2015年2月17日火曜日

イエス様とは、どなた?

イエス様とは、どなた?
2015年2月17日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

マルコ
1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。
1:5 そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
1:6 ヨハネは、ラクダの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
1:7 彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。
1:8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」
1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
1:10 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。
1:11 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」
1:12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。
1:13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。
1:14 ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。
1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

昨日は、サダヨシ兄弟の誕生日でした。彼の話によると、九十歳から年配になるんですって。他の人々はみな若者です。おそらく、今日の集いも若者の集いではないでしょうか。歌いましょうかね?サダヨシ兄のために。ちょっと歌いましょうか。♪ハッピー・バースデー!ちょっと気の毒、次の誕生日まで一年、待たなくちゃいけない。

今日は、一つのもっとも大切な問いについて考えたいと思います。すなわち、主イエス様とはいったいどなたでしょうか。もっとも大切な質問だと思います。

我々の場合でも、まだ知らない人々のことを聞いたり、実際に会ったりした時の第一の印象が、決定的なものになることが少なくない。ここで私たちは、今まで見たことも聞いたこともなく、全然、知らない人イエス様が、マルコ伝一章によって受けた印象で、どのような方であるか、考えることにしましょうか。

この一章を読んで、すぐに感じることは、イエス様というお方が偉大な人格者であったということです。イエス様は、絶対的な権威と力を持っておられました。イエス様とは、いったいどなたなのでしょうか・・・・という問いは、たくさんある中でも、とくに重要な問いなのではないでしょうか。

多くの人々がこの問いに対して、多くの本を書いています。けれども、この問いに正しく答えられる唯一の権威ある書物は、言うまでもなく、聖書だけです。聖書を見ながら、イエス様のいわば十枚のスナップ写真を見ていくことにしましょうか。

私たちは、スナップ写真をアルバムに収める時、それを見てわかるように、一枚一枚の写真に、簡単な説明書きと見出しを書き込むことが便利です。それと同じように、イエス様の人格を知るため、それぞれの異なったスナップ写真に、イエス様の見出しを付けて見ることにしましょう。

まず、第一に、バプテスマのヨハネにききましょうか。「どう?イエス様とはどなたでしょうか」と。ヨハネは、幼い時からイエス様を知っており、その上、親戚関係にあるため、いろいろ細かいことを知っているはずです。

マルコ
1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。
1:5 そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
1:6 ヨハネは、ラクダの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
1:7 彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。
1:8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」

ヨハネは、イエス様が、私よりも偉大であり、権威があり、聖霊によってバプテスマをお授けになるゆえ、神に他ならないと言っています。そうすると、イエス様についての第一の見出しは、何とつけたらよいでしょうか。

イエス様は強いお方、あるいは、力あるお方であると、バプテスマのヨハネは答えています。ただし、イエス様がヨハネよりも力があるという意味は、ただ単に、程度の差にすぎないということではなく、天と地の違いがあるということです。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたのに対し、イエス様は、聖霊によってバプテスマを授けたわけです。だから、ヨハネが人間であるのに対して、イエス様は、神に他ならないことです。

ヨハネは、人間であるため、時々は思い違いをするようなこともあり得ます。そのようなことは今日、私たちの身近でもしばしば起こっていることです。たとえば、ある若い男の人が、一人の女性を好きになった場合を考えてみましょう。彼は、世界中で彼女がいちばんすばらしい女性だと思いこむことでしょう。そして、ことさらに、彼女を美しく見すぎるような傾向をなしとはしません。そのような恋愛中の男性は、あんまりにも夢を描いて、彼女を偶像崇拝する傾向も出てくるのです。けれども、結婚すると、しだいに彼女の欠点が目についてきます。そこで、彼は、彼女に対して、全く失望してしまうような結果に終わってしまうこともありうることです。

このように思い違いをした人間は、結果として、失望に終わってしまいます。そのように人間は、時として、思い違いをすることがあり、ヨハネといえども、同じく人間ですから、その可能性が全くないとは言えません。

今は、人間であるヨハネに尋ねましたが、今度は、主なる神ご自身にききましょうか。すなわち、最高の権威を持っておられる主なる神、ご自身にきいてみることにしましょう。

マルコ
1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
1:10 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。
1:11 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

主なる神は、どのような答えをお与えになるでしょうか。主なる神は、あいまいにごまかしたり、謎を出されたりするようなお方でしょうか。決して、そうではありません。主なる神は、はっきり主イエスがわたしの子であると言っておられます。これこそ、主なる神ご自身の権威あるお答えです。どの子供でも、この答えを理解することができます。主なる神は、非常にはっきりと明確に、イエスが神の子であると仰せになりました。

私たちは、イエス様が誰であるか、もうわかっています。主なる神ご自身が仰せになったからです。したがって、私たちは、二枚目の写真に、「イエスは神の子である」という見出しを付けることができます。

その後で、イエス様は、悪魔に試みられました。

マルコ
1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
1:10 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。
1:11 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」
1:12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。
1:13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。

イエス様が、サタンの誘惑にあわれるという非常に困難な状態に置かれたことがわかります。サタンは、イエス様をだめにしようと思って、あらゆる誘惑を試みました。もっとも良い人間についても、その人が誘惑に陥るのは、それぞれ欲に引かれ、誘われるからであると、聖書は言っています。

ヤコブ
1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

けれども、イエス様の場合には、そうではありませんでした。イエス様は、悪の誘惑に陥るようなお方ではありませんでした。イエス様は、全く罪を知らなかったお方です。なぜならば、欲がはらむと罪を生み、罪が熟して死を生みだすように、罪人は、内側からの罪を持っているのに対して、イエス様は、外側からの試みにあわれたにすぎなかったからです。

三つの試みに対して、イエス様は、ご自身が自由意思で、自発的に、父なる神に従っていることを証明されたのです。このようにイエス様が、父なる神に全く忠実に従ったために、アダムやエバが悪魔の手に陥った場合とは違って、悪魔に対する完全な勝利を身を持って示されたのです。もしも、この時に悪魔が、イエス様に勝っていたならば、全人類は、永久に悪魔の虜になっていたことでしょう。アダムが悪魔の誘惑に負けたため、全人類に罪が入り込んでしまったと聖書は言っています。

ローマ
5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。
5:13 というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。
5:14 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。
5:15 ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。
5:16 また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。
5:17 もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。

イエス様は百パーセント、完全に父なる神により頼んだため、悪魔に対する勝利者となられたのです。イエス様は、四十日のあいだ、悪魔の試みにあわれました。モーセは、四十日間、山にいたことも聖書に記されています。モーセにとって、これが主とのすばらしい交わりを意味していたに違いない。

出エジプト記
24:18 モーセは雲の中にはいって行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた。

34:28 モーセはそこに、四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、彼は石の板に契約のことば、十のことばを書きしるした。

エリヤという預言者も四十日、荒野にいたと、聖書は言っています。そのあいだ、主が親しくご臨在してくださり、助けてくださっただけではなく、天使が食べ物を備えてくれたと、聖書は言っています。

第一列王記
19:4 自分は荒野へ一日の道のりをはいって行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」
19:5 彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい。」と言った。
19:6 彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水のはいったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。
19:7 それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」と言った。
19:8 そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。

神の僕(しもべ)であるイエス様は、四十日のあいだ、荒野にいたとき、獣もそこにいたが、食べ物は全然なかったのです。モーセは、主なる神と交わり、エリヤは、御使いと共におり、イエス様は、猛獣と共にいたことがわかります。このイエス様は、万物の創造主に他なりません。

創造主が生き物を造られた時、すべての動物は、アダムのところに来て、アダムに名前をつけられたと聖書は言っています。もちろん、その時、アダムはそれらの動物に対して、何らの不安や心配も持っていませんでした。けど、アダムとエバの罪によって、これらの動物は猛獣になってしまったのです。千年王国の時代には、パラダイスの時と同じように、猛獣はその性質を失い、おとなしい動物になり、まむしも乳飲み子と共に戯れるようになるとあります。

イザヤ
11:6 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。
11:7 雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。
11:8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
11:9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。

イエス様の周りにいた獣は、明らかに猛獣であって、残念な性質を持っていましたが、イエス様の中に、創造主の人格を認めたため、危害を加えることができなかったのです。イエス様の周りには、獣だけでなく、最後に御使いたちもいて、イエス様に仕えていたと書かれています。

悪魔は、イエス様に対して、どうすることもできませんでした。このようなイエス様に対して、私たちは、「勝利者」という見出しを付けることができます。主イエス様は、悪魔に荒野に導かれ、試みられました。けども、イエス様の毅然とした態度によって、悪魔は、退かなければならなかったのです。イエス様は、悪魔に対する勝利者であると言えましょう。悪魔の試みが終わった後、イエス様は公に伝道活動を始められました。

マルコ
1:14 ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。
1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

この二節を見ると、イエス様がいよいよ、ご自分の使命と奉仕を初められたことがわかる。イエス様はこの時、神の国の王として現れました。その頃、バプテスマのヨハネは捕えられて、獄中にいたこともわかります。

そのような情勢の中で福音が宣べ伝えられることは、イエス様にとっても危なかった。危険でした。それにもかかわらず、イエス様はヘロデの支配を恐れることなく、主なる神の権威と栄光が支配すべきことを、大胆に宣べ伝えました。イエス様は次のように言われたのです。「時が満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」ここで言われている神の国とは、イエス様を受け入れて、主として信じた者たちの生活すべてを、主が支配なさることを意味するのです。

福音とは、全く新しいものであり、救いのための唯一の手段であり、イエス様を信じる者にとっての逮捕を意味しています。そして、この喜ばしい訪れ、あるいは、主なる神の啓示を明らかにするために、父なる神は、一人子であるイエス様をこの世に遣わされました。

その頃は全くの暗黒時代にあったにもかかわらず、イエス様が闇の支配を恐れることなく、力と権威をもって、大胆に福音を宣べ伝えられたことを考えると、我々の主イエス様を特長づける見出しとして、「最高の権威者」という表現を用いることができるのではないかと思います。

イエス様は、誰をも恐れることなく、大胆に、率直に、権威を持って、福音を宣べ伝えられました。その権威は、人間の権威ではなく、主なる神の権威に他ならなかった。したがって、そのことから、イエス様が最高の権威者であることがわかります。

ドイツに、親子とも牧師をしている家庭がありました。息子は、牧師としての最初の説教をするために、一生懸命、準備をして、自分の説教に大いなる自信を持つことができるようになりました。別に、これといった失敗もなく、最初の説教が終わった後で、意気揚々と父親のところへやってきて、次のように言ったそうです。「お父さん、どうだったの。僕の第一回目の説教は、生まれて初めてやった説教は、どう?」父は答えて言いました、「まあまあ。」これを聞いた牧師の息子は、不満足な顔をして、黙ってしまったのです。それを見た父親は、次のように言いました。「お前の説教には、イエス様が、全然、出て来なかったようだが。」すると息子は、すかさず言いかえしました。「だってお父さん、今日、僕が説教した聖書の箇所には、イエス様の名前は全然、出てこなかったでしょう。だから、イエス様のことを話さなくてもよかったのではないの。」

それを聞いた父親の牧師は、静かに答えました。「それは違う。たとえイエス・キリストの名前が直接に出てこなくても、聖書の箇所はどこを取っても、すべて直接、あるいは、間接的にイエス様について、書き記されているのだよ。つまり、聖書全体は、いつもイエス様を中心にして、イエス様ご自身のことを説き明かししているということを忘れてはならないよ」と、答えたそうです。

このように、聖書の中心テーマは、イエス様ご自身である。だから常に、「イエス・キリストというお方は、どのようなお方なのでしょうか」という問いを繰り返し、持ち続ける必要があります。

私たちは、今までマルコ伝一章を通して、イエス様が、第一に強いお方、あるいは、力あるお方であると、バプテスマのヨハネは答えております。ただし、イエス様が、ヨハネよりも力があるという意味は、ただ単に、程度の差にすぎないということではなくて、天と地の違いがあるということです。すなわち、ヨハネは、水でバプテスマを授けたのに対して、主イエス様は、聖霊によってバプテスマを授けたわけですから、ヨハネが人間であるのに対して、主イエス様は主なる神に他ならないわけです。

イエス様とは、どなたでしょうか。力あるお方、神の御子、勝利者、最高の権威者であられます。このイエス様を知ることこそが、最高なのではないでしょうか。

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