2015年2月26日木曜日

へりくだりましょう

へりくだりましょう
2015年2月27日、市川家庭集会
ゴットホルド・ベック

マタイ
11:20 それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。
11:21 「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。
11:22 しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。
11:23 カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。
11:24 しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」
11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。
11:26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
11:27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

今、言われたように、今日は、どうしようもない者の集いです。けど、喜びの集いです。どうして、喜びの集いであるかと言いますと、悔い改められるからです。聖書のもっとも大切な呼びかけのひとつは、へりくだりましょうよ。絶対に損をしません。まことの喜びを与える主イエス様とは、どういうお方だったの?今、読んだ箇所を見ると分かります。祈りの方でした。イエス様の祈りは本当にすごい。


マタイ
11:25 天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。

幼子たちこそが幸せ。どうして?目がかわいいでしょう。小さい子供を見ると、うれしいよ。顔かたちと関係なし。かわいい、どうして?正直、素直だから。要求されているのは結局、それなんです。正直になれば、へりくだるようになり、『憐れんでください、ごめんなさい、許してください』と、心から願うようになる。そして、それで十分です。後で素直になれば、今、へりくだったから。聖書によると、イエス様の約束を見ると、それで充分であるからありがたい。幼子のようになることこそが大切ですね。

マタイ
11:26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
11:27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

すごい、イエス様の約束です。けど、初めに読んでもらいました箇所、20節はちょっと大変でしょうね。

マタイ
11:20 それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。

『わざわいだ、コラジン、わざわいだ、ベツサイダ、わざわいだ、カペナウム』と、イエスさまは言われたのです。これらの町々は、その後、破壊によって、完全にダメになりました。もう、存在していない町々です。イエスさまはこれらの町の中で確かに多くの力あるわざをなさいました。けど、彼らは耳を持っていたのに、聞く耳を持っていなかった。悔い改めようと、しなかったのです。

五旬節から、数えきれないほど多くの証し人がイエスさまの力あるわざを述べ伝えました。彼らはどういう気持ちでいっぱいだったかと言いますと、『私たちとしては、自分の見たこと、聞いたことを語らないわけにはいかない』と、言わざるを得なかったのです。我々も、イエス様のなさった御わざについて、もちろん多くのことを聞きました。イエス様の十字架の御わざ、イエス様のよみがえり、そして、昇天なさったことについて、確かに私たちは、多くのことを読んだり、聞くようになりました。けども、私たちは初代教会の兄弟姉妹のようにイエス様をどうしても紹介したい気持ちでいっぱいなのでしょうか。『わざわいだ、コラジンよ、わざわいだ、ベツサイダよ、わざわいだ、カペナウム』と、イエス様は当時、言わざるを得なかったのです。どうしてであるかと言いますと、結局、彼らは悔い改めようとしなかったからです。

イエス様のなさった御わざを聞いて、我々の生活そのものは、変わったのでしょうか。あるいは、未信者とまったく同じように、生活しているのでしょうか。今日、一番、必要なこと、一番、足りないこととはなんなのでしょうか?3つのことを簡単に一緒に考えてみたいと思います。第1番目、必要なのは、徹底的に悔い改めることです。今、話したようにへりくだることです。2番目、必要なのは、誠実な心を持つことです。第3番目、必要なのは、心からの献身です。

確かにイエス様は言われたのです。すなわち、『わざわいだ、コラジン、わざわいだ、ベツサイダよ、わざわいだ、カペナウム。』けど、もしかすると我々は、こういう言葉は当時の町々にだけ言われ、我々には当てはまらないと思うかもしれない。多くの人々は確かに思うでしょう、『いや、私は回心を経験したから、悔い改めたから、いいだろう。』悔い改めるべきなのは、未信者だよ。けど、救われている我々は別に、悔い改めなくてもいいんじゃないの、と思う人もいる。けど、今、読みましたマタイ伝の11節、20節から30節までを読むとイエス様は3回も、『わざわいだ』と叫ばれたことが分かります。『悔い改めたくなければ、わざわいだよ』と、主はもちろん、今日も同じく、宣告しておられます。『悔い改めよ』という声は、精神に忠告しているのであり、また、救いの恵みを与えようとする声であり、心からの天使の要求する御声です。この20節は本当に大変な箇所です。

マタイ
11:20 それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。

最も大切なのは、徹底的に悔い改めることです。イエス様はいろいろな町で力ある技を行いました。すなわち、イエス様は、コラジンでも、ベツサイダでも、また、カペナウムでも、奇跡を成したり、自分のご栄光を現したのです。

たとえば、ある日のことですけど、カペナウムで、人々が一人の中風のものを、4人の人に運ばれてイエス様のところに連れてきたのでありますが、けど、群衆のために近寄ることができなかったから、イエス様がおられる当たりの屋根を剥ぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床を吊り下ろしました。そして、イエス様は中風の人に言ったのです、『あなたに言う、起きよ。床を取り上げて、家に帰れ。』すると、彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みんなの目の前で出て来た。一同は大いに驚き、主をあがめて、こんなことはまだ一度も見たことがないと、認めざるを得なかったのです。

有名なヤイロの娘のことを考えても分かります。このヤイロの娘のよみがえりも、同じ町で、カペナウムで行った奇跡です。ちょっと見てみましょうか。

マルコ
5:21 イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。
5:22 すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、
5:23 いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」
5:24 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。

5:35 イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」

5:36 イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
5:37 そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。
5:38 彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、
5:39 中にはいって、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」
5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた。
5:41 そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)
5:42 すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。

それから、汚れた霊に憑かれた人の癒しも同じ町だったのです。

マルコ
1:21 それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。
1:22 人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。
1:23 すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。
1:24 「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」
1:25 イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。
1:26 すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
1:27 人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」
1:28 こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。

片手のなえた人の奇跡も同じ町で行われました。

マルコ
3:1 イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。
3:2 彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。
3:3 イエスは手のなえたその人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。
3:4 それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われた。彼らは黙っていた。

これこそ、ずるいね。

マルコ
3:5 イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。
3:6 そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた。

これも、カペナウムで行ったことです。もうひとつですね。ペテロのしゅうとめも、このところに住んでいた。また、他の病人もいっぱい、いたのです。1章をもう少し読みましょうか。

マルコ
1:29 イエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家にはいられた。
1:30 ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた。
1:31 イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熱がひき、彼女は彼らをもてなした。
1:32 夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのもとに連れて来た。
1:33 こうして町中の者が戸口に集まって来た。
1:34 イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。

レビという男、後で違う名前を持つようになったのです、マタイという男も、この町、カペナウムのものだったのです。2章を見ても分かります。

マルコ
2:13 イエスはまた湖のほとりに出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。
2:14 イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。
2:15 それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。
2:16 パリサイ派の律法学者たち(・・・・当時の宗教家たち・・・・)は、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちに・・・・

直接ではなく

2:16 ・・・・イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」

弟子たちは答えなかったんですね。

2:17 イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

イエス様は確かに、カペナウムで多くのすばらしいわざを、力あるわざをなされました。けども、同じように、ベツサイダの人々も、イエス様が大いなる権威を持っているということを認めざるを得なかったのです。ベツサイダで、5つのパンと二匹の魚を持って、5千人以上の人々が食べて、満腹したと聖書は言っています。また、ベツサイダでイエス様が、メクラを癒し、また、アンデレ、ペテロとピリポを召し、ご自身の弟子としてくださったのです。

一言で、言いますと、カペナウムとベツサイダ、また、コラジンの人々は、イエス様の力あるわざを、偉大なる奇跡を経験しました。彼らは皆、イエス様は癒す力、赦す力、解放する力を持っておられることを皆、認めざるを得なかったのです。けど、イエス様は数々の力なるわざを行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。『わざわいだ、コラジン、わざわいだ、ベツサイダ、わざわいだ、カペナウム』と、イエス様は言われました。

私たちは今までに、全国で主のなさった力あるわざを、見る恵みに与りました。結果として、なんなのでしょうか。私たちは本当に、心から主を拝もうと望んでいるのでしょうか。当時、イエス様はカペナウムで、また、コラジンで、ベツサイダで、ご自分の力あるわざを明らかにしてくださったのです。そして、私たちも主の大いなる恵みを経験するようになりました。けど、それによって、私たちの考え方、見方、価値観も変わったのでしょうか。主の言葉に耳を貸しましょう。

マタイ(口語訳)
5:20 わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者(たち)やパリサイ人(たち)の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。

なんと言う、厳しい言葉なのではないでしょうか。あなたがたは世の光です。闇のうちにある町は隠れることができません。けど、現代人の多くはそれをできるでしょうか。いったい、大切なのはなんでしょうか。言うまでもなく、他の人々に、家族、親戚、友だちに本物に対する飢え渇きを覚えさせることなのではないでしょうか。彼らは次々に導かれなければならない。大切なのはそれなのではないでしょうか。主の要求していることは、今、何回も何回も話したようにへりくだること、悔い改めることです。ここで書かれているのは、20節ですね。

マタイ
11:20 それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。

悔い改めたくなければ、厳しい裁きが来ます。

マタイ(口語訳)
11:22 おまえたちに言っておく。さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすい。

イエス様は言われました。

マタイ(口語訳)
11:24 あなたがたに言う。さばきの日には、ソドムの地の方がおまえよりは耐えやすい。

その後、当時の町々は、跡形もなく消えてしまいました。へりくだろう、悔い改めよう、としなかったのです。新約聖書によると、イエス様はたぶん、一度だけ、シロとツドンの方にいかれました。そして、あそこでイエス様は奇跡を行ったかどうかは、まったく分かりません。

マタイ
11:21 ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。

裁きの日が来ます。そうです。けど、私たちは救われているから裁かれないことでしょうと、皆、思うでしょう。

ヨハネ
5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

けど、私たち、救われたものにとって大切なのは、死んでから、報いを受けるか受けないかと言うことです。永遠のいのちを持っている人は、永遠のいのちを持っています。失う可能性がない。けど、報いを受けるかどうか。もう一箇所、ちょっと見てみますか。

第1コリント
3:11 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
3:12 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、
3:13 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
3:14 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
3:15 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

聖書、主の御言葉は、なんとはっきりしていることでしょう。

コリントにいる兄弟姉妹は主イエス様に出会って、救われた者でした。彼らの土台とはもちろん、イエス様でした。イエス様は永遠に生きておられるから、その土台も永遠に続きます。しかし、この土台の上に建てる金、銀、宝石、木、草、わらのあいだにはたいへんな違いがあります。金、銀、宝石は燃えません。けど、木、草、わらは、たちどころに燃えてしまいます。もし、ある人の立てた仕事がそのまま残れば、すなわち、金、銀、宝石の仕事ならば、その人は、報酬を受けるが、その仕事が焼けてしまえば、自分のたましいで、自分の力で作り上げた木、草、わらの仕事ならば、損失を被うるでしょう。けど、彼自身は、火の中をくぐってきたもののようではあるが、救われます。

私たちはイエス様の褒賞の座の前で喜ぶことができるのでしょうか。私たちは、その座の前に褒美をもらいたいと思うのでしょうか。それとも、全生涯を費やして作ったものが灰になってしまってもよいのでしょうか。私たちは、聖書の喜びの知らせを何回も聞きました。けど、十字架で成された救いを、本当に自分のものにしているでしょうか。高く引き上げられたイエス様が提供された、聖霊の満たしを自分のものにしているのでしょうか。もしそうであれば、まわりの人々が、それに気が付くようになり、自分の罪と望みのない状態を認めるようになるにちがいない。

今日、一番、大切なのはいったい、何なのでしょうか。今、話したように、へりくだること、徹底的に悔い改めることです。けど、それだけではない。二番目に大切なのは、誠実な心を持つことなのではないでしょうか。今までに、厳しい『わざわい』の声を聴くことができました。この、『わざわい』の声は結局、イエス様の御許に帰るための勧めの招きであります。それだけではなくて、悔い改めを要求する声とは、精神に忠告しているものでもあります。

マタイ
11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。
11:26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。

悔い改めることだけではなく、誠実な心を持つことも大切です。イエス様のことばによって明らかになったのは、すなわち、主の力あるわざと、恵みの表すことは隠されています。知恵のある人、賢い人々に隠されています。もし、私たちが主の偉大なる御わざを理解しようと思えば、壁にぶつかります、隠されているから。理解力でもって、イエス様の十字架の偉大さを理解することはできません。『天地の主であられる父よ、あなたを褒めたたえます』と、イエス様は祈りました。父なる神との結びつきこそが、イエス様の全てでした。

第1コリント
1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
1:29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
1:30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
1:31 まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。

主のご栄光は、幼子たちに明らかにされます。人間的な知恵と賢さでは、決して主の力あるわざを経験することはできません。『私もはもうダメだ。失敗するものであり、自分の能力も、知識も、学識もまったく役にたたないものである』と、思う人は幸せなのではないでしょうか。なぜなら、そういう人々に主は御栄光を現してくださるから。主は、我々のいわゆる知識を打ち砕かなければなりません。確かに、私たちは信じています。すなわち、イエス様の死は、我々の代わりの死であり、そして、イエス様は死んだままではなかったのです。復活なさいました。そして、昇天なさったのです。けども、我々にとって大切なのは、主の力を現す器(うつわ)となることなのではないでしょうか。主の偉大なる力のわざは、幼子、また、何もできないものだけに明らかにされます。

パウロは心から告白しました。ピリピ書、3章の8節は、すばらしい箇所です。彼は捕まえられ、刑務所に入れられました。この刑務所の中で彼は、この手紙を書いたのです。

ピリピ
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得(るためです。)

彼は、想像できないほど変えられました。大切なのは自分ではない、イエス様だけ。イエス様の証しとは、いったい、どういう証しだったでしょうかね。一文章だけですけど、イエス様は次のように告白しました。

ヨハネ
3:35 父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。

父は結局、私を愛しておられる。万物を私の手にお渡しになった、とイエス様は言うことができたのです。

ヨハネ
17:2 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子に(・・・・結局、私に・・・・)お与えになったからです。

こう、イエス様は言うことができたのです。

マタイ
11:27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。

私たちは、自分の理性で持って、また、理解力で持って、イエス様を知ることはできません。主が、上からの光を与えてくださらなければ、主が恵んでくださらなければ、主イエス様を本当の意味で知ることはできません。けど、求めれば、間違いなく、与えられます。イエス様に対する知識を持つよりも、イエス様を、もちろん、救い主として、また、自分を支配なさるお方として向かえ入れることこそが、大切です。

カペナウムの人々はたびたび、イエス様の話を聞き、イエスさんの力あるわざを見たのです。けど、彼らはイエス様を迎えよう、イエス様に導いてもらいたいと言う気持ちがまったく無かったのです。彼らは、なんといったかと言いますと、『私たちには一人の父がある、それは、神である』と。イエス様は、彼らになんと言ったかといいますと、『あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきたものである』と言われました。

今日、一番、必要なのは何でしょうか。一番、足りないことは何でしょうか。今、話したように必要なのは、徹底的に悔い改めることです。二番目、誠実な心を持つことです。

最後に、もうひと言葉だけ付け加えたいと思います。必要なのは、心からの献身です。今、話したようにイエス様はご自身を、知恵あるものや賢いものたちに明らかにしようとしなかったのです。けど、病人たち、罪を犯すことしかできないと悩んでいる人々にイエス様は救いの御手を伸ばすお方です。恵みに富みたもう主は招いてくださいます。私のもとに来なさい。全て、重荷をおって苦労しているものは、おいで。呼ばれているのは、重荷を負っている人だけ。他の人はどうせ、来ないからです。

イエス様は本当に比類なきお方です。イエス様は我々の病いを負い、我々の悲しみを担ったと聖書は言っています。イエス様は、もう既に、我々の病を負い、我々の悲しみを担ったお方です。おいで、私のところに来なさい。休ませてあげます。すばらしい約束です。

マタイ
11:28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。

イエス様しか、いえない言葉でしょう。

マタイ
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

私たちは、律法と罪のくびきを知っていますから、イエス様のくびきとはまったく違うものです。イエス様のくびきは、恵みのくびきであり、自由を与えるくびきです。イエス様のくびきは、イエス様とともになることであり、イエス様との交わりによって、元気付けられることです。自我の奴隷、罪の奴隷、悪魔の奴隷となった者が今や、イエス様の奴隷、主に仕えるしもべとなったことは、本当の喜び、また、幸せなのではないでしょうか。『わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い』と、イエス様は今日も、招いておられるのではないでしょうか。


終わり

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