2023年1月18日水曜日

すぐに起こるはずのこと【第3部】14.近づいている神のご計画の成就1―天の御使いの特徴

14.近づいている神のご計画の成就1―天の御使いの特徴

黙示録10章1節から7節まで

1.御使いの特徴
2.御使いの栄光
[1]雲の衣―主のご臨在
[2]頭上の虹―主の憐れみ
[3]太陽のような顔主の勝利
[4]火の柱のような足主のさばき
3.御使いの権威
[1]立っている場所
[2]その声
[3]誓い

私たちは黙示録第10章を二つの部分に分けることができます。前半は「天の御使いの特徴と権威」(1節~7節)、後半は「人間の使い、ヨハネの権威と備え」(8節~11節)がテーマになっています。

これまで黙示録第8、9章で、地上にくだされる恐ろしいさばきについて見てきました。しかしそのさばきが行なわれる前に、ヨハネは、主が額に証印を押した人々を守られ、御座の前に多くの群衆が神に導かれているのを見ました(黙示7章)。同じように10章でも、ヨハネは後の第12、13章に出てくる苦しみのときに対する慰めを与えられるのです。

ダニエルは幻を見たとき全身の力を失ってしまいましたが、主によって将来起ころうとしていることを告げられる前に、励まし、力づけられました。

私は、ひとり残って、この大きな幻を見たが、私は、内から力が抜け、顔の輝きもうせ、力を失った。(ダニエル10・8)

すると、人間のように見える者が、再び私に触れ、私を力づけて、言った。「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。」彼が私にこう言ったとき、私は奮い立って言った。「わが主よ。お話しください。あなたは私をちからづけてくださいましたから。」(ダニエル10・18、19)

この時のダニエルのように、ヨハネも苦しみのときに対する慰めを与えられているのです。この章の目的は、読者を「力づけ」、「励ます」ことにあります。

これから10章前半にある三つの問題、「御使いの特徴、この御使いは誰であるか」、「御使いの栄光、どのように栄光が現われたか」、「御使いの権威、どうやって知ることができるか」について考えてみましょう。

(1)また私は、もうひとりの強い御使いが、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭上には虹があって、その顔は太陽のようであり、その足は火の柱のようであった。(2)その手には開かれた小さな巻き物を持ち、右足は海の上に、左足は地の上に置き、(3)ししがほえるときのように大声で叫んだ。彼が叫んだとき、(4)七つの雷がおのおの声を出した。七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が言ったことは封じて、書きしるすな。」と言うのを聞いた。(5)それから、私の見た海と地との上に立つ御使いは、右手を天に上げて、(6)永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方をさして、誓った。「もはや時が延ばされることはない。(7)第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」(黙示10・1~7)

1.御使いの特徴


黙示録第10章1節にある「強い御使い」が誰であるかについては、すでに多くの人々によって考えられてきましたが、私はこれは黙示録第8章3節に出てくる「金の香炉を持って祭壇のところに立った」御使いと同じ御使いだと考えます。つまり、イエス様が別の姿をとってここに現われておられるのだと思います。8章に現われたお方は「大祭司」としてのイエス様でした。10章に現われた御使いは、「来るべき世界の支配者」としてのイエス様です。

ここで問題となるのはイスラエルの民です。千年王国で中心となるのはイスラエル民族です。旧約聖書におけるイスラエルの歴史の中で、イエス様は何度も「御使い」の姿でイスラエルの民にご自身を現わしておられます。

主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして彼女のもとで身を低くしなさい。」また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからである。(創世記16・7~13)

神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。(創世記2・17~19)

それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。」(創世記22・15~17)

そして神の使いが夢の中で私に言われた。「ヤコブよ。」私は「はい。」と答えた。すると御使いは言われた。「目を上げて見よ。群れにかかっている雄やぎはみな、しま毛のもの、ぶち毛のもの、まだら毛のものである。ラバンがあなたにしてきたことはみな、わたしが見た。わたしはベテルの神。あなたはそこで、石の柱に油をそそぎ、わたしに誓願を立てたのだ。さあ、立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい。」(創世記31・11~13)

すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。・・・・神は仰せられた。・・・・また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神である。」(出エジプト3・2、6)

さて、主の使いがギルガルからボキムに上って来て言った。「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れて来て言った。『わたしはあなたがたとの契約を決して破らない。』」(士師2・1)

主の使いが彼に現われて言った。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」ギデオンはその御使いに言った。「ああ、主よ。もし主が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。私たちの先祖たちが、『主は私たちをエジプトから上らせたではないか。』と言って、私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか。今、主は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました。」すると、主は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」ギデオンは言った。「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」主はギデオンに仰せられた。「わたしはあなたといっしょにいる。だからあなたはひとりを打ち殺すようにミデヤン人を打ち殺そう。」(士師6・12~16)

主が「御使い」としてご自身を現わされるときには、いつも他の御使いたちとははっきりと異なる姿をとられます。そのときには、その名は「神の使い」、「主の使い」、「ご自身の使い」、「わたしの使者」、「契約の使者」と呼ばれます。

ついでイスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移って、彼らのあとを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移って、彼らのうしろに立ち、・・・・(出エジプト14・29)

しかし、彼が出かけると、神の怒りが燃え上がり、主の使いが彼に敵対して道に立ちふさがった。バラムはろばに乗っており、ふたりの若者がそばにいた。(民数記22・22)

彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、抱いて来られた。(イザヤ63・9)

「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ねもとめている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ来ている。」と万軍の主は仰せられる。(マラキ3・1)

これらは主がご自身を人間に現わそうとなさるときの姿です。

この「御使い」はヤコブに向かっては「わたしはベテルの神」と言い、モーセに対しては「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神である」と言っています。またハガルに向かって、「あなたの子孫はわたしが大いに増やす」と言われました。これらの言葉は、ただ主ご自身だけが語ることのできる言葉です。

ハガルはこの御使いに対して、「あなたはエル・ロイ(ご覧になる神)」と呼んでいます。ヤコブは「すべてのわざわいから私を贖われた御使い」(創世記48・16)と呼びかけました。この御使いの現われた場所で、彼らは礼拝をささげています。しかしふつうの御使いに対しては礼拝することは禁じられているのです。

これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。すると、彼は私に言った。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」(黙示22・8、9)

「主の御使い」はイスラエルの民を守るものであり、この御使いの声にイスラエルの民は従わなければならなかったのです。

見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。あなたは、その者に心を留め、御声に聞き従いなさい。決して、その者にそむいてはならない。わたしの名がその者のうちにあるので、その者はあなたがたのそむきの罪を赦さないからである。(出エジプト23・20、21)

士師記の中で主の使いは「わたしの名は不思議という。」(士師13・18)と言っています。そしてイザヤ書の中ではメシヤも「その名は不思議な助言者」(イザヤ9・8)と記されています。

黙示録10章に出てくる御使いは、永遠のみことばである「主イエス様ご自身」です。みことばを通してイエス様はご自身を現わしておられるのです。

初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわちいのちのことばについて・・・・(第一ヨハネ1・1)

マラキ書3章1節では、イスラエルが尋ね求めているメシヤは「契約の使者」であると言っています。この御使いをイスラエルは待ち望んでいるのです。今私たちが学んでいるこの10章において、約束された解放が近いことが述べられています。

以上のことから見て、ここに出てくる「御使い」が、「まことの神であるイエス・キリスト」であることは明らかです。

2.御使いの栄光


この「御使い」の栄光がどうやって現わされるか、ここには四つのことが記されています。

[1]雲の衣――主のご臨在


第一にこの御使いは「雲に包まれて」いました。「雲」は旧約聖書では「主のご臨在」を象徴するものでした。イスラエルの民は荒野を四十年にわたって雲の柱、火の柱によって導かれました。ここでも「雲」は主のご臨在を現わしている言葉です。イエス様は雲に包まれて天に上って行かれました。そして再び雲に乗って来られるのです。

見よ、彼が雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。(黙示1・7)

イエス様の再臨のときに、すべてのまことの主を信ずる人々は、雲の中で主に出会うのです。

次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に引き上げられ、空中で主と会うのです。(第一テサロニケ4・17)

黙示録の中でもイエス様はしばしば雲に包まれて現われておられます。

また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。(黙示14・14)

雲は天の栄光を現わすものです。

[2]頭上の虹――主の憐れみ


第二に、「虹」が「御使い」の頭上にありました。「虹」は造られたすべてのものに対する「神のあわれみ」を示しています。イエス様は確かにこの地をさばくために来られます。しかしイエス様はこの地を滅ぼさないという約束をお忘れになったのではなく、この地を聖めようとしてさばかれるのです。これが「虹」のもつ意味です。

千年王国の前にこの地が聖められなければなりません。しかし神のさばきは神の怒りを現わすものではなく、神の誠実さを現わすものです。

[3]太陽のような顔――主の勝利


第三にその顔は「太陽」のように輝いていました。ヨハネは前にもこのように輝く顔を見たことがあります。(黙示1・6)太陽のように輝く顔は勝利者の顔です。

このような輝きをパウロもまた見たのです。

ところが、道を進んでいって、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。(使徒9・3)

このときパウロを照らした光は太陽のように輝いていたのです。

太陽は「キリスト」の象徴でもあります。イスラエルの民は来るべきメシヤを太陽として待ち望んでいるのです。

しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼にはいやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはねまわる。(マラキ4・2)

[4]火の柱のような足――主のさばき


第四に、「御使いの足」は「火の柱」のようです。これはさばきを現わし、この御使いがさばくために来られることを示しています。イエス様にとって価値のないものは滅ぼされるのです。前に黙示録1章15節で見た御使いの足はそれとは違って、「炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのよう」だったことを思い出してください。

3.御使いの権威


次にこの御使いの「権威」について考えてみましょう。私たちはどのようにしてその権威を知ることができるのでしょうか。それについて次の三つのことを見ていきましょう。

[1]立っている場所


第一に御使いの立っている場所について見ましょう。この御使いは「右足は海の上に、左足は地の上に」(2節)置いています。ここでイエス様はすべての地をご自身のものとされたのです。すべての地はイエス様が創造されたものです。そしてご自身の血の代価を支払って、この地を買い戻されたのです。イエス様こそが全地を所有しておられるお方です。

地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。(詩篇24・1)

モーセは彼に言った。「私が町を出たら、すぐに主に向かって手を伸べ広げましょう。そうすれば雷はやみ、雹はもう降らなくなりましょう。この地が主のものであることをあなたが知るためです。(出エジプト9・29)

今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。(出エジプト19・5)

海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も主の御手が造られた。(詩篇95・5)

時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。(エペソ1・10)

イエス様が地と海とに両足を置いておられることは、イエス様が「無限の支配権」をこの世に対して持っておられることを表わしています。ここまでのさばきは、国ごとに個々にくだされていたのですが、これから先は全地にわたって行なわれるのです。

[2]その声


2節にはこの御使いが「ししがほえるときのように大声で叫んだ」と記されています。

イエス様が地上におられたとき、人々はその声を聞くことができました。その御声を聞いてラザロは墓から出てきたのです。またイエス様の御声によって嵐は静められました。十字架の上でイエス様は「完了した」と言われて息をひきとられたのです。

10章では、イエス様は悪魔もおののくほどに力強い声で叫ばれます。雷のような大声については、聖書に他にも例が見られます。

主は、天から雷鳴を響かせ、いと高き方は御声を発せられた。(第二サムエル22・14)

あなたは彼らにこのすべてのことばを預言して、言え。「主は高い所から叫び、その聖なる御住まいから声をあげられる。その牧場に向かって大声で叫び、酒ぶねを踏む者のように、地の全住民に向かって叫び声をあげられる。」(エレミヤ25・30)

水は、あなたに叱られて逃げ、あなたの雷の声で急ぎ去りました。(詩篇104・7)

「ししの声」と「雷の声」はともに、近づいているさばき主を象徴している言葉です。「七つの雷」は、さばきが完全に行なわれることを告げ知らせるものです。

黙示録2、3章で私たちは、神の「七つの御霊」とともに主の恵みと平安が与えられているのを見てきましたが、ここでは主の「七つの雷」とともに、悔い改めないすべての人々に対して主のさばきが与えられます。主の声はイエス様の支配を認めるものです。そして主の声は、イエス様の御国の建設に至る前の、イエス様のさばきを知らせているのです。

神の声に耳を傾けず悔い改めをしない人々に対して、神のさばきがくだされます。さばきを通して神は語りかけておられるのです。

動物の世界では、すべての生き物は王と言われる強いししの前に息をこらします。ししの声の前にはすべての動物が恐怖のため沈黙します。ちょうどそのように、イエス様のさばきの前には、全世界が静まります。主の呼びかけを拒んだために、人々は主のさばきにあうのです。

ヨハネはこの恐ろしい「主のさばきのことば」を書き留めようとしましたが、御使いはそれを禁じました。この世は、「主のさばきがいつ起こるか」を知るべきではないのです。さばき主は「盗人」のように突然この世に来られる、とあります。その昔ダニエルも、同じように主によって示されたことばを封じなければなりませんでした。ダニエルは書き記したことばを公けにすることができなかったのです。

「先に告げられた夕と朝の幻、それは真実である。しかし、あなたはこの幻を秘めておけ。これはまだ、多くの日の後のことだから。」(ダニエル8・26)

「ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。」(ダニエル12・4)

しかしその封印の期間は、一定の時に定められていました。

ヨハネも、またパウロも、その示されたことばを書くことも語ることも許されませんでした。

パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。(第二コリント12・4)

ですから私たちは、決して主からすべてを知らされているのではなく、部分的な啓示を与えられているに過ぎないのです。主は私たちに救いと、悪魔の攻撃に対する必要な力を与えてくださいますが、その他のすべてのことは私たちが後になって経験するようになるのです。

[3]誓い


この御使いは一体何のために誓いを立てたのでしょうか。

信仰をもっている人でさえ、ときには、果たして主はその約束を本当に成就されるのだろうかという疑いにとらわれることがあるでしょう。誓いをする人はその誓いを守らなければなりません。ここでまことの神であるイエス様は黙示録10章5、6節にあるように、「永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方をさして」誓われたのです。

多くの人々は、「神は死んでしまった」と言っています。しかしまことの神は生きておられます。神は変わることのないお方です。この世のすべてのものが過ぎ去っても神は動かされることがありません。たとえこの世界のすべての人が神の言葉を無視しても、神はご自身のことばを守られます。この神をさして、御使いは誓われたのです。それはまことの神が将来、すべてのことにおいて新たにことを起こされるからです。

この誓いの内容は「もはや時が延ばされることはない」というものです。ギリシャ語では「時」と「ためらい」は互いに関係をもっている言葉ですから、「時」というのは「神によって延ばされた時期」をも意味します。しかし、ここでは、「もはや何のためらいも、少しの延期もゆるされない」と語られているのです。神の「時」は必ず成就します。

そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。(創世記6・13)

「それゆえ、彼らに言え。『神である主はこう仰せられる。わたしが言ったことはすべてもう延びることはなく、必ず成就する。』――神である主の御告げ。――」(エゼキエル12・28)

人類が堕落して以来、地上の歴史は、結局「世界審判の延期」に過ぎないと言えましょう。そしてこれは「主の赦しの愛の現われ」以外の何ものでもありません。主の目的は、堕落してしまった人類を悔い改めへと導くことです。

あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。(ローマ2・3、4)

しかし、「あわれみと恵みのとき」が終わる瞬間がやがては来ます。ですから私たちは遅すぎることのないように、「今日、この日」を用いなければなりません。

私たちは黙示録の中で、さばきが時を追って激しくなってくるのを見てきました。「封印のさばき」においては人類の四分の一がさばかれ(黙示6・8)、「ラッパのさばき」においては三分の一がさばかれ(黙示9・18)ることを見てきました。しかし破局が近づいているだけではなく、それと同時に人々の「頑なな心」と「悔い改めたくないという思い」もますます強固なものになってきているのです。「封印のさばき」の時、人々は耐え難さのあまり山や岩に向かって、「御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。」(黙示6・16)という叫び声をあげました。「封印のさばき」においては、「殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、・・・・偶像を拝み続け、その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。」(黙示9・20、21)と記されています。こういうことの後で、この御使いの「誓い」がなされているのです。「最後のラッパのさばき」によって「恵みのとき」は過ぎ去ってしまいます。それまでは主は忍耐して待っておられますが、しかし、それ以上もはや主は待たれることはありません。

主の招きが終わった後で、主の最後のさばきが行なわれます。このさばきについては16章の「鉢のさばき」において部分的に見ることができます。その時人々は「神にけがしごとを言った」(黙示16・21)のです。

7節に「神の奥義」のことが語られています。「奥義」というのは聖書では、「今までは隠されていたけれど後に神によって明らかにされる真理」のことです。私たちはここで、第七の御使いがラッパを吹き鳴らすときに「神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する」(黙示10・7)ことを知ります。そしてイエス様のご支配がはじまるのです。

第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」(黙示11・15)

旧約聖書において主は、「キリストが先ず苦しみを受け、その後ですべてを支配される」ことを預言者たちに示されました。

この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、誰を、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。(第一ペテロ1・11)

しかし、イエス様が支配をなさるその時が「いつ」であるかは、預言者にも隠されていました。それは「この世の悪が最もひどくなるとき」です。悪もまた「満ちる」ようにならなければならないのです。

主人は言った。「いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。」(マタイ13・29、30)

神は悪を満ちあふれるままにしておくために、悪魔に自由を与えておられます。多くの人にとって、このことは理解できないかもしれません。詩篇73篇の作者もこのことが理解できませんでした。しかしこの時代もやがては終わり、「神の支配の時」が始まるのです。悪魔は縛られ自由を失います。この預言者の預言は成就するのです。

7節の「告げられたとおりに成就する」の中にある、「告げられた」という言葉は、原語を直訳すると「福音が宣べられた」であると聖書の注にあります。この「福音」とはさばきのことではありません。さばきのあとで実現する「キリストのご支配」のことです。十字架につかれた後、ご自身のからだをもって復活なさったイエス・キリストが、全世界を支配し、まことの神を知る知識が全地に満ちるその時のことを意味しているのです。

主のご支配のもとで地は栄えます。地を平和と喜びとが支配するのです。

この「強い御使い」は、一方でさばきの御使いとして、さばきがよりいっそう厳しくなることを伝えていますが、もう一方では「福音を伝える御使い」でもあります。まもなくイエス様が支配されるようになる、主のご計画が成就することを告げておられるのです。主の民に、「あなたがたの救いが近づいているから喜びなさい」と呼びかける声が聞こえてくるではありませんか。

私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。(ローマ1・16)

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(第一コリント1・18)

「十字架」こそが「福音」であり、イエス様が「救いのみわざを成就してくださった」という「喜びのおとずれ」であり、「滅びゆく罪びとを贖うために払ってくださった犠牲の死」です。パウロは「福音は・・・・救いを得させる神の力である」とはっきり言っています。「福音」であるイエス様こそ、私たちを救うことがおできになり、また解放することができる唯一のお方です。

現在この世には、ただ「破壊するための力」だけがあふれているように見えますが、イエス・キリストそのものである福音は「築き上げる力」です。福音の救う力はすべての人のために提供されています。ひとりひとりが感謝して福音であるイエス様を受け入れさえすればよいのです。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネ5・24)

信じる者は、それを切に望む者は、福音を体験するのです。

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