2015年1月18日日曜日

レビ記より

レビ記より
2015年1月18日、吉祥寺福音集会
ゴットホルド・ベック

レビ
16:15 アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持ってはいり、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける。
16:16 彼はイスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。彼らの汚れの中に彼らとともにある会見の天幕にも、このようにしなければならない。
16:17 彼が贖いをするために聖所にはいって、再び出て来るまで、だれも会見の天幕の中にいてはならない。彼は自分と、自分の家族、それにイスラエルの全集会のために贖いをする。

17:11 なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。

あと二つの言葉を、お読みしたいと思います。マルコ伝の中のいちばん大切な言葉なのではないかと思います。

マルコ
10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

犠牲になるために、イエス様は来られました。

マタイ
26:28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

事実、イエス様は、十字架の上で血を流され、息を引き取られたとき、『すべてが終わった!』と叫ばれました。すなわち、全人類の救いがもたらされたと。(父なる神が)わたしに行なわせるためにお授けになったわざを、わたしは成し遂げましたと、イエス様は言うことができたのです。遣わされた目的とは、もちろん、いろいろなことを教えるためではなく、犠牲になるためです。救いのみわざは、救い主の死によって完成されました。

父なる神は、イエス様がよみがえられ、昇天なさり、高く引き上げられることによって、本当に救い主、罪をになった者、勝利者であることを明らかに宣言してくださったのです。この事実について、パウロもエペソ書の中で、次の言葉で書き記したのであります。

エペソ
1:20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
1:21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

ただ、救い主として、解放者としてではなく、かしらとして、すべてを支配したもうお方として・・・・。キリストは、神は――父なる神は――、イエス様による罪の購いが十分である、完全であると宣言されました。そして、その瞬間から、イエス様の十字架とよみがえりの福音が世界中に述べ伝えられるようになりました。

この十字架の福音こそ、人類の罪を贖うためのただ一つの道です。このイエス様の血による罪の購いという福音は、全世界に、いかなる時代にも、多くの人々を御言葉によって救いに導いたのです。

ダビデは、罪の苦しみの中に主を呼び求め、赦しの確信を得た後、主が新しいよろこびと望みを与えてくださったと告白しました。四十篇の中で、三千年前にダビデは、告白したのであります。

詩篇
40:1 私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、
40:2 私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。
40:3 主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。
40:4 幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。
40:5 わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。

すばらしいダビデの告白です。この新しい賛美とうたは、救われた人、全ての心の中に、とこしえに宿り続けます。将来のことについて一箇所、読みます。

黙示録
5:12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」

なぜ、このようにして、救われたよろこびの新しい賛美が歌い続けられるのでしょうか?なぜならば、主が私たちを愛し、その血によって、私たちを罪から解放してくださったからです。

黙示録
1:5 また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放(った。)

すべて、主イエス様を信じ、受け入れたものは、このようなほふられた小羊の賛美を捧げるのです。私たちは今もなお、罪の元に苦しみ、悩み、嘆き、呻いている人々に対して、イエス様の血による罪の赦しと贖いが既に成就されたことを延べ伝える義務をもっています。

誰でも、イエス様の血の贖いよって、本当の救いが与えられているというこの事実を、知らなければなりません。知りたいと思うならば、必ず知るようになります。福音は決して、隠された教えてはない。決して、頭の良い少数の人々だけが分かる難しい教えてもありません。福音は、すべての人のための神の言葉です。

人間の最大の問題とはいうまでもなく、罪の問題です。従って、いちばん大切な問題は、我々の罪がもうすでに赦されているかどうかということです。聖書を通して、罪の赦しが既に提供されています。これこそ、人生の高機会です。主なる神の救いの計画は、非常に大きく、かつ、深いものであるがゆえに、主なる神だけがそれを解き明かすことができます。したがって、その主の救いのご計画を、例話などを使って、人間が解き明かそうとしても、ごく一部しか、明らかにできないほど深いものです。

また、旧約聖書の中に出てくる幕屋を通して、主は、主のご計画を見る材料として、書き記したのであります。旧約聖書の中で、いちばん大切な日は、いわゆる、贖罪の日でした。そして、その日を通して、イスラエル人は、もっともよく、救いの奥義を知ることができたのです。この日は、旧約聖書の最高の日を意味し、イスラエル人にとって、もっとも意味の深い日でした。そして、すべてのイスラエル人にとって、その日は聖なる日でした。今日でもこの日は、イスラエルの最高の祝祭日とされています。

しかし、新約聖書の光によって、私たちは、その日の本当の意味を知ることができます。新約聖書の光によらなければ、本当の意味はわからず、そのままになってしまったことでしょう。贖罪の日と言うもっとも大切なこの日こそ、イスラエル人にとって、罪が赦され、購われたたかけがえのない日でした。この救いの日の実際の成就は、もちろん、ゴルゴダの丘、主のなしてくださったことです。

私たちは贖罪の日から、ひとつの出来事だけを取り出して、考えましょうか。その意味は結局、罪は支払われたということです。もう一回、レビ記16章に戻ります。

レビ
16:15 アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持ってはいり、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける。
16:16 彼はイスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。彼らの汚れの中に彼らとともにある会見の天幕にも、このようにしなければならない。
16:17 彼が贖いをするために聖所にはいって、再び出て来るまで、だれも会見の天幕の中にいてはならない。彼は自分と、自分の家族、それにイスラエルの全集会のために贖いをする。

その当時、イスラエルの民は、神の愛を忘れ、とんでもない罪を犯してしまいました。この主なる神の前に犯した罪は、債務となったのです。長い年月のあいだに、この債務は積もり積もって、莫大なものになってしまいました。

いわゆる贖罪の日は、義なる聖なる神の前を歩む日でした。すなわち、主なる神は、罪を犯した者は全て死ななければならないと、エゼキエル書十八章四節に、厳かに言明したのです。

【参考】エゼキエル
18:4 見よ、すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。

従って、イスラエルの民の状態は、みんな罪を犯したため、死の判決を宣告されていたのです。主は、ご自身の義を無にすることはできませんでした。主は、義のために、罪を犯した者はすべて追放しなければならなかったのです。そのため、主は、実際、死の判決をくださざるを得なかったのです。しかし、実際は、イスラエルの民ではなく、代表者が裁かれたのです。すなわち、代表者、代理者として羊を燔祭に捧げることが行われました。

この羊は、イスラエルのための犠牲となったんです。そして、それ対して、しるしは羊を殺し、血を流すことによって示されました。そして、イスラエルの民の罪のために羊をほふり、その血を贖罪所の上で、また、贖罪所の前に注がなければならなかったのです。この贖罪所は、神の箱の蓋であり、箱の中には、律法と戒めとを書き記した石の板があり、この箱の蓋に、ほふられた羊の血が流されました。それはいったい何を意味していたのでしょうか?

その石の板の上には、神の御心が書き記されていました。『あなたは、わたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは殺してはならない。あなたは盗んではならない。あなたは姦淫してはならない。あなたは貪ってはならない。』主は、これらの律法と戒めとを要約して、次のように言われました。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神に愛せよ。自分を愛するように、あなたの隣びとを愛せよ』と。

この御言葉は、旧約聖書にある御言葉だったので、ユダヤ人が皆、よく知っていた言葉でした。けど、彼らは皆、このおきてを、この戒めを破ってしまったことを認めざるを得なかったのです。また、主のおきてを破る者は、死ななければならないと言うことをも、よく知っていました。したがって彼らは、罪を犯したゆえに、義なる聖なる神の律法を破ったため、死ななければならないということを、よく知っていました。

しかし、今や、ほふられた羊の血が流されたことによって、イスラエルの民の身代わりとして、その血が民を――民の罪を――おおったのであります。

しかし、いかにして、その血が債務を負うことができるのでしょうか?すなわち、ご自身がその血の意味がなんであったかを答えておられます。

レビ
17:11 なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。

主なる神は、血の中にいのちがあると、はっきり言っておられます。血はいのちです。血が流されると、いのちが捧げられます。したがって、流された血は、いのちが捧げられたことを意味します。血は債務が支払われたことを意味します。従って、血の犠牲は、債務が支払われたことの証明です。

借金を返済すると借用証書が破られ、領収書が与えられるように、血の犠牲によって、債務が支払われたのです。

イスラエルの民によって破られた律法が入っている神の箱の上に血が流されることによって、債務は支払われたのです。主なる神が見ると、贖罪所には血が流され、その血が神の律法の上をおおっていたので、血は罰がくだされ、いのちが捧げられ、債務が支払われたことを意味しています。

イスラエルの民が律法を持っていたのと同じように、私たちは、聖書を持っています。聖書は、『あなたは死に定められている。しかし、あなたの身代わりとして、他の人がすでに殺された。あなたの債務は支払われた。あなたは今、恐れることなく、主の近くに近づくことができる』と、はっきり言ってます。

何と言う力強いすばらしい主なる神の知恵と英知でしょうか。すでに、旧約聖書の中で明らかにされた神の救いのご計画は何と、すばらしいものでしょうか?三千年前に、旧約聖書、旧約時代のダビデ王は、この救いに至るようになり、告白したのです。これを読んで終わります。

詩篇
32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
32:2 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。
32:3 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。
32:4 それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。
32:5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。

いわゆる今、話した『贖罪の日』とは、何を意味してたかと言いますと、結局、債務が支払われたということです。

0 件のコメント:

コメントを投稿