2014年6月3日火曜日

主を知る大切さ

主を知る大切さ
2014年6月3日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

詩篇
139:23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
139:24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

マラキ
3:10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

ピリピ
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

今、読んできてくださった箇所の内容とは、「主イエス様を知る大切さ、必要性、また、可能性」についてなのではないかと思います。我々人間にとって、もっとも大切なのは、主イエス様を知ることです。どうしたら、イエス様をより良く知ることができるのでしょうか。二つのことが言えます。まず第一に、私たちが、主に試されることによってです。第二に、私たちが、主を試すことによってです。


この両方の働きが必要です。聖書を読むと、二種類の罪について、よく書き記されています。いわゆる怠慢の罪と欲望の罪についてです。

漠然とした罪の悔い改めは、あまり役に立たないものです。私たちは、ひとつひとつの罪を犯しましたから、ひとつひとつ教えられて、それを悔い改めなければなりません。主の光によって照らされたとき、私たちは大きな恵みを体験的に知るようになりました。ヤコブという弟子は、次のように書いたことがあります。

ヤコブ
4:17 ・・・・なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。

すなわち、感謝をしないこと、主に対する愛の欠乏、心を開いて聖書を読まない怠慢、不信仰、祈りの少ない生活、親戚、肉親、友人たち、多くの滅び行く魂に対する愛の欠乏、他の兄弟姉妹のために目を覚ましていないこと、己を捨てて主に従わないこととは、全部、罪と呼ばれています。

そして、第二番目の罪の種類は、欲望と呼ばれる罪です。この欲望の罪とは、いったい何なのでしょうか。

まず、第一番目、地上のことを思うことです。地上のことを思うこととは、罪と呼ばれています。

ピリピ
3:19 彼らの思いは地上のことだけです。

パウロは、これは未信者のためではなくて、信じる者のために書いたのです。「彼らの思いは地上のことだけです。」私たちは、上のものを本当に心から求めているのでしょうか。それとも、地上のものを求めているのでしょうか。私たちは、主のものとして主のご計画に従わず、自ら立てた計画どおりに、このことを運ばれると思ったら誤りです。

私たちは、尊い値を払って買い取られた主のものです。私たちの持っているお金も、もちろん、主のものです。旧約聖書では、十分の一を捧げれば良かったんです。けど、主は我々のすべてを、自分のものにしたく、願っておられます。我々の時も、もちろん、主のものです。くだらない冗談や夢物語に時間を費やすことは、主を悲しませるでしょう。あらゆる地の思いは、罪と呼ばれています。

二番目、高ぶり。高ぶりも罪であります。私たちは、例外なく、高ぶりの心を持っています。私たちは、心を整えることよりも、多くの時を体裁を飾るために用いないでしょうか。他の人々が我々の身なりをどう思うか、非常に気にしますが、主は我々を、どう思っておられるかは、あまり心に留めないで生活しているのではないでしょうか。結局、これは人よりの誉れを求め、主よりの誉を求めていない人々の姿を現してはいないでしょうか。パウロのすばらしい告白が、ガラテヤ書に書き記されています。

ガラテヤ
1:10 いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。

救われてはいるでしょう。けど、主に用いられる器ではない。

ヤコブは、聖書全体が言わんとしていることを、本当にうまくまとめて書いたのであります。

ヤコブ
4:6 しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

豊かな恵みを与えられることは、すなわち、イエス様をより良く知ることの秘訣です。豊かな恵みの反対は、退けられることです。神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。

三番目、ねたみ。ねたみも罪と呼ばれています。人々は、他の人が先に出ると妬み、ある人に人々の注目が集ると、その人を妬み、ある人が豊かな生活をしていれば、その人を妬みます。人の欠点を人の失敗を話すことは、人の長所を話すより好きだ・・・・という生まれながらの性質を、人間は皆、持っています。これは、罪であり、サタンからの思いと言わなければなりません。私たちも、この罪を認め、言い表すべきなのではないでしょうか。

四番目、裁きの霊を持つことです。裁きの霊を持つことも罪です。私たちは、しばしば、詳しい事情も知らないで、人を裁きます。私たちは、すべてのことを善意に解釈する愛を持っているのでしょうか。

五番目、悪口も罪です。無言電話もそうでしょう。たとえ、信者が、御霊により何年もかかって、お互いの間に愛が培われたとしても、一言の悪口でそのあいだは引き裂かれてしまいます。

六番目、偽り。偽りも罪です。偽りは、意識しながら人を欺くことです。我々の外側と内側が違うのは偽りです。我々の言葉、まなざし、行ないは、たびたび偽りを成さないことでしょうか。心に反して、行動しないでしょうか。

七番目、偽善も罪です。信者の場合は、祈りの上でも、偽善者になる場合があります。主に思いもしないことを願う場合があります。祈った後、何を祈ったか、覚えていないような場合もあります。罪を告白しても、本当にそれから離れず、罪の中を歩みたい気持ちを残します。私たちは、ありのままの姿にならなければなりません。お互いに対して、百パーセント、正直にならなければ、主をより良く知ることができないでしょう。私たちが、光の中を歩まなければ、結局、悪魔の勝利になります。

八番目、気まぐれです。気まぐれも罪であります。気まぐれな信者は、教会生活と家庭生活が違います。集会では真面目でも、家庭に帰って気の向くまま生活し、つまづきを与えたりすることでしょう。

九番目、軽薄も罪です。信者は、この世の名誉ある人が来れば、真面目になるように、主の交わりの中で、平気で冗談を飛ばしてしまいます。我々の生活は、もっともっと絶えず、主のご臨在の前を恐れを持って歩む者となりたいものなのではないでしょうか。

十番目、つまずきを与えることも罪です。我々の生活が、どれだけ他の人のつまずきになっていたかを、全部、知ることができるなら、それはきっと、私たちをびっくりさせるに違いない。

ここまで、いろいろな罪について述べてきましたが、これらを主に言い表し、あわれみを求めたいものです。ヨハネ第一の手紙、次のように約束されているからです。

第一ヨハネ
1:9 もし、私たち(・・・私たち、信じることにより、救われた者・・・・)が自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

ソロモンは、また、次のように書いたのです。聖書全体の言わんとしていることをまとめて書いたのです。

箴言
28:13 自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。

私たちは、主の光の前に、真実な悔い改めを成したいものです。その時、恵みの雨は、主の霊は我々に降り注がれることになるにちがいない。

どうしたら、イエス様をより良く知ることができるのでしょうか。主が、我々をお試しになることが、まず必要です。私たちは、主に試していただきたいものです。

どうしたら、イエス様をより良く知ることができるのでしょうか。今まで考えたように、私たちが、主に試されることによってです。二番目の答えは、私たちが主を試すことによってです。私たちが、主をかえりみることが必要です。主は、私たちが主を試すことを待っておられるのです。忍耐をもって、待っておられます。

マラキ
3:10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

二回も、「ためしてみよ」という表現が出てきます。

両親の身持ちが悪いために、幼い時から両親と離れて生活しなければならず、親の愛を知らず、人の手にかかって育ったような人は、本当に不幸です。学資さえあれば何とかできたのに、将来、思うとおりの職につくチャンスがない・・・・と恨んでいます。このように自分の力を出しきるチャンスを持たないで、嘆いておられる方がおられます。それは、救われた者のあいだに、救われた者をとおしてご自分の力を現す機会を見失っておられる主ご自身です。イエス様は、あふれるばかりの祝福を与えたいと望んでおられますけど、その機会を見つけません。主は、「わたしを試みてみよ」と言われます。

主は、恵みの雨を降らせる備えがありますけど、信じる者が主を試みなければ、祝福することができません。主は、私たちが条件を満たさないために、豊かな祝福を与えることができないで、悲しんでおられます。いつ、あふれるばかりの祝福が与えられるのでしょうか。答えは三つかな。

第一番目、主にのみすべての栄光を帰していきたいという、燃える熱情が信じる者の心を満たすなら、そのとき、主をより良く知ることができ、あふれるばかりの祝福が与えられます。

第二番目、主の十字架の働きにより、自らの心がどんなにみじめなものであるか、教えられる備えが来たとき、主をより良く知ることができ、また、あふれるばかりの祝福が与えられます。

三番目、大切なことは、兄弟姉妹、集会の一致が現れるとあふれるばかりの祝福を得ることができます。

なににおいてもまず、大切なのは、いったい何なのでしょうか。今、話したように、イエス様の栄光が現れることです。イエス様がこの地上におられたときに、天の窓が開け、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と、父なる神の御声が聞こえました。

今日も、父の御心にかなうただ一人の方は、イエス様以外にありません。天の窓が開き、イエス様の上に御霊が鳩のようにくだりました。イエス様の栄光を思い、主に栄光を帰するにしたがって、あふれるばかりの祝福が与えられます。私たちの願いは、ただイエス様の御名が崇められることだけでしょうか。身の回りに起こるいっさいの事柄を通して、主の栄えを帰する備えがあるのでしょうか。私たちが、どんなに蔑まれても、誤解されても、そのただ中で、なお主に栄を帰して歩むのでしょうか。または、人々の注目を得ようと努めているのでしょうか。主にのみ、すべての栄光を帰していきたいという熱情を、我々の心に満たすなら、そのとき、主をより良く知ることができ、そして、我々一人ひとりがあふれるばかりの祝福を経験します。

二番目、十字架の働きが必要です。十字架の働きなしに、主だけに栄光を帰していくことはできません。イエス様をより良く知ることとは、いったい何なのでしょうか。それは、イエス様のいのち、イエス様のご臨在、イエス様のご栄光が現れていくことに他なりません。

しかし、もし私たちの自我が砕かれなければ、主のいのち、主のご臨在、また、主のご栄光は外に現れてまいりません。パウロは告白しました。「私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる。」このパウロの体験が、我々の体験とならなければならない。「私ではない、イエス様がすべてである。」これこそ、イエス様をより良く知る秘訣です。

私たちの誇り高ぶる自我が砕かれることこそが、要求されています。十字架の働きによって、自我は全く砕かれなければなりません。そして、私たちは全く主に拠り頼まなければなりません。

三番目、集会全体の一致があふれるばかりの祝福を得る秘訣です。五旬節の日に、皆一つになって祈ったとき、結局、あふれるばかりの祝福が与えられたのです。彼らは、心を一つにして祈った。覚えるべきことは、すなわち、イエス様は、特定の一人ひとりの信者の心を目覚めさせようと願っておられるのではなく、皆、すなわち、全集会を目覚めさせようと願っておられるのです。

どうして主は、それを願っておられるのでしょうか?私たちがイエス様の花嫁として、しみなく、しわなく、傷なき者となるために、イエス様をより良く知る必要があります。自分だけが祝福されるように思うと、そのような祈りは聞きとどけられないでしょう。もし私たちが、すべての兄弟姉妹のために祈ると、心から祈ると、主は聞きとどけてくださいます。『万軍の主は仰せられる。』

マラキ
3:10 ・・・・わたしをためしてみよ。・・・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

どういうふうに主を試すことができるのでしょうか。イエス様の栄光を求めて燃えている者は、主を試す者であり、十字架により、主に全くゆだねている者は、主を試みる者であり、そして、主の集会が建て上げられることを切に願い求める者は、あふれるばかりの祝福を受けます。

イエス様は私たちを試み、私たちははだかのままの姿を主に見せたのでしょうか。私たちは、その結果、自ら、何一つ拠り頼むところがなく、自らの恥を主に隠したいような気持ちにまでなっているのでしょうか。私たちはすでに、全能なる主に、全てを試していただいたのでしょうか。

また、私たちは、主があふれるばかりの祝福を我々に与えてくださるチャンスを与えたのでしょうか。これに対し、「そんな必要はない!主は全能の神であられるから、ご自分でチャンスを作ることができるでしょう」と言う人もいます。けれども、イエス様は、いつも我々の祈りに答えて、奇跡を行なおうと望んでおられます。ありのままの姿になること、飾らないで自分の罪を主に告白すること、本当に砕かれた魂を持つことは、結局、主にチャンスを与えることを意味します。

黙示録
3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

このみことばは、未信者ではなく、信じる者に対して語られた言葉です。主が、心の扉の外に立って、たたいておられます。主は入りたいと望んでいます。中心になろう、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものになろうと主は願っておられます。

なぜ、主は自分の扉を破って入らないのでしょうか。イエス様は、無理に入ることをなさらないからです。心の扉を開けるのは、自分の支配権を主に明け渡すのは、結局、人間、我々、一人ひとりの責任です。もし私たちが、心の扉を開けるなら、自分の全生涯の支配権をイエス様に明け渡すと、主はあふれるばかりの祝福を与えてくださいます。

たとえば、菊は美しい花を持ち、人の目を楽しませます。私たちは、その菊の根を持っていても、もしそれを土に埋め、花を咲かせるチャンスを与えなければ、何の役にも立ちません。私たちは、土に埋められていない菊のような存在ではないでしょうか。麗しさと力と神聖さがありません。

私たちが、あふれるばかりの祝福を受けることは大切です。イエス様は与えようと望んでおられます。けど、私たちは真っ暗な土の中に、孤独の中に埋もれ、土の中に死ぬ勇気がなければ、主にチャンスを与えなければならないのです。

ペテロという男は名も無い漁師でした。そればかりではない。主を三度、否んだ弟子でした。けど、このペテロが主に全く拠り頼み、主をして、働くチャンスを与えさせた時、驚くばかりの祝福がペテロを通して現れたのです。このペテロによって、何千人の人々が導かれ、救われました。

私たちは、放蕩息子のたとえを知っています。しかし、その時、父のもとへ帰る勇気を持たない放蕩息子が他にたくさんいたのではないでしょうか。家に帰らなかった放蕩息子たちに、父は自分の持っているすばらしい富を与えるチャンスがありませんでした。

私たちはダビデのように、「主よ、私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心を試してください」と、真剣に、まじめに祈り、求める用意があるのでしょうか。そのように祈って、主の御許(みもと)に近づく時、はじめて、主は、私たちにご自分の富を与え、また、あふれるばかりの祝福を与えることができるのです。

どうしたら、主に働くチャンスを与えることができるのでしょうか。主に心の底まで見ていただき、明るみにさらしていただくことです。ちょうど、痛んで苦しんでいる病人のように、医者に見せましょう。患者は医者を信頼します。医者を信じて、悪いところを見せるとき、医者はそれを直してくれます。患者は麻酔をかけられて、何も解からないうちに手術をされても、医者にゆだねています。

土、日曜日、遠くまで行くとき、ちゃんと時間を調べて、汽車を選びます。もし駅の人が言ったことを信じないなら、目的地に行くことはできないでしょう。主はご自分の力を与えようと望んでおられるのです。そして、「わたしを試みよ」と、言っておられます。「機会を与えよ」と、言っておられます。

「主よ、どうか私を砕いてください。あなた様のご栄光のため、失われた多くの魂のため、また、兄弟姉妹が新しく造り変えられて、霊的に成長するために、どうか砕いてください」と、私たちがもし、従順に主に従うなら、主は働いてくださいます。

イエス様に癒された十人のらい病人は、どうして癒されたのでしょうか。彼らは、望みがなかったにもかかわらず、みことばに従順に従ったからです。聖書は言っています、「彼らが行く途中で癒された」と、伝えています。

彼らが、主のみことばに不従順だったなら、らい病は癒されず、みじめな生活を続けたことでしょう。

黙示録
3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

主は、呼びかけておられます。結局、「わたしを試してみよ。わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ」と、万軍の主は仰せられる。

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