える。主が与え、主が取られたのだ。主の御名はほむべきかな。私は知っている。私を贖う方は生きておられます」と。

ダビデは、確かに罪を犯してしまったんですけど、ヨブは、主の前に全き人だったと、聖書は言っています。それにもかかわらず、二人とも、己をすべて、主に、主の御心に委ねたのではないでしょうか。何故でしょう、どうしてでしょう・・・・と尋ねられても、答えることはできません。なぜか、全然、理解できなくてもただただ、心から主を褒め称え、礼拝することこそを、主は望んでおられます。『よ、あなたは常に完全なお方です。全きことを成されます。あなたの導きも完全です。理解することができませんが、あなたを心から崇めます。』この態度を取ることができれば、本当に幸いだと思います。

礼拝とは、全てのことを、主の御心のままにお委ねすることです。主の道にお委ねすることです。

おわり

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