2023年1月25日水曜日

すぐに起こるはずのこと【第3部】16.真のイスラエルと、偽りのイスラエルの測り分け

16.真のイスラエルと、偽りのイスラエルの測り分け

黙示録11章1節から2節まで

1.神の礼拝の回復
[1]神の聖所
[2]祭壇
[3]礼拝している人々
2.異邦人の時の終り
[1]異邦人の時の始まりについて
[2]異邦人の時の経過について
[3]異邦人の時の終り、携挙から再臨まで
3.イスラエルの不忠実に対するさばき
[1]第一の期間―七週
[2]第二の期間―六十二週
[3]第三の期間―一週

黙示録11章全体のテーマは「終りの時代におけるイエス・キリストの証し人たち」です。それはまた「証しと苦難」、「いつわりとあざむきの時代における証しの務め」、「イエス様の証し人に対する忠実さ」と言うこともできます。この章を順に学んでいくわけですが、今回はまず初めの11章の1節と2節について見てみましょう。

(1)それから、私に杖のような測りざおが与えられた。すると、こう言う者があった。「立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。(2)聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。」(黙示11・1、2)

11章の1節と2節では、「真のイスラエル」と「いつわりのイスラエル」の測り分けについて記されています。またその中の1節から2節の前半では「神の礼拝の回復」が、2節の後半からは「異邦人の時の終り」が告げられています。

1.神の礼拝の回復


1節でヨハネは、三つのものを測ることを命じられました。「神の聖所」と「祭壇」、そして「そこで礼拝している人」です。聖所と祭壇は、常にイスラエルと深い関係をもっています。黙示録のこの箇所で、主はイスラエルをふたたび新しく整えようとしておられることがわかります。

私たちは、10章で預言されていたことが、ここにも記されているのを見ます。旧約時代の預言者たちは、「異邦の国々が長い間イスラエルを支配するが、結局は救い主メシアがすべての地上を支配することになる」と預言し続けてきました。

しかしそうなる前に、多くのユダヤ人がイスラエルに帰ってこなければなりません。現在多くのユダヤ人がイスラエルにいますが、彼らはまだまことの信仰を持っていません。彼らはまだ、十字架につけられたイエス様を受け入れていないのです。そして、まことの信仰を持っていないにもかかわらず、彼らはエルサレムの神殿を回復するのです。ヨハネが見ているのは、そのような時代のことです。また、旧約聖書にあるヨナ書は、このイスラエルの歴史を暗示すると見られます。他にも、旧約聖書の中から、これらに関係があると思われる箇所を見てみましょう。

ケルビムが翼を広げると、輪もそれといっしょに動き出し、イスラエルの神の栄光がその上のほうにあった。主の栄光はその町の真中から上って、町の東にある山の上にとどまった。(エゼキエル11・22、23)

この国は全部、廃墟となって荒れ果て、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。(エレミヤ25・11)

「もし、これらのことの後でも、あなたがたがわたしに聞かないなら、わたしはさらに、あなたがたの罪に対して七倍も重く懲らしめる。」(レビ26・18)

ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は国中の争いの相手、けんかの相手となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、みな、私をのろっている。(エレミヤ15・10)

まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。」(エレミヤ29・10)

「あなたは、安息の年を七たび、つまり、七年の七倍を数える。安息の年の七たびは四十九年である。」(レビ25・8)

わたしはあなたがたを国々の間に散らし、剣を抜いてあなたがたのあとを追おう。あなたがたの地は荒れ果て、あなたがたの町々は廃墟となる。その地が荒れ果て、あなたがたが敵の国にいる間、そのとき、その地は休み、その安息の年を取り返す。(レビ26・33、34)

彼らは神の宮を焼き、エルサレムの城壁を取りこわした。その高殿を全部火で燃やし、その中の宝としていた器具を一つ残らず破壊した。彼は、剣をのがれた残りの者たちをバビロンへ捕え移した。こうして、彼らは、ペルシヤ王国が支配権を握るまで、彼とその子たちの奴隷となった。これは、エレミヤにより告げられた主のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。この荒れ果てた時代を通じて、この地は七十年が満ちるまで安息を得た。(第二歴代36・19~21)

すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。(ダニエル9・2)

しかし、女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。(黙示12・14)

主から大切な使命を与えられたにもかかわらず、ヨナは主から逃れて異邦人たちの船に乗りました。ですから主は海に大きな嵐を起こされたのです。「海」は、よく異邦人の国々にたとえられる言葉です。そして大きな嵐は、異邦人たちがヨナを海に投げ込むことによって初めて静まりました。

同じことが、今でもイスラエルの民に起こっています。イスラエルの民は「主の使い人」となる使命を与えられて、主によって選ばれた民でした。しかしイスラエルの民は、不従順でした。そしてその刑罰として、異邦人の海の中に、つまり異邦の国々の中へと散らされていったのです。

しかし、イスラエルの民は異邦の国々において大きな迫害を受け、イスラエルへとふたたび帰ることになります。主のご計画は、異邦人たちの迫害を通して成就するのです。第二次世界大戦による迫害を通して、一九四八年、イスラエルの建国が成しとげられたことは、その一つの現われです。

・・・・彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。ぜひこの奥義を知っていていただきたい。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。(ローマ11・20~23、25、26)

[1]神の聖所


イスラエルは再び回復され、もとのオリーブの木に継がれることになるでしょう。

教会はしばしば神の宮と言われますが、1節にある「神の聖所」は、教会を指しているのではありません。この「神の聖所」は、エルサレムに再建される神の神殿を指しているのです。

終わりの時代において、イスラエルは「神の聖所」を持ち、「祭壇」を持ち、「礼拝している人」を持つようになります。神への礼拝が、ふたたび行なわれるようになるのです。

ところが、「神の聖所」であるべきこの神殿において、反キリストが現われて「自分こそはメシヤである」と勝手に主張し、多くの人々が彼を拝むようになるのです。

「彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」(ダニエル9・27)

それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの「荒らす憎むべき者」が、聖なる所に立つのを見たならば・・・(マタイ24・15)

さて、兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神とよばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。(第二テモテ2・1~4)

[2]祭壇


さて、1節に戻って、ヨハネが測ることを命じられた「祭壇」について見てみましょう。この「祭壇」は「中庭」にあると思われます。なぜなら2節に「外の庭が異邦人に与えられている」とあるからです。

中庭にある「祭壇」は、神への捧げ物が置かれる場所です。そこで神は捧げ物を受け取られます。「祭壇」という言葉は、すべての捧げ物、犠牲、さらにそれらを捧げる人々のすべてが神に受け入れられるということを意味しているのです。

「祭壇」はまた、さばきの場でもあります。

・・・・すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。(ヘブル9・22)

かつては罪のない動物が人間の罪をあがなうために「祭壇」に供えられました。ですから「祭壇」は、もちろん十字架をも意味しています。イエス様は十字架において、私たちの罪を背負って死んでくださったのです。

見よ。すべてのいのちはわたし(主)のもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。(エゼキエル18・4)

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6・23)

イエス様は、私たちの身代わりになってくださいました。私たちの救いは、ただイエス様の十字架の上での死によってのみ、与えられるのです。

まことに、彼(イエス様)は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53・4、5)

[3]礼拝している人


神の「聖所」と「祭壇」だけでなく、「礼拝している人」も「測られ」なければなりません。「測る」とは、何を意味しているのでしょうか。「測る」とは、所有物をはっきりさせ、限定することです。神聖なもの、神に属するものが何かを明白にし、他とはっきりと区別することです。それによって、何が神に属し、何が神に属さないものであるかがはっきりするのです。

「測る」、「限定する」、という言葉は、黙示録7章3節にある「神のしもべたちの額に印を押す」ということと同じ意味です。ユダヤの忠実な残りの者たちは、このように「測られる」ことによって、神に属する者であることが明白になり、限定され、そして神の守りが約束されるのです。「測られ」、よしとされたものは神のものであり、神によって守られます。たとえ反キリストの力がいくら強くても、神はその民を守られるのです。

しかし、「測り」に落ちた者は、異邦人に与えられ、神の守りもなく、ただ破滅のままに捨て置かれます。

反キリストがその力を現わす前に、この「測り」は終わります。それはちょうど、「印を押される」ことが、神の所有物と神の保障を明らかにするのとよく似ています。それは、迫害の時代に神がご自身に頼る者たちを守り、導かれたのと同じことです。まことの信仰を持つユダヤ人には、神の驚くべき守りが与えられるのです。

2節にある「聖所の外の庭」は、測られることを禁止され、「そのままに差し置く」、つまり投げ捨てられるのです。

「投げ捨てられる」ことの反対は、「受け入れられる」ということです。つまり「投げ捨てられる」ということは、「彼らがもはや神に属しているのではない」ということです。彼らはもはや神によって守られることはありません。これが「そのままに差し置く」、つまり「投げ捨てられる」ということの意味です。

11章1節において測られ、神と子羊との礼拝者となっていないすべてのユダヤ人たちは、9章20節と21節にある偶像礼拝者、また13章15節にある獣の礼拝者になるのです。

私は、2節の「聖所の外の庭」という言葉の中に、今日見られる形骸化した教会や教派が含まれているのではないかと思われてなりません。すべての外面的なものは滅ぼされます。これらの教会は「神の守り」を受けることができるのでしょうか。

私たちは、この1節と2節で、すでに「神の聖所」に仕えている礼拝者なのかどうか、または「外の庭」にいてイエス様との交わりを与えられていないものであるかを、きびしく問われています。それは私たちにとって、大きな問題です。

もしも今、あなたがイエス様とのまことの交わりをもっていないなら、そのことをイエス様に告白して、生活の支配をイエス様に明け渡し、イエス様に仕え、イエス様の守りを約束された人々になっていただきたいと思います。

私たちがイエス様のものとされて、イエス様がわたしたちを顧みていてくださるということを知ることほど大きな宝はありません。終わりの時代においては、イエス様の所有物であり、霊とまことをもってイエス様を礼拝するものだけが守られるのです。

このようにして、忠実なユダヤ人のみが守られます。そして堕落したユダヤ人は投げ捨てられるのです。この堕落したユダヤ人たちは、その昔イスラエルがローマ帝国に従属したように、再び起こる強大な反キリストの国と関係を持ち、その支配者と契約を結ぶようになります。しかし、この反キリストとの契約は、さばきの原因になります。さばきとは、2節の後半にあるとおり、異邦人たちが「聖なる都エルサレムを四十二ヵ月の間踏みにじる」ことです。

「踏みにじる」とは、支配下にあるものを見下げることであり、その神聖さを汚すことです。聖なるエルサレムは、あたかも汚れたソドムやエジプトのように扱われるのです。なぜそうなるのでしょうか。なぜならエルサレムは、メシヤであるイエス・キリストを拒み、十字架を拒み、悔い改めることをせず、心をかたくなにしたからです。十字架につけられたイエス様を見て、ユダヤ人はイエス様をメシヤではないと言いました。彼らがいつまでも悔い改めることをしなかったために、エルサレムは、この世のソドムとエジプトと異ならないものとなったのです。彼らには、主の守りは与えられず、たださばきがくだされるのです。

しかし、もっとも大切なのは、測られ、捨てられた人々ではなく、測られてよしとされた人々です。つまり、神の所有物とされている人々です。つまり、まことの信仰を持つユダヤ人たちは、主に守られ、新たにされ、主の礎とされるのです。救いは昔も今も、ユダヤ人の中からもたらされるのです。

救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。(ヨハネ4・22)

2.異邦人の時の終り


次に、11章2節の後半にある、「異邦人の時」の終りについて考えてみましょう。

「異邦人の時」は、バビロンの捕囚の時代、ネブカデネサルの時代から始まっています。そしてこれは、紀元前六百六年からキリストの再臨まで続くのです。この期間をとおして、エルサレムは異邦人によって破壊され、異邦人の支配の下に置かれるのです。

人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終るまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。(ルカ21・24)

教会にはイエス様の再臨の時を計算することは許されていません。私たちはただ、イエス様の空中の再臨をひたすら待ち望むだけです。

イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」(使徒1・7)

かつて、イエス様の再臨の日を計算し、持ち物を売り払い、働きもせず、その日のくるのを漫然と待っているような人々がいました。

しかし、イスラエルに対して、イエス様の再臨の時、つまり彼らの大きな苦難がいつまで続くかについては、はっきりと聖書に示されています。「ふたりの証人」が、三年半の間働き、その後で反キリストの支配と独裁が三年半続くとあります。

この「異邦人の時」についてさらにくわしく知るために、まず「異邦人の時の始まり」、次に「異邦人の時の経過」、そして「異邦人の時の終り」の三つについて考えていきましょう。

[1]異邦人の時の始まりについて


「異邦人の時」という言葉は、イエス様によっても用いられています。

「人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」(ルカ21・24)

この時代は、主がイスラエルに与えておられた地上の支配権を、主がイスラエルから奪い取り、異邦人に与えられた「異邦人の支配の時代」です。この時代、イスラエルの民は異邦人の支配の下にあるのです。

イスラエルには、すべての国々の民の祝福となるという使命が与えられていました。そして、ダビデ王のもとにあったイスラエルの民は、神の祝福にあずかることができたのです。ダビデ王には、彼の後に「世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」という約束が与えられたのです。

「今、わたしのしもべダビデにこう言え。万軍の主はこう仰せられる。わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場からとり、わたしの民イスラエルの君主とした。そして、あなたがどこは行っても、あなたとともにおり、あなたの前であなたのすべての敵を断ち滅ぼした。わたしは地上の大いなる者の名に等しい大いなる名をあなたに与える。わたしが、わたしの民イスラエルのために一つの場所を定め、民を住みつかせ、民がその所に住むなら、もはや民は恐れおののくことはない。不正な者たちも、初めのころのように重ねて民を苦しめることはない。それは、わたしが、わたしの民イスラエルの上にさばきつかさを任命したころのことである。わたしはあなたをすべての敵から守って、安息を与える。さらに主はあなたに告げる。『主はあなたのために一つの家を造る。』
あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」(第二サムエル7・8~13)

後を継いだソロモンは、ダビデの国を四十年間平和の内に治め、その名声は地上のいたるところに伝わりました。彼はまた、神のために神殿を建てました。その神殿の中には神の栄光が満ちました。しかしソロモンの後で、イスラエルの王国は二つに別れました。一つはイスラエルの十の部族からなる国であり、もう一つは、イスラエルの二つの部族からなる国でした。十の部族からなる国をイスラエルと言い、二つの部族からなる国をユダといいました。そして、神から離れることは、十の部族からなるイスラエルの方が早かったのです。イスラエルは、すでに紀元前七二一年に、アッシリアによって捕囚の身となりました。そしてユダの国もまた、紀元前六〇六年にはバビロンに捕らえ、移住させられました。

この頃には、神の臨在の雲は、イスラエルの神殿から離れ去ってしまっていました。エジプトからの脱出の時以来、神の臨在の雲の柱は、常にイスラエルの民の上に止まっていたのです。しかし主は、今や臨在の雲の柱を取り去ってしまわれたのです。そして、これが「異邦人の時の始まり」なのです。

ケルビムが翼を広げると、輪もそれといっしょに動きだし、イスラエルの神の栄光がその上のほうにあった。主の栄光はその町の真中から上って、町の東にある山の上にとどまった。また、霊が私を引き上げ、神の霊によって幻のうちに私をカルデヤの捕囚の民のところへ連れて行った。そして、私が見たその幻は、私から去って上っていった。そこで私は、主が私に示されたことをことごとく捕囚の民に告げた。(エゼキエル11・22~25)

[2]異邦人の時の経過について


主はエレミヤをとおして捕囚の期間が七十年であると告げられました。

この国は全部、廃墟となって荒れ果て、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。(エレミヤ25・11)

しかし、モーセをとおして、すでに主は「もしその民が悔い改めなければ、その刑罰は七倍になる」と言われていました。

もし、これらのことの後でも、あなたがたがわたしに聞かないなら、わたしはさらに、あなたがたの罪に対して七倍も重く懲らしめる。(レビ26・18)

その七十年後に、異邦人の王クロスは、主のご計画を実現することになりました。ペルシャの王クロスは、イスラエルの民をバビロンからエルサレムへと連れ帰り、そこで神殿と町を復興させました。そして、エルサレムに神殿が建てられ、礼拝が再び始められるようになりました。しかし、神の臨在の雲の柱は、再びその上に帰ることはありませんでした。なぜなら、真の悔い改めと真の改心とがなかったからです。

このことについて、主はダニエルをとおして、七十週の間イスラエルの民とエルサレムとはさばかれる、と言われたのです。イスラエルの民は、真の悔い改めに目覚めるように、またまことの神に目が開かれるようにと主によって望まれていました。主の神殿にも、雲の柱が再び戻ることが望まれていました。

しかし、バビロンの捕囚の後で、エルサレムも、イスラエルの民も、ほんとうの意味ではまだ解放されていなかったのです。ですから、ヘロデが新しく建てた神殿にも、神のご臨在を現わす雲の柱は帰ってきませんでした。

このことによって、私たちは、主は決して立派な建物や形式的な礼拝が行なわれることを望んでおられるのではなく、イスラエルの民が悔い改め、ご自身のもとへと立ち返ることを望んでおられるのを知ることができます。

イスラエルの民は悔い改めないことによって、神に退けられたのです。それに代わって、異邦人の支配が行なわれるようになりました。ダニエル書では、ダニエルが異邦人の支配についての啓示を受けたことが記されています。それは、四つの世界帝国の啓示であり、四頭の大きな獣として描かれています。

第一は、バビロンの帝国の支配でした。この帝国は、強い獅子に似ていて、その頭は純金であると記されています。

第一のものは獅子のようで、鷲の翼をつけていた。見ていると、その翼は抜き取られ、地から起こされ、人間のように二本の足で立たされて、人間の心が与えられた。(ダニエル7•4)

その像は、頭は純金、・・・・(ダニエル2・32)

第二は、ペルシャ帝国の支配でした。この帝国は熊のようであり、また胸と両腕とは銀でした。

また突然、熊に似たほかの第二の獣が現われた。その獣は横ざまに寝ていて、その口のきばの間には三本の肋骨があった。するとそれに、「起き上がって、多くの肉を食らえ。」との声がかかった。(ダニエル7・5)

胸と、両腕とは銀、・・・・(ダニエル2・32)

第三は、ギリシャ帝国の支配です。この帝国は、豹として示され、腹とももとは青銅でした。

・・・・突然、ひょうのようなほかの獣が現われた。その背には四つの鳥の翼があり、その獣には四つの頭があった。そしてそれに主権が与えられた。(ダニエル7・6)

腹とももとは青銅、・・・・(ダニエル2・32)

第四は、ローマ帝国の支配です。この帝国は、足と十本の角を持つ獣であり、鉄のすねを持った国として示されています。

その後また、私が夜の幻を見ていると、突然、第四の獣が現われた。それは恐ろしく、ものすごく、非常に強くて、大きな鉄のきばを持っており、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。これは前に現われたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた。(ダニエル7・7)

すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。(ダニエル2・33)

すねは、身体の一番長い部分です。それと同じように、ローマ帝国の支配は、もっとも長く続いたのです。また、足は二本ありますが、これはつまりローマ帝国が二つの帝国に分かれたことを示しています。東ローマ帝国と、西ローマ帝国です。また、十本の角と、両足の十本の指は、十の国々、つまりその支配下にある多くの国々を示しています。

[3]異邦人の時の終り、携挙から再臨まで


異邦人の時の終りは、いつでしょうか。この問いに答えるために、ダニエル書9章を見てみましょう。ダニエル書9章で、主は、囚われたダニエルに対して、キリストの千年王国に至るまでのイスラエルの歴史を示しておられます。そして、ダニエル書の2章、7章、8章に書かれているのは「異邦人の歴史」であり、9章に書かれているのは「イスラエルの歴史」であるということを区別して読まなければなりません。

私がまだ語り、祈り、自分の罪と自分の民イスラエルの罪を告白し、私の神の聖なる山のために、私の神、主の前に伏して願いをささげていたとき、すなわち、私がまだ祈って語っているとき、私が初めに幻の中で見たあの人、ガブリエルが、夕方のささげ者をささげるころ、すばやく飛んで来て、私に近づき、私に告げて言った。
「ダニエルよ。私は今、あなたに悟りを授けるために出て来た。あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが述べられたので、私はそれを伝えに来た。あなたは、神に愛されている人だからだ。そのみことばを聞き分け、幻を悟れ。
あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。
その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。(ダニエル9・20~27)

ダニエルは、なぜこのような啓示を与えられたのでしょうか。この預言は、ダニエルの熱心な悔い改めの祈りに対する主のお答えでした。ダニエルは、エレミヤが七十年の預言を示されたように、イスラエルの回復の時についての預言を示されたのです。

「わたし(主)は彼らの楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、ひき臼の音と、ともしびの光を消し去る。この国は全部、廃墟となって荒れ果て、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民、――主の御告げ――またカルデヤ人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。わたしは、この国について語ったすべてのことば、すなわち、エレミヤが万国について預言し、この書にしるされている事をみな、この地にもたらす。(エレミヤ2・10~12)

まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。」(エレミヤ29・10)

ダニエル書第9章では、しばしば、「あなたの民」、「聖なる都」という言葉が出てきますが、それらがイスラエルの歴史を指していることは明らかです。「聖なる都」という言葉は、地上の都の中ではただエルサレムだけを指して使われています。

9章では、エルサレムという都を再建せよという命令から(26節)、キリストの千年王国に至るまでの歴史(24節)が語られています。

あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言を確証し、至聖所に油をそそぐためである。それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油注がれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。(ダニエル9・24~25)

そして、六十二週の後のことは、次の26節、27節にこうあります。

その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来るべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。・・・・荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。(ダニエル9・26・27)

これを読むと、「エルサレムを再建せよ」との命令が出てから、千年王国までは、七十週の期間であり、その期間はさらに三つに分けられることがわかります。つまり、最初の期間は七週間であり、第二の期間は六十二週間、そして、第三の期間は一週間です。

ここに書かれている「週」という言葉は、従来からドイツ語でも日本語でも、「週」と訳されてきました。しかし聖書学者の研究によって、今日では、この「週」は七日間を意味する週のことではなく、むしろ「年」を意味する言葉であり、「年」と訳すべきだということがわかるようになりました。

3.イスラエルの不忠実に対するさばき


[1]第一の期間―七週


以上のことから、ダニエル書に「七週」とあるのは、実は「七年」を意味することになります。さらにイスラエルの民は、悔い改めることをしなかったために、そのさばきは七倍きびしくなりました。つまり、七年の七倍、四十九年になったのです。さらにダニエルは、六十二週についても語っています。しかしこの期間中も、イスラエルの民は悔い改めることをしませんでした。そのために、六十二週、つまり六十二年は七倍されて四百三十四年になったのです。

ダニエルは、バビロンに捕らわれていました。なぜ捕らわれるようになったのでしょうか。なぜなら、ユダの民は「安息の年」に対する掟を守らなかったので、主によるさばきがくだされたのです。

主は、四十九年ごとに一年の「安息の年」を設けることを命じておられます。この「安息の年」には、蒔くことも、刈り入れることも許されなかったのです。売られた土地は、すべて元の持ち主に返され、奴隷は解放されました。しかし、イスラエルの民は、主を信頼しませんでした。このような「安息の年」の掟を守らなかったのです。その結果、イスラエルの民は、七十年の間囚われることになってしまいました。

あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。・・・・あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。この第五十年目は、あなたがたのヨベルの年である。種を蒔いてはならないし、落ち穂から生えたものを刈り入れてもならない。・・・・(レビ23・10、11)

なお、これらについてさらに深く学びたい方は、レビ記の25章の他の部分、歴代史第二の36章29節から31節、ダニエル書9章の2節をお読みになることをお勧めします。

さて、ダニエルが、神の前に祈っていたとき、七十年間の捕囚の期間がまもなく終わることを示されました。それにしたがって、少数の者たちがエルサレムに帰りました。しかし、ほとんどのユダヤ人たちは、エルサレムに帰ろうとせず、自分からバビロンに残ることに決めたのです。それで、エルサレムに帰ったユダヤ人たちにとっては主のさばきは終わりました。しかし、モーセの預言どおり、イスラエル民族全体に対する主のさばきは、七倍きびしくされました。そして、ダニエルが預言した「七十週、つまり七十年」は、「少数の者たちがエルサレムに帰ったその時から始まった」のです。

ネヘミヤ記の2章にあるとおり、アルタシャスタ王は、ネヘミヤにエルサレム再建を命じました。これは、紀元前四百四十年の三月、四月のことでした。エズラとネヘミヤはこの再建の次第を私たちに伝えてくれています。

[2]第二の期間―六十二週


第二の期間は、六十二週、七倍されて四百三十四週、つまり四百三十四年になります。第一と第二の期間を合わせると六十九週、つまり四百八十三年になります。ダニエル書9章の26節には、「その六十二週の後、油注がれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。」と書かれています。

この「油注がれた者」は、約束されたメシヤ、つまりイエス・キリストです。アルタシャスタ王の命令によるエルサレム再建からキリストの十字架までは、正確に四百八十三年です。そして、イエス・キリストは、紀元後三十二年に十字架につけられたことになります。そしてイエス様も何も残されなかったのです。

ここで計算の基礎となっている「年」は、太陽暦の年、つまり一年が三百六十五日ではなく、太陰暦による一年、三百六十日を基礎とした年です。ですから、この計算に従うと、アルタシャスタ王の命令は紀元前四百五十一年のことになります。

さて、第一と第二の期間を合わせると六十九週、その次に来るべき最後の一週は、三つに分けられています。それは「一ときと、二ときと、半ときの間」です。

・・・・聖徒たちは、ひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手にゆだねられる。(ダニエル7・25)

しかし、女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前を逃れて養われるためであった。(黙示12・14)

この期間は、黙示録11章2節、13章5節に記されている[四十二ヵ月]であり、黙示12章6節、11章3節に記されている「千二百六十日」であり、つまりそれは「三年半」の期間であることを示しています。

油注がれた者が立つことによって、つまりイエス様が十字架につけられ、殺されることによって、イスラエルの歴史は一時的に中断しました。その間イスラエルの地は荒らされました。この時代には、神殿も、王も、国もなくなりました。

四百八十三年の後の時代がどれだけ続くかはわかりません。そしてイスラエルの民は、国を失い、捨て去られてしまいます。そしてローマ帝国のティトスが、エルサレムの聖所と町を破壊してしまいます。このようにしてユダヤ人たちは、世界の国々の中に散らされていったのです。

しかし主のみことばが成就するのは、なお将来のことです。将来反キリストが、新しく建てられた神殿の中で人々の礼拝を受けるとき、このみことばが完全に成就します。六十九週めに、イエス様が十字架につけられたということは、主のみことばが真実であることの証拠です。

[3]第三の期間―一週


第三の期間は一週間続きます。つまり七年間続くのです。この時が、イスラエル民族にとって千年王国が来るまででもっとも苦しい時となります。この最後の時は、三年半ずつに分けられています。そして、その期間に四つの大事なことが起こります。

まず、はじめの三年半の間に、反キリストの君主は、イスラエルを守ろうと約束します。この君主は世界の支配者であり、再建されるローマ帝国の最高の位に立つ者です。

私がその角を注意して見ていると、その間から、もう一本の小さな角が出て来たが、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。よく見ると、この角には、人間の目のような目があり、大きなことを語る口があった。十本の角は、この国から立つ十人の王。彼らのあとに、もう一人の王が立つ。かれは先の者たちと異なり、三人の王を打ち倒す。彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。(ダニエル7・8,24、25)

反キリストの君主は、ここでは小さな角と呼ばれています。この時代にイスラエルは、エルサレムに神殿を造り、そして礼拝を捧げます。

しかし、この三年半が終わると、反キリストの君主は、イスラエルとの約束を破って、自分自身を神として拝むことを強制します。黙示録11章2節に、「聖なる都を四十二か月の間踏みにじる」、つまり聖所を破壊する、と書かれているのは、このことを指しています。

だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。(第二テサロニケ2・3、4)

その後で、いまだかつてなかったほどユダヤ人が迫害されます。そして七年間の終りの半分の時に、イスラエル人の艱難はもっとも大きくなります。この艱難は、悪魔が天から投げ落とされ、反キリストの中に力を現わすときに最も大きくなるのです。聖書には「大きな艱難」について、多くのことが書かれています。

ああ。その日は大いなる日、比べるものもない日だ。それはヤコブにも苦難の時だ。(エレミヤ30・7)

国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。(ダニエル12・1)

この地に住む者すべての者は、わななけ。主の日が来るからだ。その日は近い。(ヨエル2・1)

「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が聖なる所に立つのを見たならば、・・・・そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。」(マタイ24・15)

「『荒らす憎むべき者』が、自分の立ってはならない所に立っているのを見たならば(読者はよく読み取るように。)ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。屋上にいる者は降りてはいけません。家から何かを取り出そうとして中にはいってはいけません。畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。ただ、このことが冬に起こらないように祈りなさい。その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。そして、もし主がその日数を少なくしてくださらないなら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、主は、ご自分で選んだ選びの民のために、その日数を少なくしてくださったのです。(マルコ13・14~20)

そして最後に、この「滅ぼす者」に対するさばきが行なわれます。

すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々を惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。(黙示19・20)

この時に、永遠の正義が現実のものとなります。

ダニエルの七十週のことについて、つまり四百九十年のイスラエルの歴史については、黙示録の中には何も記されていません。しかし最後の七十週のことについては、くわしく記されています。四百九十年が、イスラエルの不忠実な者に対する神のさばきなのです。この最後の一週、つまり七年間は、将来に必ず起こることです。教父であるイレネウスは、「反キリストは最後の一週に現われ、反キリストの独裁が最も強くなるのは後半の三年半である」と言いました。

イエス様もまた、これらのことがらがご自身の再臨に関連していると言っておられます。

「また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」(マタイ24・6~14)

したがって六十九週めと最後の一週めの間に、「教会の時代」が入ってくることになります。「教会」は、新約聖書の中で初めて明らかにされました。「教会」は、旧約聖書の中では明らかにされていません。教会の奥義は、旧約聖書の中では隠されていたのです。パウロによって、この奥義が初めて明らかにされました。

この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知られていませんでした。その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。(エペソ3・5、6)

このようにして教会が成立しました。そしてこの時代の終わりに、主は教会をみもとへと引き上げられるのです。

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(第一テサロニケ4・16、17)

教会の時代は、また、恵みの時代とも呼ばれています。

確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6・2)

主のみことばと聖霊をとおして、私たちには救いが提供されています。しかも無償の贈物としてです。罪を悔い改めて、イエス様の救いに感謝する者は必ず救われるのです。

さて、黙示録によれば、教会の携挙とともに最後の週が始まります。この七年の後、イエス様は肉体をもって、再臨されるのです。

今まで乱用されていた異邦人の支配権は奪い去られ、再臨されたイエス様は、すべての異邦人をさばかれます。そしてイエス様が、地上におけるすべての王の王となられます。

最後に、私たちは、ダニエルがなぜこの預言、啓示を受けたかについて見てみましょう。

まず第一に、「主のみことば」によって啓示を受けたのです。ダニエルは、主のみことばが光であり、暗やみの中の道しるべであることを知っていました。彼は熱心に主のみことばを研究しました。中でも主はダニエルに、特にエレミヤ書をとおしてその目を開いたのです。

次に、彼は「主の霊」によって啓示をうけました。私たちは聖霊によって主のみことばを理解し、主のみことばを生きたものとして受け取ることができます。

エレミヤ書23章の10節から12節で、バビロンが滅びるという預言を読んだダニエルは、イスラエル人の捕囚の期間がまもなく終わることを知りました。ダニエルは、熱心に主のみことばを読んで考え続けました。つまりダニエルは、主の霊にたいして、いつも心を開いていました。ですから主の霊は、ダニエルのうちに住まわれたのです。

あなた(ダニエル)には、聖なる神の霊があるからだ。(ダニエル4・18)

あなた(ダニエル)のうちには神の霊が宿り、また、あなたのうちに、光と理解力と、すぐれた知恵のあることがわかった、と聞いている。(ダニエル5・14)

そして三つめは、「祈り」です。ダニエルは捕囚の期間がまもなく終わることを知ったとき、祈りの中で、神に訴えました。

熱心に聖書を学ぶことによって、私たちは祈りへと導かれます。みことばをとおして、主は語られます。そして主の霊が、人を祈りへと導くのです。

祈りの中で、ダニエルは「三つのこと」を神の前に持ち出しました。

まず、彼は民の罪を告白しました。ダニエルは、イスラエルの民の罪のためにひざまずいたのです。ダニエル書の9章には、ダニエルの深い悔い改めの祈りが出てきますが、この章は、聖書の中でも、とりわけ意味の深い章の一つであり、ダニエルの祈りは、もっともすばらしい祈りの一つです。少し長いので、次頁に全文でなく部分の引用をしておきますが、ぜひ聖書を開いて、全文をお読みくだされば、恵みが大きいと思います。

次に、彼は罪を告白しただけでなく、主が当然下されるのろいをも受け入れたのです。彼はモーセの律法をとおして、この主ののろいを知っていました。

もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。・・・・主があなたを追い入れるすべての国々の民の中で、あなたは恐怖となり、物笑いの種となり、なぶりものとなろう。(申命記28・15、37)

これらすべてののろいが、あなたに臨み、あなたを追いかけ、あなたに追いつき、ついには、あなたを根絶やしにする。あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、主が命じられた命令とおきてとを守らないからである。(申命記28・45)

ダニエルは、主ののろいがイスラエルの民の上にかかっていることを知りました。ダニエル書の9章にあるダニエルの祈りは、自分の願いを言い表わしたものではありません。ダニエルは心の中で主の言葉と一つになり、主の言葉に満たされました。そしてそこから、自然にダニエルの祈りが流れ出てきたのです。

ダニエルは主ののろいを受け入れただけではなく、主の約束と主の契約に対する信仰をも強く言い表わしました。

私(ダニエル)は、私の神、主に祈り、告白して言った。・・・・私たちは罪を犯し、不義をなし、悪を行ない、あなたにそむき、あなたの命令と定めとを離れました。・・・・
主よ、不面目は、あなたに罪を犯した私たちと私たちの王たち、首長たち、および先祖たちのものです。(ダニエル9・4、5、9)

あわれみと赦しとは、私たちの神、主のものです。これは私たちが神にそむいたからです。・・・・主よ。あなたのすべての正義のみわざによって、どうか御怒りと憤りを、あなたの町エルサレム、あなたの聖なる山からおさめてください。・・・・(ダニエル9・9、16)

ダニエルは、主が生きておられ、いつも正しく、あわれみ深く、その言葉を守られ、さばかれる神であることを知っていたのです。

そして三つめに、ダニエル書9章16節にあるように、ダニエルは神のあわれみを求めたのです。

聖書は、ダニエルについて否定的なことを何ひとつ記録していません。主ご自身は、ダニエルに向かって、あなたは「愛されている者」だと言っておられます。そのダニエルが、この祈りの中において、イスラエルの民の罪の下に身をかがめました。ダニエルはイスラエルの民の一人として、自分が罪を犯している者であるかのように、民の罪を背負ったのです。ダニエルは神のあわれみを確信していたのです。

ですから主は、その祈りをさっそく聞き届けてくださいました。主の啓示は、天使の長ガプリエルによってダニエルにもたらされました。

私がまだ語り、祈り、自分の罪と自分の民イスラエルの罪を告白し、私の神の聖なる山のために、私の神、主の前に伏して願いをささげていたとき、・・・・ガブリエルが、夕方のささげ物をささげるころ、すばやく飛んできて、私に近づき、私に告げて言った。・・・・「あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが述べられたので、私はそれを伝えに来た。あなたは、神に愛されている人だからだ。」(ダニエル9・20~23)

・・・・エルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油注がれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。(ダニエル9・25)

このようにダニエルの祈りを聞かれた主は、ガブリエルをつかわして啓示を与えられました。

私たちもまた、熱心に神のみことばを読み、そして兄弟姉妹の罪を自ら担う者となるならば、私たちの祈りが聞き届けられることを体験します。

主の霊が、私たちを祈りへと導くことができるならば、幸いです。

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