2015年2月3日火曜日

救われた目的(2015年)

救われた目的
2015年2月3日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第一コリント
9:26 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
9:27 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

今日のテーマは、救われた目的。どうして、救われたのでしょうか?あるいは、信じる者の使命とは、いったい何なのでしょうか?

もちろん、キリスト者になること、すなわち、救われることとは、考えられないほど大切です。救われることとは、救い主を知ることによって、真の救いを自分のものにすることです。

言うまでもなく、救いを求めようとしなければ、決して、救われません。だから、主は、いろいろな悩み、また、苦しみを与えてくださいます。けれども、主は、人々がいろいろなことで苦しむことを別に望んでいない。けれども、苦しむこととは、ある人は、偶然だ、運命だ、あるいは、天罰だと考えています。けれども、人間を罰する神は存在していないのは、すばらしい福音そのものです。

一時的な問題が解決されれば、救われると考える人もいます。主人が救われれば、子供が聞く耳を持つようになれば、私の病気が癒されればありがたい、救われると思う人もいっぱいいます。けれども、真の神は、人間のちっぽけな問題を解決するよりも、問題と悩みを、愛の表れとして与えてくださいます。

根本問題の解決とは、主を知ることです。個人的に知ることです。ダビデは、三千年前の王様でしたけども、彼は主を知るようになったから言えたのです。

詩篇
118:14 主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。

救いとは、ものではない。宝物でもない、主ご自身です。イザヤも同じ事を経験したから、言ったのです。

イザヤ
12:2 見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。

今、話したように、救いとはものではない。主ご自身です。イエス様を産んだマリヤは告白しました。

ルカ
1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」

すばらしい告白です。救いの神を知ることによって、初めて、私たちはこの地上において、本当に満たされた生活を送ることができます。満たされた人生を送るために、永遠のいのち、主なる神との平和、罪の赦し、したがって、イエス様が私たちを心配し、導き、そして、守っていてくださるという確信が、生活の土台とならなければなりません。そして、私たちが死んだ後は、永遠にイエス様と交わり、栄光を共にすることになるという確信こそが、最高の宝物なのではないでしょうか。

いつまでも主と共になるという事実について考えると、結局、主を礼拝せざるを得ません。すべて、この世のものは過ぎ行き、はかないものです。ただ永遠なるものだけが、いつまでも存在するのです。

そのために、永遠なるものを目指して、私たちも一生懸命にならなければならないのではないでしょうか。したがって、私たちはこのような信仰の戦いをする時には、私たちが持っている霊的なエネルギーを全部、出しきって、主のために生きなければなりません。

では、いったい我々の目印となるものは、いったい何でしょうか。第一番目、主のみことばである聖書を愛し、それから、第二番目、信じる者の主にある交わりを求めて、また、三番目、ことごとくに感謝をもって、祈りと願いとを捧げることを挙げることができます。また、第四番目、悪いとわかっている物事や人々から離れることも、イエス様の勝利の表れです。

すべての主イエス様のものとなった兄弟姉妹の持っている使命とは、まさに、イエス様ご自身を証しすることに他なりません。イエス様が、我々の中で大きくなればなるほど、私たちも真剣に、イエス様を証しせざるを得なくなります。つまり、私たちが外に向かって証しをするということは、すべて、イエス様との関係にかかっています。私たちが聖霊によって満たされなければならない。そして、満たされれば満たされるほど、救われている事実を、感謝と喜びを、一人でも多くの人々に告げ知らせたいという気持ちが強まってきます。

我々一人ひとりが、イエス様が我々にとっていかなる意味を持っているかを、明らかにしなければなりません。イエス様のものとなった兄弟姉妹にとって、証しをするということは、誰にもできることです。そして、証しをするということは、どこでもできるのです。言葉や行いでもって証しをするということは、その人の環境が良いか、悪いかということとは関係ない。イエス様が我々の心の目を開いてくださることができれば、私たちはその時こそ、感謝と喜びをもって、大胆にイエス様を証しすることができます。

しかし、証しをするということは、常に戦いと結びついています。聖書は、戦いの代わりに、時々、競争という言葉を使っています。この競争は、私たちの目前にある主の目標を目指している。すなわち、私たちは、キリスト・イエスにおいて召してくださる神の勝利を得ようとつとめているのです。ピリピ人への手紙において、パウロはそのように書いたのです。

ピリピ
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

コロサイ書の中にも似た箇所があります。

コロサイ
3:1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
3:2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。

それから、戦いだけではなく、いわゆる拳闘について、ちょっと一緒に考えてみましょう。ギリシャ時代の競技の主な種目の二番目は、いわゆるボクシング、すなわち、拳闘でした。これは、もっとも激しい競技の一つでした。

これは、ボクサーが互いに打ち合い、とくに顔を打つことを目的とするところに、その本当のおもしろさがありました。決定的なパンチは、目の下を打つことであり、それは、今日、ノック・アウトと呼ばれているようなものでした。パウロは、この表現を聖書の中で用いています。

第一コリント
9:26 私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
9:27 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

失格者になる可能性があると、パウロは認めています。ここで、『自分のからだを打ちたたいて服従させる』とは、自分のからだにパンチを与え、時に目の下にパンチを与えることによって、自分自身のからだを、完全にノック・アウトせれることを意味しています。すなわち、これは、次のようなことを意味しています。キリスト者は、自分の命を少しも惜しいとは思わないことです。すなわち、もしも、自分自身の考え方、自分だけの願い、また、楽な生活を送ることを求めることが、自分にとって、勝利の戦いを勝ち取るために妨げとなるならば、それらのものは、はっきりと否定しなければなりません。

私たちは、霊を汚すあらゆるものから目をそらすべきです。また、すべての悪口などに対しては、耳をふさぐべきです。ヤコブは、このことについて、次のように書いたのであります。

ヤコブ
3:7 どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。
3:8 しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。

3:10 賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。

ヤコブは、こう当時の信じる者に書いたのであります。

当時のギリシャ時代の第三の競技種目は、レスリング、すなわち、日本の相撲のようなものでした。この種目は、二人が互いに取っ組みあって、相手を倒し、地面にからだを着けることによって、勝利を決めたのです。パウロは、エペソ書の六章で、この戦いについて述べていますが、それは、両者が非常に接近して、手掴みで戦うほどの白兵戦、あるいは、肉薄の戦いを意味しています。

エペソ
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

パウロは、我々の敵を無視することは許されないということを知っていました。闇の力に対して、真剣に取り組もうとしない者は、悪魔の奴隷となり、その結果、狂信的になるような犠牲を自ら招くことになります。この狂信的な状態に入ると、自分自身がメクラになり、思い上がり、その危険がわらなくなり、ものを見る目が鈍ってしまい、倫理、道徳、その他、イエス様に対する正しい態度が間違ったものになります。

そのような状態が続くと、私たちの信仰はだめになり、それを見た敵は、ある時に突然、攻撃を加え、肉の罪を通して、我々を打ち負かそうと試みる、それは、まさに肉の罪がもたらす結果です。

以前には、イエス様に祝福された兄弟姉妹が、このような状態に陥って、悪魔の攻撃を受けたために信仰がだめになって、滅茶苦茶になった例があります。それゆえ、パウロは、その敵を見失ってはならないと警告したのです。私たちは、その敵がすぐ傍にいることに対して、絶えず目を覚ましていなければなりません。そして、その敵との戦いに勝たなければならない。その敵は、私たちをたたき潰そうと、いろいろの誘惑を試みるに違いない。

そのとき、決して、忘れてはなりません。私たちは、常に戦う者であるべきです。その戦いをする時に、私たちは、決して落胆してはなりません。なぜならば、イエス様がご臨在しておられ、共に戦ってくださるからです。イエス様は、その敵よりもはるかに強いお方です。それですから、私たちは、主の武具で身をかため、イエス様の偉大な力によって強くなるべきです。そして、その戦いに勝利者となるべきです。

この敵との戦いで、最後には、必ずイエス様の力によって、敵が大地にたたき潰され、負けることに決まっています。この闇の力との戦いで、もっとも大切なことは、言うまでもなく、祈りです。

祈りは、ただ単に、生けるまことの主なる神の子となった我々が、天の父なる神と話し合うことだけではない。また、イエス様の名を呼び求めたり、褒め称えたりすることだけでもありません。また、単に礼拝をしたり、与えられた祝福のために感謝したりするだけでもありません。また、求めるところを、主に申し上げることだけでもありません。ピリピ書4章6節、皆さん、暗記していることばです。

ピリピ
4:6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

真の祈りは、上に述べたことと共に、さらに闇の力に対する戦いをも意味していることを、忘れてはなりません。聖書は、いろいろなところで祈りの戦いについて述べています。このように、祈りの中で、共に戦い合う兄弟姉妹は、どうしても必要です。もしも、そのような祈りの戦いをしないならば、悪魔は、我々を眠り込ませ、その策略の中に落とし込ませようとするに違いない。

けれども、いついかなるところにおいても、祈りの戦いによって悪魔に打ち勝った、本当のキリスト者がいたことは、歴史的な事実です。本当に祈る人は、悪魔よりも強い。祈りこそ、悪魔がどうすることもできない本当の力です。

ここで、ひとつのドイツの教会にある絵のことを思い出します。それは、天秤測りの片方の皿の上に、一人の子供が祈っており、反対側のお皿には重りが乗っている。しかも、その大きな重りの上には、三人の悪魔の遣いが、そのお皿を下に押し下げようとし、そのお皿の下には、二人の悪霊が同じく、そのお皿を下に引き下げようとしています。けれども、悪霊たちが、いくら一生懸命になっても、上にあがってしまったお皿を、下に動かすことはできません。このように、祈りの力が、悪霊たちよりもはるかに強いものであることを、この絵を描いた人は、表わそうとしたのではないでしょうか。

一人の子供のような祈りの力は、全世界の悪霊よりも、はるかに強いのです。信仰を持って祈ることは、悪魔の攻撃や、この世の権威などよりも、はるかに力があります。信仰は、イエス様の力であり、あらゆる悪魔の力よりも勝っているものです。

ヤコブ
5:16 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。

祈る者は、すなわち、勝利者です。別の言葉で表現するならば、イエス様ご自身こそ、真の力です。イエス様は、ただ単に、最後の審判者であるばかりでなく、競技場で競技をする者の力であり、泉です。

イエス様は、我々に次のようなことを命令しておられます。あなたがたは、競技者、競争者となりなさい。そして、いつも上にある目標を見ながら走りなさい。枝葉のことは、かまわずに、ただ上にあるものだけを見つめて、走らなければなりません。本当のボクサー、拳闘家となりなさい。パウロが言っているように、自分のからだを打ちたたきながら走ろうではないか。

そして、また、本当のレスラーとなりなさい。その戦いは、決して、血肉に対する、人間に対する戦いではない。目に見えない世界に対する戦いです。このように、三つの命令があります。競技者、拳闘家、レスラーとなりなさい。主の命令は、決して、我々にとって不可能なことを要求することではなく、その命令を守り、従うための備えの力を常に与えてくださるものです。

この戦いの秘訣は、言うまでもなく、イエス様の十字架にあります。この十字架が、もしも単なる教えであるならば、何にもなりません。けれども、イエス様の十字架は、実際に、我々の生活に入り込んでくるものであり、それを私たちは、日々、体験的に知ることができるものです。

私たちのために十字架につけられた主イエス様だけが、私たちの本当の主であり、支配者で、私たちは、その事実を日常生活の中で体験することができます。私たちにとって、信仰生活と日常生活は、一体とならなければなりません。もし、上からの力が日常生活の中で、私たちを動かす原動力となるならば、本当に幸いと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿