2023年1月16日月曜日

すぐに起こるはずのこと【第3部】13.第六のラッパのさばき・第二のわざわい

13.第六のラッパのさばき・第二のわざわい
黙示録9章13節から21節まで

1.わざわいが起こる前にあること
[1]聖徒たちの祈り
[2]人間の罪
[3]四人の御使いが解き放たれる
2.わざわい
[1]火
[2]煙
[3]硫黄
3.わざわいの結果
[1]宗教的な混乱
・偶像礼拝
・悪魔の働き
[2]社会的な混乱
・殺人
・魔術
・不品行
・盗み

これから学ぶのは「第六のラッパのさばき」、「第二のわざわい」についてです。またこれは「神がなさる、悔い改めへの最後の呼びかけ」でもあります。ここに終わりの時代に起こる最後のさばきが記されているのです。

(13)第六の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は神の御前にある金の祭壇の四隅から出る声を聞いた。(14)その声がラッパを持っている第六の御使いに言った。「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ。」(15)すると、定められた時、日、月年のために用意されていた四人の御使いが、人類の三分の一を殺すために解き放された。(16)騎兵の軍勢の数は二億であった。私はその数を聞いた。(17)私が幻の中で見た馬とそれに乗る人たちの様子はこうであった。騎兵は、火のような赤、くすぶった青、燃える硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は、ししの頭のようで、口からは火と煙と硫黄とが出ていた。(18)これらの三つの災害、すなわち、彼らの口から出ている火と煙と硫黄とのために、人類の三分の一は殺された。(19)馬の力はその口とその尾とにあって、その尾は蛇のようであり、それに頭があって、その頭で害を加えるのである。(20)これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、(21)その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。(黙示9・13~21)

黙示録の9章では、すべての人間的なできごとの背後に、いかに悪霊の軍勢が働いているかが特に明らかにされています。9章1節から12節までの「第一のわざわい」はいなごが中心になっていましたが、「第二のわざわい」は騎兵の軍勢が中心です。「第一のわざわい」は空中から攻撃があり、いなごと戦闘機の類似が思い起こされました。しかし、9章13節からは地上における戦争が始まります。

先ず、第一と第二のわざわいの様子を比較してみましょう。そうすると、二つの攻撃がいかによく似ているか、また後の攻撃が前よりもいかに激しくなっているかがよくわかります。

9章3、5、10節では、悪魔の性格が「さそり」のようなものとして描かれていますが、一方の9章19節では「蛇」のようなものとして記されています。両方ともその特徴は、4と19節にあるとおり人間に「害を加える」ことです。またその姿も似ています。8節に「ししの歯」、17節には「ししの頭」が出てきます。さらに9節と17節の両方で「胸当て」のことが語られ、また7節に「出陣の用意の整った馬」、16節には「騎兵」という表現が出てきます。このように二つのわざわいには多くの類似点をみつけることができます。

しかし、「第二のわざわい」では攻撃が前よりも激しさを増しています。悪魔的な性格が一層強くなっていることが、さそりの毒と蛇の毒とを比較することによってわかります。その行動にもさらに激しさが加わっています。5節には彼らは人間を「苦しめることだけが許された」とありますが、15節には、彼らが「殺すために解き放された」と記されています。その姿形もまた一層大きくなっています。「第一のわざわい」のいなごは、形は馬に似ていますが小さいものです。「第二のわざわい」に出てくる騎兵の馬はそのような小さなものではありません。

さばきが行なわれる範囲も拡大しています。「第一のわざわい」のさばきは一カ所に限られていますが、「第二のわざわい」のさばきはそのような限界がありません。というのは、この箇所に出てくる「金の祭壇の四隅」(13節)、「四人の御使い」(14節)、「定められた四つの時」(15節)、「四つの罪」(21節)の、「四」という数字は限界のない広がりを表わす数字だからです。

これから私たちは、この箇所を三つに分けて考えてみましょう。始めに「わざわいが起こる前にあること」、次に「わざわい」、そして、「わざわいの結果」についてです。

1.わざわいが起こる前にあること


13節から16節を見ると、わざわいが起こる前に、次の三つ、「聖徒たちの祈り」、「人間の罪」、そして「四人の御使いが解き放たれる」ことが記されています。

[1]聖徒たちの祈り


8章3節から5節までの間に、聖徒たちの祈りのことが記されています。この祈りはイエス・キリストを通して、神の御前に絶えず立ち上っています。9章13節に「金の祭壇の四隅から出る声を聞いた」とありますが、これは聖徒たちの祈りに対する「主の答え」です。

聖徒たちが祈った目的は何だったのでしょうか。彼らは神の栄光がこの地上で回復されるために祈ったのです。彼らは自分たちの名誉のためにではなく、「あなたの御名のご栄光を現わしてください」と祈りました。

私たちの神よ。今、あなたのしもべの祈りと願いを聞き入れ、主ご自身のために、御顔の光を、あなたの荒れ果てた聖所に輝かせてください。私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている町をご覧ください。私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。
主よ。聞いてください。主よ。お赦しください。主よ。心に留めて行なってください。私の神よ。あなたご自身のために遅らせないでください。あなたの町と民とには、あなたの名がつけられているからです。(ダニエル9・17~19)

このような祈りに対して、主はお答えになられたのです。

[2]人間の罪


人々の祈りに対する神の答えは、ここにおいては「さばき」であり、また「戦争」です。戦争は、常に神と小羊イエス・キリストの栄光に対する反抗の結果として起こります。戦争は、「神に栄光を帰すことを忘れた者は、そのために苦しまなければならない」ことを意味しています。主なる神の声に聞き従うおうとはせず、心を頑なにする人は、その結果が決して良くないことを経験しなければなりません。なぜなら主は生きておられるからです。

ここに出てくる人々は、意識的にイエス様を拒み、悪魔を拝んだ人々でした。聖徒たちが主なる神の栄光のために祈っている一方で、罪を離れて悔い改めようとしない人々がいるときに、祭壇から主の声が下されるのです。

主はさばきをもって答えられます。主はご自身の聖さとご自身の御名とご自身の栄光のために罪を罰しなければならないのです。

[3]四人の御使いが解き放たれる


さばきの前に、四人の御使いが解き放たれます。私たちは、神がすべての命令を下す力をもっておられることを見てきました。悪魔も悪霊も、主のご計画によらなければ、自分自身では何もすることができません。主はご自身のものである御使いに命令を下し、「つながれている四人の御使い」を解き放たれます。

私たちは先に、「自由な」悪霊と「囚われている」悪霊の二種類の悪霊について見てきました。黙示録のこの部分で語られているのは、「囚われている」悪霊の方です。これらの「囚われている」悪霊たちは、悔い改めない人々に向けて、大きな患難のときに遣わされるのです。

「囚われている」御使いのことについては、次の聖書の箇所にも出てきます。

神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。(第二ペテロ2・4)

また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。(ユダ6)

これまでは、主が人間を憐れみ、「囚われている」御使いたちの自由を奪っておられましたが、この時からは、彼らは解き放たれるのです。彼らは、神の命令によって、さばきのための神の道具として解放されます。これらの御使いたちは自分たちの力で自由になったのではなく、ただ神によって、行動の自由が与えらます。彼らは神に敵対する者です。しかし、それにもかかわらず、神に仕えるようさせられます。自分自身ではそれを望んでいませんが、神のさばきの時に使われる、備えられた神の道具となるのです。

さばきも祝福も、すべての「時、日、月、年」が神によって決定されるということは、何という慰めでしょうか。私たちは混乱と偶然の中に生きているのではなく、神のご計画の中を生きているのです。この大きな患難の時期も、黙示録9章15節にあるとおり、神によってはっきりと定められています。

これらの御使いたちが解き放たれる場所はユーフラテス川のほとりです。ユーフラテス川のほとりにはかつてバビロンが存在しました。また、ユーフラテス川の源はエデンの園にありました。

一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。・・・・第三の川の名はヒデケルで、それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。(創世記2・10、14)

ユーフラテス川はイスラエル民族に約束された国の国境線でもあります。

その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。」(創世記15・18)

向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユーフラテス川にまで行け。(申命記1・7)

あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。(ヨシュア1・4)

ユーフラテス川のほとりにはパラダイスがあり、そこで罪がはじまり、悪魔が最初に勝利したのです。ノアの洪水が始まったのもここからでした。そこにイスラエルの最大の敵が存在したのです。一言で言えば、ここには「サタンの座」が置かれていました。そして終わりの時代に、再びここからサタンがその力と勢いとをあらわすことになるのです。

2.わざわい


17節から19節を見てみましょう。ここでは「火」と、「煙」と、「硫黄」の三つの災害が述べられています。これらはすべて、刑罰としてのさばきと地獄の象徴です。

16節にあるとおり、底知れぬ穴に閉じこめられていた御使いたち、つまり悪霊が、神の定められた時に解き放たれて、二億の軍勢が出てきました。「第一のわざわい」では、「いなご」と戦闘機との類似性が連想されました。「第二のわざわい」に出てくる「騎兵」は、今の時代で言うなら「戦車」に似ています。騎兵の馬の口からは、火と煙と硫黄の三つの災害が出ています。「ししの頭」のような馬の頭は戦車の上の部分、「蛇」のような馬の尾は戦車の大砲に似ています。大砲は十三世紀まではドイツ語では「畑の蛇」と呼ばれていました。17節にある二億の騎兵の胸当ては、「火のような赤」、「くすぶった青」、「燃える硫黄の色」です。赤、青、硫黄の黄色の三つの色は、戦車に塗られている迷彩色に似ていないでしょうか。

また「赤」は、イエス様とイスラエルに対する火のような憎しみを表わしています。「くすぶった青」は人間の理性の曇りを意味しています。すべてのものが煙につつまれたようにぼんやりとしてはっきり見えなくなるのです。「硫黄の色」は不品行を象徴しています。人間の心はますます主のことばに鈍くなり、主への感受性を失うのです。「火」は人間の世界を焼き尽くし、「煙」は人間の世界を曇らせ、「硫黄」は人間の世界を汚すものです。

私たちはすでに今日、文学、映画、学校教育、マスコミによって人々が悪い影響を受けているのを見ています。これらによって、人間の理性と感情はますます鈍くされ、神の声に対して感じにくくなっていきます。

多くの解釈者たちは、「二億の軍勢は悪霊を意味する」とだけ考えていますが、私はこれを一歩進めて、北と東からイスラエルを攻撃するためにやって来る諸国の軍隊のことではないかと思うのです。中近東はじめ、中国、ロシアにはすでに二億以上の軍隊がいます。従って、ダニエル書11章の預言の言葉は、現在、まさに成就されかかっていると言えましょう。

イザヤ書には、ユダヤの王は北と東の国からの攻撃を防ぐために、新たに再生するローマ帝国と契約を結ぶことになると預言されています。北と東の国とは、現代では中近東、さらにはロシアと中国ではないでしょうか。また、新しく再生するローマ帝国というのはダニエル書に出てくる十の国のことであり、ヨーロッパの中心に形成される十の国の連邦のことを意味しています。そして、これらの対立する連合国同士の間で大きな争いが起こるようになるのではないでしょうか。

二億の軍勢はユーフラテス川からきます。

第六の御使いが鉢を大ユーフラテス川にぶちまけた。すると、水は、日の出るほうから来る王たちに道を備えるために、かれてしまった。(黙示16・12)

そして、ここにハルマゲドンの戦いが起こるのです。

彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。――見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。――こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。(黙示16・14~16)

そして、これらの地上の軍勢の背後には、目に見えない悪霊の軍勢が立っているのです。これらの戦いのことについては16章でくわしく学びましょう。

3.わざわいの結果


20節、21節を読むと、わざわいの結果、二つのことがもたらされます。一つは「宗教的な混乱」、もう一つは「社会的な混乱」です。この20、21節はとても大切な箇所です。というのは、ここには、主が罪人の死を喜ばれないことが記されているからです。主は、罪人が悔い改めて生きることを望んでおられるのです。

わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。――神である主の御告げ。――彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。(エゼキエル書18・23)

あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ。だから、悔い改めて、生きよ。(エゼキエル書18・31、32)

彼らにこう言え。「わたしは誓って言う。――神である主の御告げ。――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」(エゼキエル書33・11)

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(第二ペテロ3・9)

ここでのさばきは、最後のものではありません。悔い改めへの最後の呼びかけです。イスラエルの「残りの者たち」、つまり「神の証印を押された人々」は、終わりの時代に神の証人となるのです。

この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。(マタイ24・14)

この「神の証印を押された人々」の伝える福音は、あらゆる所で聞かれ、悔い改める可能性はまだ人々に残されています。しかし、これらの人々が証しをしても、驚いたことに、誰一人として悔い改める者が現われないのです。

わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。「彼らは、心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知ってはいない。」と。それゆえ、わたしは怒って誓った。「確かに彼らは、わたしの安息に、はいれない。」と。(詩篇99・10、11)

わたしもまた、あなたがたのあらゆる町で、あなたがたの歯をきれいにしておき、あなたがたのすべての場所で、パンに欠乏させた。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰て来なかった。――主の御告げ。――・・・二、三の町は水を飲むために一つの町によろめいて行ったが、満ち足りることはなかった。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。――主の御告げ。――わたしは立ち枯れと黒穂病で、あなたがたを打った。あなたがたの果樹園とぶどう畑、いちじくの木とオリーブの木がふえても、かみつくいなごが食い荒らした。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。
――主の御告げ。――わたしは、エジプトにしたように、疫病をあなたがたに送り、剣であなたがたの若者たちを殺し、あなたがたの馬を奪い去り、あなたがたの陣営に悪臭を上らせ、あなたがたの鼻をつかせた。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。―――主の御告げ。――わたしは、あなたがたをくつがえした。神がソドムとゴモラをくつがえしたように。あなたがたは炎の中から取り出された燃えさしのようであった。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。(アモス4・6、8~11)

人々は悔い改めることをしないで、ますます心を頑なにするのです。それはまさに、エジプトの王パロと同じことでした。

[1]宗教的な混乱


20節には、宗教的な混乱があることが記されています。これらの混乱がどのようなものか、いくつかの項目にわけて見ていきましょう。

・偶像礼拝


金、銀、銅、石、木など、偶像が作られる材料がこの20節にあげられています。これを見ると、偶像の真の姿が何であるか、ということに気づかされ、目を覚まさせられます。この当時、偶像に対して使われていた一般的な言葉は、「飾りもの」を意味するのと同じ言葉でした。しかし聖書の中では、偶像に対して「影のようなもの」、「見せかけのもの」、「偽物」という言葉が使われています。偶像の本当の意味を伝えようとしていることがわかります。さて、「悔い改める」とはどういうことでしょうか。先ず、偶像に仕えることから離れ、まことの神に仕えるようになることです。偶像をあがめる姿勢を捨て、神に対して栄光を帰するということです。また、「悔い改める」とは、自分の罪を認め、自分の罪から離れ、自分の罪を告白し、イエス様が十字架上でなしてくださったみわさに対して感謝を捧げることを意味します。

・悪霊の働き


ここに、一つの「逆説」があります。人々は、「現実には力をもたない、虚しい偶像」を拝んでいるにすぎないように見えます。しかし、結果的には、そのことを通して、実は「現実的で力をもつ悪霊」に向かって礼拝を捧げていることになるのです。恐ろしいことです。このことがコリント人への第一の手紙に説明されています。

肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。供え物を食べる者は、祭壇にあずかるではありませんか。私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。(第一コリント1018~20)

まことの神でないものを拝むとき、すべてその背後には悪霊が立っています。旧約時代の予言者たちも偶像の真の姿を次のように言っています。

偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。
彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、「ああ、暖まった。熱くなった。」と言う。その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って「私を救ってください。あなたは私の神だから。」と言う。彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、「私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか。」とさえ言わない。灰にあこがれる者の心は欺かれ、惑わされて、自分を救い出すことができず、「私の右の手には偽りがないのだろうか。」とさえ言わない。(イザヤ44・9~20)

預言者たちが言っているのは、偶像礼拝をする愚かな人々のいる限り偶像が存在する、ということです。今日でも人々は偶像を拝んでいます。しかも、これらの偶像礼拝者たちは、理性を十分備えた人々です。賢い人々でも偶像礼拝者となってしまうのはどうしてでしょうか。

私たちは、偶像の材料となる金、銀、銅、石、木などがそれ自体は何の力ももたないことを知っており、これらの物質を拝むのが愚かなことだということもわかっています。ところが現実的には、非常に熱心な偶像礼拝者たちがいて、これらの偶像が宗教的力をもっているのを見ることができます。彼らは自己中心的でわがままで、他の人の言うことに耳を傾けようとしません。そして、時間であれ、金であれ、名誉であれ、健康であれ、どのような犠牲であれ払おうとしているのです。

聖書はこのような偶像礼拝の背後には「悪霊の力」が働いていると明らかに言っています。

悪霊は人間の内に力をふるいます。一例として、世界中で莫大な資金が軍備のためにつぎ込まれている一方で、毎年何千万の人々が飢えのために死んでいきます。これも人間が悪霊に支配されていることの証拠です。

[2]社会的な混乱


宗教的な混乱と社会的な混乱とは互いに関連しています。ここに一つのことわざがあります。それは「あなたが何を拝んでいるのか言いなさい。そうすれば、あなたの日常生活に何が起こるかをあてましょう」というものです。

なんと、あなたがたは、役にも立たない偽りのことばにたよっている。しかも、あなたがたは盗み、殺し、姦通し、偽って誓い、バアルのためにいけにえを焼き、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。(エレミヤ7・8、9)

黙示録9章21節にでてくる「殺人、魔術、不品行、盗み」はその一つ一つの罪が問題にされているのではなく、その心の態度が問題にされているのです。

・殺人


最初に「殺人」が指摘されますが、彼らは殺人に対しても悔い改めようとしないのです。憎しみから、お金のために、また単に自分の楽しみのために人を殺します。今日盛んに行われている妊娠中絶もまた殺人の一種です。神こそがすべての生と死との主であることを無視して、人々は自己中心的に問題解決をはかろうとして、その結果殺人を犯すのです。

・魔術


第二の罪は「魔術」です。魔術はエジプトの知恵と呼ばれているものですが、この魔術によってエジプトの王は神に対する不従順の道へと堕ちて行きました。

モーセとアロンはパロのところに行き、主が命じられたとおりに行なった。アロンが自分の杖をパロとその家臣たちの前に投げたとき、それは蛇になった。そこで、パロも知恵のある者と呪術者を呼び寄せた。これらのエジプトの呪法師たちもまた彼らの秘術を使って、同じことをした。彼らがめいめい自分の杖を投げると、それが蛇になった。しかしアロンの杖は彼らの杖をのみこんだ。それでもパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。(出エジプト7・10~13)

しかしエジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをした。それで、パロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞こうとはしなかった。(出エジプト7・22)

魔術はまたバベルの知恵とも呼ばれています。この魔術的な知恵によって、人間は安心感を与えられることがあるのです。しかしそれは、さばきへの道に誘われて行くことになります。

だから今、これを聞け。楽しみにふけり、安心して住んでいる女。心の中で、「私だけは特別だ。私はやもめにはならないし、子を失うことも知らなくて済もう。」と言う者よ。子を失うことと、やもめになること、この二つが一日のうちに、またたくまにあなたに来る。あなたがどんなに多く呪術を行なっても、どんなに強く呪文を唱えても、これらは突然、あなたを見舞う。(イザヤ47・8、9)

人が幼子のように、まことの神である主への信仰をもとうとしないところで、悪霊が働き、魔術が人間を酔わせるのです。いわゆる霊媒者と交わりをもつことは、聖書によれば悪霊と交わりを持つことです。霊媒者を通して現われるのは、亡くなった家族の霊ではなく、悪霊なのです。悪霊は偽りの霊です。アハブの時代にも偽りの霊がいました。

そのとき、主は仰せられました。「だれか、アハブを惑わして、攻め上らせ、ラモテ・ギルアデで倒れさせる者はいないか。」すると、あれこれと答えがありました。それからひとりの霊が進み出て、主の前に立ち、「この私が彼を惑わします。」と言いますと、主が彼に「どういうふうにやるのか。」と尋ねられました。彼は答えました。「私が出て行き、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります。」すると、「あなたはきっと惑わすことができよう。出て行って、そのとおりにせよ。」と仰せられました。今、ご覧のとおり、主はここにいるあなたのすべての預言者の口に偽りを言う霊を授けられました。主はあなたに下るわざわいを告げられたのです。」(第一列王記22・20~23)

終わりの時代には偽りの霊がもっとたくさん出てきます。

しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。(第一テモテ4・1)

悪霊の教えは統一教会やものみの塔の教えです。

・不品行


第三の罪は不品行です。これは道徳的、霊的な意味での不真実を表わすものです。終わりの時代には裏切りが特徴となります。あらゆる人同士が互いに相手を裏切り、誰も他の人に対する思いやりを持たなくなります。すべての人が自分自身のことだけを考えるようになります。それがこの終わりの時代の人々の根本的な態度です。

・盗み


第四の罪は盗みです。盗みは、愛すること、仕えること、そしていやすことのちょうど反対の行為です。イエス様を裏切ったイスカリオテのユダは盗人で、貧しい者たちのことを考えていなかったと聖書に書いてあります。

しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。(ヨハネ12・6)

盗人とは、大変自分勝手な人々を総称することばでもあります。

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。(ヨハネ10・10)

いままで四つの罪を見てきました。私たちは、これら一つ一つが罪として問題なのではなく、そこに表われている「心の態度」が問題だということがわかりました。これらの罪の背後には、神の呪いがあります。罪の中にいる人は神から逃げているのです。その人は悔い改めをしたくないのです。その人は自分自身の人生が破産状態にあることを認めたくないのです。その人はへりくだりたくないし、赦しを求めようとは思いません。

しかし、もし、人が悔い改めようと決心するなら、神から逃げようとはしません。神から逃げないとは、イエス様のところに行って自分自身の罪の赦しを求めることを意味します。このようにして罪の赦しを受けた者は、将来に対する不安、さばきに対する恐れ、一切の不安から解放されます。なぜなら、その人はイエス様の血潮によって自分の罪が清められ、過去のすべてが洗われ、罪が赦され、罪が忘れ去られたことを知るからです。

私たちは、すでに自分の罪の赦しを確信し、神の子とされている喜びを持っているでしょうか。

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