2015年2月24日火曜日

悩みの助け手であるイエス様

悩みの助け手であるイエス様
2015年2月24日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
5:26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。

11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」

今日の題名は、「悩んでいる人々の救い主であるイエス」であります。イエス様を紹介することができるのは、本当にありがたい。もし、キリスト教のために、宣伝しなくてはならないとすれば、困る。できるものではないから。けれども我々の主は、もちろん、人間の作った宗教と関係のないお方です。おそらく、永遠にわたっても、イエス様のすばらしさを、なかなかつかめないのではないかと思います。

主にマルコ伝という福音書を読むと気が付くこととは、多くの病人が出てきます。どうしてであるかと言いますと、マルコの書いた福音書の目的とは、イエス様の偉大さだけではなく、イエス様の力を明らかにしようと思ったからです。たとえば、一章には、汚れた霊に憑かれた者、また、熱病に苦しんでいるシモン・ペテロの姑、それから、らい病人が登場してきます。二章を見ると、最初に中風の者が登場してきます。三章には、片手のなえた人が登場してきます。五章には、ゲラサ人の血で汚れた霊に憑かれた人が、墓から出てきて、イエス様に出会いました。出会っただけではなく、元気になり、回復されたのです。それだけではなく、十二年間も長血を患っている女が登場してきます。七章を見ると、汚れた霊に憑かれた幼ない娘と、耳が聞こえず口のきけない人が登場してきます。八章では、メクラが癒されています。九章には、汚れた霊につかれた男、さらに、十章にはバルテマイという盲人のこじきが登場してきます。

全部で十二人の病人が、それぞれ死の病から救われたのです。実際は、もっともっと多くの人々が癒されたはずですけど、マルコ伝では、とくに十二人の病人について詳しく述べられています。そして、死人がよみがえったことも、書き記されています。

いずれにせよ、多くの病人がイエス様のもとに連れられて来たことは事実であり、町中の者、ほとんど全部がイエス様のみもとにやって来て、それぞれ苦しみや悩みを解決してくださったことを考えれば考えるほど、イエス様が普通の人間ではなかった。全然、違った人格の持ち主であったことが解ります。イエス様は比類なく、偉大なるお方です。

このようなイエス様の成されたことを読むと、イエス様がおられるところには、必ず何かが起こるという印象を持つようになるのではないかと思います。イエス様がおられるところには、力といのちが明らかになります。

イエス様は、比類なきお方です。そこに登場してくる病人を通して、私たちはあわれむべき人間を見ることができます。けれども、それと同時に、いかなる困難があろうとも、あらゆる問題を根本的に解決し、苦悩の中から、本当の道を差し示されるイエス様をも見ることができます。したがって、イエス様の元に連れて来られた人々は、いかに絶望的と思われる者でも、イエス様との出会いによって、病を癒されたのです。

イエス様は、いのちそのものです。前に読みました箇所をもう一回、読みます。

ヨハネ
5:26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。

結局、イエス様は、いのちそのものです。

ヨハネ
11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」

イエス様が、いのちそのものであったがゆえに、あらゆる死の病は退散せざるを得なかったのです。イエス様は、ご自分がいのちそのものであることを、明らかに示されるために、多くの病人を癒されました。イエス様の元に来た病人で、癒されなかった者は一人もいなかったのです。その当時は、非常に多くの病人がおり、とくに汚れた霊に憑かれた者は大勢いたようです。

今日、汚れた霊に憑かれた者がいると、その病人を癒す医者は、ほとんどいないのではないでしょうか。けれども、その当時、あらゆる苦しみや悩みを持っていた病人たちは、すべて、例外なくイエス様との出会いによって、癒され元気になったのです。

一章では、三人の病人、すなわち、汚れた霊に憑かれた者、そして、熱病で苦しんでいるシモン・ペテロの姑、そして、らい病人が登場してきましたが、そこで、私たちは、イエス様とは、どのようなお方であるかを考えることができます。もちろん、イエス様ご自身が、その中心であることは言うまでもありません。けど、それと同時に、我々の関心を引くものは、人間、すなわち、病人です。

これらの三人について、そのような観点から見た場合には、どのようなことが明らかになるのでしょうか。これら三人の病気は、それぞれ違った病気であり、したがって、イエス様との出会いも、それぞれ違った形で成されたのです。

たとえば、汚れた霊に憑かれた者は、自分自身では何にも言うことができませんでした。シモンの姑も熱病で床について動けなかったので、自分では何もすることができなかったのです。しかし、らい病人は、イエス様のところに願いに来て、「御心でしたら、清めていただけるのですが」と言いました。

したがって、これら三人は全く違ったかたちでイエス様に出会ったのです。それは、すなわち、三人ともイエス様との出会いを通して、イエス様を知ることができたと同時に、イエス様も、それら三人に対して行動なさる可能性を持っておられたということです。

次に、イエス様の癒しについて、二章の以下の聖句から、何人かの病人をできるだけ詳しく見たいと思います。

マルコ
2:1 数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。
2:2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。
2:3 そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。
2:4 群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。
2:5 イエスは彼らの信仰を見て(・・・・運んだ人々の信仰を見て・・・・)、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。
2:6 ところが、その場に律法学者(・・・・宗教家たち・・・・)が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。
2:7 「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」
2:8 彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。
2:9 中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。
2:10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、
2:11 「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。
2:12 すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。

今、読んだ箇所を見ると、中風の者が登場してきます。ここでは他にも、何人かの人が出てきますが、中心人物は、もちろん、イエス様と中風の者で、周囲の群衆の状況について、何と言っているのでしょうか。

他方は、カペナウムで、イエス様がおられた家に多くの人々が集まったため、もはや、『戸口のところまですきまもないほどになった』と書かれています。もちろん、そこには、幾人かの律法学者たち――当時の聖書学者、宗教家たち――もいましたが、彼らがそこに来た動機は、決して、純粋なものではなかったのです。みことばを聞こう、そういう気持ちは、ぜんぜんなかったのです。そこでイエス様が、集まってきた大勢の群衆に、福音を宣べ伝えたのです。自分自身を明らかにしてくださいました。目的は、ヨハネ伝十五章11節に書いてありますね。

ヨハネ
15:11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです

すると、そこに新しいことが何か起こったのです。そこには大勢の群衆が集まっていたわけですが、その中を、四人の人が中風の者を運んで来た。あまりにも大勢の人がいたため、イエス様のところに直接、運ぶことができなかったにもかかわらず、彼ら、四人は望みを捨てなかった。「今日はダメか、帰ろう。」そういう気持ちがなかったのです。彼らは、屋根をはがし、穴を開けて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろしました。それまで、話を続けてこられたイエス様は、当然ですけれども、突然、屋根から中風の者が下りてきて、聴衆もそれに心を奪われたでしょう。だからイエス様は、話を中断せざるを得なかったのです。

ちょっと、三つの質問について考えましょうか。第一番目、中風の者は、イエス様に対して、どのような態度を取ったでしょうかね。二番目、イエス様の態度は、いったいどういうものだったでしょうか。三番目、イエス様の癒しが周囲の人々に与えた影響とは、いったいどういうものだったでしょうか。

まず、病人は、イエス様に対して、いったいどのような態度を取ったでしょうか。これは、全く受動的であり、何もできなかったので、彼の友人たちがいろいろとやってくれたのです。病人は、今までに多くの医者にかかったでしょう。けれども、癒されないことを知って、もうがっかりして、失望したことでしょう。けれども、彼は、大きな苦しみと悩みの中から、じっとイエス様を見上げました。イエス様は、彼の眼差しを見てわかった。何がわかったかと言いますと、病気よりも、内面的な罪の方が、どれほど大きいかを知ることができたのです。

病人は、まず第一に、罪人として、それから、第二に、病人として、イエス様の元にやって来たと言った方が正しいのではないでしょうか。したがって、彼が癒されたときも、まず第一に罪が赦され、その後で、病気が癒されました。「あなたの罪は赦された」というイエス様のみことばによって、今まで考えられないほど多くの人々が、絶望から希望へ、死からいのちへ、移されたことでしょう。

三千年前に、イスラエルの民を支配したダビデという王様も、彼の犯した罪が赦されたときに、同じような癒しと救いを経験しました。

詩篇
32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
32:2 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。
32:3 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。
32:4 それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。
32:5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。

『あなたの罪は赦された。』この言葉によってイエス様は、当時、中風の者の心に眠っていた信仰を呼び起こしたのでしょう。そして、イエス様が、「起きよ」と命令された時に、中風の人は、ただちに起き上がることができました。それこそ信仰であり、その行いこそ、本当の信仰であり、信頼です。彼は、できるかどうかと考えたり、ためらったりしないで、直ちにイエス様の命令に従ったのです。彼は、四人の人に運ばれて、床に寝かされたまま運ばれたのですが、みことばによって癒されると起き上がり、すぐに床を取り上げて、一人で出たのです。運ばれた者が、急に歩くことができるようになったのです。

二番目の質問は、イエス様の態度は、当時、いったいどういうものだったでしょうか。

イエス様は、今日も、その当時と全く同じです。きのうも、今日も、いつまでも変わらないのはイエス様です。決して、外側だけを見るのではなく、心の奥底をご覧になるお方です。すなわち、イエス様は、今日もなお、力と愛とに満ちておられるお方です。イエス様は、中風の者に向かって、「わが子よ」とおっしゃいました。この言葉の表現は、まさに、愛そのものなのではないでしょうか。「わが子よ。」彼に向かって、そういう言葉を言った人は、いないでしょう。

けれども、それだけではなく、次にイエス様が何と言ったかといいますと、「あなたの罪は赦された。」この言葉は、権威を表現するものです。イエス様しか言えないことです。イエス様は、神の子羊として、あらゆる世の罪を取り除いてくださいましたゆえに、「あなたの罪は赦された」という権利を持っていたのです。

ただ借金を返済した者だけが、借用証書を破いて捨てる権利を持っています。けれども、この言葉をそばで聞いた聖書学者、宗教家たちは、内心、おだやかならざるものを感じ、憤って言ったのです。「イエスは神を冒涜した。神だけが、罪を赦すことができる!」と言った。確かに、神だけが罪を赦すことができるのは正しい。けれども、イエス様は、神であると信じようとしなかったのです。

ある変な宗教団体があるのですね。エホバの証人です。彼らのとんでもない間違いは、イエス様は、神の子にすぎない。神ではない。猫は猫でしょう。猫の子は猫です。犬の子は犬です。人間の子は人間です。神の子は神です。当然の話だよ。

もし、イエス様が神の御子でなければ、人間の罪を赦すことは、決して決してできない。「子よ、あなたの罪は赦された」と言われるのを聞いた時に、イエス様をまことの神として信じることをしないで、当時のある人々は反対に、イエス様はにせ者です、神を汚す者であると思い込んでしまったのです。彼らは、神学的な知識として、主なる神を知っていたにすぎなかった。そして、思い上がって、メクラになってしまったため、イエス様が神のひとり子であることを認めようとしなかったのです。

ここで注意したいことは、十一節のことばなのではないかと思います。「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と、イエス様は言われました。わたしは、あなたに言う。『わたしが』というイエス様のことばは、何と力強いことばでしょう。「わたしが言う」と言われたその瞬間に、全く新しいことが起こりました。すなわち、イエス様は言葉と行いを同時に示されたのです。

三番目、イエス様の癒しが周囲の人々に与えた影響とは、いったいどういうものだったでしょうか。彼らは、みな驚いて、主なる神を褒め称えました。権威ある主イエス様のことばと御業(みわざ)によって、群衆はかたずをのんで、見守るばかりでした。

群衆たちは、イエス様が病人を癒されたのをつぶさに見て、主イエス様の力と権威とを認めざるを得なかったのです。私たちは、イエス様に対して、どのような態度を取るのでしょうか。私たちが、イエス様の権威の前に低くなり、心から尊きイエス様の御名を賛美するならば、間違いなく、豊かに祝福されるに違いない。

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