2014年6月10日火曜日

リバイバルの必要性(一)

リバイバルの必要性(一)
2014年6月10日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

詩篇
26:2 主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。

139:23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
139:24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください

もっとも大切なのは、主イエス様を知ることです。より良く知ることなのではないでしょうか。そのために必要なのは、いわゆるリバイバルです。英語の言葉も使いましょう。『リバイバル』という言葉です。

昔のリバイバル聖歌もありましたし、リバイバルという言葉は、確かに英語の言葉ですけれども、日本語に直すと、『霊的覚醒』、あるいは、信仰の復興、信仰の復活を意味します。眠ってしまった信じる者は、リバイバル、信仰の復興を必要とします。


すなわち、イエス様との生き生きとした交わりによって、新しくされ、新しく生かされることが必要です。私たちは、リバイバルがどうしても必要であるということを、深く感じとっているのでしょうか。我々の側に、何か重大な欠陥があることを感じているのでしょうか。

多くの信じる者のリバイバルに対する態度は、リバイバルのために祈り求めても、主のときが来なければ何もならないと考えている人もいる。けども、その時が来るまで待たなければならないという態度は良くない。間違っている。

イエス様は、信じる者の渇ききったような、また、惨めな様を見て、喜ばれるのでしょうか。もし、私たちにリバイバルのために、主の備えられた条件を満たすならば、その瞬間に、リバイバルが起こり、広がるに違いない。

リバイバルとは、新しく目覚めさせられたいのちを意味します。ここで大切なのは、新しく目覚めさせることのできる、新しいいのちを持っているのは、救われた人々、まことの信者だけだということです。

未信者の人々には、リバイバルはあり得ません。未信者の人々は、まず、新たに生まれなければならないと、聖書ははっきり強調しています。眠ってしまった信じる者こそ、リバイバルが必要なのであり、今日(こんにち)、眠った信者は、実にたくさんいるのではないでしょうか。

けれども、眠りから覚めなければならない時期が来ています。しかし、目覚めるためにまず、自らが眠りこけ、霊的に死んでいる様を認め、告白する必要があります。ご臨在の主イエス様が、このリバイバルの必要性を悟らしめてくださったら、本当に幸いです。

けれども、どうしたらかかる待望のリバイバルが起きるのでしょうか。まず、私たちが主に試されることによってです。主に試されることこそが必要です。もし、イエス様が我々を試すことができたら、それは良いしるしです。私たちが自らの内を、どんなに試しても、尋ねても、何の役にも立ちません。我々にとって大切なのは、主イエス様に我々の内を試されることです。

ダビデとは、決して、完全ではなかったけど、御心にかなう人だったと、聖書は言っています。彼の態度は、我々にもどうしても必要なのではないでしょうか。

詩篇
26:2 主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。

彼はこの態度を取ったからこそ、御心にかなう人になりました。

詩篇
139:23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
139:24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください

この願い、この祈りがあれば、主は喜んでいるだけではなくて、答えてくださる。間違いなくい溢れるばかりの祝福を与えてくださるに違いない。

私たちは、どうしたらリバイバルを見ることができ、新たに生かされるのでしょうか。自らを自分で試すのではなく、イエス様の光によって、心の内を照らしていただき、試していただかなければならない。私たちが、主に試されることが必要です。それによって、もちろん、罪そのものが明るみに出されます。

信じる者の犯す罪とは、二種類ではないでしょうか。ひとつは、いわゆる怠慢の罪であり、もうひとつは欲望と呼ばれる罪です。

怠慢の罪とは、いったい何なのでしょうか。答えは、ヤコブ書四章十七節です。よく考えるべき、大切なヤコブの書いた言葉ですね。

ヤコブ
4:17 こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。

たとえば、感謝をしないことは、どうでもいいことではない。罪ですって。主に対する愛の欠乏も、もちろん、罪です。心から聖書を読まない怠慢も、罪であると言わざるを得ない。いうまでもなく、不信仰の罪も怠慢の罪です。いちばん、ひどい罪は、不信仰です。

祈りを怠ることも罪でありますし、心を開いて集会に集わない怠慢も、どうでもいいことではなくて罪です。親戚、肉親、友人たち、知り合いの人々に対する愛の欠乏も罪であると、聖書は言っています。

他の多くの滅びゆく魂を愛さないことも、どうでもいいことではなくて、罪と呼ばれています。また、主にある兄弟姉妹のために、目を覚ましていないことも罪であると、聖書は言っています。己を捨てて、主に従わないことも罪です。だから、ヤコブ書四章十七節に、「なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪である」とあります。

主ご自身が、これらの怠慢の罪を、ご自分の光によって教えてくださるなら、本当に幸いです。これを認め、改めるとき、豊かなリバイバルが起こるに違いない。ですから、「主よ、どうかリバイバルを与えてください」と、祈るべきなのではないでしょうか。「あなた様のご栄光のために、失われた多くの人々のために、兄弟姉妹が新しく造り変えられて、霊的に成長するために、どうか、リバイバルをお与えになってください」と、祈るべきなのではないでしょうか。

「私はどうでもいい。リバイバルを与えてください。」これが我々の心の変わらざる、偽らざる態度でありたいものです。私たちが、もし従順に主に従うなら、主は、霊的な覚醒を間違いなく、与えてくださいます。

イエス様に癒された十人のらい病人は、どうして癒されたのでしょうか。彼らは、望みがなかったにもかかわらず、みことばに従順に従ったからです。聖書は、彼らが行く途中で癒されたと言っているのです。彼らが、主のみことばに従順だったから、らい病は癒されたのです。もし、彼らが、主のみことばに不従順であったならば、らい病は絶対に癒されなかった。みじめな生活を続けたことに違いない。

私たちは、主の一つひとつのみことばに従順に従い、主がリバイバルを与えるチャンスを作っていくでしょうか。「見よ。わたしは戸の外に立ってたたく。誰でもわたしの声を聞いて、戸を開けるなら、わたしは彼の所に入って、彼と共に食事をし、彼もわたしと共に食事をする。」(黙示録3:20)結局、「わたしをためしてみよ。・・・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ」(マラキ3:10)と、万軍の主は仰せられます

それは、結局、イエス様を仰ぎ見ることなのではないでしょうか。よく読む箇所ですけど、もう一回、読みます。

ヘブル
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

走ることとは何でしょうか。答えは、二節ですね。

12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。・・・

イエス様から目を離して、目に見える現実によって動かされれば、もうおしまい。うまく行くはずがない。

12:2 ・・・イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

パウロは、この態度を取ったのです。結果は、すごいものです。

ピリピ
3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。

考えられない変化です。

3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

この態度を取ることこそが、いわゆるリバイバルへの道なのではないでしょうか。眠ってしまった信者こそ、リバイバル、信仰の復興、信仰の復活を必要とします。すなわち、イエス様との生き生きとした交わりによって、新しくされ、新しく生かされることを必要とします。詩篇の作者であるダビデは、次のように祈ったのです。

詩篇
85:6 あなたは、私たちを再び生かされないのですか。あなたの民があなたによって喜ぶために。

こう、ダビデは祈りました。どうしたら、かかる待望のリバイバルが起こるのでしょうか。まず、第一に、私たちが主に試されることによってです。二番目に、私たちが主を試すことによってです。この両方の働きが必要です。ダビデの心の態度は、どうしても必要です。

詩篇
139:23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
139:24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください

前に言いましたように、二種類の罪があります。怠慢の罪と欲望の罪であります。漠然とした罪の悔い改めは、あまり価値のないものでしょう。私たちは、一つひとつの罪を犯しましたから、一つひとつ教えられて、それを悔い改めなければならない。

主の光によって照らし、試していただくことは、大きな恵みです。上のものを求めないで、地上のことを求めること、高ぶり、ねたみ、裁きの霊、悪口、偽り、偽善、気まぐれ、軽薄、つまずきは罪であると、聖書は言っています。

けれども、成すべき正しいことを知っていながら、行なわないなら、それも罪であると、聖書は言っています。すなわち、感謝をしないこと、主に対する愛の欠乏、聖書を読まない怠慢、不信仰、祈りの少ない生活、集会に集わない怠慢、親戚、肉親、友人たち、多くの滅びゆく人々に対する愛の欠乏、他の兄弟姉妹のために目を覚ましていないことも罪である。

エペソ
5:13 けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。
5:14 明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」

こういうふうにパウロは、エペソにいる救われた人々に書き記しました。もし、私たちがだんだん汚れ果てた自らの真相を、主の光によって教えられ、イエス様の流された血を受け入れ、聖められていくなら、私たちには暗いところがなく、すべてが光となるはずです。これこそが、今、話したリバイバルそのものです。イエス様は、ルカ伝十二章に、次のように、自分がこの世に来られた一つの目的について言われました。

ルカ
12:49 わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。

イエス様がこの地上に生きておられた時、天から火が下ること、すなわち、主の霊が豊かにこの地上に注がれることを願っておられました。今は、地上にはおられませんが、生きておられるイエス様は、やはり、同じ願いを持っておられるに違いない。意味は、リバイバルがどうしても必要です。

人々は、新しい年を迎えたり、誕生日を迎えると、新しい決心を心に堅め、願いごとをいたします。今日は、別に元日でもないし、誰かの誕生日でもないかもしれないけど、私たちは、一つの願いを持つべきでしょう。

ちょっと変な願いですけど、皆さんに、ちょっと病気になってもらいたい。腎臓病になってもらいたい。昔、私も腎臓炎にかかったことがあります。東京ではなく、まだ、茨城県にいる時です。腎臓病にかかって、しばらく寝たことを、主に本当に感謝するようになりました。

その時の状況は、次のようなものでした。何日間か激しい頭痛が続き、苦しんでいましたが、ちょうど、その時、親しい医者のところへ行く用ができ、先生を尋ねたとき、もちろん、診察してもらいました。その時、私が腎臓炎にかかっていることが始めて解かりました。

この病気について聞いていますと、腎臓炎は、おもしろい病気であると解かりました。腎臓のための薬が、少なくともその時、なかったのです。療法といえば、ただ安静にして、寝ているということでした。

この世を見回しますと、平安と安静は、どこにも見当たりません。多くの人々は、忙しく働き、時間以上に働いています。腎臓病は、治療として、ただ安静にしている以外にないと言われましたが、これは静思のときを与えてくれる幸いな病気です。病気になった時、聖書の中にも、何か腎臓について書かれていたことを思い出し、調べていました。

詩篇
139:13 それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。
139:14 私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。

『内臓』は、原語では、『腎臓』となっています。エレミヤ書の中で、また、次のように書かれています。

エレミヤ
11:20 しかし、正しいさばきをし、思いと心をためされる万軍の主よ。

エレミヤは、主が自分に成してくださった御業を、こう述べています。

エレミヤ
17:10 わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。

エレミヤ書のこの二つのみことばの中に出てくる『思い』という言葉は、他の訳を見ると『腎臓』と訳されています。

聖書が言っている腎臓は、何を意味しているのでしょうか。腎臓は、我々の良心、潜在意識、いちばん深い心の奥を意味しています。前に読んでもらいましたように、詩篇二十六篇二節で、「主よ、私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください」と、主の前に祈り求めたのはダビデです。彼は、この祈りを捧げ、「主よ、どうか我が良心、私の潜在意識、心のいちばん深みをお探りください」と、祈ったのであります。主が我々の心の深みまで探ってくださり、それを明るみに出してくださるならば、リバイバルが起こるのです。

我々にはその備えがあるのでしょうか。いわゆる普通の腎臓病の人々は、腎臓が元通りになるために、安静がどうしても必要でした。これと同じように、主が我々の心の深みにまでお探りくださるために、やはり、私たちが主の御前に、静かに静まっていることが必要です。

皆さんが腎臓病になることを願ったのは、皆さんの得になるためではなくて、主の御前に静まり、心の深みにまで探っていただく時を持っていただくためでした。そのようにしたら、天より火が下り、御霊の流れが地上にまで流れ来たり、リバイバルが起こるに違いない。

我々の心の深みが主に探られ、そして、今度は、私たちが主を試みることによって、火が下ります。私たちが、リバイバルを目の前にしたら、どんなに嬉しいことでしょう。主は、それを我々に与えようとなさっておられます。

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