2014年1月7日火曜日

ナルドの香り(2014年)

ナルドの香り(2014年)

2014年1月7日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ルカ
18:31 さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。
18:32 人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。
18:33 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
18:34 しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。

前に一人の姉妹は、次のような証しをしてくださいました。「主イエスが、あんまりにもすばらしいので、頭を上げられません。私のすべてを主に捧げます。」こういうふうに言える人とは、本当に幸せなのではないでしょうか。


福音書では、イエス様との出会いが不可欠なものであることが、もちろん、何回も何回も強調されています。イエス様に来た人々は、ほとんどすべて、何らかの問題を持っていた人々でした。例えば、病気、孤独、絶望などのために苦しんでいるような人々だったんです。そして、イエス様との出会いによって、やはり見方が変わりました。

癒し、解放、助け、健康、喜びと本当の幸福を、その人たちは得たのです。言ったけど無駄だったという人は、一人もいなかったのです。行ったのは良かった。彼らは皆、イエス様から何かを得ようと期待していて、そして、イエス様の御許に来たのです。言うまでもなく、イエス様は、今日もなお、重荷を負って苦しんでいる人を、御許に招いておられます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」イエス様にしかできないことです。

「わたしは、失われた人を探して救うために来た」と、聖書の中で、報告されています。イエス様は、ザアカイの家に行って、彼の考え方はいっぺんに変わりました。『イエス様こそすべてです』と、言わざるを得なかったのです。けども、イエス様の御許に来て、何かを得ようと考えている人が多かったのです。けど、イエス様に何かを捧げようと願っている人は、非常に少なかったようです。今日でも、同じなのではないでしょうか。その少ない人々の中で、ベタニアのマリヤは、我々の模範となるべきなのではないでしょうか。

マルコ
14:3 イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。
14:4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。
14:5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。
14:6 すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。
14:7 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
14:8 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。
14:9 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」
14:10 ところで、イスカリオテ・ユダは、十二弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行った。
14:11 彼らはこれを聞いて喜んで、金をやろうと約束した。そこでユダは、どうしたら、うまいぐあいにイエスを引き渡せるかと、ねらっていた。

どうしてイエス様を信じる者のあいだに、成長の違いが出てくるのでしょうか。すべての救われた人々は、イエス様の愛を体験したのですが、けれども、真実の深い愛をイエス様に捧げる者は少ないのではないでしょうか。私たちは、しばしば、自分がイエス様に対して、どのような関係にあるかということよりも、自分が何を成すべきかということを大切にするのではないでしょうか。私たちが、通り良き管になるためには、イエス様との密接な交わりが、どうしても必要です。

主との愛の交わりがなくなれば、使命感が薄れ、祈りが少なくなり、祈りをしたくなくなり、余裕を失い、神経質になります。

マリヤという女性は、高価なナルドの香油をイエス様に注ぎ出しました。この行ないは、心からの愛の表れでした。すべてをイエス様に捧げたいというのが、マリヤの心からの願いでした。彼女ほど、イエス様に褒められた人は他にありません。「この女は、できる限りのことをしたのだ。」この言葉は、イエス様が全く満足されたことを表しているのではないでしょうか。マリヤは、ただイエス様だけが、真の幸福と本当の平安を与えられるということを体験していたのです。ですから、彼女は、心からの愛のしるしとして、この高価なナルドの香油を捧げました。マリヤの心は、感謝と愛でいっぱいだったのです。

聖書の中心は、十字架につけられたイエス様であり、私たちの罪滅ぼしのために、犠牲として、屠られた小羊なるイエス様です。この十字架につけられたイエス様について、聖書は言っています。有名なイザヤ書、五十三章です。

イザヤ
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

まことの喜びの根拠、また、みなもとは、今、読みました箇所の最後に書き記されています。聖なる神は、私たちのすべての咎を十字架につけられた主イエス様に負わせたのです。罪滅ぼしのために、イエス様は代わりに罰せられ、呪われ、捨てられたのです。ひどいとしか言えません。もっとひどいことは、ないのではないでしょうか。ばからしいと考えてもいいでしょう。なぜなら、イエス様の流された血潮は、イエス様の命だったからです。

我々のようなつまらない、どうしようもない者のために、このような代価を払うのは、ちょっと、考えられないことではないでしょうか。例えば、キャラメル一箱のために、十万円、払うのは確かにおかしい。変です。けど、イエス様の命は、父なる神にとって、この大宇宙よりも尊いものでした。しかし、私たちの大部分は、イエス様に出会った人は皆、言えます。「ありがたい。イエス様は、代わりに罰せられた。」イエス様が代わりに罰せられたから、私たちは裁きに会うことがなく、死からもうすでにいのちに移されていると確信できるのです。

十字架につけられたイエス様から、目を離してはなりません。失望から、また、孤独からの解放は、イエス様を仰ぎ見ることです。もう一箇所、読みます。よく引用されるすばらしい励ましの言葉であります。

ヘブル
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

ルカ
18:31 さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。
18:32 人の子は(・・・・結局、わたしは・・・・)異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。
18:33 彼らは人の子を(・・・・わたしを・・・・)むちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
18:34 しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。

弟子たちと違いまして、前に読んだベタニヤのマリヤは、イエス様の埋葬の用意にと、イエス様の身体に、前もって油を塗ってくれたのです。マリヤの心は、感謝と愛でいっぱいでした。彼女は、ただ一つの考え――すなわち、いかにして、自分の主に対する愛を表したらよいのでしょうか。いかにして、自分のイエス様に対する感謝を表したらよいかという考え――だけを持っていたのです。そのとき、マリヤはナルドの香油のことを思い出しました。ナルドの香油は、非常に高価なもので、一人の人が一年間、働いて得る所得に等しい。七千五百人分のパンを買うことができたほど、高価なものでした。それですから、マリヤは、自分自身のためですら、それを使うことがもったいないと思っていましたし、まして、他の人々のためにそれを使うことは、できなかったのです。

しかし、突然、マリヤは、イエス様ならば、その香油が、ちょうどふさわしいものと考え、それによって、自分の愛を表すことができると考えました。そして、イエス様は、このマリヤの行ないを、非常に喜ばれたのです。全き愛だけが、イエス様を充分に喜ばせることができます。しかしながら、他の人々の反応は、どういうものだったでしょう。

マルコ
14:1 ・・・・祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕え、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。

隠された妬みは、憎しみに変わり、イエス様を殺そうという決心になってしまいました。一方の人々は、いかにしてイエス様を殺すかと考えており、マリヤは、いかにして、イエス様に対する自分の愛を示すべきかと考えていたのです。マリヤは、自分のすべてを捧げざるを得なかったのです。

ここで、一人の弟子と呼ばれていたユダは、それに対して、文句を言ったのです。マリヤの行ないは、ばからしいことであり、無駄なことだと非難したのです。もっとうまい使い道があるのではないか。もしも、七千五百人の貧しい人々に食事をさせる方が良いのではないか。しかし、例えば、ユダは、貧乏人に対する同情や思いやりの心でそう言ったのではなく、貪欲な守銭奴だったからです。いかなる理由で人々は、それぞれ異なった態度を、主に対して取るのでしょうか。

祭司たちや律法学者たちは、彼ら自身の名誉を求めました。彼らは、自分たちが尊敬されなくなるのではないかという恐れでいっぱいでした。妬みは憎しみに変わり、イエス様を殺すということに至ったのです。ユダは、もちろん、金だけを欲しがり、もっともっと多く欲しいと、思っていました。彼は、盗みをし、それから、偽善的になり、そして、裏切りをして、最後に、自殺してしまったのです。

けれども、マリヤは、いかにして自分の愛をイエス様に示すことができるかと、真剣に考えました。イエス様を愛することができるのは、イエス様に罪を赦された者だけです。罪を赦された者は、自分の罪を認め、告白して、それを捨てる者だけです。このような態度を取らない者は、自分中心的な生き方をし、自分のことだけを考えるのです。

自分が充分に考慮されない、あるいは、ちやほやされなければ、すぐに自分の殻に引きこもる人々、あるいは、侮る人もいます。私たちは、次のことについて考えるべきではないでしょうか。すなわち、私は、イエス様に対して、本当の愛を持っているのでしょうか。私は、イエス様との交わりを持とうとして、イエス様の御許に近づきたいと願っているのでしょうか。私の考えや関心の中心は、イエス様なのでしょうか。私は、義務感でイエス様に仕えるのか、あるいは、愛によってイエス様に従うのでしょうか。私にとって、祈りはなくてはならないもの、あるいは、心から願っているものでしょうか。

マリヤは、心からの愛、そのものをイエス様に捧げたから、イエス様は、彼女を非常に喜ばれました。しかし、私たちはいかにして、主を喜ばせることができるのでしょうか。マリヤは、イエス様の足もとに座って、主のみことばを聞きました。ただ聞くだけではなく、みことばに服従する心がまえで聞いたのです。マリヤは、時間がなかったけど、主のみことばを聞く時間を作り出したのです。

私たちは、聖書を読むだけではなく、聖書に聞かなければなりません。聖書に聞く時間を作らない人は、イエス様を愛していないのではないでしょうか。イエス様は、みことばに対して開かれている耳を期待されます。イエス様を愛することの第一歩は、イエス様のみことばを聞くことであり、祈りながら、主に近づくことです。すべてその他のことは、枝葉の問題です。

マリヤは、単にイエス様のみことばを聞いただけではなく、主に話しかけました。マリヤは、イエス様のところに行って、みことばを聞き、イエス様に話しかけることだけが、彼女の心からの願いでした。

我々の場合には、我々の祈りの中心、私たち自身の考えや計画が問題ではないでしょうか。私たちは、主ご自身よりも、イエス様が我々に与える祝福の方を好むのではないでしょうか。そういうのは、決して、マリヤの持っていたような愛ではありません。マリヤは、まず初めに、主のことばだけを聞きたいと願い、次に、主だけに語りたいと願い、そして、最後に、主にすべてを与えたいと願いました。

マリヤは、イエス様の足もとに座って、みことばに耳を貸したのです。マリヤがしたように、主の足もとに座り続けることなしに、祈りの生活は成り立ちません。マリヤは、イエス様が自分を全く欠けたところなく愛しておられることをよく知っていたので、マリヤもイエス様を、少しも裏切るところなく愛していたのです。

マリヤは、非常に値の高いナルドの匂い油を、イエス様の頭に、惜しげもなく降り注ぎました。すなわち、ためらうことなく、余すところなく、匂い油を主イエス様に降り注ぐことにより、主イエス様に対する愛を示したのです。ナルドの匂い油の匂いが、家全体に満ちたと、聖書は言っています。それと同じように、愛の雰囲気が、我々の心、我々の家、また各集会を包んでいるのでしょうか。

黙示録の二章で、エペソにいる兄弟姉妹に書かれた言葉とは次のものです。

黙示録
2:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

『初めの愛』というのは、イエス様との交わりのことです。イエス様なしに何事も欲せず、何事も成し得ないということです。もし、日々、主のみことばである聖書が、我々の泉となり、私たちの慰めとなり、私たちの力となり、我々の知恵となっているならば、そして、私たちの考えと行ないの中心に、イエス様がおいでになるならば、それこそが、我々の初めの愛が保たれていることの証拠です。

当時のエペソの兄弟姉妹の心は、もはや、イエス様との親しい交わりの中にはなかったのです。主の足もとに静まる事を忘れてしまったのです。その結果は、イエス様は、もはや、『わたしはあなたと共にいる』と言うことができず、『わたしは、あなたに対して対立する』と言わざるを得ないことになったのです。初めの愛というのは、二心(ふたごころ)の無いイエス様への愛であり、真の謙遜であり、直ちに従うことであり、イエス様の再臨を心から待ち望むことであり、また、兄弟姉妹に対して、真心からの愛を持つことなのではないでしょうか。

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