2015年1月11日、吉祥寺福音集会
ゴットホルド・ベック
詩篇
都上りの歌
121:1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
121:2 私の助けは、天地を造られた主から来る。
121:3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
121:4 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
121:6 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
121:7 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
121:8 主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。
失敗するのは、私だけではなくて、チヒロも失敗しますから、大いなる慰めですね。人間だって、できるのは失敗することばかり。全部、的外れだよ。主が守ってくださらなければ、導いてくださらなければ、もう終わり。今、チヒロ兄弟も言いましたように、結局、『主よ、語ってください。しもべは聞いております。』もっとも大切な祈りのひとつではないでしょうか。サムエルが捧げられた祈りです。何歳だったのか、分からない。十五、六歳だったか、十二、三歳だったか、分かりません。
けども、彼の切なる願いと祈りとは、それだった。『主よ、語ってください。しもべは聞いております。』聞く耳を持っている。人間はみな、だいたい、耳を持っている、けれども、聞く耳がなければ、全部むだ!いちばん、聞く耳を持っていたのは、我々の主イエス様ではないかな?
イエス様は、自分で考えて行動したことは、一回もなかったと思います。祈ってから、初めて、『お父様、行きたい。だめ?教えてください。よろこんで従いたい。』けれども、自分勝手に行動はしません。イエス様の変わらない態度とは、こう言う態度でした。
今、読みました詩篇は、本当にすばらしい告白です。祈りでもあります。
詩篇
121:8 主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。
とこしえまでも守られるイエス様について考えることができるのは、本当に、ありがたいのではないでしょうか。
今、読んでもらいました箇所の中で、九回も、『あなた』となっています。すなわち、複数形ではなく、単数形です。すなわち、大切なのは、個人個人と主との関係です。人間ひとりひとりは主の関心のまとであり、永遠の愛の対象であり、本当に考えられないほど心配され、愛されている者です。この事実についてだけ考えるともう、不安から、心配から解放され、結果として、安心して前向きに生活することができます。
この詩篇の作者は、結局、安全を求めました。現代人もそういうものでしょう。安全かどうかと人間は考えます。
安全は、イエス様の流された血によってのみ、もたらされると、新約聖書は言っています。もちろん、誰でも、安全を求めています。安全かどうか、将来のことを考えると、どうすべきなのでしょうかと人間は考えます。本当の安全はどこにあるのでしょうか?それから、いかにして、もたらされるものなのでしょうか?
詩篇の作者は、『私は目を上げる』と言っています。この世には目を伏せ、打ちのめされ、心を堅く閉ざした孤独な人々がいっぱいいます。そして、これらの人たちは、いろいろな問題と患難だけしか見えないようになっています。けれども、詩篇の作者は、そのようなものからいかにして助けられるかという秘訣を知っていました。自分自身や他人を見るのではなく、上を見上げることこそ、その秘訣です。
詩篇
121:1 私は山に向かって目を上げる。
この態度こそが、勝利を得る秘訣なのではないでしょうか。日本アルプスやスイスの山々を見上げると、その雄大さ、すばらしさに圧倒されます。けれども、このような自然の山からではなく、天と地を造られたお方から、我々の助けは来ます。したがって、私たちは、自分自身や他人や自然からではなくて、確かな約束を与えられ、それを必ず守られる、成就なさるお方からのみ、本当の救いが来ます。美しい山や周囲のものからではなくて、天と地を創造されたお方のみ、まことの救いを与えるお方です。
すべての創造は、全知全能の主の力と英知のわざです。けれども、創造のみならず、救いこそ、はるかに大いなる、神の英知と力によるものなのではないでしょうか。
主は、エデンの園において現在、私たちが知りうるよりもはるかにすばらしい、偉大なる栄光を現わしてくださいました。しかし、悪魔の誘惑と策略によって、最初の人は惑わされた、罪を犯してしまった、悪魔と罪と自我の奴隷になってしまいました。そのことによって全人類に罪が入り込んでしまったと、聖書は言っています。
それにも関わらず主は、堕落した人間を愛し、その愛の証拠として、ひとり子なるイエス様を与えてくださったのです。しかも、イエス様は、救い主としてこの世に遣わされたのです。それですから、主を見上げよ!というみことばになるわけです。
ヨハネ
6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。
わたしを見て、すなわち、永遠のいのちを持つことです。もうすでに、旧約聖書の中で同じ福音が述べ伝えられたのです。
イザヤ
45:22 地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。
主なる神は、答えとして、われわれから信仰を望んでおられます。主は、イエス様は、われわれの罪を贖うために、十字架でご自身のいのちを犠牲にしてくださいました。どういう犠牲であったか、生きているあいだは、はっきり掴めません。想像できません。考えられない。ですから、いつも思います、天国に行ってから忙しくなる、今よりもずっと。イエス様に感謝したくてしたくて仕方がない。どうして、(私たちを)捨てられなかったのか。考えられませんけど、ありがたい。
主こそが、恵み深いお方です。わたしを仰ぎ見て救われよ!聖書全体の呼びかけとは、そういうものでしょう。
主なる神は、イエス様のよみがえりによって、その犠牲を受け取ってくださいました。主なる神は、次のように言われました、「わがひとり子、イエスのよみがえりにより、全人類の罪の贖いがなされ、この犠牲は、わたしにとって十分である。わたしの義は全うされた」と。
主は、その答えとして、われわれの主に対するまったき信頼を待っておられます。主の流された血によって、私たちは、罪を赦されているのです。そして、この救いの事実を十分に認識して受け取る者こそが、安全です。もう心配する必要がない、今、話したように、前向きに生活することができます。
ローマ
4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。
5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
現在、持っていると、初代教会の人々はよろこんで、告白することができました。
だれもが求めている平和と平安とは、ただイエス様の血による贖いを通してのみ、与えられるます。私たちが主を見上げ、徹頭徹尾、主に信頼する時に、主は、我々を救ってくださるだけではなく、常にみ言葉を持って、我々を導いて、守ってくだいます。
詩篇
121:5 主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。
121:6 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
121:7 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
121:8 主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。
主に信頼し、みことばに信頼すると、主は我々の足の動かされるのを許されないのです。
詩篇
121:3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
と、約束されています。主に信頼すると、主の御手は我々を守り、導き、悪魔の誘惑に陥ることを守ってくださいます。主は、一瞬たりといえども、その子から目を離すことはなく、注意を怠ることがありません。
詩篇
121:4 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
このみことばは、我々の生活から分かりやすく表現されていますか。すなわち、不完全なわれわれ人間は、眠らなければ生きていけませんが、全知全能な完全なる主は、まどろむこともなく、われわれを守ってくださるゆえ、我々はまったき平安と安全を与えられています。
主は、ご自分を信頼し、イエス様の血によって救われている者を間違いなく守ってくださいます。主はそのように約束してくださいましたが、その約束は、人間の誓いよりもはるかに確実なものです。このみことばを自分のものとして受け入れ、みことばにより頼み、みことばの上にしっかりと立つ者は、本当に幸いです。
詩篇
121:5 主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。
主は、あなたの近くにおられ、あなたとともにおられます。主は、昼も夜もあなたを守り、あらゆる危険から救い出してくださるのです。ここに、『昼は太陽、夜は月が、あなたを打つことがない』と、書かれていますが、昼の危険、夜の誘惑から、主があなたを守っていてくださることを意味します。
夜の危険は、目に見えず、隠されていますが、それをも主は守られると約束されています。この詩篇の中には、主がご自分を信頼し、より頼む者を常に導き、守られるということを表わす意味のことばが、六回も出てきます。そして、いかなる状況でも、いかなる状態に置かれても、主は守ってくださいます。
詩篇
121:8 主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。
『今より』とは、主イエス様を信じ、救い主として受け入れた時から、とこしえに至るまで、という意味です。それですから、私たちが本当に主を受け入れたかどうかということが問題なのではないでしょうか。もしも、すでに受け入れているならば、とこしえに至るまで、平和と安全が約束されています。主こそ、われわれの安全を約束しておられます。
平和、また、安全の基礎とは、何でしょうか。すなわち、罪の赦しです。罪の赦しこそ、とこしえに至るまで、安全の基礎です。
エペソ
1:7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。
現在、持っている。それは、自分の努力の結果ではなく、神の豊かなの恵みによるものです。
福音の本質は、結局、この一節に集約されているのではないでしょうか。イエス様の人格の中に、罪の赦しと贖いがあります。イエス様こそ、福音の中心なるお方です。福音とは、何かある力、ひとつの教えなのではない、物事でもない。生きておられるイエス様ご自身にほかなりません。主の中に全てがあり、主とともに居まさずば無です。
いろいろな宗教はが、エス様を引用したり、適当に使ったりしています。けれども、イエス様は、聖書の中でのみ、正しく伝えられています。聖書によるイエス様だけが、本当の完全な救いをもたらしてくださることを、はっきりさせておかなければなりません。
聖書によると、イエス様のみが、生きる神のみ子であり、唯一の救い主そのものであり、我々の贖い主です。パウロは、それをまとめて次のように書き記したのであります。
第一コリント
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと(です。)
聖書は始めから終わりまで、体系的な統一をもって、十字架につけられた救い主と、よみがえられたイエス様を宣べ伝えています。そして、よみがえられたイエス様は、もちろん、生きておられ、将来も、とこしえにご臨在なさるお方です。本当の福音はただひとつ、すなわち、十字架による贖いの福音そのものです。
人間が罪を犯したあと、直ちに主は、十字架による福音を宣べ伝えたのです。
創世記
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。
主なる神は、人間を罪から解放するために、救い主をこの世に送り、悪魔のかしらを砕く、すなわち、悪魔に対して完全な勝利を治めると、預言しておられたのです。けれども、ここでは、勝利者のみならず、苦しみの人としても預言されているのです。すなわち、蛇は救い主のかかとを砕くであろうと言われています。主は、救いを与えるために苦しみ、いのちを捨ててくださったのです。
旧約聖書において、だいたい千五百年のあいだ、とくに預言者たちによって来たるべき救い主が、時とともに次第に明らかにされてきました。有名なイザヤ書の53章です。
イザヤ
53:2 彼は(主の前に)若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私(たち)が見とれるような姿もなく、輝きもなく、私(たち)が慕うような見ばえもない。
53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私(たち)は思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
今、読んだ個所を見ると、来たるべき救い主は、悩みの人にして、罪をになう人であると記されています。そして、二千年前に救い主は、主イエス様の名前で、実際この世に来られたのです。イエス様はご自分で言われました。「わたしこそ約束された救い主、メサイアである」と言われたのです。ザアカイの家で言われた箇所です。
ルカ
19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。
マルコ伝の中のいちばん大切な言葉でしょうね。
マルコ
10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
そして、マタイの福音書26章で、イエス様は言われました。最後の晩だったのです。
マタイ
26:28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
事実、イエス様が十字架で血を流され、息を引き取られる時、「すべてが終わった」と、叫ばれました。すなわち、全人類の救いがもたらされたのです。「わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざを成し遂げました」と、イエス様は言うことができたのです。救いのみわざは、救い主の死によって完成されました。父なる神は、イエス様がよみがえられ、昇天なさり、高く引き上げられることによって、まことに救い主、罪をになった者、勝利者であることを明らかに宣言されたのです。
エペソ
1:20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
1:21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
父なる神は、主イエス様による罪の贖いが十分であり、完全であると、宣言されました。そして、その瞬間からイエス様の十字架とよみがえりの福音が、世界中に宣べ伝えられるようになりました。この福音、この十字架の福音こそ、人類の罪を贖うためのただひとつの道です。このイエス様の血による罪の贖いという福音は、全世界、いかなる時代にも、多くの人々をみことばによって、救いに導いたのです。
ダビデは、罪の苦しみの中に主を呼び求め、赦しの確信を得たあと、主が新しい喜びと望みを与えてくださったと告白しています。
詩篇
40:1 私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、
40:2 私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。
40:3 主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。
40:4 幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。
40:5 わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。
その新しい賛美の歌は、救われた人々、すべての心の中に、とこしえに宿り続けます。将来のことについて、黙示録を見ると、次のように書かれています。
黙示録
5:12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
なぜ、このようにして、救われた喜びの新しい賛美が歌い続けられるのでしょうか。なぜならば、主が私たちを愛し、その血によって、私たちを罪から解放してくださったからです。
黙示録
1:5 また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放(った)
すべて、イエス様を信じ、受け入れた者は、このようなほふられた小羊であるイエス様に賛美をささげるようになります。私たちは今もなお、罪のもとに苦しみ、悩み、嘆き、うめいている人々に対して、イエス様の血による罪の赦しの贖いが、すでに成就されていることを宣べ伝える義務を持っています。
誰でも、イエス様の血による贖いによって、本当の救いが与えられているということ、この事実を知らなければならない。知りたいと思うならば、必ず知ることができます。福音は決して、隠された教えではありません。また、福音は決して、頭の良い少数の人々だけが分かる難しい教えでもありません。福音は、すべての人のための神のことばです。
人間の最大の問題は、罪と赦しの問題です。ですから、現在、主は受け入れてくださった、恵んでくださった、赦してくださった。それだけではなく、もう全部、忘れてくださったと確信できる人々は、本当に幸せなのではないでしょうか。
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