2025年1月4日土曜日

主イエス様のなさったこと

主イエス様のなさったこと
2015年1月4日、御代田喜びの集い
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
11:2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
11:6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。
11:7 その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。
11:8 弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」
11:9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。」
11:10 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」
11:11 イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」
11:12 そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」
11:13 しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。
11:14 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。
11:15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」
11:16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」
11:17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。
11:18 ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。
11:19 大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。
11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。
11:21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
11:22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
11:24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
11:27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」
11:28 こう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、「先生が見えています。あなたを呼んでおられます。」とそっと言った。
11:29 マリヤはそれを聞くと、すぐ立ち上がって、イエスのところに行った。
11:30 さてイエスは、まだ村にはいらないで、マルタが出迎えた場所におられた。
11:31 マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。
11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
11:34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
11:35 イエスは涙を流された。
11:36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
11:37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。
11:38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。
11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
11:40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
11:42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
11:43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
11:45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。
11:46 しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。

主イエスのなさったこと、これが今日の主題です。

ヨハネ
11:45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。
11:46 しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。

『イエスがなさったこと。』二回も出てきますね。45節の中で、私たちが、『イエスがなさったこと』という御言葉を読むことができ、また、46節でも、『イエスのなさったこと』という御言葉がでてきます。私たちは、イエス様が、主の地上の生活を送っていたときになさったことを知りたいと思えば、言うまでもなく、四つの福音書を見なければんらないでしょう。ルカという伝道者は、彼の書いた福音書の中では、、『イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことについて書いた』と、述べています。マタイ伝、マルコ伝、ヨハネ伝も結局みな、同じことを行いました。それだから、私たちは、四つの福音書の中に、私たちのイエス様のすばらしい姿を見ることができます。

福音書は、それぞれ、お互いに矛盾し合っているという考えを持っている人も確かにいます。けど、決してそうではありません。私たちの主は、ただ、ひとつひとつの福音書の中で、いろいろな違った側面から考察されています。すなわち、マタイにおいては、イエス様を、王様として我々の目の前に紹介されています。次のマルコにおいては、イエス様は、父なる神に仕える、また、どうしようもない人間に仕える僕(しもべ)として紹介されています。ルカ伝においては、イエス様は、人の子、しかも、完全な人間として紹介されています。そして、最後に、ヨハネにおいては、イエス様は、約束された救い主、神の御子として、主の神性が我々に分かるように紹介されています。

それですから、私たちは、四つの福音書を一緒に合わせてみると、一方においては、イエス様の偉大さ、他方においては、イエス様のご奉仕の本質を見ることができます。すなわち、イエス様の人格とみわざが、我々に明らかにされているのです。

けど、今日、私たちが読む聖書の箇所においては、我々の主イエス様が、ラザロの復活との関連においてなさったこと、この関係だけを取り出したいと思います。イエス様は、当時、何をしてくださったのでしょうか。この質問に十分に答えるために、私たちは、このヨハネ伝11章全体を見なければならない。ですから、キミト兄弟に頼んで、たくさん読んでいただきました。

もし僕たちが聖書を持っていなくても、このヨハネ伝11章だけを見れば、すばらしいのではないでしょうか。

この11章を通して、私たちは、イエス様の愛、イエス様の力、イエス様の恵み、また、イエス様ご自身をよりよく知ることができます。それですから、私たちは、次の問いに取り組みたいと思います。すなわち、当時、イエス様はいったい何をなさったのでしょうかね。

手短に考えれば、いろいろなことが考えられます。

第一に、イエス様は、確かに助けを求められましたが、意識的に遅れて行きました。けど、この遅すぎて行くということは、もちろん、最善の時でした。イエス様は頼まれたとき、自分で考えてどうしようと思ったことがない。その意味でイエス様とわれわれ人間とは全然、違う。自分で考えるよりも、祈ったんです。お父様、どうしたらいいの?行きたい気持ちはちょっとある。けど、御心でなければやめます。結局、自分の思いではなく、御心だけが成るように、イエス様の変わらない態度とはそういうものでした。

もうひとつ、イエス様は、マルタとマリヤと苦しみを、ともにしたのです。知らん顔をするのではなかったのです。

まず第一に、イエス様は、緊急に救助に来るように求められました。けど、さっそく赴く(おもむく)代わりに、イエス様は、意識して遅らせ、瞬間的に助けようとしなかった。

ちょっと、その時の状態を想像してみましょうか。イエス様は、三人の全く特別な親しい友だち、すなわち、マルタ、マリヤ、ラザロを持っていました。これらの三人の友だちとイエス様は、再三にわたって、泊まったり、交わったりしました。けど、ラザロは病気になりましたが、その状態は早く悪化しました。彼の姉妹たちは――当然です――、救助を求め、遣わしました。死にそうなラザロから離れられないから、他の人を頼んで知らせた。

ヨハネ
11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。『主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。』

賢い言い方ですね、『主よ、私たちは困っている・・・・ではなく、あなたが愛している者が病気です。イエス様は、この知らせを聞いたとき、何をなさったでしょうか。主は、すぐ友だちを助けるために、出かけたのでしょうか。そうすることを私たちは、もちろん、期待するかもしれない。そのことは、マルタもマリヤもまちがいなく期待していました。それは実際、当然のことだったのではないでしょうか。けども、イエス様は全く理解できないことをなさいました。主は、すぐには、出発しなかったのです。

ヨハネ
11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。『この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。』

神の子が、それによって栄光を受けるためです。

ヨハネ
11:6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。

父が、『ダメ!行ってはいかん』と言われたからです。身の毛もよだつような、全く理解できない態度ではないでしょうか。あまりにもひどいと、考えることもできるでしょう。けども、この遅延は全く意識的になされました。イエス様は何をなさるかを、もちろん、ご存じでした。何をなさるのかはっきり分かったのです。

ヨハネ
11:7 その後、イエスは、『もう一度ユダヤに行こう。』と弟子たちに言われた。

私たちは、こうした主の行いを考えたり、イエス様が何もなさらなかったことを考えると、確かに、ひとつの謎の前に立たされるのではないでしょうか。しかし、私たちは皆、既に、同じようなことを経験したのではないでしょうか?私たちは、助けを叫び求めました。私たちは、主が手を貸してくださるように、切に主に祈り求めました。けど、我々の祈りは聞かれませんでした。少なくとも、私たちが期待したようにはならなかった。我々の家族の誰かが死んでも、主は働こう、助けようとはなさいませんでした。ちょうど同じことが、千九百年数十年前に、ベタニヤでマルタとマリヤが経験したことでした。

当時、イエス様は何をなさったのでしょうかね。一言葉で言いますと、主は関与なさいませんでした。一見したところ、主は、つんぼの耳を持っていたわけです。主は、彼らを助けるために急ぐことをしないで、全く意識的に、遅れてやって来ました。そして、まさしくそのことは、イエス様が今日(こんにち)もなお、なさることではないでしょうか。私たちは、皆、『なぜは主は、そうなさったのか?』と、言わざるを得ません。けど、私たちがここで述べられている七つの事柄に注目することが、この問いに答えるひとつの助けになるのではないでしょうか。

第一に、イエス様は愛してくださいました。

ヨハネ
11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。

もちろん、主なる神の愛は、人間の愛とは、まったく違った性質を持っています。主なる神の愛は、理解したり、把握したりできません。けど、経験することができます。マルタもマリヤも、この愛を経験し、この愛を体験し、認識しました。そして、彼女たちの生活は、それによって、非常に豊かになりました。

二番目、イエス様は大変な苦しみをご存じでした。マルタとマリヤは、イエス様のみもとに、使者を遣わしました。

イエス様はもちろん、この使者が着く前に父に教えてもらっていたに違いない。イエス様は、助けを求める叫びを聞き取りました。絶望的に重大な状態を御存知でした。知られていない事柄は何ひとつないからです。私たちはしばしば、主が我々に対して無関心であると思いがちかもしれない。私たちは、主によって愛されているということを、主がよくご存じであるということを、忘れてしまっています。何があっても、愛されていることを、覚えるべきです。

三番目、イエス様はラザロの死を予防しようとなさいませんでした。

ヨハネ
11:32 主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。

いのちそのものであられるイエス様にとって、死を予防することは、大したことではなかったでしょう。ラザロが癒されるためには、もちろん、遠くからイエス様が一言、おっしゃってくだされば、十分だったのです。

四番目、イエス様は、ご自分の友であるラザロの死を望んだんです。

ヨハネ
11:37 しかし、『盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。』と言う者もいた。

もちろん、その通りです。すなわち、イエス様は、ラザロを死なせないでおきたいとは欲していなかったんです。目先だけを見れば、私たちは、『ひどい友だ』と言う傾向を持っています。それが愛なのか。他の人を助けたイエス様が、なぜ、今までに、長いあいだ、親しい交わりを持ち、その住まいにしばしば招待された友だちであるラザロを助けなかったのか。

五番目、イエス様は出発する前、二日間、同じところにとどまっておられたとありますね。

ヨハネ
11:6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。

11:17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。

もちろん、これはイエス様にとって、なんの驚きでもありません。イエス様は、そのことをご存知でした。父なる神に知らせてもらったからです。そして主をすぐに行かせなかったのは、もちろん、父にとっては、それが最善の時ではなかったからです。

六番目、主イエスは関与なさいました。

ヨハネ
11:43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい。』
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。『ほどいてやって、帰らせなさい。』

主は大声で叫ばれた。イエス様が叫ぶと、死者もそれを聞きます。イエス様が命令すると、何かが起こります。すると、命令どおりになります。不可能なことが可能になります。すると、そのとき存在していないものが、存在するようになります。そのとき、死も力の無さを認めざるを得なかったので、死んでいたラザロがよみがえったのです。

七番目。マルタとマリヤがイエス様から受け取ったことは、彼女たちが祈り求めたことよりも、よいものでした。すばらしいものでした。

ヨハネ
11:40 イエスは彼女に言われた。『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。』

元気になったラザロを見るよりも、神の栄光を見ることこそがすごいのではないでしょうか?彼女たちは、ただ単に病気の癒しを経験したよりも、彼女たちは、神の栄光を見たのです。

今まで考えた七つの真理は、我々、全ての者にも当てはまるのではないでしょうか。

第一番目、イエス様は、我々一人一人を愛しておられます。しかも、一人一人を、全く個人的に愛しておられるのです。イエス様は、誰に対しても、決して無関心ではありません。イエス様は、人間一人一人を心にかけておられます。

二番目、イエス様は、我々の状態を、もっとも正確にご存じです。主は、背後の動機をご存じです。全てのことにおいて、主は一定の目標を目指しておられます。

三番目、イエス様は、我々の悩みを変えることが完全におできになります。主は、我々の助けの叫びを聞いておられます。主は、聞くことと、聞き届けてくださることを、約束しておられました。

四番目、けど、主は、私たちが考えるような具合には必ずしも、答えてはくれません。意識的に主は、私たちが、苦しみを通して、吟味されることを、省略なさいません。私たちは誘惑され、困難なことをも味わうでしょう。

五番目、主は、主の時に、最善のときに、答えてくださり、そして、『主の時』は、いちばんいい時、『最善のとき』です。人間的に見れば、遅過ぎました。というのは、ある人が四日間も墓の中に置かれれば、もうお手上げだからです。

六番目、主イエス様はその当時、助けてくださいました。もちろん、イエス様は、今日も助けてくださるお方です。主は、最善のとき、主の決められた時が来たならば、関与なさいます。悪魔によって、惑わされないようにしましょう。

七番目、主の答えは、私たちが期待するものよりも、常に、はるかに良いものです。それですから、期待をもって、主を見上げ、主の偉大なることを期待しましょう。

なぜ主は、マルタ、マリヤ、ラザロに対して、そのように行動なさったのでしょうか?なぜ、私たちはこんなに多くの困難なこと、理解できないことを、味わわなければならないのでしょうか。二つの理由を挙げることができるのではないでしょうか。

第一に、イエス様は理解できないことをたくさん許しておられます。私たちは、それによって悩みます。苦しみに陥ります。私たちは、『どうしてか?』という疑問を持つようになり、わけがわからなくなってしまいます。それは、確かにおもしろくないときであり、厳しい試練のときです。しかし、まさにそれを通して、主の御栄光が明らかにされるようになります。

ヨハネ
11:4 この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。

私たちが、悲しみに悲しみを加えるためでもなければ、あきらめたり、全てを投げ出したりするためでもなく、神の栄光が現われるために、私たちは、理解しがたいことをいろいろと経験させられます。

旧約聖書を見ると、イスラエルの民も荒野を通らなければならなかったのです。四日間ではなく、四十日でもなく、四十年間!その時、喉も渇き、助けも遠く、太陽は照りつけ、敵にもさらされたのです。けれども、主は助け手として、必要な食べ物、マナを与え、水も与えてくださいました。また、雲の柱と火の柱によって、イスラエルの民を導いたのです。イスラエルの経験したことは、苦しみと悩みを通して、主の栄光を見たのです。

第二番目の答え、どうして、なぜ、なんのためにという問いへの答えは、主は、信じる者の信仰を試し、増し加えるために、理解しがたいことをお許しになるのです。苦しみがなければ、成長もありません。私たちは、苦しみに陥らなければ、真剣に主のほうを向くことがありません。私たちの上に何の重荷も置かれなければ、私たちは主の約束にしがみつくことをしない。

ヨハネ
11:15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。

『わたしは喜んでいる』と、主イエス様は言われました。これもまた、どうして主がすぐに関与しないで、我々をひとりぼっちにさせることの理由のひとつなのではないでしょうか。もちろん、私たちは、心が混乱して、出たらいいのか、入ったらいいのかも、わからなくなってしまいます。いくら考えても、もう、全くわからなくなってしまいます。けども、私たちは、次のことを忘れてはなりません。主なる神の御栄光が明らかにされます。そして、私たちは、そのことによって、主によりいっそう近づき、信仰が強められるようになります。

もうひとつ、イエス様は当時、マルタ、マリヤ、ラザロを愛しただけではない。苦しみをともにしてくださったということです。しばしば、私たちは次のように尋ねられます。家族の者が重病で、負傷したり、死ぬような時、イエス様は、何も面倒を見てくださらないのでしょうか。あるいは、配慮をしてくださるのでしょうかと。我々の祈りは、応えられないで、そのままの状態で続いてしまうように思われるようなことがあります。というのは、たとえ私たちが祈ったとしても、イエス様が簡単に防ぐことができたであろう死が生じます。明らかなことがひとつあります。主は、あらゆる人のことを、心にかけておられます。主が無関心な人は一人もいません。32節が、そのことを明らかにしていますね。

ヨハネ
11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。『主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。』
11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
11:34 言われた。『彼をどこに置きましたか。』彼らはイエスに言った。『主よ。来てご覧ください。』
11:35 イエスは涙を流された。

この35節は、聖書の中で、もっとも短い箇所です。すなわち、『イエスは涙を流された。』ドイツ語では二つの単語、『Jesus weinte』、英語だったら、『Jesus wept』、ずっと短い。聖書中でいちばん短い節はこれなんです。

イエス様は、御自身に属する人たちを心にかけておられます。イエス様はその人たち苦しみや悩み、悲しみと一体となってくださいます。私たちは、誘惑や患難の中に、ひとりぼっちに捨てられることはありえません。

へブル
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

イエス様は、我々のことを理解しておられます。主の地上での生活のときに、主は、多くの悩みを経験なさいました。イエス様は、全く孤独であることを、誰からも理解されないことを経験しました。イエス様は悩みと苦しみを、確かに経験なさいました。肉体的な苦痛をご存じでした。飢えと渇きにも苦しめられました。疲れたこともあるし、悪魔に抵抗することや、みことばだけに、拠り頼むことが、何を意味しているか、もちろん、経験なさいました。

我々の苦しみはなんでしょうか。それをイエス様を言ったらいいよ。主は、私たちとひとつになってくださり、あなたとともに涙を流してくださるお方です。

第一テモテ
2:5 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。

ここで、主イエス様は、『人としてのキリスト』と呼ばれていますが、主は神であり、人間であり、そしてまた、人間であり、神でもあります。その神性において、イエス様は主権者であり、全能であり、栄光に満ちたお方です。主の人間性においては、主は恵み深く、理解してくださるお方であり、優しいお方です。

イザヤ
63:9 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しむ。

私たちは、苦しみや苦痛でもって、決してひとりぼっちにはさせられません。主にとって、私たちは大切な存在です。主は、ただ我々の最善だけを考えておられるお方です。まさに、それですから、イエス様は我々に困難なことを経験させるのです。けども、主は、ともに悩んでくださいます。私たちがあえて、我々の全ての苦しみを主に申しあげることをするならば、主がともに苦しんでくださり、我々のことを心配してくださり、主の最善の時に、恵みの奇蹟をなしてくださるということを、私たちは必ず経験します。

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