2014年1月24日金曜日

死は終わりではない

死は終わりではない
2014年1月24日、麗沢大学生涯教育プラザ
ゴットホルド・ベック

何十年ぶり、またここまで来ることができたのは本当に感謝です。いつ初めて来たのか、きれいに忘れました。けども、毎週ここまで来て、ドイツ語を教えたんです。学校の創設者の特別な許可を得て、学校の図書館で、『いつも使いなさい、学生たちにイエス様のこと紹介してもらいたい。』そこまで言われたんです。ですから、非常に楽しかったし、蒔いた種はいつ刈り取るようになるかはわからないけど、無駄ではなかったことを確信しています。今日、言われたテーマは「死は終わりではない。」。

13年前だったんですけども、9月の11日、アメリカでとんでもないことが起こってしまったのです。急に数えられないほど多くの人々が結局、殺されてしまいました。このニューヨークの消防署で書かれた言葉があるんです。

No Farewell Words Were Spoken
No time to say Goodbye
You were gone before we knew it, and only God knows why.

誰も別れのことばを話しかけなかった。
さようならを言う暇もなかった。
私たちが知る前に、あなたがたは召された。
どうしてかということは、主なる神しかわからない。

そういう文章が公けになったのです。結局、どうして、なぜと考えても、答えられる人間はいない。一番、危ないなのは宗教的な考えです。不幸を経験すると、宗教は必ずあなたはわがままだったから、おじいちゃんも変なことやったから、天罰だよ・・・と言います。嘘です。


人間を罰する神はいないんですって。これは聖書の言わんとすることです。どうしていないかと言いますと、必要ないから。イエス・キリストが、人間のわがままのゆえに罰せられたから、人間を罰する神は存在していない。これこそすばらしい事実ではないでしょうか。この事実に基づいて、前向きに生活することができるのです。二千何百年前でしょうか、イザヤという預言者は次のように書いたのです。

見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。(イザヤ12:2)

こういう確信をもつことこそが最高の幸せなのではないでしょうか。聖書を通して提供されている救いとはいったい何でしょうかね?

先ず、罪の問題の解決です。人間はみんなわがままです。過ちを犯す者です。そして、罪滅ぼしのために、結局、人間は何もできません。『(罪は)赦された、忘れられた』と確信することが、イエス様がもたらされた救いの結果です。

それだけではなく、まことの救いは、孤独からの解放です。人間は、みな寂しい。もう少し、大切にしてもらいたい。愛してもらいたい。まことの救いは、孤独からの解放です。ちょっと寂しいけど、ひとりぼっちではない。決して、私から離れず、私を捨てないという確信が、イエス様の救いを受けた結果なのではないでしょうか。

それから、まことの救いとは、「死」を恐れる恐怖からの解放です。多くの人々は、確かに死について考えたくない。けど、どうせ、いつか死ななくてはいけないでしょう。諺があるんですね。「備えあれば、憂いなし」。安心して、希望をもって、「死」に向かうことができなければ、今の人生は空しい。けども、「死」を恐れる恐怖からの解放こそが、イエス様を通して提供されている救いです。聖書の中で次のような言葉があります。

「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(第一コリント15:55、57)

こういうふうに心から言える人は本当に幸せなのではないでしょうか。

あるドイツの出版社の息子が、テレビ局の方に次のようにきかれました。「あなたにとって、もっとも大きなショックとは何でしょうかね。癌になることですか。全財産を急に失くすことでしょうか。あるいは、一生涯、車椅子の中で生活をすることでしょうか。」その息子の答えは、ちょっと不思議な答えでした。「もし、神がおられたら、それこそ考えられないほど恐ろしいことです。」

主なる神がおられれば、「死」は終わりではない。そうすると、必ず死後、さばきを受けることになるからです。結局、天国か地獄かのどちらかです。確かに、地獄、すなわち、永久的に光の見えないこと、平安なし、喜びなし、希望なしに、永遠に存在することとは考えられないほど、恐ろしいことです。天国について聖書は言っています。

もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。

本当に来たるべき栄光はすばらしいものです。ですから、聖書は簡単に言っています。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

今、苦しい、辛い、どうしたらいいかわからない。けれど、それはおしまいではない。

よく(私の)知り合いの方、色々なこと経験しました。先ず、奥さんは癌になって召されましたし、そして、彼も何十年後ですけど、同じく病気になりました。自分の葬儀のために彼はある小冊子を作ったんです。はじめの文章は、『本日は私、新井稔の昇天式にお集まりくださいまして、本当にありがとうございます。』

前夜祈祷式と葬儀に出た人々は、もう七百人以上でした。私もはじめて、彼に出会ったのは、もちろん、何十年前だったんです。出会った場所は、名古屋のある病院でした。きっかけになったのは彼の奥さんの病気でした。彼はその時、49歳で、奥さんは39歳でした。お二人は、その日、イエス様しかないと思うようになり、イエス様を信ずるようになりました。それから、お二人はともに悩み、ともに祈るようになりました。あきらめる必要はない。人間だって、歳のため、病気のために死にません。創造主が呼ぶまで心配しなくてもいい。

別の時だったんですけども、見舞いに行ったとき、その奥さんは、ご主人である方に向かって、次のように言いました、「病気になったのは良かったね、お父さん。」彼の答えは、「あなたのおかげです。」

その意味は、もし病気にならなかったなら、救いを求めようとしなかったし、救い主に出会わなかったにちがいない。そうするとまことの喜びなし、本当の平安なし、希望なしで存在しなければならなかったにちがいない。だから、病気になったのは良かった、と奥さんは言えたのです。結局、永遠のものを得るようになったからです。彼は、次のように書いたことがあります。「もし、聖書を知らなかったら、苦しみや悲しみに苛(さいな)まれ、運命を呪ったことでしょう。イエス様を信じて、(奥様である)順子は死の恐怖から解放され、私の生き様が変わりました。今は再び、天国で順子とめぐりあえる喜びと主のみこころと愛に感謝の気持ちです。」

今から多分、34年前に、うちの娘リンデという女の子は、癌になりました。20歳で天に召されたのです。この娘は、イエス様のために実を結びたいと切に願っていました。自分の健康や自分の幸せは枝葉(えだは)のことでした。ただ、イエス様だけが栄光をお受けになる時、私は嬉しい。これこそ、娘の態度でした。そして、この証しは実を結ぶようになったのです。多くの人々がイエス様を求めるようになり、イエス様をたずね、イエス様に出会うようになったのです。

ドイツで、一人の方が、私に尋ねてくれました。そして、次のような質問をしました。リンデがそんなに喜んで死ぬことができたのはいったい何だったの、そして、彼女がそのまま、この世から離れて、目に見えるものに関心をもたず、目に見えないものに関心をもったのはいったい、どうしたんでしょうか。娘は次の文章を書きました。亡くなってから、彼女の聖書の中で見つけた文章です。

人格者とは死を直視することができる人です。

ある人は、死後の問題は死んだときに初めてわかることであって、この世で生きている間はそんな問題に煩わされない方がいいと考えています。そのような考え方について、私たちは、いったいどのような態度を取るべきなのでしょうか。確かに、「死」についての人間の考え方はいろいろ、違っています。一般に、「死」について何か話そうとすると嫌な顔して、それを拒む人が少なくない。

太陽王と呼ばれた有名なフランスのルイ14世は、葬式の列が通るのを見た時、すぐ、「カーテンを閉めろ」と命令した、と伝えられています。彼はご存知のように、自分が望むものは何でも持っていました。名誉も地位も財産、その他、あらゆるものを手に入れた有名な王でした。けど、彼が一番、嫌ったものが、まさに、「死」だったのです。ドイツの偉大な詩人であり、政治家でもあったヴォルフガング・ゲーテという男も、「死」を嫌ったため、非常に親しい人の葬式にさえも出席しなかったのです。

多くの人はいろいろなことについて計画的に考え、その計画にしたがって行動しようとしますが、「死」に対しても、同じように考えようとすると、もう滅茶苦茶になって、何の計画も立てられなくなってしまうため、「死」のことに対してはかたくなに眼をつむってしまうのです。そして、彼らは、生きている限りはできるだけ楽しみたいという強い願いを捨て切ることができないのですけども、悪魔はそのような人々にささやいたり、「死」のことについて、深刻に考えることをやめさせたり、あるいは、目を眩ませて、享楽的な生活へと誘惑して、絶えず、悪の罠に引き込もうとしているのです。

けども、実際問題として考えると、実際は、以上に述べたことは違った結果を示しています。すなわち、毎日、この国で一時間ごとに少なくても二十四人の人々が交通事故で死んでしまいます。そしてまた、第一と第二の世界大戦の、二度にわたる世界戦争では、八千万人の人々が殺されてしまったのです。この国で毎年、だいたい四千人以上の社会人が命を捨ててしまいます。残された家族の悩み、また、苦しみはいかなるものでしょうか。「死」とは否定することのできない事実ですから、「死」について真剣に考えようとしない者は愚かであると言わざるを得ません。

たとえば、ボルネオという島に非常に珍しい儀式、ひとつの習慣があります。すなわち、それは、結婚式の時に新郎と新婦との間に死んだ人の頭蓋骨を置くという風習です。その意味するところは、人生でもっとも幸福なときに、死を忘れないようにということであると言われています。

冷静な人は誰でも「死」がすべての終わりを意味するのではない、ということを認めざるを得ません。主なる神によって造られた人間の人生の目的が「死」によってピリオドを打たれるとは、どうしても考えられないからです。働いている者は必ず何かの目的をもってます。もし、大工さんが無計画に目的なき家を建てるようなことがあったとしたなら、それこそ全く意味のないことです。仕立て屋さんが布を裁断して洋服を作る場合に、必ず、はっきりとした目的をもっていることとは言うまでもありません。意味がなく、目的がなく、計画がなければ、誰も働くことができません。したがって、全能なる主なる神が人間を創造された時にも、はっきりとした一つの目的をもっておられたことは明らかです。

主なる神は、決して人間の「死」や滅びを望んでおられるのではありません。主なる神は、人間が生きることを望んでおられます。したがって、私たちは「死」のことについて考える時には、「死」そのものだけを思い出すのではなく、死後に来るものに注意を向けなければならない。ちょっと六つの点について、簡単に一緒に考えたいと思います。

第一番目、私たちの数十年間の人生というものは、それですべてが満たされるためには、あんまりにも短かすぎます。現在は、われわれの世界では一番、長生きしたとしても、せいぜい、百二十歳ぐらいが限界です。けど百歳まで生きながらえた人の数も、何と少ないなのではないでしょうか。私たちは、この問題について、真剣にまじめに考えるならば、聖書の言っていることが正しい、と認めざるを得ません。すなわち

あなたがたは、しばらくの間現われて、たちまち消えてしまう霧にすぎません。

われわれの人生がちっぽけなものであることは私たちでさえよくわかることですが、六千年を越える人類の歴史と言えども、主なる神の目から見ると無に等しいものです。私たちは、百年前にはどこにいたでしょう。そして、百年後には、いったいどこにいるなのでしょうか。われわれの人生が余りにも短すぎるため、死後の世界があるのではないかという考え方が自ずから出てくることも当然と言えましょう。この問いに対して、聖書は、はっきりと別の世界があることを教えています。なぜなら、人間の人生は余りにも短かすぎて、そこには、ほんとうの意味がなく、死んでから初めて本当の世界が始まるからです。

二番目、主なる神ご自身が、人間の心に、「永遠」を思う思いを授けられた、と聖書は言っています。人間は主なる神のかたちに似せて造られました。そして、主なる神がその人間に「永遠」とは何か、「完全」とは何かを理解する力をお与えになったのです。人間は、決して、過ぎゆく儚(はかな)いものや、不完全なものによっては、心が満たされません。人間は、心から愛し、心から愛されることを望んでいます。それですから、この世の人間的な愛に何回も失望するのです。

芸術家は情熱をもって完全なものを作ろうとしますが、しばしば、自分の作った物を破壊してしまうのです。なぜなら、自分の作った物と言えども、決して完全なものではないからです。

青年は、将来に対して無限の希望を持ち、それが永遠に続くように思われるのではないでしょうか。老人はそれほど夢多き将来を考えることがありません。若者にとっては一年と言えども、非常に充実した意味のある長い一年のように思いますが、老人は過ぎゆく一年が非常に短く、はかないものであるということを体験から知っておるのです。また、多くの婦人はいつまでも若く、美しくありたいために莫大な費用をかけたり、そのために一生懸命、努力したりしますが、結局、どうすることもできないことを知って、失望してしまいます。

人間の欲望は新しいものが次から、次へと与えられても、決して満足していません。それは、悲劇であると言わざるを得ない。次から次へと目まぐるしく移り変わる、新しい流行を必死に追い求めても、そのことが幸せをもたらすとは言えません。実業家は、日夜、金儲けのために努力します。独裁者は、自分の国を支配するにとどまらず、やがては、世界を支配しようと無限に欲望を高めていきます。いわゆる仕事の鬼は、仕事だけをたいせつにして、ほかのことは何も考えないようにと一生懸命に苦労しますが、結局は何のために生きているのかわからなくなってしまい、息が詰まってしまうのです。人間的に見ると仕事が成功し、金持ちになり、病気もせず、非常に幸福そうに見えた人であっても、常に満たされざる思いが心の中にあるため、主なる神の目から見ると、決して幸福ではありません。

しかし、主なる神の御心は私たち人間が永遠のいのちを持つことに他ならない。それですから、主なる神以外に、私たちの心を満たしてくれる方は誰もいません。

ヨハネ伝四章の中で、次のようなことが書かれています。五人の夫をもつ姦淫の女のことが描かれています。疑いもなく、彼女は幸福になりたいという願いを持っていました。しかしながら、彼女の切なる思いも、決して満たされなかったのです。けども、主イエス様は彼女に近づき

わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

女は、イエス様に言ったんですね。

先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。

有名なアウグスティンという男は、「私が主なる神のもとで憩うまではまことの平安がない」と、告白したのであります。

三番目の点、もしも、死後の世界がなかったならば、この世はまったく意味のないことでしょう。永遠のものから、はじめて、われわれの人生が意味あるものとなるのです。もしも、すべてが死でもって終わるとすれば、生きているときのあらゆる努力は、いかなる価値を持っているのでしょうか。ソロモンという大王様は、この世のものはすべてがむなしい、「空の空である」と言いました。けど、彼は名誉、地位、財産、その他ありとあらゆるものを持っていました。世界一の金持ちでした。けど、彼は、「すべてはむなしい」と告白せざるを得なかったのです。この世で、とこしえに価値を持続するものは、何一つありません。私たちが生きている時に持っているものはすべて、死と同時に、私たちから離れてしまうのです。

唯物主義者は次のように言うでしょう。私たちは飲み食いしようではないか、明日の分からぬ命なのだ。しかし、この哲学は憤慨と絶望の表現であると言えましょう。なぜなら、若くて金もあり、時間も充分あるものが飲み食いすることは難しくないかもしれない。けど、歳とって、金もなくなったときに、ただ病と死だけが待つようなことになるでしょう。死後の問題を本当に解決することができないならば、まさに、自殺をするか、気違いになるか、いずれにしても、まことに、悲惨の道だけしか残されていないことでしょう。けども、自殺は、この問題を正しく解決することではなく、それは、それから逃避することを意味するなのではないでしょうか。

四番目、この世の正義と言えども、決して、私たちを心の底から満たしてくれるものではありません。なぜならば、正義と言えども、この世においては、私たちの完全な正義に対する熱望を満たしてくれないからです。この世における多くの不義は、必ずしも正しくさばかれているとは限りません。また、反対に、この世で正しく生きている人々がそれ相当の報酬を与えられているかと言うと、必ずしもそうとは限りません。むしろ、真理のために迫害されたり、殺されたりした人さえいるのです。もしも、死によってすべての終止符を打つならば、人生は、まったく意味のないことです。けども、事実は決してそうではありません。確かに死んで別れることはキリスト者にとっても、等しく悲しいことであり、寂しいことであるかもしれない。

それにもかかわらず、五番目、死んでから、再び愛する者と会うことができるという確信をもつことができるということは、深く考えさせられることです。愛する者との死の別れは、一時的なものにすぎない、必ず再会できるという確信をもつことは、信ずる者にとって、最高の慰めであり、また、喜びでもあります。

六番目、その時に、顔と顔を合わせて、あいまみえることができ、イエス様に似た者となることこそ、創造主なる神のご計画に他なりません。ただ単に、人間が永遠の存在として造られ、完全なものを追い求めていくために、造られただけではなく、主ご自身のために造られたのだ、ということを忘れてはなりません。すなわち、初めての人間であるアダムの罪により、主なる神から離れてしまった人間は、どうしても神との生き生きとした交わりを回復しなければ生きていくことができません。救われた者が、永遠にイエス様との交わりの中に時を過ごすことができるという確信を持つことができるとは、考えられないほどすばらしいことです。あらゆる宗教は、あの世のことについて、はっきりしたことを言わず、単なる想像に基づいて抽象的なことを言っているにすぎない。

しかし、神のみことばである聖書は、信ずる者にとっては、未信者にとっても、死後の世界があることをはっきりと言っているのです。聖書によると、アブラハム、イサク、ヤコブが、すなわち、四千年前に生きた人々が、今もなお生き続けていることがわかります。それに対して、悔い改めようとしなかった人々は、陰府(よみ)の国に落ちて行かなければならず、そこで苦しまなければなりません。イエス様は、頭を下げたくなかった人々が、死後、陰府の国で苦しんでいる時には、決して、無意識な状態であるのではなく、はっきりとした意識を持って苦しまなければならないと言われました(ルカ16:19〜31)。このように死んだ後で、すべての信じようとしなかった人々は、陰府の国で、やがて、主なる神の前に引き出され、最後の審判を受けなければなりません。救われている人々、また、救われていない人々も、死後も生き続けるように、終わりがないのです。

主なる神によって救われた人々は、永遠のいのちを持ち続けることは明らかです。つまり、死後、救われた人々は永遠のいのちをもって、主なる神とともにおり、悔い改めたくない人々は、苦しみと苦悩の中に滅びなければならないと、聖書は言っています。これらのことをわかりやすく要約すると次のように言えるでしょう。

すなわち、まず、第一に、人間は生まれたときに、「魂」が与えられ、そのために永遠に存在する権利を与えられます。第二に、そのような人間が、罪を悔い改めて、イエス様を信ずる信仰によって新しく生まれ変わったときに、「永遠のいのち」を与えられます。第三に、そのような人は復活の時、「不滅のからだ」を与えられます。確かに、未信者と言えども、永遠に存在するわけですが、しかしながら、新しく生まれ変わらない限り、ほんとうのいのちを持つことができません。本当のいのちは、イエス様との交わりの中にあってはじめて存在するのです。ヨハネによる福音書17章の3節に次のように書かれています。

永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

そして、ヨハネ第一の手紙5章20節に書いてあります。

この方こそ(イエス・キリスト)、まことの神、永遠のいのちです。

まことの主なる神を信じない未信者は、この世でほんとうのいのちを持っていません。すなわち、主なる神との平和を知らないから、満たされていません。

前に話した有名な詩人であるヴォルフガング・ゲーテという男は、彼の全生涯において二十四時間、本当の幸福だったことはなかったと告白したのです。なぜ人間は、そのような満たされない状態にあるのでしょうか。その原因は、まさに、人間の心に本当の平和と平安がないということです。人間は死後、さばきを受けるため、人間には平安がないと聖書は言っています。前に言いましたように二十歳で天に召された娘は、「人格者とは、死を直視することのできる人」と、書いたのであります。「死」を直視することのできる人とは、すなわち、イエス様によって救われた人です。だから、パウロは、「キリストこそ私の平和だ」と、証ししました。

イエス様は主なる神との贖(あがな)いをなしてくださいました。主イエス様は、主なる神に敵対する関係を無にしてくださったのです。われわれ人間が、主なる神から離れている罪、あるいは、債務を、イエス様の尊い犠牲によって、完全に取り去ってくださったのです。

まことの平和は、イエス様を信ずることによってのみ与えられるものです。イエス様を信ずる者は、みな、今、主なる神との平和、また、贖いをもっていることを信じ、確信することをゆるされています。主なる神は、もはや、怒りを持っておらず、イエス様の犠牲によって、完全なる贖いと和解を成就させているのです。もはや、何も神との結びつきを引き離すことはできません。主なる神との平和を持っている者は、もはや、死を恐れることはありません。なぜならば、全き平安のうちに休むことができるからです。

主なる神との平和がなければ、すなわち、主なる神との交わりがなければ、ほんとうの喜びも幸福もありません。人生は無意味な価値のないものになってしまいます。

有名な音楽家であるヨハン・セバスチャン・バッハは、数々の名曲を残しましたが、その中でもはっきりと歌っているように、心から、「死」を待ち望んでいたのです。つまり、生きているこの世よりも、死んだ後に来る世界のすばらしさを信仰の目で見ることのできたバッハは、主を賛美せざるを得なかったのです。

信ずる者と言えども、罪人である以上、本来は未信者と全く同じように、陰府(よみ)の国へ行かなければならない運命に定められていましたが、ひとり子なるイエス様の十字架によって、罪が贖われ、罪から解放されたために、永遠のいのちをもつことができたのです。そのために、信ずる者は、もはや「死」を恐れる必要がない。ローマ8章、有名な箇所ですけど、次のように書かれています。

8:1 キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

この意味で、「死」は信ずる者にとって、信仰により、イエス様に近づくための橋渡しの役割を果たすと言えましょう。したがって、信ずる者は、「死」を恐れる必要を全然、持たないわけです。もう一ヵ所、読みます。ピリピ人への手紙、1章の20節から

生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。

主の恵みによって救われた人々にとって、死ぬことは、イエス様とともになることを意味していますから、益(えき)です。

パウロは、死ぬことと生きることとどちらが良いか考えた時、死ぬことを選んだのです。けれども、このパウロは、多くの人々のために奉仕をしなければならない必要を感じていたため、さらに生き続けることを決心しました。この問題がなく、パウロ一人だけのことであったならば、おそらく、死ぬことを選び、死ぬことを喜んだに違いありません。うちの娘の場合は、そうだったんです。軽井沢に次のような意味の聖句が刻まれたお墓があります。「この世を去って、キリストとともにいることのほうがはるかにすばらしい」と、書いてあります。救われた人々にとっては、未信者すべてが、いだくような「死」の恐ろしさが全然ありません。

ドイツのアドルフ・ヒットラーは第二次大戦中、六百万人にのぼるユダヤ人を殺してしまいました。けれど、その当時オランダにテン・ブームという家族がおり、多くのユダヤ人を囲いました。ところが、結局、ナチスの秘密警察であるゲシュタポがそれを見つけ出し、全員を強制収容所に送ってしまいました。そこでコーリン・テン・ブームという一人の女性を除いて、みんな殺されてしまいました。けれど、その時、彼女の父親は、家を去るにあたって、大喜びで次のように言いました、「一番すばらしいことがこれから始まる」と。

このことばの意味は、彼らの出発が恐ろしい死の旅路でなくて、イエス様とともになるための最高の喜びと感謝の旅に出かけるという意味です。将来、与えられる栄光を見て、主イエス様のものとなった者は、生ける希望を持っているのです。結果として、いかなる患難のときにも、主を喜ぶことができる。なぜなら、将来に対して何の不安も持っていないからです。私たちは、将来のことを知ることができません。けれど、イエス様を知っております。それですから、将来に対するすべての問題が答えられていることになるわけです。

イエス様御自身がわれわれの将来です。あらゆる不安と心配はイエス様によって慰められるのです。イエス様は、御自身を信頼する者を、必ず目的地まで導かれるのです。それですから、私たちは、今、喜ぶことができ、誇ることができ、感謝することができるのです。

三千年前この世界を治めた王様であるダビデは言いました。

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。

このような確信をもつことこそが最高の幸せなのではないでしょうか。

おわり

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