2015年1月27日火曜日

天国で会いましょう

天国で会いましょう
2015年1月27日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
17:3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

今日のテーマは何ですか・・・・ときかれた時、「天国で会いましょう」と言った時、輝いた顔もあったのです。「天国で会いましょう。」もうちょっとね。イエス様は、迎えに来られると考えると、本当にうれしい。

ドイツのある出版社の息子が、テレビ局の人からきかれたのです。テレビ局とは、結局、おもしろいことを宣伝したいのではないかと思いますけども、彼は何をきかれたかと言いますと、「あなたにとって、いちばん大きなショックになるのは、いったい何でしょうかね。癌になることですか?全財産をいっぺんに失くすことなのでしょうか?あるいは、一生涯車いすの上で生活するの」と聞かれた時、答えは、「もし、神がおられれば、それこそ、考えられないほど恐ろしいことです」と、言ったのです。

神がおられたならば、死は終わりではないということになります。そうすると必ず死後、裁きを受けるようになります。結局、天国か地獄かのどちらかです。確かに地獄、すなわち、永久的に光が見えないこと、平安なし、喜びなし、希望なしに、永遠に存在することとは、考えられないほど恐ろしい状態です。

天国について、聖書は何と言っているでしょうか。「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない(黙示録21:4 )。」本当に、来るべき栄光は、想像できないほどすばらしいものです。だからこそ、聖書は言っています。

ローマ
8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

また、天国で会いましょう。こういう生ける希望を、また、確信を持たない人は本当にかわいそう。行先は真っ暗闇であるからです。我々の目的とは天国でなければ、すべては空しい。天国で会いましょう。意味は、英語で、「See you again」ということです。

大部分の人々は覚えているでしょう。名古屋集会のミノル兄の挨拶とはそういうものでした。自分の葬儀のために、彼は全部、準備しました。ある小冊子を作ったのです。初めの文章は、「本日は、私、ミノルの召天式にお集まりくださいまして、本当にありがとうございます。」結局、死を恐れる恐れから、完全に解放されました。前夜祈祷式と葬儀に出た人々は、ちょっと辺鄙(へんぴ)なところだったのですが、集まったのは、七百人以上でした。私が彼に出会ったのは、二十年ぐらい前だったのですけど、出会った所は病院でした。きっかけになったのは、彼の奥さんであるジュンコ姉妹の病気だったのです。

彼は、その時、四十五歳だったし、彼女は三十九歳でした。二人は、その日、イエス様を信じるようになり、悔い改めるようになり、赦された確信を持つようになりました。それから、二人は共に悩み、共に祈るようになりました。

別の時だったんですけど、見舞いに行った時、ジュンコ姉は、ご主人であるミノル兄弟にむかって、次のように言ったのです。「病気になったのは良かったね、お父さん。」ミノル兄弟の答えは、「あなたのおかげです」と。その意味は、もし、病気にならなかったなら、救いを求めようとしなかったし、救い主に会わなかったに違いない。そうすると、真の喜びなし、本当の平安なし、生ける希望なしに存在しなければならなかったに違いない。

だから、病気になったのは良かった。永遠なるものを得たからですと。『もし、聖書を知らなかったら、苦しみや悲しみにさいなまれ、運命を呪ったことでしょう。イエス様を信じてジュンコは、死の恐怖から解放され、私も生き様が変わりました。今は再び天国でジュンコとめぐり会える喜びで、主の御心の愛に感謝の気持ちです』と、彼は言えました。

三十五、六年前に家の娘、リンデも癌になり、天に召されました。娘は、イエス様のために実を結びたいと切に願ったし、祈り続けました。ただイエス様だけが栄光をお受けになる時、私はうれしい。これこそ、彼女の態度でした。そして、この証しは、実を結ぶようになりました。多くの人々が、イエス様を求めるようになり、イエス様を尋ねるようになり、イエス様の救いに与かるようになりました。

ドイツで、一人の方が、尋ねてくれたのです。次のような質問でした。「リンデが、そんなに喜んで死ぬことができたのは、いったい何だったの?そして、彼女が、そんなにこの世から離れ、目に見えるものに関心を持たず、目に見えないものに関心を持ったのは、いったい何だったの?」と。

リンデは、次の文章を書いたのです。「人格者とは、死を直視することのできる人です。」ある人は、死後の問題は、死んだ時に、初めてわかることであって、この世で生きているあいだは、そんな問題に煩わされない方が良いのではないかと。

そのような考え方について、私たちは、どのよう態度を取るべきなのでしょうか。確かに、死についての人間の考え方は、いろいろに違っています。一般に、死について何か話そうとすると、嫌な顔をして、それを拒む人が少なくない。

何百年か前に、ルイ14世、フランスの太陽王と呼ばれた男は、葬式の列が通るのを見た時、すぐ、「カーテンを閉めろ!」と命令したのです。彼はご存知の通り、自分の望むものは全部、自分のものにすることができた。名誉、地位、財産、その他、あらゆるものを手に入れた有名な王様でした。その王が、いちばん嫌ったものが、まさに死だったのです。

ドイツの詩人、政治家でもあったのですけど、ウオルフガング・ゲーテという男も、死を嫌ったため、非常に親しい人の葬式でさえも、出席しなかったのです。多くの人は、ういろいろなことについて計画的に考え、その計画に従って行動しようとしますけど、死についても同じように考えようとすると、滅茶苦茶になって、何の計画も立てられなくなってしまいます。そして、彼らは生きている限りは、できるだけ楽しみたいという強い願いを捨てきることができません。けれども、悪魔はそのような人々に、囁きかけ、死ぬことについて、深刻に考えることを止めさせたり、あるいは、目をくらませて、享楽的な生活へと誘惑し、絶えず悪の罠に引き込もうとしているのです。

実際問題として考えると、実は、上先に述べたこととは違った結果を示しています。すなわち、毎日、日本で一時間ごとに、少なくとても二十四人の人々が交通事故で死んでおり、そして、また、第一と第二の二度にわたる世界戦争では、八千万人の人々が殺されてしまったのです。日本で毎年、三万五千人以上の社会人たちが、命を捨ててしまいます。残された家族の悩み、また、苦しみはいかなるものでしょう。死とは、否定することのできない事実ですから、死について真剣に考えようとしない者は、愚かであると言わざるを得ないのではないでしょうか。

たとえば、ボルネオというところで、非常にめずらしい儀式、習慣があるのです。すなわち、それは結婚式の時に、新郎と新婦のあいだに死んだ人の頭蓋骨を置くという風習です。その意味するものは、人生でもっとも幸福な時に、死を忘れないようにしようということであると言われています。

冷静な人は、誰でも、死がすべての終わりを意味するのではないということを認めざるを得ません。主なる神によって造られた人間の人生の目的が、死によって、ピリオドを打たれるとは、どうしても考えられないからです。

働いている人々は、完全なる物を作ろうと思っています。もしも、大工が無計画に目的なく、家を建てるようなことがあったとしたならば、それこそ、全く意味のないことでしょう。仕立て屋さんが布(きれ)を裁断して、洋服を作る場合に、必ずはっきりとした目的を持っていることは、言うまでもない。意味がなく、目的がなく、計画がなければ、誰も働くことができません。

したがって、全能なる主なる神が、人間を創造された時にも、はっきりとしたひとつの目的を持っておられたことは明らかです。主なる神は、決して、人間の死や人間の滅びを望んでおられません。主なる神は、人間が生きることを望んでおられます。したがって、私たちは、死ぬことについて考える時には、死、そのものだけを思い出すのではなく、死後に来るものに、注意を向けなければならないのです。

次のことを考えるべきです。すなわち、我々の数十年間の人生というものは、それですべてが満たされるためには、あまりにも短すぎるということです。現在、私たちの世界では、いちばん長生きしたとしても、せいぜい百二十歳くらいが限界です。いちばん、年配になるのは日本人ですね。沖縄の人々だそうです。どうしてか、何故かわからないけど、私はそんなに生きたくない。

百歳まで生きながらえた人の数は、確かに多くない。私たちは、この問題について真剣にまじめに考えるならば、聖書の言っていることが正しいと認めざるを得ない。すなわち、「あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない(ヤコブ4:14、口語訳)」とあります。我々の人生が、ちっぽけなものであることは、我々でさえもよく分かることですが、六千年を超える人類の歴史といえども、主なる神の目から見ると、無に等しいものです。

私たちは、百年前にどこにいたでしょう。そして、百年後には、いったいどこにいるのでしょうか。我々の人生が、あまりにも短すぎるために、死後の世界があるのではないかという考えが、自ずから出てくることも、当然と言えるでしょう。この問いに対して、聖書は、はっきりと別の世界があると言っています。なぜならば、人間の人生は、あまりにも短すぎて、そこには本当の意味がなく、死んでから初めて、本当の世界が始まるからです。

聖書は、もうひとつのことを強調しています。主なる神ご自身が、人の心に永遠を思う思いを授けられたと書いてあります。人間は、主なる神のかたちに似せて造られました。そして、主なる神がその人間に、永遠とは何か、完全とは何かを理解する力をお与えになりました。人間は、決して、過ぎ行くはかないものや、不完全なものによっては、心が満たされません。人間は、心から愛し、心から愛されることを望んでいます。それですから、この世の人間的な愛に何回も失望するのです。

芸術家は、情熱をもって完全なものを作ろうとしますが、しばしば、自分の作ったものを破壊してしまうのです。なぜなら、自分の作ったものといえども、決して、完全なものではないからです。青年は、将来に対して、無限の希望を持ち、それが、永遠に続くかのように思いますが、それに対して、老人は、それほど夢多き将来を考えることがありません。若者にとっては、一年といえども、非常に充実した意味のある長い一年間のように思いますが、老人は、過ぎ行く一年が非常に短く、はかないものであるということを、体験から知っているのです。

人間の欲望は、新しいものが次から次へと与えられても、決して、満足していない。それは、悲劇であると言わざるを得ないのではないでしょうか。次から次へと目まぐるしく移り変わる新しい流行を必至に追い求めても、そのことが幸せをもたらすとは言えません。

実業家は、日夜、金儲けのために努力します。いわゆる独裁者は、自分の国を支配するにとどまらず、やがては世界を支配しようと無限に欲望を高めています。いわゆる仕事の鬼は、仕事だけを大切にして、他のことは何も考えないで一所懸命、苦労していますが、結局は何のために生きているのか、わからなくなってしまい、息が詰まってしまうのです。人間を見ると、仕事が成功し、金持ちとなり、病気もせず、非常に幸福そうに見える人であっても、常に満たされざる思いが心にあるため、主なる神の目から見ると決して、幸福ではありません。

主なる神の御心は、我々人間が永遠のいのちを持つことに他ならない。それですから、主なる神以外に我々の心を満たしてくださる方は、この世にいません。ヨハネ伝の四章を見ると、五人の夫を持つ姦淫の女のことが描かれています。疑いもなく彼女は、幸福になりたいという願いだけを持っていたのです。しかしながら、彼女の切なる思いは決して、満たされなかったのです。イエス様は、彼女に、「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがない。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出る」と、言われました。女は、その時、イエス様に言ったのです。「先生、私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい」と、言ったのです。

【参考】ヨハネ
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
4:15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」

有名なアウグスティヌスという男は、「私たちが、主なる神のもとに行くまでは平安がない」と、告白したのであります。もし、死後の世界がなかったなら、この世は、全く意味のないことでしょう。永遠なるものから、初めて、我々の人生が意味あるものとなるのです。もしも、すべてが死でもって終わるとすれば、生きている時のあらゆる努力は、いかなる価値を持っているのでしょうか。

ソロモン大王は、この世のものはすべて空しい、空の空であると告白したのです。けれども、彼は、名誉、地位、財産、ありとあらゆるものを持っていましたけど、彼は、『すべて空しい』と告白せざるを得なかったのです。

この世で、永久に価値を持続するものは何一つないということです。私たちが生きている時に持っているものは、すべて死と同時に離れてしまう。唯物主義者は次のように言います。「私たちは、飲み食いしようではないか。明日も解らぬ命なのだ。」けど、この哲学は、憤慨と絶望の表現であると言えましょう。なぜなら、若くて金もあり、時間も充分にある者が飲み食いすることは、難しくないかもしれないけど、歳をとって、金もなくなった時には、ただ病と死だけが待つようなことになるでしょう。

死後の問題を本当に解決することができないならば、まさに自殺するか、気違いになるか、いずれにしても、まことに悲惨な道だけしか残されていないのではないでしょうか。もちろん、自殺は決して、問題を正しく解決するものではない。それから、逃避することを意味することに他ならない。

もうひとつのことを考えるべきなのは、この世の正義といえども、決して、我々を心の底から満たしてくれるものではないということです。なぜならば、正義といえども、この世においては、私たちの完全な正義に対する熱望を満たしてくれないからです。この世における多くの不義は、必ずしも、正しく裁かれているとは限りません。また、反対にこの世で正しく生きている人々が、それ相当の報酬を与えられているかというと、必ずしもそうとは限りません。むしろ、真理のために迫害されたり、殺されたりした人さえいます。もしも、死によって、すべての終止符を打つならば、人生は全く意味のないことでしょう。しかし、事実は決して、そうではありません。

確かに死んで別れることは、キリスト者にとっても等しく悲しいことであり、寂しいことであるでしょう。けど、それにもかかわらず、死んでから再び、愛する者と会うことができるという確信を持つことができるということは、深く考えさせられることです。愛する者との死の別れは、一時的なものにすぎない。必ず再会できるという確信を持てることは、我々にとって、最高の慰めであり、また、喜びでもあります。

もうひとつ、その時に、顔と顔とを合わせて、あいまみえることができ、イエス様に似た者となることこそ、主のご計画に他なりません。ただ単に、人間が永遠の存在として造られ、完全なものを追い求めていくために造られただけではなく、主ご自身のために造られたのだということを忘れてはならない。

すなわち、アダムの罪により、主なる神から離れてしまった人間は、どうしても、主なる神との生き生きとした交わりを回復しなければ、生きてゆくことができない。救われた者が、永遠に主イエス様との交わりの中に、時を過ごすことができるという確信を持つことができるとは、何というすばらしいことでありましょうか。救われた者が、永遠にイエス様との交わりの中に、時を過ごすことができるという確信を持つことができるとは、何とすばらしいことでしょう。

あらゆる宗教は、あの世のことについて、はっきりとしたことを言わない。単なる想像に基づいて、主張的なことを言っているにすぎない。けども、神のみことばである聖書は、信者にとっても、未信者にとっても、死後の世界があることをはっきりと言っています。

聖書によると、アブラハム、イサク、ヤコブが、すなわち、四千年前に生きた人々が、今も生き続けていることがわかります。それに対して、悔い改めようとしなかった人々は、黄泉の国に落ちていかなければならず、そこで苦しまなければならないと、聖書は言っています。

イエス様は、頭を下げたくなかった人々が、死後、黄泉の国で苦しんでいるときには、決して、無意識な状態にいるのではなく、はっきりとした意識を持って、苦しまなければならないと言っているのです。このように、死んだ後で、すべての信じようとしなかった人々は、黄泉の国で、やがて主なる神の前に引き出され、最後の審判を受けなければならないと、聖書は言っています。

救われた人々も、また、救われていない人々も、死後も生き続けるゆえに終わりがない。主なる神に救われた人々が、永遠のいのちを持ち続けることは明らかです。つまり、死後、救われた人々は、永遠のいのちを持って、主なる神とともにおります。悔い改めたくなかった人々は、苦しみと苦悩の中に滅びなければならないと、神のことばである聖書は言っています。これらの事を解りやすく要約すると、次のようになるでしょう。

すなわち、まず、第一に、人間は生まれた時に、魂が与えられ、そのために、永遠に存在する権利を与えられます。第二に、そのような人間が、罪を悔い改めて、イエス様を信じる信仰によって、新しく生まれ変わった時に、永遠のいのちを与えられます。第三に、そのような人は、復活の時に、不滅のからだを与えられます。確かに、未信者といえども、永遠に存在するわけですけど、しかしながら、新しく生まれ変わらない限り、本当のいのちを持つことができない。本当のいのちは、イエス様との交わりの中にあって、初めて存在することができます。

ヨハネ
17:3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

第一ヨハネ(口語訳)
5:20 ・・・・イエス・キリスト・・・・は真実な神であり、永遠のいのちである。

まことの主なる神を信じない、へりくだりたくない未信者は、この世でも、本当のいのちを持っていない。すなわち、主なる神との平和を知らないから、満たされていない。

前に言いましたウオルフガング・ゲーテという男は、彼の全生涯において、二十四時間、本当に幸福だったことはなかったと告白しています。なぜ人間は、そのような満たされない状態であるのでしょうか。その原因は、まさに、人間の心に本当の平和と平安がないということです。人間は、死後、裁きを受けるため、人間には平安がないと、聖書は言っています。

主は、人間一人ひとりのことを思っておられ、大切にするお方です。パウロは、ローマ書8章の中で、次のように書いたのです。よく知られている箇所です。

ローマ
8:1 ・・・・キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

この意味で、死は信じる者にとって、信仰によりイエス様に近づくための橋渡しの役割を果たすといえましょう。したがって、信じる者は、死を恐れる必要をぜんぜん持たないわけです。

ピリピ
1:20 ・・・・生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。
1:21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。

主の恵みによって救われた兄弟姉妹にとって、死ぬことはイエス様と共になることを意味しているから、損ではなく益です。パウロは、死ぬことと生きることと、どちらが良いか考えた時に、死ぬことを選んだのです。けれども、パウロは、多くの人のために奉仕をしなければならない必要を感じたため、さらに生き続けることを決心しました。その問題がなく、パウロ一人だけのことであったならば、おそらく、死ぬことを選び、死ぬことを喜んだに違いない。

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