2023年1月20日金曜日

すぐに起こるはずのこと【第3部】15.近づいている神のご計画の成就2―人間の使い、ヨハネの権威と備え

15.近づいている神のご計画の成就2―人間の使い、ヨハネの権威と備え

黙示録10章8節から11節まで

1.主が私たちに語られるーみことばの七つの働き
2.主に聞き従う
[1]正しく聞く
・主が語るまで黙っていること
・みことばを食べること
・服従すること
[2]正しく聞いた結果
・大きな喜び
・深い苦しみ

(8)それから、前に私が天から聞いた声が、また私に話しかけて言った。「さあ行って、海と地との上に立っている御使いの手にある、開かれた巻き物を受け取りなさい。」(9)それで、私は御使いのところに行って、「その小さな巻き物を下さい。」と言った。すると、彼は言った。「それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」(10)そこで、私は御使いの手からその小さな巻き物を取って食べた。すると、それは口には蜜のように甘かった。それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。(11)そのとき、彼らは私に言った。「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」(黙示録10・8~11)

これから学ぶ個所のテーマは、「人間の使い、ヨハネの権威とその備え」です。

10章4節で見たように、ヨハネは雷が語ったことを書き留めようとしたときに、「書き記すな」という天からの声を聞きました。それと同じ声が今度は「新しい使命」、つまり「もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」(11節)という使命をヨハネに与えたのです。「預言する」ということは、主の御名と主の権威とによって人々に主のみことばを伝えることです。主に遣わされる使者たちは、主のみことばを自分で選んで伝えるということはできません。ヨハネが預言するに先立って、主から与えられたみことばを食べたように、自分自身が主のみことばと一つにならなければならないのです。

ところで、私たち信仰を与えられた者の使命は何でしょうか。一方においては「人」に仕えることであり、もう一方においては「主」に仕えることです。

私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった(黙示1・6)

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(第一ペテロ2・9)

「人に仕える」という意味は、おもに人のためにとりなしをするということであり、それは隠れた所でなされる主への奉仕です。これに対して「主に仕える」ことは、主のみことばを公に人々に伝えることです。私たちはこのようなご奉仕への備えができているでしょうか。

ヨハネには、いかにして「主の使い」として預言する者の権威が与えられたのでしょうか。

これには二つの前提があります。第一に「主が私たちに語りかけられること」、第に「私たちが主に聞き従うこと」です。これからそのことについて考えてみましょう。

1.主が私たちに語りかけられるーみことばの七つの働き


主はヨハネに向かって個人的に語りかけておられます。主が人間に直接語りかけられるというのは、驚くべき奇蹟です。主が人間を信頼しておられるということは、私たちの理解を超えたことです。そして主が現在についても将来についても、ご自身の目的を人間に示されるのは聖書に見られる事実です。

主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」(創世記18・17)

まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。(アモス3・7)

「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」(ヨハネ15・15)

ヨハネが与えられた巻物は、封じられたものではなく、開かれていました。ヨハネはこの開かれた巻物によって、主がこれから何をなさろうとしているのかを知ることができました。

主は現代に生きている私たちに対しても語りかけようとしておられます。私たちも神に語っていただけるよう期待しようではありませんか。

エゼキエルは神のみことばを拒むことなく受け入れました。

「人の子よ。わたしがあなたに語ることを聞け。反逆の家のようにあなたは逆らってはならない。あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。」そこで私が見ると、なんと、私のほうに手が伸ばされていて、その中に一つの巻き物があった。それが私の前で広げられると、その表にも裏にも字が書いてあって、哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった。その方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。」そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、そして仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。その方はまた、私に仰せられた。「人の子よ。さあ、イスラエルの家に行き、わたしのことばのとおりに彼らに語れ。」(エゼキエル2・8~3・4)

ヨハネも主のみことばを自分のものとするために、巻物を食べなければなりませんでした。ここにおいて食べるというのは、もちろん紙を食べるのではなく、霊的な何ものかを食べるということです。主のみことばは、ただ単に聞いたり読んだり頭で理解するだけでは十分ではありません。そのままを受け入れ、かみくだき呑み込む、つまり食べなければなりません。そうして初めて、神のみことばは私たちのものとなるのです。

聖書を通して今も主は私たちに語りかけておられます。その目的は何でしょうか。主のみことばは私たちに何をすることができるのでしょうか。ここで短く七つのことについて考えてみたいと思います。

第一に、主のみことばは堅い心を打ち砕くことができます。五旬節のときには、多くの人々の心が主のみことばによって打ち砕かれました。

人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒2・37、38)

第二に、主のみことばは霊と魂とを互いに切り離すことができます。人は霊で主のことを思い、魂は人間の考えや感情、また意思を働かせます。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、こころのいろいろな考えやはかりごとを判別することができるのです。(ヘブル4・12)

第三に、主のみことばは私たちを新しく生まれ変わらせる力があります。「生まれ変わり」は人間の人生にとって最も重要なことです。この奇蹟は主のみことばによって成し遂げられるのです。

あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。(第一ペテロ1・23)

第四に、主のみことばは生きた信仰を生み出します。生きた信仰がなければ、希望も喜びもありません。主のみことばはただ聞くだけではなく、聞いて受け入れなければなりません。そうすることによって人は主の力を体験するのです。

そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマ10・17)

第五に、主のみことばは永遠のいのちの確信を与えます。人間の理解や人間の感情ではなく、神のみことばがその確信の土台なのです。

私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。(第一ヨハネ5・13)

第六に、主のみことばは私たちを聖め、守りを与えます。人間の努力ではなし得ないことを、主のみことばはなしとげるのです。

どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。(詩篇119・9~11)

第七に、主のみことばは間違った教えから人間を守ってくれます。現代の特徴は多くの間違った教えが人々に奉じられていることです。この世の中で、私たちは何が真実であり何が偽りであるかをどうやって見分けることができるのでしょうか。ただ主のみことばによってだけそれを知ることができるのです。

私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。(使徒20・29~32)

主はヨハネに向かってお語りになりました。私たちもまた主の語りかけを待っているでしょうか。もし、私たちが「主よ、お語りください。しもべは聞いております。」という態度をとっていないとしたら、それはわざわいです。主のみ声を聞きたいという思いを持っていなければ、私たちが誤まった道に行くことはたやすいことです。主のみことばを聞かずになされる私たちの奉仕や努力もまったくむなしいものです。祝福されたご奉仕は、主が私たちに語りかけることがおできになる状態にあってはじめてなされるのです。

2.主に聞き従う


ヨハネが「神の使い」として権威を与えられるために先立ってしたことがもう一つあります。それは主のみことばを受け入れる態度です。主のみことばは、ただ聞いて理解するだけではなく、食べて、自分自身の一部としなければなりません。ここで二つの問題についてさらに詳しく考えて見ましょう。一つは「正しい聞き方」とはどういうものか、もう一つは「正しい聞き方の結果」は何かです。

[1]正しく聞く


・主が語られるまで黙っていること


正しい聞き方とは、主が語られるまで自分自身は黙っていることです。私たちが何を考え、何を望んでいるかということが大切なのではありません。主が何を考え、何を望んでおられるかを私たちが体験して知ることが大切です。主は私たちが自分たちの願いやわがままを言うことをお許しになられるのではなく、主が何を欲しておられるかを私たちが聞こうとするのを望んでおられるのです。そうして初めて、私たちはほんとうの喜びと平安と自由とを体験することができるのです。

ヨハネは始めに「開かれた巻物をとれ」という命令を受けました。私たちはなんとしばしば「聖書をとって、わたしのことばを食べよ」という主の呼びかけを聞いたことでしょうか。しかし何度それを無視し、他の新聞や書物をとって読むことの方を好んだでしょうか。

・みことばを食べること


正しく聞くということは、主の前に黙って主が語ってくださるのを待つことと、主が語ってくださったみことばを受け入れる、「食べる」ということです。

主がすべてのことについて語ってくださることができるように、私たちも備えをしようではありませんか。聖書のみことばの中で、自分の好きなところだけを探して読むのはまちがっています。イエス様は私たちの生活をよりよくするために忠告を与えようとなさっているのではなく、私たちの生活全体をご自身の御手の内で用いたいと望んでおられるのです。

私たちが主のみことばを受け入れるときにのみ、主のみことばは私たちのものとなります。食物は「食べられる」ことによって私たちのものとなり、身体の成長を助けます。同じように主のみことばは、私たちが「食べる」ときにはじめて実をもたらすのです。

ダビデは昼も夜も主のみことばを思っていました。

どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。あなたの仰せは、私を私の敵よりも賢くします。それはとこしえに、私のものだからです。私は私のすべての師よりも悟りがあります。それはあなたのさとしが私の思いだからです。(詩篇119・97~99)

ヨシュアは神のことばを心に留めたとき、成功しました。

この律法の書を、あなたの口から話さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちに記されているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。(ヨシュア1・8)

まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。(詩篇1・2、3)

私たちも神の使いとなるためには、先ず始めに主のみことばを食べなければなりません。もし私たちが主のみことばと一つになるなら、主の力を体験するのです。

・服従すること


正しい聞き方とは、主が語られるまで自分自身は黙っていることと、主のみことばを聞いて受け入れる、「食べる」ということ、そして主のみことばに服従することです。

服従とはヨハネにとっては「預言をすること」でした。自分の聞いたことを、さらに他の人に宣べ伝えることでした。

ヨハネは正しく聞き、御使いのところへ行って巻物を受け取って食べました。正しく聞くとはいつも「服従」を含んでいるものです。正しく聞くということは、経験した主のみことばを証しする、宣べ伝えるということです。私たちが主のみことばに服従するときに、主は奇蹟をなしてくださいます。

[2]正しく聞いた結果


正しく主のみことばを聞いた結果、もたらされるものは何でしょうか。それは大きな喜びです。

・大きな喜び


食物の中の食物として、神のことばはどんな食物よりも人の心を満足させるものです。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。(詩篇19・8)

あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。(詩篇119・103)

私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。(エレミヤ15・16)

主のみことばを通して、私たちはキリストの苦しみと死を知るのです。またキリストの流された血潮と、値なしに与えられている救いを知ることができるのです。「正しく聞く」というのは自分が黙して主に語っていただくことです。自分の意見や考えはむなしくして、神に従うということです。そうするときに絶えることのない喜びと平安が保たれます。喜びの土台は罪の赦しを与えられているということと、主との間に平和をもっているということ、そして義とされているということにあります。この確信を私たちは主の偽りのないみことばを通して与えられます。

私たちはどれほどの豊かさを主のみことばを通して与えられているでしょうか。もし喜びに満たされていないとしたら、その人は主のみことばによって生きていないのです。なんと多くの人々が、みことばの飢饉の下で生きていることでしょうか。主のみことばを正しく聞くことをしない人は、飢え渇きに悩むのです。

私たちが宣べ伝えるべき福音は「喜びの福音」です。私たちの意見ではなく、主のみことばを宣べ伝えなければなりません。「預言する」ということは主の権威によって主のみことばを宣べ伝えることです。

主のみことばは、ことを起こすものです。私たちが罪の赦しのみことばを宣べ伝えるときに、罪の赦しが起こるのです。罪が赦されるであろうことを私たちが自分勝手に望んでいるというのでは決してなく、主のみことばによって実際に罪の赦しが起こるのです。人間的にみると、「神の使い」、つまりみことばを宣べ伝える「神のしもべ」たちは無力で、その人自身は何も誇れるものは持っていないように見えます。しかし主のみことばが彼らの宝なのです。このような「神の使い」については聖書の中に数多く記述されています。

たとえばヨセフはエジプトで囚われの身となり、何の希望もありませんでした。しかし彼は主のみことばを通して力を得ました。

またモーセは平凡な羊飼いでしたが、主のみことばと権威によってイスラエルの民を囚われの身から解放しました。

そしてダニエルはバビロンに囚われていましたが、主のみことばによって力を得ることができたのです。

・深い苦しみ


神のことばに従った結果は単に喜びを得られるだけでなく、「深い苦しみ」を与えられることにもなります。次にこのことを考えてみたいと思います。

主のみことばは聞く者には「喜びと恵みの言葉」ですが、他方では「悔い改め」と「さばき」を求める言葉にもなります。この意味で、主のみことばは「苦しみの言葉」でもあります。私たちが宣べ伝えるみことばを私たち自身が受け入れなければなりませんが、その受け入れたみことばは私たちをさばくことにもなるのです。主のみことばは霊と魂とを切り離します。自分の感情や考え、意志などは投げ捨てられなければなりません。自己が否定されなければならないのです。

私たちが主のみことばを伝えるときには、この主のみことばが私たちを自己否定の苦しみへと導くのです。

エレミヤやパウロも誤解を受け苦しめられたことがありました。みことばを伝える者はこの世では「アウトサイダー」であり、「平和を乱す者」で、「異分子」とみなされます。悔い改めのない世界にみことばが宣べ伝えられるということは、つねに苦しみを意味します。

私たちは大勢の人々が救われることを望んでいます。しかし多くの人々からそれを拒まれます。これは私たちにとって苦しみとなります。

イエス様ご自身もみことばのこのような二つの面を経験されました。イエス様は大いに喜ばれたと聖書は一方で述べています。しかし一方では、イエス様はさばきのことを思ってエルサレムのために「泣かれた」、と書かれています。

エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。」(ルカ19・41・42)

エルサレムは悔い改めることがありませんでした。イエス様が泣かれたのは、人々がイエス様に逆らったからではなく、彼らがさばきにむかっていることをご覧になられたからです。

この苦しみが「とりなし」と「証し」との源となります。福音が、つまりイエス様が拒まれるときには、イエス様のみことばはさばきのみことばになります。イエス様なしにはどんな希望もなく、ただ「滅びる」だけです。私たちがこの事実をほんとうに知ったときには、ネヘミヤやエズラ、ダニエルのように、滅びに向かっている人々のために自ら悔い改め、とりなしをしないではいられなくなるでしょう。これらの「神の使い」たちは、自分自身が罪を犯したかのように、その同国人のために悔い改めました。

ヨハネには二つの使命がありました。最後にそれについて考えてみましょう。一つは悔い改めを求めるヨハネの預言です。ヨハネは主に語りかけられ、その結果として黙示録2、3章における七つの教会に対する手紙が生まれました。

そして第二の呼びかけを、黙示録10章11節に見ることができます。ヨハネはここで「もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない」と命じられました。これは黙示録2、3章が教会に向かって語られていたのと大きく異なっています。

ヨハネは一方において、ユダヤの「残された者たち」に対して慰めを与えています。その時ユダヤ人たちは苦難の中におかれており、忍耐を働かせなければならなかったからです。

耳のあるものは聞きなさい。とりこになるべきものは、とりこにされて行く。剣で殺すものは、自分も剣で殺されなければならない。ここに聖徒の忍耐と信仰がある。(黙示13・9、10)

神の戒めを守り、イエスに対する信仰をもちつづける聖徒たちの忍耐はここにある。(黙示14・12)

見よ。私は盗人のように来る。目をさまして、身に着物を着け、裸で歩く恥を見られないようにする者は幸いである。(黙示16・15)

ここでヨハネは最も大きな苦難とサタンの攻撃を目前にして、福音を宣べ伝えることになるのです。この福音は真に「慰めの福音」です。ヨハネは霊の目をもって、回復されたエルサレムの神殿を見、イエス様の支配する千年王国を見て預言しました。

しかし悔い改めを拒むすべての人々に向かっては、ヨハネはさばきを宣べ伝えたのです。

真理が述べ伝えられるときには、拒絶と敵意が生ずるものです。悔い改めとさばきが宣べ伝えられるところには、迫害が起こるものです。しかしヨハネは人々が彼に逆らい、刃向かってこようとも、預言を続けなければなりませんでした。

私たちはみことばによって自分自身を養っているでしょうか。みことばを食べて、みことばと一つにされているでしょうか。みことばがこの世のすべての甘いものよりも、私たちにとって甘いものになっているでしょうか。

どんな苦難の中にあっても私たちがみことばから離れられなくなっており、すべての苦しみを喜んで受け入れるようになるなら、私たちは主に祝福され、主に用いられるようになります。みことばを伝えるためにヨハネは自分の自由も放棄しました。ヨハネはみことばのために追放されました。

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。(黙示1・9)

しかしそれにもかかわらず、そこで新しい使命が与えられたのです。彼はもう一度預言するように命じられたのです。

主はこんにちもなお、お遣わしになることができるご自身の「使い」を探しておられます。

主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。(第二歴代誌16・9)

私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ6・8)

私たちもまたイザヤのように「ここに、私がおります。私を遣わしてください」と言うことができるなら幸いです。

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