2015年1月25日日曜日

世の罪を担うお方

世の罪を担うお方
2015年1月25日、吉祥寺福音集会
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」

ヘブル
9:22 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

今、兄弟はソロモンについて話してくださいました。私は、彼についての一文章を、非常に好きになってしまった。聖書の言葉です、『ソロモンは主を愛した。』我々、一人ひとりについて、同じことを言えれば、ありがたいでしょうか。愛しているよと、思うかもしれないけど、本当かどうかが、問題なのではないでしょうか。

我々人間は、イエス様がどれほど大きな犠牲を捧げられたかと言うことを、死んで、主の栄光を目の前に拝する時、初めて、この僅か(片鱗)を知ることができるのではないでしょうか。ですから、多くの人々は、天国へ行くとゆっくりできる、休むことができると思っている。とんでもないはなし。今よりも、忙しい。どうしてあるか?主を拝みたい、礼拝したい気持ちでいっぱいです。イエス様がどういう犠牲を払ったのか、今はピンとこないし、考えられない。


ソロモンは、どういうふうに分かったのか、分からないけども、何かを知るようになったから、結果として、ソロモンは主を愛したと、聖書は言っています。イエス様は、我々人間と同じようになり、血と肉を取って、処女マリアから生まれました。主は、実際、罪なきお方であったことを除いては、我々とまったく同じ、寸分たがわぬ者だったのです。

ヨハネ
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

こういうふうにヨハネは、イエス様を紹介したのであります。ヘブル書の著者も、同じように書き記したのであります。

ヘブル
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

イエス様は本当の人間として、我々の身代わりとなってくださった。罪なきひとり子は、罪人とひとつになられました。イエス様はヨルダン川でバプテスマを受けられたとき、既に、全人類の罪を担う備えができていたのです。イエス様は全人類の罪を担われました。罪なき者であるにもかかわらず、あたかも、私たちのように罪あるものと同じようなかたちをとって、罪を担うため、十字架につけられました。イエス様は、父なる神の前に全人類の債務を支払う義務と責任を持っておられたのです。そのため、イエス様は喜んで高価な代価を支払って、くださったのです。そして、その代償とは、御自身の血といのちだったのです。

債務を支払わなければならないと思った時、ただ、血といのちとを捧げる以外に方法はなかったのです。私たちは今、まだ、一度も聞いたことのなかったかのように、新しい思いで、このすばらしい訪れを聴こう。イエス様が我々の債務を支払い、罪を赦すために尊い犠牲を払ってくださったという事実は、我々に心からの喜びを満ち溢れさせてくれるのです。もう既に、イザヤと言う預言者は、次のように書いたのです。

イザヤ
53:12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

こう予言されたのです。イエス様の血が、ご自分の手、足、わき腹などから注ぎ出たと言うことは、もちろん、事実です。主は、死に至るまでご自身のいのちを注ぎだしたのです。もう一箇所、読みましょうか。

レビ
17:11 なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。

イエス様のいのちは、イエス様の血にある。そして、私たちのために祭壇、すなわち、十字架の上で贖いをするため、イエス様は我々にいのちを与えてくださったのです。そして、その血は十字架を覆い、我々の債務を支払ってくださったのです。イエス様の血は、イエス様のいのちである故に、我々の罪を贖うことができるのです。

犠牲を払ったものは、主イエス様の十字架ではなく、血を流されたご自身のいのちでした。それは、偉大なる、主なる神の御業だったのです。父なる神のひとりごの血が、全人類の債務を支払ったのです。従って、福音の本質はイエス様が血を流し、いのちを捨ててくださったことによって、私たちの罪が赦されているということであり、この事実を述べ伝えることです。イエス様はただ一人、罪を赦すことができるお方です。そして、そのことこそ、力強く、喜ばしい福音の本質です。債務が支払われた時にはじめて、罪が赦されるのです。債務の支払いなくしては、罪の赦しもありえない、ということです。義なる、聖なる神は、本当に罪が、債務が支払われたときのみ、罪をお赦しになるのです。

聖書全体は、血を流すことなしには、罪の赦しはありえない、と言う真理を繰り返し、明らかにしています。ヘブル人への手紙の9章22節、今、引用された箇所です、『血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。』血を流すことこそ、真に債務を支払うことです。そして、イエス様の流された血は、まったき債務の支払いの、いわば、領収書を意味しているのです。この領収書なしには、罪の赦しはありえないのです。

イエス様によって救いの確信を得たものは、大喜びで次のように告白せざるを得ません。『血を流すことによって、完全な赦しがもたらされた。血を流すことは、すなわち、イエス様の尊い血が、全人類の罪を赦すために流されたことを意味します。血を流すことなしには、罪の赦しはありえない。けど、イエス様の血を流すことによって、完全な罪の赦しが、もたらされます。イエス様が、債務を支払ってくださった故に、罪を赦す力を持っておられます。

ヨハネ伝の1章29節ですね。初めて、イエス様がおおやけに紹介されたときの呼びかけです、『見よ、世の罪を取り除く神の小羊。』このようにヨハネは、イエス様のことを呼んだのです。イエス様こそ、世の罪を担われたお方です。この世の罪は、なんと言う重荷だったでしょうか。ただ単に、家族の罪、他人の罪のみならず、全ての時代の全世界の罪をイエス様は担われました。イエス様は罪を担ってゆかれました。そのために私たちを、罪から離してくださり、二度と、罪を見ることのないようにしてくださったのです。よく見る箇所ですけど、パウロはエペソにいる兄弟姉妹に書き送ったのです。

エペソ
1:7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

福音の本質はこの1節に集約されています。イエス様の中に、罪の赦しと贖いがあります。イエス様こそ、福音の中心を成すお方です。福音とは、何か、ある力とか、教えとか、物事ではない。生きておられる一人子、主イエス様ご自身の他ならない。本当の福音はただひとつ、すなわち、十字架による贖いの福音に他なりません。

私が来たのは、失われたものを訪ねだして、救うためである。私が来たのは、多くの人の贖いとして自分のいのちを与えるためである。私の血は、罪の赦しを得させるようにと、多くの人のために流す私の契約の血であると、イエス様は告白したのであります。事実、イエス様の十字架における贖いによって、全人類の救いがもたらされたのです。十字架の福音こそ、全人類をあがなうためのただ一つの道です。誰でも、イエス様の血のあがないによって、本当の救いが与えられているという、この事実を知らなければなりません。なぜならば、人間の最大の問題は、罪の問題であり、赦されるかどうかということです。従って、一番、大切な問題は我々の罪がもうすでに赦されているかどうかということです。

私はこの間、旧約時代の一番、大切な日について、すなわち、いわゆる贖罪の日について、ちょっと考えたのです。この日を通して、ユダヤ人たちはもっと多くの救いの奥義を、すなわち、まことの救いとは何かということを知ることができたのです。その当時、イスラエルの民は、確かに、とんでもない道を選んだのです。

主の前に犯した罪は、債務となったのですけど、主は、罪を犯したものはすべて、死ななければならない、と言われました。したがって、イスラエルの民の状態は、皆、罪を犯したため、死の判決を宣告されたのです。主なる神の義を無にすることはできません。主は、義のために、罪を犯したものをすべて、追放しなければなりません。そして、そのため、主は実際に死の判決を下さざるを得なかったのです。実際は、イスラエルの民でなく、代表者が裁かれたのです。すなわち、代表者である、代理者としては、山羊を犯罪にささげることが行われたのです。山羊はイスラエルの民の犠牲となりました。そして、それに対するしるしは、山羊を殺し、血を流すことによって示されました。

血は債務が支払われたことを意味します。従って、血の犠牲は債務が支払われたことの証明です。血は罰が下され、いのちが捧げられ、債務が支払われたことを意味しています。聖書は、(言っています。)あなたは死に定められている罪人ですけど、あなたの身代わりとして、他の人がすでに殺された。あなたの債務は支払われた。あなたは、今や、恐れることなく、生きておられる神に近づくことができるのです。

債務が支払われた時に、罪も赦されることができます。債務が支払われたゆえに、その結果として、罪が赦されたのです。債務が支払われ、消されたとき、初めて、罪が赦されるのです。罪は確かに恐ろしい現実です。罪はひとつのことを通してのみ解決されます。すなわち、流された血の犠牲によって、解決されるのです。血は贖うゆえに、罪が赦されるのです。

詩篇の103篇、ダビデは主の救いを褒めたたえました。

詩篇
103:12 東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。

想像できない、すばらしい宝物です。ミカという預言者も同じようなことを書いたのです。

ミカ
7:19 もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。

こういう祈りは必ず、いつでも答えられます。もう一箇所、内容的に、同じ事実についての箇所です。

イザヤ
44:22 わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。

雲や霧は太陽によって吹き払われ、完全に消されます。それと同じように、主は我々の罪を完全に赦してくださいます。もはや、罪は消えて見えなくなってしまうのです。

私はあなたの罪を心にとめない。もう、あなたの罪を思い出さない。すなわち、主は咎を消してくださっただけでなく、我々の罪を、もう心にとめないでいてくださいます。あたかも私たちが罪を犯さなかったかのように、清くしてくださるのです。

主イエス様においては、罪の赦しと、罪を心にとめないことが、ひとつなのです。これこそ私たちが述べ伝えることのできる福音です。罪はイエス様の血によって既に赦されています。なぜならば、債務が支払われたからです。ですから、自分の罪を赦してくださったイエス様の大いなる贈り物を、今日、新たに感謝すべきなのではないでしょうか。

私たちは皆、イエス様の血と、いのちを捧げてくださったイエス様という身代わりを自分のものにする必要があります。ただ、イエス様お一人だけが、『あなたの罪は赦された』ということのできる、ただ一人のお方です。これこそ、最も尊い贈り物、すなわち、罪の赦しというかけがえのない賜物です。これは何という、意味の深い解放でありましょうか。すなわち、良心の呵責からの解放、敵の攻撃からの解放、そして、主なる神の怒りを怖れることからの解放です。


終わり

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