2015年2月10日火曜日

父親のような忠告

父親のような忠告
2015年2月10日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第一テモテ
6:1 くびきの下にある奴隷は、自分の主人を十分に尊敬すべき人だと考えなさい。それは神の御名と教えとがそしられないためです。
6:2 信者である主人を持つ人は、主人が兄弟だからといって軽く見ず、むしろ、ますますよく仕えなさい。なぜなら、その良い奉仕から益を受けるのは信者であり、愛されている人だからです。あなたは、これらのことを教え、また勧めなさい。
6:3 違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、
6:4 その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、
6:5 また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。
6:6 しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。
6:7 私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。
6:8 衣食があれば、それで満足すべきです。
6:9 金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。
6:10 金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。
6:11 しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。
6:12 信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。
6:13 私は、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前で、あなたに命じます。
6:14 私たちの主イエス・キリストの現われの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、非難されるところのない者でありなさい。
6:15 その現われを、神はご自分の良しとする時に示してくださいます。神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、
6:16 ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。
6:17 この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。
6:18 また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。
6:19 また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。
6:20 テモテよ。ゆだねられたものを守りなさい。そして、俗悪なむだ話、また、まちがって「霊知」と呼ばれる反対論を避けなさい。
6:21 これを公然と主張したある人たちは、信仰からはずれてしまいました。恵みが、あなたがたとともにありますように。

今、読んできてくださった箇所に題名をつけようと思えば、「父親のような忠告」、あるいは、「親子みたい」なのではないかと思います。

イエス様の呼びかけとは、「おいで。わたしの所に来なさい。」結果として、真の喜びを知るようになり、心配から解放されるようになり、また、永遠のいのちを持つようになるから、安心して、将来に向かうことができるのです。誰でもありのままの状態で、イエス様のみもとに行くことができる。

けれども、いつまでも、ありのままの状態に留まり続けることは許されません。いちばん大切なことは、とにかく、イエス様のみもとに行くことです。つまり、主を知るために、イエス様のみもとに行くことです。もちろん、キリスト教を宗教の一種類として考えて、イエス様の所へ行くのではなく、イエス様を救い主として受け入れるために、イエス様のみもとに行くことが必要です。

イエス様を受け入れた人は、救い主を持っているのであり、そして、救い主を持っている者は、永遠のいのちを持っています。そして、永遠のいのちを持っている人は、もちろん、永遠に救われています。悔い改める用意のできている罪人として、イエス様のみもとに来る者を、イエス様は必ず受け入れてくださいます。イエス様によって受け入れられた人は、罪を赦され、神の子とされます。

どうして私たちは、今日の集いを持つようになっているか。結局、『イエス様のみもとに来なさい』という福音を宣べ伝えるためなのではないでしょうか。ドイツに次のような歌、簡単な子供の歌があります。内容は、「イエスのみもとに来なさい。イエス様のみもとに来なさい。イエス様のみもとに来なさい。今、ただちにイエスのみもとに来なさい。」これこそ、問題の解決です。

イエス様は、自由にしてくださいます。イエス様は、罪の赦しを提供しておられます。イエス様は、生き生きとした希望を与えてくださいます。イエス様を通して初めて、内容ある人生と、はっきりとした目的を持った意味のある人生が確立されます。イエス様のみもとに来るということは、救われることを意味します。

最初は、私たちが何を手に入れることができるかということに重点が置かれます。たとえば、罪の赦し、真の心の平安、真の喜びと生き生きとした希望などです。けど時代は、それからさらに進行しなければなりません。というのは、いつまでも、元の状態に留まることは許されないからです。すなわち、イエス様を通して私たちがいただいたものは、確かにすばらしいことです。しかし、さらに私たちが用いられなければなりません。すなわち、イエス様は何を望んでおられるか、イエス様を喜ばせるためにどうしたらいいかと問うべきです。

パウロは、テモテに手紙を書いたのです。テモテとは、パウロによって、「私の愛する子」と呼ばれたのです。

第二テモテ
1:2 愛する子テモテへ。

第一テモテ
1:2 信仰による真実のわが子テモテへ。

したがってテモテは、パウロの霊的な息子でした。彼はパウロから福音を聞き、パウロによってイエス様に導かれたのです。パウロとテモテは、親子のようでした。

ピリピ
2:22 しかし、テモテのりっぱな働きぶりは、あなたがたの知っているところです。子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました。

このすばらしい関係は、どのようにして生じたのでしょうか。このテモテは、ルステラで生まれました。彼の父はユダヤ人ではなく、ギリシャ人でした。そして、異邦人として、もちろん、偶像礼拝者であったことは間違いない。けど、テモテは、早くイエス様のみことばを聞き、しかも、彼の祖母、ルイスと彼の母、ユニケを通して、もちろん、みことばを聞きました。

第二テモテ
1:5 私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。

パウロは、第一回の伝道旅行のあいだ、ルステラを尋ねました。そして、その当時、若いテモテがイエス様の者になったことは確かです。七年後に、パウロは再び、ルステラにやって来ました。そして、彼は、テモテが信仰によって成長し、ただ単に、イエス様を救い主として、心に受け入れただけではなく、イエス様を主として、自分を支配なさるお方として、受け入れたのです。結局、主にのみ従って行きたいと、切に望むようになりました。

使徒行伝
16:2 (テモテは)ルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で評判の良い人であった。

テモテは、その後でパウロと一緒に働く同労者となりました。彼は、故郷を去り、パウロと共に町から町へと福音を宣べ伝えるようになったのです。霊的な息子が、同労者となりました。その内面的な結びつきは、ますます密接になったのです。パウロは、テモテに信頼することができると認識しました。それですから、彼は、テモテをある一定の同労の時の後、エペソに遣わし、そこで、主に仕えるようにさせました。この手紙の中でパウロは、テモテに次のように書きました。

第一テモテ
6:11 しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。
6:12 信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。

パウロはこのように書くことができたのです。このことは、テモテに対する父親のような忠告であり、それだけではなくて、愛の表現であります。もちろん、この言葉は、テモテにだけ当てはまるのではなく、今日、我々にも当てはまるものではないでしょうか。このことについて、一緒に考えてみたいと思います。

第一番目、逃避への命令。『これらのことを避けなさい』という表現が、何回も出てきます。二番目、従順への呼びかけ。すなわち、『熱心に求めなさい』とあります。そして、三番目、戦いへの要請。『勇敢に戦いなさい』とあります。

今日は、「逃避への命令」について、考えたいと思います。すなわち、これらのことを避けなさいとあります。

ヤコブ
4:7 ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。

このみことばによると、主に従うことの一面は、抵抗すること、譲らないことであります。けれども、もう一つの側面は、避けることです。ここの聖句においては、「避けなさい」と言われています。

状況によって、抵抗しないと言われたり、避けなさいと言われます。内面的な成長のため、また、自分の安全のため、ここでパウロは、「避けなさい」という父親のような忠告を与えています。四節から十節の中で、五つのことが挙げられていますが、それらに対してテモテは、「避けなさい」と言われています。

その第一は、誇りです。誇り、うぬぼれ、おごり、高ぶり、傲慢を避けなさい。誇りは、謙遜の反対です。よく知られている箇所ですけれども、我々の主について、書かれています。

ピリピ
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

ご自分では何もなさらず、僕(しもべ)のかたちをとり、ご自分を無になさったことが、イエス様の特長であったことがわかります。主の敵である悪魔については、イエス様と正反対のことが記されています。悪魔の考えについて、イザヤ書を見ると、次のように書かれています。

イザヤ
14:13 あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。
14:14 密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』

悪魔は――暁の子、明けの明星と呼ばれた者は――、主によって高く上げられました。そして彼は、自分自身でさらに高くなろうと試みました。悪魔は、誇るようになりました。五回も「私」、「私」、「私」という言葉が出てきます。光を運ぶ者と呼ばれた悪魔は高ぶりました。すなわち、彼はへりくだる覚悟を持たなくなりました。天においても、ただ謙遜な者だけが場所を持っています。自分自身で、自らを高くする者は、低くされます。彼は全然、避け所を持っていません。というのは、主なる神は傲慢な者に抵抗なさる方です。ヤコブは、次のように書いたのです。

ヤコブ
4:6 神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。

聖書全体の言わんとしていることは、それでしょう。

ヤコブ
4:6 神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。

自らを低くしたくないゆえに、主なる神が恵みを与えることのできない者に対しては、ただ永遠の滅びだけが留まります。『誇りを避けなさい』と、パウロはテモテに命令しました。

第一テモテ
6:4 その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。

傲慢になって、何一つ、悟らず、病気にかかっているという三つの事柄は、一つにまとめられています。なぜでしょうか。傲慢な者は、自分自身に対して、メクラであり、それによって、病気です。そういう人は、用いられません。そして、悪魔は喜ぶのです。

二番目に言っているのは、汚れです。知性が腐ってしまったという表現が出てきますね。創世記39章、7節から13節までに、私たちは、エジプトの王に仕えるポティファルの妻についての記事を読むことができます。彼女は、知性の腐った婦人でした。彼女は、汚れと情欲によって支配されたのです。

【参考】創世記
39:7 これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「私と寝ておくれ。」と言った。
39:8 しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。
39:9 ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」
39:10 それでも彼女は毎日、ヨセフに言い寄ったが、彼は、聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、彼女といっしょにいることもしなかった。
39:11 ある日のこと、彼が仕事をしようとして家にはいると、家の中には、家の者どもがひとりもそこにいなかった。
39:12 それで彼女はヨセフの上着をつかんで、「私と寝ておくれ。」と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。
39:13 彼が上着を彼女の手に残して外へ逃げたのを見ると、
39:14 彼女は、その家の者どもを呼び寄せ、彼らにこう言った。「ご覧。主人は私たちをもてあそぶためにヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとしてはいって来たので、私は大声をあげたのです。」

ヨセフは、彼女の誘惑に抵抗しても無駄だということが解ったので、逃げました。距離を置くことは、ここでは最前の助けです。アブラハムの甥であるロトは、ソドムの誘惑に抵抗しようとしました。しかし、日々、彼の魂は、彼が見たこと聞いたことを通して悩まされました。

第二ペテロ
2:8 というのは、この義人(・・・・すなわち、ロとは・・・・)は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。

初め、ロトは、抵抗できると思っていましたが、そういうわけには行きませんでした。彼は、主が、彼の安全は逃げることにあると、彼にお語りになるまで、言葉に言い表せないほど苦しみました。

創世記
19:17 彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」
19:18 ロトは彼らに言った。「主よ。どうか、そんなことになりませんように。
19:19 ご覧ください。このしもべはあなたの心にかない、あなたは私のいのちを救って大きな恵みを与えてくださいました。しかし、私は、山に逃げることができません。わざわいが追いついて、たぶん私は死ぬでしょう。

あらゆる不純な思い、あらゆる不純な言葉、あらゆる不純な行いを避けなさい。主の恵みにより、私たちは、子羊である主イエス様の血潮で洗い清められました。けど、目を覚ましていることが、どうしても必要です。悪魔は、あらゆる手段と方法を用いて、我々をダメにしようと誘惑します。

創世記
39:12 それで彼女はヨセフの上着をつかんで、「私と寝ておくれ。」と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。

ヨセフは、妥協しないで逃げました。彼は上着を失いましたが、良心を保ちました。人間的に考えるなら、彼は多くのものを失いました。すなわち、彼は、地位を失い、牢獄に入れられたのです。

三番目、不満足です。前に読みました八節でしたか、「衣食があれば、それで満足すべきです。」イスラエルの民について、民数記を見ると、次のように書かれています。

民数記
11:1 さて、民はひどく不平を鳴らして主につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。

民が、ひどく不平をもらしたことが書かれています。そのイスラエルの民は、主なる神の奇跡的な御業によって、自由を得ました。エジプトの奴隷の状態から解放され、彼らは雲の柱、火の柱について行きました。けれども、これらの信者たちと救われた人々は、『不平を鳴らした』と書いてあります。彼らは不満でした。不平を鳴らす者は、主を見失います。不平を鳴らす者は、それによって意識的に、あるいは、無意識的に主に文句を言います。はっきりとした態度を取るべきです。

パウロは、『不満を避けなさい』と書いたのですね。ピリピ書4章11節、「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」と、彼は言うことができたのです。パウロは、どうしてここで「学んだ」という言葉を使ったのでしょうか。なぜなら、人は、それを生まれつき持ってはいないからです。いろいろなつらいことを通して、このことを学ぶようになるのです。

四番目、愚かで有害な多くの欲も避けるべきであるとありますね。

第一テモテ
6:9 金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。

その内の多くのものは良いものですけど、また、いくつかのものは悪いものです。ここで、パウロは、愚かな欲が存在する可能性について書いています。それによって支配されてしまう人は、害に苦しみます。聖霊は、あらゆる信者の内に住んでいます。そして、大切なことは、聖霊が我々を支配し、決定することができることです。聖霊の支配にないすべての欲は、我々を損なうことになります。ですから、私たちは、それを避け、逃げなければなりません。

五番目、金銭欲です。

第一テモテ
6:10 金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。

金銭は、祝福になり得ますが、呪いとしても作用します。金銭に対する我々の態度は、決定的に重要なのではないでしょうか。私たちが持っているすべてのものは、自分の自由にはできません。それは、委託された財産です。

多くの人は、収入の十分の一が捧げられなければならないと言います。旧約時代、旧約聖書においてはそうでした。けど、新約聖書においては、主が、十分の一では満足なさらないで、すべてを意のままになさりたいと明言されています。「主よ、私は何をしたら良いのでしょうか。」この態度でもって、我々は瞬間、瞬間、主の前に立つべきです。

聖書の中で、私たちは、信者が金持ちになってはいけないということを、どこにも読み取ることができません。アリマタヤのヨセフという男は、金持ちでした。だから、彼は、イエス様がみすぼらしく葬られることのないようにすることができました。彼は、自分のために作られた墓を提供しました。バルナバという男も金持ちでした。彼は、土地を売りましたので、困る人は誰もいませんでした。

使徒行伝
4:34 彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来(た。)

アブラハムは、主なる神の友と呼ばれました。そして、彼について、聖書は、彼が豊かであったと言っています。

創世記
13:2 アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。

主なる神は、信じる者が豊かであってはならないとは、どこにもおっしゃっておられません。しかし、金銭愛そのものは決してよくないと明言されています。

第二列王記
5:20 そのとき、神の人エリシャに仕える若い者ゲハジはこう考えた。「なんとしたことか。私の主人は、あのアラム人ナアマンが持って来た物を受け取ろうとはしなかった。主は生きておられる。私は彼のあとを追いかけて行き、必ず何かをもらって来よう。」

5:27 「ナアマンのらい病は、いつまでもあなたとあなたの子孫とにまといつく。」彼は、エリシャの前から、らい病にかかって雪のように白くなって、出て来た。

預言者エリシャは、ナアマンの富を意識して、拒みました。けど、彼の召使いゲハジは、それをどうしても欲しかった。彼は富を愛しました。聖書は、ゲハジが嘘をつき、それによって、金持ちになったことを示しています。けれども、結果として彼はらい病になりました。彼は、みことばの10節を経験しなければならなかったのです。すなわち、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。」

【参考】第一テモテ
6:10 金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。

主よりも富を愛する者は、信仰からはずれてしまいます。その人は、もはや、主と結びついていない。金銭愛は、非常に大きな危険です。それですから、金銭愛を避けなさいという明白な命令がなされています。この命令は、真剣に受け取らなければならないのではないでしょうか。

逃避への命令、すなわち、これらのことを避けなさいとあります。

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