2014年6月17日火曜日

リバイバルの必要性(二)

リバイバルの必要性(二)
2014年6月17月日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

哀歌
3:40 私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。
3:41 私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。
3:42 「私たちはそむいて逆らいました。あなたは私たちを赦してくださいませんでした。」

もう一箇所、お読みいたします。ルカ伝の十八章から、よく知られている箇所です。

ルカ
18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

聖書全体の言わんとしていることは、この十四節にまとめられているのではないでしょうか。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」


このパリサイ人は、何を祈ったかと言いますと、「神よ。」ちょっと、メクラにされた者の言い表しです。神よ!どうしようもない取税人は、「神よ」と言わないよ。「神様。」イエス様のたとえは、本当にすばらしいものです。

三人の人物が出てきますね。初めにイエス様、二番目にパリサイ人、三番目に取税人です。この主イエス様は今日も、みことばの御真実をもって、真ん中に親しく臨在しておられます。現在、この主イエス様の声を聞くことができたら、本当に幸せです。

また、この私たちの中には、宮で祈った取税人のように、罪を深く感じている人もいるのではないかと思います。よく聞く告白は、「私は、とんでもない罪を犯してしまった。もう顔を上げられない。」しかし、考えられることは、我々のうちの多くは、高ぶるパリサイ人のような者なのではないでしょうか。

二つの点について、ちょっとだけ、一緒に考えてみたいと思います。第一番目、我々のパリサイ的な心の態度。二番目、これから解放される方法についてです。

人の心は、聖霊の宮であるか、悪魔の道具であるかのどちらかに分けられます。私たちの心はどうでしょうかね。

ルカ
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。

この祈りを通して、私たちはパリサイ人の罪がよく解かります。ここには、傲慢と自己義認と裁きの霊と偽善があります。私たちは自分の心の内にも、これらの悪しき思いが潜んでいることを認めたことがあるのでしょうか。多分、『私は、傲慢です、偽善者です、他の人を裁く心を持っている』と告白するかもしれない。

けれども、私たちは、パリサイ人のように、「私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではない」と言うのではないでしょうか。私たちのうちの何人の人々が、取税人のように、「私は貪欲な者、不正な者、姦淫する者です。罪である私を赦してください」と、深く良心を探られ、心を刺されて、主の御前に申し上げるのでしょうか。

子供のための、「自分の心」という小さい本があります。あの本に出てくる動物の性質を考えると、我々の心を照らしてくれる鏡のようなものです。もし主が御霊の光をもって、我々の心の深みにまで、はらわたの底まで、良心の深みまで、お探りくださるなら、私たちは自らの心の汚れの恐ろしさに驚くことでしょう。

多くの人は、自分の心に出てくる動物のような心は、改心する前の心にだけ住んでいるのであって、救われた信者の心には、イエス様だけしか住んでおられないのだと考えますが、これは大きな誤りです。

私たちがこのように考えでいると、主をより良く知ることはできないでしょう。望むべきリバイバルも、起きないでしょう。我々の内には、主イエス様と御霊が住み、悪魔と悪霊は未信者の心にしか住むことができないのだと、誤った考えを持っているかぎり、主イエス様をより良く知ることはできないし、リバイバルは起きないでしょう。

ふつう、信者は救われて、神の子であり、未信者だけが罪の奴隷だと考えますが、もし、心の深みまで主に探られるなら、この考えは誤りであることが、よく解かるはずです。あなたは、「私は信者であり、罪の赦しを得、もちろん、たまには罪を犯すが、未信者のように悪くない。他の人に比べると良い方だ」と、考えているかもしれない。けれども、イエス様は、我々をどう見ておられるかが問題です。

主は我々を判断して――マルコ伝の七章を見ると――次のように言われます。

マルコ
7:20 また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。
7:21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
7:23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

未信者の心からだけではなく、燃えている信者の心からも、また、姦淫の罪人の心からも、福音を宣べ伝える者の心からも、かかる悪しき思いが出てくると、イエス様は言われました。ご存知のように、新約聖書の手紙は全部、信じる者、救われた人々のために書かれています。これを見ると、いわゆる自分の心に入っていたあの動物たちは、信者の中にも潜んでいることが解かります。

ここでちょっと、使徒パウロの手紙を見てみましょうか。パウロは、コリントの町に住んでいた、もちろん、主の恵みによって救われた兄弟姉妹たちに、次のように書いたのです。

第一コリント
5:1 あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。

6:7 そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。
6:8 ところが、それどころか、あなたがたは、不正を行なう、だまし取る、しかもそのようなことを兄弟に対してしているのです。
6:9 あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、
6:10 盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。

10:8 また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。

イエス様は燃える炎のような目をもって、我々の心の深みまで見ておられます。この主イエス様は、我々のはらわたの底まで探り知ると言われます。私たちが主の御手に任せ、内なる人を探っていただいたら本当に幸いです。

次にパウロは、ガラテヤの兄弟姉妹に書き送っています。

ガラテヤ
5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

これは未信者ではなく、信者に対して書き送られた言葉です。この恐るべき肉の性質は、信じる者が死ぬまで身につきまとっているものであると、聖書は言っています。信者は、いつでもこの罪を犯す可能性を持っています。

続いてパウロは、エペソの町の兄弟姉妹に、また、次のように書き送ったのであります。

エペソ
5:3 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。
5:4 また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。
5:5 あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。

もし、ここに書かれている罪をエペソの兄弟姉妹が犯す可能性がなかったら、パウロがこのように書き送る必要もなかったはずです。霊的に優れたエペソの信者に対しても、このような忠告が必要でした。

コロサイの兄弟姉妹には、次のように書かれています。

コロサイ
3:5 ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。

霊的にもっとも高かったと目されるコロサイの信者の心の中にも、不品行や汚れや貪欲が潜んでいたことがわかります。私たち信者の心も、それを私たちが認めようが認めまいが、同じ罪が潜んでいるのであります。ただ一人、麗しく欠けたところのない神の子であられるイエス様、お一方だけです。信者は、神の子ですばらしいところは、内に宿っておられるイエス様だけです。これを深く認めたら、もちろん、もっともっと主に頼るようになり、望むべきリバイバルが起こるに違いない。

他の人の美しさを見、それに比べ自分は、決して美人ではないのを悲観し、いつも暗い気持ちでいる人もいるでしょう。けれど、もし、イエス様が、我々の心の深みまでを探ってくださるなら、我々の顔は、心に比べると、まだまだましであることがわかるはずです。もし、私たちの心の深みが、この場に写し出され、目に見えたら、私たちは一人もここに居ることができず、恥ずかしさのあまり、外に飛び出してしまうのではないでしょうか。

イエス様は、マルコ伝で、我々の心の本当の姿を教えています。

マルコ
7:20 人から出るもの、これが、人を汚すのです。
7:21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
7:23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。

外側からではなくて内側から。これを考える時、人の外の麗しさ、それから、その人の良い面などは、実に小さなものになってしまいます。「この兄弟は、熱心に、しかも、忠実に奉仕しているから、この兄弟の心には、汚れや貪欲はないはずだ。」また、「あの姉妹は静か、いつも静かで、人前ででしゃばらないから、この姉妹の心には、自分を思うわがままな心はない」と、考えるかもしれない。

けれども、イエス様は、この熱心な、また、静かな人の心も、このマルコ伝、七章にそっくりだと言っています。

マルコ
7:20 人から出るもの、これが、人を汚すのです。
7:21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
7:23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。

誰かが謙遜であるなら、それは、その人の内に住んでおられるイエス様が謙遜なのであり、誰かが聖ければ、それは、その人の内に住んでおられるイエス様が聖いのです。人の心は、いつも、マルコ伝七章の罪の性質をはらんでいるのです。

マルコ
7:20 人から出るもの、これが、人を汚すのです。
7:21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
7:23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。

我々の心の本来の性質は、狩猟の心の動物と同じです。

狩猟の心に、孔雀がいました。孔雀とは、動物の中でいちばん、おごり高ぶる動物です。私たちは、同じように心のおごり高ぶる者です。傲慢は、主のもっとも嫌いなものです。傲慢は、主のもっとも嫌っているものだけではなく、傲慢があれば、主は祝福することができません。

次に、山羊が出てきます。山羊は、非常に匂いの強い、また、淫らな動物とされています。山羊は、淫乱と不潔を現しています。私たちは、どのような絵、どのようなものを好んで読むのでしょうか。私たちの想像すること、考えること、夢を見ることはどんなことなのでしょうか。我々の思いは、聖められているのでしょうか。

その次に出てくるのは、豚です。豚は、汚れに満ち、また、節度のない無作法者の代表です。豚は、それを現しています。

その次に、ガマが出てきます。ガマは、おもに、土だけを食べて、生きているものです。これは、地のことだけを思い、また、人に与えることを嫌うケチンボを現しています。私たちは、上のものを求めているのでしょうか。それとも、ガマのように、地のことだけを求めているのでしょうか。

その次に、蛇が出てきます。蛇は、ご存知のように、アダムとエバを欺きました。我々の心の中に、多くの蛇にも似た偽善、欺き、偽りが潜んでいます。

最後に、虎が出てきます。虎は、いちばん、恐ろしい動物です。虎は、怒りと復讐の心を現しています。

今、挙げたのは、これらの人の心を診察した主の診断書です。これは、未信者であろうが、信者であろうが、福音を宣べ伝える者であろうが、犯罪人であろうが、共通の診断書です。一口で言えば、パリサイ人の心を現しています。

もう一回、ルカ伝に戻ります。

ルカ
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』

パリサイ人は、そのように言うことによって、神を偽り者としていることになります。マルコ伝七章の自らの心の状態を認めません。パリサイ人は、「そのような汚れたことは、他の人にはあてはまるであろうが、自分にはあてはまらない。自分はパリサイ人であり、祭司であり、日々、祈り、断食し、聖書を読んでいる。神に仕えている。犯罪人や罪を犯す者とは、少し違う」と、心に思っています。

パリサイ人のように、このように考えている人は、主なる神を偽り者とする者に他なりません。パリサイ人は、主の前に、真剣に祈ったと思います。彼は、姦淫や貪欲な心が自分にはないと思い、信じていたのでした。このように、心の目が見えなくなっているのは、何という悲劇なのではないでしょうか。

かかる人々は、どんなに周りの人々の救いのために祈り、断食し、十分の一を献金したとしても、何かを経験したように思うでしょうが、まことの経験を得ることができません。ふつうの信者ではない使徒パウロは、自らの心の様を知った時、「私は、本当にみじめな人間です。私は、私の内に良いものはない。善が住んでいないということを解かっている」と、パウロは、言わざるを得なかったのです。

結局、主があわれんでくださった。主は、決して捨てないと確信できる人々こそが、幸せなのではないでしょうか。

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