2014年6月24日火曜日

リバイバルの必要性(三)

リバイバルの必要性(三)
2014年6月24日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

詩篇
26:2 主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。

139:23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
139:24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

今、お読みになりました箇所とは、ダビデの告白であり、祈りです。人間はいろいろなことで悩むと、やはりダビデの祈りを自分のものにしなさいと言いたい気持ちです。時代遅れになりません。詩篇とは、本当に宝ものです。詩篇を読みならが祈って、祈りながら詩篇を読むと、見方が変わります。希望を持つようになります。あきらめる必要はない。主は生きておられます。


このあいだ、リバイバルの必要性、また、可能性について、一緒に考えましたが、今日も続けたいと思います。リバイバルという言葉は、確かに日本語ではない。英語の言葉です。日本語に直すと、「霊的覚醒」、あるいは、「信仰の復興」、「信仰の復活」を意味するものです。

眠ってしまった信者は、リバイバル、信仰の復興を必要とします。すなわち、主との生き生きとした交わりによって新しくされ、新しく生かされることを必要としています。私たちも、リバイバルが必要であることを感じとったことがあるのでしょうか。我々の側に何か重大な欠陥があることを感じたことがあるのでしょうか。

多くの人々のリバイバルについての態度は、ちょっとおかしい。すなわち、彼らは、主の時が来なければ何も起こらない・・・・そういう気持ちを持っているのです。だから、その時が来るまで、しかたがなくて待たなければならない。結果として真剣な態度で主に臨みません。

イエス様は、信じる者の渇ききったような、また、惨めな様を見て、喜ぶことができるのでしょうか。もし、我々がリバイバルのために主の備えられた条件を満たすならば、その瞬間に、リバイバルが与えられます。今、話したように、リバイバルとは、新しく目覚めさせられた命を意味します。

大切なのは、新しく目覚めさせることのできる新しい命を持っているのは、本当に救われた人々だけだということです。未信者の人々に、リバイバルはあり得ない。未信者の人々は、まず、新たに生まれなければならないからです。眠ってしまった信じる者こそ、リバイバルが必要なのであり、今日(こんいち)、眠った信者はたくさんいるのではないでしょうか。けど、眠りから覚めなければならない時期が来ています。しかし、目覚めるために、まず、自らが眠りこけていると告白する必要があります。主がこのリバイバルの必要性を悟らしめてくださったら、本当に、幸いなのではないでしょうか。

どうしたら、かかる待望のリバイバルが起きるのでしょうか。このあいだ話たように、私たちが主に試されることによってです。主に試されることこそが必要です。もし、主が我々を試すことができたら、それは良いしるしです。私たちが自らの内をどんなに試しても、尋ねても、何の役にも立ちません。我々にとって大切なのは、主に我々の内を試されることです。

ダビデは、本当に御心にかなう人と呼ばれるようになりました。このダビデの心の態度は、我々にもどうしても必要です。彼の態度とは、今、読まれた箇所を見るとわかるね。

詩篇
26:2 主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。

139:23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
139:24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

私たちはどうしたら、リバイバルを見ることができ、新たに生かされるのでしょうか。自らを自分で試すのではなく、主によって試してもらうことによってです。ですから、祈るべきなのは、「主よ、リバイバルを与えてください。あなた様のご栄光のために、また、失われた多くの魂のため、兄弟姉妹が新しく造り変えられて、霊的に成長するために、どうかリバイバルをお与えになってください。自分は別に、どうでもいい。けど、リバイバルを与えてください。」これが我々の心の変わらざる、偽らざる態度でありたいものです。私たちが、もし、従順に主に従うなら主は働いてくださる。いわゆる霊的な覚醒を与えていてくださいます。

イエス様に癒された十人のらい病人は、どうして癒されたのでしょうか。彼らは望みがなかったにもかかわらず、みことばに従順に従ったからです。聖書は何と言っているかといいますと、「彼らは行く途中で癒された。」彼らが、主のみことばに従順だったからこそ癒されたのです。もし不従順だったら、らい病は、もちろん、癒されなかったし、惨めな生活を続けたことでしょう。

我々は、主の一つひとつのみことばに従順に従い、主がリバイバルを与えるチャンスを作って行くでしょうか。聖書は言っています、「見よ、わたしは、戸の外に立ってたたく。誰でもわたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは彼の所に入って、彼と共に食事をし、彼もわたしと共に食事をする。」結局、「わたしを試してみよ。」

私たちは、聞く耳を持っているのでしょうか。主は、『わたしが、あなたがたのために、天の窓を開く。あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかを試してみよと万軍の主は仰せられる。』それは何を意味しているかと言いますと、イエス様から目を離さないことによってです。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」

パウロは、主から目を離さなかったから、すごいことを言えるようになりました。

ピリピ
3:7 私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

すばらしい告白なのではないでしょうか。このあいだ、私たちは、パリサイ的な心の態度について少し考えましたが、今日は、パリサイ的な心から解放される方法について考えてみたいと思います。

すでに聖霊の宮となっている信者でありながら、さらに解放される必要があるということは、確かに悲しいことです。生まれ変わったけど、眠っている兄弟姉妹は、目を覚まし、新しくされなければなりません。これは、どうしても必要な、また、現にある、動かすことのできない事実です。普通の健康なキリスト者の生活は、「私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」という生き方です。もし、このような状態なら、イエス様は、いつも信じる者の心の内に生きて働いていますから、新しくされる、リバイバルされる必要はありません。日々、続いて霊的に目覚めさせられている人は、本当に幸いな兄弟姉妹です。

私たちに、どのようにしたらリバイバルが起きるのでしょうか。そのために、いったい何が必要なのでしょうか。

まず、自分の物足りなさを覚えることです。私たちは、魂の深くにイエス様との深い真の交わりを持ちたく、願っているのでしょうか。私たちは、自らの内に足らないところがあることを感じているのでしょうか。いずれにしても、私たちは、主との真の交わりを持っているのでしょうか。霊的な健康人なのでしょうか。もし、意識していない隠れた罪を持っていても、その罪は意識している罪と同じように、主と我々のあいだを隔てるものです。

私たちは、不満足を覚えているのでしょうか。もし霊的なもの足りなさを覚えているなら、次に述べることは――二番目ですけど――罪を明るみに出す備えができたと言えます。ダビデのように、私たちも、「どうか、私を試して、試みてください」と、願っているのでしょうか。この備えができていない人は、惨めな人であると言わなければならず、リバイバルを見ることができないし、新たなる祝福にあずかることができません。

もし、病気になったら医者のところへ行って、「どうか私を看てください」、と言うでしょう。心の内の足りなさを覚えながら、主の御前に出て、「どうか私を試し、看てください」と願わないのは罪です。

医者に病気を看てもらうとき、着物を脱がなければならない。脱がなければ駄目なのと同じように、リバイバルを迎えるために、我々は、主の御前にすべてを明るみに出し、裸にならなければなりません。外科は、着物を脱がせるだけではありません。皮を切り、肉を切って、悪いところを取り出します。主も、我々と同じお取り扱いをなさるお方なのではないでしょうか。

今、主が我々をご覧になる時、あなたは、もう備えができていると言われるのでしょうか。または、あなたは、あなた自身が惨めな者、憐れむべき者、貧しい者、裸の者であることに気がついていないと、言われるのでしょうか。私たちが自らの罪を明るみに出す備えをし、主に試みていただく備えができると、自らがどんなに罪深い者であるかが現れてきます。

あるところに財産家がいました。この人には一人息子がいましたが、これがたいへんな放蕩者でした。母親は、息子を心配するあまり、心を痛めて、早く死んでしまいました。やがて息子は、愛し続けてくれた父親の元を去って、家を出てしまった。それから、数年が経った後、息子は父親が死んだ知らせを受け入れました。

息子は葬式に行けば、大きな財産のうちのいくらかでも貰えるだろうと思って、そのためにだけ帰ってきました。そこには、親戚の人々が並び、息子を見るとあまり良い顔をしませんでしたが、やがて、父親の遺言を読み始めました。それには、初めからその自分の放蕩息子のことにふれ、それまで息子がやったいろいろなことを書き並べ、母親も息子を心配するあまり、死んだことが書かれていました。それを聞くうちに息子は、自分の悪いことを聞くに堪えず、その場を立って、出てしまいました。家の中にいる人々は、続いて遺言を読み続けましたが、終わりの方に何と書いてあったのでしょうか。もし、この遺言を息子が悔い改めた気持ちで最後まで聞くことができれば、「愛している息子のことだから、私の残した全財産を与える」と、書かれていたということです。息子は、最後まで遺言を聞かずに、席をはずしてしまいましたから、財産は親戚のものに分け与えられたということです。

もし、私たちが自らの真相は、イエス様がマルコ伝の七章で仰っておられる姿と同じだということを認めないなら、私たちは、すばらしいリバイバルという宝を、逃がしてしまうことになるでしょう。

ここまで、自らは足らない様を見て、二番目に主の御前に、自らを裸にすることであると述べてきましたが、三番目に、リバイバルのために何が必要なのでしょうかということについて考えて終わりたいと思います。すなわち、三番目は、自らの心の内に罪を認めることが、どうしても必要です。

パリサイ人は、自分の罪が覆い隠され、外に現れなければ、主なる神は喜んでくださると思ったのです。けれども、主はサムエル記に書かれていますように、「人間は外の形を見ますが、主は心の深みまで見通すお方である」とあります。

主なる神の御前に、情欲をいだく者は姦淫を犯したことになります。人を憎む者は、殺人罪を犯したことになるとあります。私たちは、すでに自らがパリサイ人の心を持っていることを認めたのでしょうか。私たちの一人ひとりの心は、あたかも、孔雀、山羊、豚、ガマ、蛇、虎のような者です。主の目から見ると、心の中には、高ぶり、情欲、汚れ、好色、怒り、復讐心、怠惰、わがまま、妬み、短気、恐れ・・・・これらのものが潜んでいると見えるのです。

もし私たちが、マルコ伝七章の罪を御前に認めたら、主は我々を、今度は――四番目になりますけど――その告白に導いてくださいます。「主よ。私は、もうどうしようもない者です。駄目な者です。」これが、取税人の告白でした。主の御前に私は、貪欲な者、不正な者、姦淫を犯す者ですと、光に照らされて、告白したことがあるのでしょうか。もし、これを告白することができたら、その人は、砕かれた魂を持つ者です。

もし、誰かが、人間の魂の深くには、良いところもあるなどと思うと、それは、悪魔的なものであると、すぐ見破ってしまうでしょう。また、砕かれた人は、信者が持っている自我は、主の御前に私たちの考えうる最悪の考えと同じ罪であると、解かるようになります。我々の肉の内には、何の良いものもありません。悪いものしかない。私たちが、自らこれを認め、飾らないでありのままで言うならば本当に幸いです。

ここまで来ますと――最後に、五番目になりますけども――罪を捨てることができる段階に至ります。多くの信者は、「私は罪人です。汚れた者です。信仰の弱い者です」と言いますが、同じ状態に留まったままでいます。罪を認め、告白しますが、それをすっきりと断ち切りません。これは、リバイバルを妨げている原因なのではないでしょうか。これを考えると、私たちが担っている負債は、何と大きい負債でしょう。取税人は、「神様、罪人の私をお赦しください」と祈りましたが、この時、きっと、宮の祭司は、生贄を捧げていたにちがいない。流される生贄の血を見ながら、取税人は、このように祈ったのです。ただ血によってのみ、贖いが全うされ、ただ血によってのみ、リバイバルが訪れます。私たちは、イエス様の血潮を心から受け入れ、これに感謝を捧げたいものです。

エペソ
5:13 けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。
5:14 明らかにされたものはみな、光だからです。

もし、私たちが、だんだん、汚れ果てた自らの真相を主の光によって教えられ、イエス様の血潮を受け入れ、聖められて行くなら、私たちは暗いところがなく、すべてが光となるはずです。これこそが、リバイバルです。我々の生活を支配する支配者は、今日まで誰だったでしょう。主の霊でしょうか?それとも、悪しき霊なのでしょうか?

悪魔は、ただ暗いところを支配します。ですから、私たちのすべてを明るみに持ち出しましょう。そうすれば、真の喜びが訪れます。我々の心は、悪魔の仕事場で、そこから、マルコ伝七章のごとき、悪しき思いが出てくるのでしょうか?それとも、我々の心は、聖霊の宮として、光り輝いているのでしょうか?

第一コリントからお読みします。パウロのコリントにいる兄弟姉妹に書かれた言葉です。このコリントにいる兄弟姉妹は、決して模範的な信者ではなかったのです。パウロの悩みの種です。ですから、彼らに書いた言葉には、本当に注意すべきです。

第一コリント
6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

今、ここで二つのうち、ひとつを選ばなければなりません。自らの真の有り様を、主イエス様の光に照らしていただかず、このまま祝福のない日々を送っていくか、または、すべてを主の御前に言い表し、自らをどうしようもない者として認め、告白し、驚くべきリバイバルの祝福にあずかるか、このどちらかを選ばなければなりません。

詩篇
85:6 あなたは、私たちを再び生かされないのですか。あなたの民があなたによって喜ぶために。

ダビデは、そう祈りました。

ホセア
10:12 あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。

エレミヤも同じようなことを書いたのです。

エレミヤ
3:22 背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。

哀歌
3:40 私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。
3:41 私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。
3:42 「私たちはそむいて逆らいました。」

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