2015年1月20日火曜日

主は来たりたもう

主は来たりたもう
2015年1月20日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第一テサロニケ
4:13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。

今、読んできてくださった箇所の最後に書かれています、「私たちは、いつまでも主とともにいることになる。」もう最高です。いつまでも主とともになる。もうちょっと。昼ごはんの前に、イエス様が来るかもしれない。いつになるか、わからない。けれども、必ず来られます。

我々の望む時ではないでしょうね。けれども、最善の時、イエス様は必ず来られます。確かに私たちは今、世界の歴史の夜の時に生きているのではないでしょうか。そして、真暗の夜の時に向かって歩いています。もし、私たちが毎日、新聞、テレビで世界の動きを眺めると、世界は本当にちょっと大変です。

ますます、深く主を無視し、主なる神のみことばに対して無関心です。そして、真っ黒な雲のような暗闇の力の中に沈んで行く様子がよくわかります。次の大きな世界の出来事は、『主の日』と聖書が呼んでいるのです。すなわち、イエス様が雲に乗って、再びお出でになり、信じる一人ひとりをご自分のもとに引き寄せ、空で彼らに会うようになる。その日の出来事です。聖書は、この将来の偉大なる出来事について、いったい何と言っているのでしょうか。

今、読みましたように、『私たちは、いつまでも主とともにいるようになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。』この箇所に三つの事実が明らかになっています。第一番目、イエス様ご自身が、天から再びお出でになるということです。二番目、イエス様にあって死んだ人々のからだがよみがえるということです。そして、三番目、それから、生き残っている主の恵みによって救われた一人ひとりが変えられ、よみがえった主のものになった人々とともに、雲の中で主イエス様に会うということです。

考えられないことですけれども、聖書がそう言っているから間違いなくそうです。イエス様が、再び来られます。この日は、イエス様が昇天なされた日と全く同様に確かであり、事実であり、歴史的な真実です。イエス様は、あの時、信者たちの目の前で消えたと同じように現れるのですけれど、再臨の日は、信じる者の前にイエス様が姿を現す日であるだけではなく、イエス様の前に信じる者が現れる日でもあります。

その日には、本当に信じていた者、すなわち、イエス様との有機的な結びつきを持っていた者が明らかにされるのです。ただ口で、「主よ、主よ」と言っているのか、それとも、本当にイエス様によって、恵みを得、永遠のいのちを持つようになったか、明らかになります。

イエス様は近い。イエス様はすぐ来られます。この言葉は、初代教会において、口から口へ語り伝えられ、そして、この言葉は、当時の証し人たちに、迫害のさなかにおいて、絶えず力を与え、喜んで、死の旅路につかせたのです。

彼らは、欺かれたのでしょうか?それとも、彼らは空しく待っていたのでしょうか?イエス様が、「わたしは、再び来る。しかし、その時と場所は、父が定めておられる」と、語られてからというもの、この言葉は、生き生きとした信仰の本質を成すものであり、イエス様の再臨の事実が、目の前に生き生きと認められるのです。すなわち、たぶん、今日にも来られる。

イエス様は、私たちが、その日は今日かもしれないという希望の光によって、毎日を捧げることを望んでおられます。今日かもしれない。イエス様の再臨という希望は、初代教会の時ほど、生き生きとしていた時はなかったでしょう。そして、当時ほどイエス様のお告げが、生き生きと力強かった時もなかったのではないでしょうか。

イエス様は、すぐ来られると期待している者は、誰でも、主の使命を一秒でも早く行わなければならない。すなわち、全世界に出ていって、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えよという使命です。イエス様は来られる。イエス様は、我々の信仰の内容であるばかりでなく、イエス様は、我々の希望の内容でもあります。八つの質問にまとめましょうか。

第一番目、イエス様に属する者の聖なる希望は、どこにあるのでしょうか。

テトス
2:13 祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。

へブル
9:28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

すなわち、イエス様に属している者の望みは、イエス様の再臨です。

二番目、聖書では、誰がこの希望を我々に語っているのでしょうか。

マルコ
13:26 そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。

ここでは、旧約聖書から引用して、イエス様ご自身が語っておられます。

マタイ
25:31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。

また、有名なよく知られていますけど、ヨハネ伝に、イエス様は、次のように告白してくださったのです。

ヨハネ
14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

すばらしい、想像できない約束です。今の二箇所では、イエス様ご自身が宣べておられます。そして、この約束は、イエス様が地上で成されたものです。今度は、イエス様ご自身が、天からその約束をお示しになっているのです。

黙示録
22:7 「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」
22:8 これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。
22:9 すると、彼は私に言った。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」
22:10 また、彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。
22:11 不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行なはますますい、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」
22:12 「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。

今度は、イエス様ではなく、二人の天使が宣べたことばを読みましょう。

使徒行伝
1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

今度は、ペテロ、ヨハネ、ヤコブとユダの各々が、この希望について述べた言葉を見てみましょうか。まず、ペテロですね。

第一ペテロ
1:13 ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

ペテロだけではなく、ヨハネも同じように言ったのであります。

第一ヨハネ
2:28 そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。

そして、ヤコブも書いたのです。一文章だけです。

ヤコブ
5:8 あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。

結局、使徒たちは皆、『もうちょっと!』そういう期待を、また、確信を持っていたのです。

ユダ
1:14 アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。」

イエス様の再臨の日は近いということは、どこで認められるでしょうか。聖書には、イエス様の再臨の日が近づくと、国々は、将来の戦いの恐怖をいだき、人々は、不安に恐れおののくとありますが、現在の状態は、聖書の言葉の通りではないでしょうか。いわゆる信じる者の中には、すなわち、外観は持っていますが、中身のない救いの確信、救いの喜びを知らない人々が、多くいるのではないでしょうか。

四番目、イエス様の再臨の日が近いということは、未信者の人々に、何を語っているのでしょうか。

マタイ
24:40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
24:41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

すなわち、未信者はイエス様に属さない者は、取り残されると聖書は言っています。

第二テサロニケ
1:7 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。
1:8 そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。
1:9 そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。

五番目の質問は、イエス様の再臨の日が近いということは、救われている人たちにとって、何を言っているのでしょうかね。

第一ヨハネ
3:3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

ヨハネだけではなく、ペテロも同じように書いたのです。

第二ペテロ
3:14 そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。

ペテロは、当時の信じる者に、こう書き記したのです。

第一ヨハネ
2:28 そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。

ヨハネは、このように当時の信じる者を励ましたのです。

ピリピ
3:20 私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

「私たちは待ち望んでいる」と、同じ態度をとり続けるべきなのではないでしょうか。もう一箇所、読みます。結局、待ち望むことの必要性、大切さについての箇所です。

第一ペテロ
1:13 ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

これは、単なる提案ではなくて、はっきりとした命令です。ひたすら待ち望みなさい!

第一ペテロ
1:14 従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、
1:15 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。

また、パウロは、コリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。

第二コリント
6:14 不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
6:15 キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。
6:16 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。

黙示録のいちばん最後の箇所のひとつは、「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る」と、あります。

また、パウロは、テサロニケという町にいる兄弟姉妹に書いたのです。

第一テサロニケ
2:19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。

これらの箇所を読むと、来るべき日の信じる者に言えることは、その者が聖く、安らかな心を持っており、キリストの内に留まり、主イエスを待ち望み、各々が身を慎み、欲情に従わず、聖なることを求めており、また、信じる者と信じない者はかかわりがなく、不信心の者には報いが近く、信じる者はイエス様の望み、誇りの冠となると、書き記されています。

六番目の質問は、聖書は我々の希望の実現に対する歴史的事実について、何を語っているのでしょうか。答えは、コリント第一の手紙に書かれています。

第一コリント
15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
15:21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
15:22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです
15:23 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。

前に読んでもらいました箇所です。再臨について考えると、おそらく誰でも、この箇所を覚えるでしょう。

第一テサロニケ
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身(・・・・主ご自身・・・・)天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

七番目の質問は、イエス様の再臨に際して、雲の中で、イエス様とひとつになるのはいったい誰でしょうか。今の箇所を見ても、はっきり書かれています。「キリストにある死者」、「生き残っている私たち」とあります。私たちは、いつまでも主とともにいることになる。

コリント第一の手紙は、いわゆるよみがえりの書です。

第一コリント
15:23 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。

この二箇所を見ると、主に会える者はキリストにあって死んだ者とキリストに属している者ということがわかります。この二箇所に二つの教会、すなわち、テサロニケとコリントの二つの教会が出てまいります。

テサロニケの教会は、非常に模範的で良く、コリントは非常に悪かったということが知られますが、その両方の教会の信者たちが、主に引き上げてもらえるのです。どうしてそれを知ることができるかと言いますと、この二箇所には、「私たち」、すなわち、信じる者すべてという意味で、「私たち」という言葉が使われているのです。

教会の長老たちと、少し前に信者になったばかりの人々では、たいへん違うかのように思われますけれど、その両方ともが、主イエスに引き上げられるのです。『我々、コリントの主に属する者は、上げられる』ということができますし、『我々、テサロニケの主に属する者も上げられる』と言えますし、また、『我々、各集会に集まり、主イエス様に属する者は、必ず上げられる』ということができるのです。

最後に、八番目の質問、すなわち、主の再臨は、個々のキリスト者にとってどんな意味を持っているのでしょうか。ヨハネの答えは、次のような答えです。

第一ヨハネ
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

コロサイ
3:4 私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。

ペテロも、同じような言葉を書いたのです。

第一ペテロ
5:1 そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。

『やがて現われる栄光にあずかる者』であると、ペテロは確信を持って書くことができたのです。

第一コリント
15:49 私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。
15:53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。

ピリピ
3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

パウロも、同じ事実について短く書いたのです。

ローマ
8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

そして、コリント第二の手紙の中で、パウロは、自分のことも告白しました。自分のことを、ふつうパウロは、あまり言わなかったのですけれども、コリント第二の手紙の中では、たくさん書いています。この箇所がそれなんです。

第二コリント
5:2 私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
5:3 それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。
5:4 確かにこの幕屋(・・・・このからだ、この肉体・・・・)の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。

そして、聖書のいちばん最後の黙示録に、多くのこと、もちろん、将来のことについて書かれています。

黙示録
5:10 私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。

3:21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

20:6 この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。

それは、個々の救われた人々が、キリストに似る者となり、イエス様とともに栄光に与かる者となり、天に属するかたちとなる者です。そして、朽ちず、死なない者となるのです。また、個々の信じる者は、キリストと同じ栄光のからだに変えられる。子たる身分を与けられ、からだが贖われることです。そればかりか、天から住処(すみか)を給い、御国の民となり、地上を支配し、キリストの御座につくのです。もし、信じる者の心が、主イエス様の方へだけ向いているなら、その者は、大きな報酬を受けるのです。

終わりに、旧約聖書にある一人の人について、ちょっと観察しましょうか。

創世記
5:24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

死を見ないで、そのまま天国に行った。このエノクについてもう一箇所、読みます。

へブル
11:5 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。
11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。

ユダ
1:14 アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。」

私たちは、エノクと同じ経験をしたいものです。私たちの切なる願いは、「イエス様よ、来てください」ということです。もしも、私たちが、エノクと同じようになりたいのであれば、私たちは、エノクと同じように、主イエス様と親密な交わりを持たねばならない。すなわち、エノクは神とともに歩んだとあります。

もし、私たちが、携挙、すなわちイエス様がご自分に属する者たちを引き上げることを、単なる歴史的事実として想像し、信じるならば、それは、誤りです。もし、私たちがエノクのように、ついには、同じような道を歩みたいと思うならば、私たちは、主のご臨在の内に毎日、歩み、私たち自身をこの世の事柄から解き放たねばならない。私たちは、十字架の働きによって、このような事柄から、内部的に解き放たれなければならない。そして、天のものに変えられなければならないのです。私たちは、毎日、この地上に寄りかかることをより少なくし、天に向かって行くように、より頼まなければならない。

そうすれば、主が姿を現される時、私たちは、驚かされることがなく、また、狼狽することもないでしょう。イエス様の再臨は、恐ろしい革命をもたらすのではありません。私たちは、その革命にならなければならない。私たちは、イエス様の方へ入っていけるでしょう。なぜなら、私たちは、絶えずその方向に向かって歩んできたからである。ペテロは、また、次のように書いたのです。

第一ペテロ
2:11 愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。

我々は、この世の旅人であり寄留者です。この世の事柄は、我々にとって、だんだん遠くなり、天国の事柄がだんだん近く、親しくなってまいります。携挙への道は、信仰の道です。

信仰によって、エノクは、死を見ないように天に移されたとあります。信仰は、見えないように見え、全く見えないようなものが考慮に入れられています。信仰は、それゆえに、見えるものにはよらないのです。私たちの生活の中には、私たちが理解できない多くの困難、悩みがある。主は、我々をなぜそのように導くのでしょうか。

次のことが大切です。そのような中にあっても私たちは、あちらこちらへ動かされることなく、信仰をしっかり持つことが大切です。信仰の生涯の最終目的は、今、話したように携挙です。私たちが引上げられ、イエス様に会うのです。私たちが今、理解に苦しんでいるいろいろな事柄が全く明らかになります。主は、すぐ来られます。備えあれば憂いなしと言われていますけれど、イエス様が扉の前に近づいているとあります。私たちは、それを確信することができます。もう一箇所、読んで終わりましょうか。

ローマ
13:11 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。
13:12 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。
13:13 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。
13:14 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

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