2014年6月22日日曜日

マタイの福音書11章20~30節より

マタイの福音書11章20~30節より
2014年6月22日、岡山よろこびの集い
ゴットホルド・ベック

マタイ
11:20 それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。
11:21 「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。
11:22 しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。
11:23 カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。
11:24 しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」
11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。
11:26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
11:27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

今、お読みになりました20節を、もう一回読みます。


マタイ
11:20 それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。

『わざわいだ、コラジンよ、わざわいだ、ベツサイダよ、わざわいだ、カペナウムよ』、と主は言わざるを得なかったのです。これらの町々は、その後、迫害によって、完全にダメになりました。もう、存在しなくなってしまったのです。イエス様は、これらの町の中で、多くの力あるわざをなさいましたが、しかし、結果として、彼らは悔い改めなかった。悔い改めようと、しなかったのです。

私たちはよく、よろこびの集いと言います。よろこびばかりではない。何の問題も、苦しみもないからではない。どうして、よろこびの集いであるかと言いますと、悔い改められるからです。へりくだりましょうよ。これは、主の招きのことば、そのものです。

五旬節から、数えきれないほど、多くの証し人がイエス様の力あるわざを述べ伝えました。彼らは、『私たちとしては、自分の見たこと、聞いたことを語らないわけにはいかない』と、言わざるを得なかったのです。私たちも、イエス様のなさった御わざについて、たしかに、多くのことを聞きました。すなわち、イエス様の身代わりの死、十字架の御わざ、イエス様の流された血について、また、よみがえりについて、昇天なさったことについて、確かに、多くのことを聴いたり、読んだりしました。けども、私たちは、初代教会の兄弟姉妹のように、イエス様を紹介したい気持ちでいっぱいなのでしょうか。『わざわいだ、コラジンよ、わざわいだ、ベツサイダよ、わざわいだ、カペナウムよ』と、イエス様は当時、言われました。いったい、どうしてでしょうか。イエス様は、これらの町の中で、数々の力あるわざをなさいましたが、しかし、彼らは本当の意味で聞く耳がなかったのです。悔い改めようとしなかったのです。

イエス様のなさった御わざを聞いても、我々の生活そのものは、変わったのでしょうか。あるいは、未信者とまったく同じように、生活しているのでしょうか。集会にいる時の顔と、自分の家にいる顔とは違うのでしょうか?我々は、聖霊の支配によって、勝利者として、よみがえりの力を経験しているのでしょうか。今日の一番、足りないこととはなんでしょうか?3つのことが言えます。第一番目、必要なのは、徹底的に悔い改めることです。2番目、必要なのは、誠実な心を持つことです。そして、3番目、必要なのは、心からの献身です。

確かにイエス様は、言われました。すなわち、『わざわいだ、コラジン、わざわいだ、ベツサイダよ、わざわいだ、カペナウムよ。』しかし、もしかすると、私たちは、こういう言葉は当時の町々だけに言われ、我々には当てはまらないと思うかもしれない。多くの人々は、『私は回心を経験したから、悔い改めたから、いいだろう』と、思い込んでいます。悔い改めるべきなのは、未信者でしょう。けど、私たちは救われているから、それで十分なのではないかと考える人もいるのではないでしょうか。けども、今、読んでもらいましたマタイ伝の11章、20節から30節までを読むと、イエス様は3回も、『わざわいだ』と、叫ばれたことが分かります。『悔い改めなければ、わざわいだよ』と、イエス様は今日も宣告しておられます。けども、『悔い改めよ』という声は、精神に忠告しているのであり、また、救いの恵みを与えようとする声であり、心からの天使の要求する御声です。たしかに、この20節は、ちょっと悲劇的なことでしょう。『イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかった』、意識して悔い改めなかったので、イエス様は、やむを得ず、責め始められたとあります。

最も大切なのは、徹底的に悔い改めることです。イエス様はいろいろな町で力あるわざを行ったのです。すなわち、イエス様は、コラジンでも、ベツサイダでも、また、カペナウムでも、御自分のご栄光を現してくださいました。

たとえば、ある日のことですが、カペナウムで、人々が一人の中風のものを、4人の人に運ばれて、イエス様のところに連れてきたのですが、しかし、群衆のために近寄ることができなかったから、イエス様がおられる当たりの屋根を剥ぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床を吊り下ろしました。そして、イエス様は中風の人に向かって何と言ったかといいますと、『あなたに命じる、起きよ。床を取り上げて、家に帰れ。』すると、彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みんなの目の前で出て行ったので、一同は大いに驚き、主をあがめて、こんなことはまだ、一度も見たことがないと言ったのです。

ヤイロの娘のよみがえりも、カペナウムで行った奇跡でした。

マルコ
5:21 イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。
5:22 すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、
5:23 いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」
5:24 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。

5:35 イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」
5:36 イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
5:37 そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。
5:38 彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、
5:39 中にはいって、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」
5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた。
5:41 そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)
5:42 すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。

すごい奇跡でした。それから、汚れた霊に憑かれた人の癒しも同じところ、すなわち、カペナウムの辺りで行われました。

マルコ
1:21 それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。
1:22 人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。
1:23 すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。
1:24 「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」
1:25 イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。
1:26 すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
1:27 人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。・・・」
1:28 こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。

それから、片手のなえた人の奇跡も同じところ、すなわち、カペナウムで行われた奇跡でした。

マルコ
3:1 イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。
3:2 彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。
3:3 イエスは手のなえたその人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。
3:4 それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われた。彼らは黙っていた。

ずるいね。

マルコ
3:5 イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。
3:6 そこでパリサイ人(・・・当時の宗教家・・・)たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた。

ペテロのしゅうとめ、また、ほかの病人、悪霊に憑かれた人々を癒したところは、同じ町、カペナウムでした。

マルコ
1:29 イエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家にはいられた。
1:30 ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた。
1:31 イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熱がひき、彼女は彼らをもてなした。
1:32 夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのもとに連れて来た。
1:33 こうして町中の者が戸口に集まって来た。
1:34 イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。

レビという男、すなわち、後のマタイという男も、この町のものでした。

マルコ
2:13 イエスはまた湖のほとりに出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。
2:14 イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。
2:15 それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。
2:16 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」
2:17 イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

イエス様は確かに、このカペナウムでなんと多くの力あるわざをなされたのでしょう。

同じように、ベツサイダの人々も、主イエス様が大いなる権威を持っているということを認めざるを得なかったのです。ベツサイダで、5つのパンと二匹の魚を持って、5千人以上の男が食べて、満腹した。イエス様は男のためにだけ、集会を持っていたことはないようです。男だけで5000人だったら、女性と子供たちを考えると、数えられないほど大勢だったのです。皆、満腹したとあります。考えられない奇跡です。そして、このベツサイダでイエス様が、メクラを癒し、また、アンデレ、ペテロとピリポを召し、ご自身の弟子としてくださったのです。

一ことばで、言いますと、カペナウム、また、ベツサイダ、また、コラジンの人々は、イエス様の力あるわざを、偉大なる奇跡を経験することができたのです。彼らは皆、イエス様は癒す力、赦す力、解放する力を持っておられることを皆、認めざるを得なかったのです。けど、イエス様は数々の力あるわざを行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。『わざわいだ、コラジンよ、わざわいだ、ベツサイダよ、わざわいだ、カペナウムよ』と、イエス様は言わざるをえなかったのです。

私たちは今までに、たとえば、いたるところで、イエス様のなさった力あるわざを見る恵みに与りました。多くの兄弟姉妹を見てもわかります。すなわち、イエス様は確かに解放する力、赦す力を持っておられることを、認めざるを得なかったのです。イエス様はいたるところで、自分はできる、私にとって不可能なことはないと、証明してくださいました。だからと言って、徹底的に悔い改めなければならないとは、私たちにとって、ちょっとたいへんです。なぜならば、それこそが悪魔の扉を開くことを意味しているからです。

当時、イエス様はカペナウムで、また、コラジンで、そして、ベツサイダで、ご自分の力あるわざを明らかにしてくださいました。そして、私たちも、主の大いなる恵みを経験するようになりました。けど、それによって、私たちの考え方、我々の見方、価値観も変わったのでしょうか。主の言葉に耳を貸しましょう。

マタイ(口語訳)
5:20 わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者(たち)やパリサイ人(たち)の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。

なんと言う、厳しい言葉なのでしょうか。あなたがたは世の光です。闇のうちにある町は隠れることができませんと、イエス様はもちろん、今日も言っておられます。いったい、大切なのはなんなのでしょうか。言うまでもなく、他の人々に、家族、親戚、友だちに、本物に対する飢え渇きを覚えさせることです。彼らは、次々に導かれなければならない。本当に大切なのは、徹底的に悔い改めることです。それからイエス様は数々の力あるわざの行われた町々が、悔い改めなかったので、責め始められたと20節に書いてありますね。

【参考】マタイ
11:20 それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。

悔い改めたくなければ、もうおしまい。厳しい裁きが来ます。

マタイ(口語訳)
11:22 おまえたちに言っておく。さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすい。

マタイ(口語訳)
11:24 あなたがたに言う。さばきの日には、ソドムの地の方がおまえよりは耐えやすい。

主はこう言われました。その後、当時の町々は、跡形もなく消えてしまいました。どうして?悔い改めようとしなかった。聞く耳がなかったからです。

マタイ
11:21 ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。

裁きの日が来ます。そうです。しかし、私たちは救われているから、裁かれないでしょうと、思うかもしれない。ヨハネ伝5章の24節を見ると、良く知られている箇所ですが、次のように書いてあります。

ヨハネ
5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

救われているから、裁かれないと、ここではっきり、書いてあります。けども、私たち、救われたものにとって大切なのは、死んでから。報いを受けるか、報いを受けないかのどちらかです。パウロは、コリントにいる兄弟姉妹に次のように書いたのであります。

第1コリント
3:11 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
3:12 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、
3:13 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
3:14 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
3:15 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

原本を見ると、『救われます』となっています。神の御言葉である聖書は、なんと、はっきりしていることでしょう。

コリントにいる兄弟姉妹は、主に出会って、救われた者でした。彼らの土台は、イエス様でした。イエス様は、永遠に生きておられるから、その土台も永遠に続きます。けど、この土台の上に建てる金、銀、宝石、木、草、わらのあいだには、たいへんな違いがあります。金、銀、宝石は燃えません。けど、木、草、わらは、たちどころに燃えてしまいます。もし、ある人の立てた仕事がそのまま残れば、すなわち、金、銀、宝石の仕事ならば、その人は、報酬を受けるが、その仕事が焼けてしまえば、自分の力で作られた木、草、わらの仕事ならば、損失を被うるでしょう。けども、彼自身は、火の中をくぐってきたもののようではあるが、確かに、救われます。

私たちはイエス様の褒賞の座の前で喜ぶことができるのでしょうか。私たちは、その座の前に褒美をもらいたいと思うのでしょうか。それとも、全生涯を費やして作ったものが、灰になってしまってもよいのでしょうか。私たちは、聖書の喜びの知らせを、何回も聞きました。けども、十字架で成された救いを、本当に自分のものにしたのでしょうか。高く引き上げられたイエス様が提供された、聖霊の満たしを自分のものとしているのでしょうか。もし、そうであれば、まわりの人々が、それに気が付くようになり、自分の罪と望みのない状態を必ず、認めるようになるにちがいない。

一番、大切なのはいったい、何なのでしょうか。今、話したように必要なのは、徹底的に悔い改めることです。

どうしてよろこびの集いなのかと言いますと、悔い改められるからです。へりくだれば、オーケー。聖書全体の言わんとしていることはそれです。もうひとつ、必要なのは、誠実な心を持つことです。私たちは、今までに、厳しい『わざわい』の声を聴くことができました。この、『わざわい』の声は、主イエス様の御許に帰ることを勧める御言葉です。

それだけではなくて、悔い改めを要求する声とは、精神に忠告しているものでもあります。

マタイ
11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。
11:26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。

悔い改めるだけではなく、誠実な心を持つ必要があります。イエス様のことばによって明らかになったのです。すなわち、イエス様の力あるわざと、恵みの表すことは隠されています。知恵のある人や、賢い人々に隠されています。もし、私たちが、主の偉大なる御わざを理解しようと思えば、壁にぶつかります、隠されているからです。理解力をもって、イエス様の十字架の偉大さを理解することはできません。『天地の主であられる父よ、あなたを褒めたたえます』と、イエス様は言われました。父なる神との結びつきこそが、イエス様の全てでした。

第1コリント
1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
1:29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
1:30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
1:31 まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。

主なる神のご栄光は、幼子たちに明らかにされます。人間的な知恵と賢さは、決して主の力あるわざを、経験することができません。『私もはもうダメ、失敗するものです。自分の能力も、知識も、学識もまったく役にたたない』と、思う人は幸せなのではないでしょうか。なぜなら、そういう人々に、主は御栄光を現してくださるからです。主は、我々のいわゆる知識を打ち砕かなければならない。確かに、私たちは信じています。すなわち、イエス様の死は、我々の代わりの死であり、そして、イエス様は死んだままではなかったのです。復活なさいました。昇天なさいました。けど、我々にとって大切なのは、主の力を現す器(うつわ)となることです。結局、主に用いられる器となることです。イエス様の偉大な力あるみわざは、幼子、何もできないものだけに明らかにされます。

パウロは、心から言えました。ピリピ書3章の8節、皆さん、何度もお読みなりました箇所です。

ピリピ
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得(るため。)

イエス様をよりよく知るためです。イエス様の告白でしょうか。イエス様の証しとは、次のようなものです。

ヨハネ
3:35 父は御子を(・・・私を・・・)愛しておられ、万物を御子(・・・私・・・)の手にお渡しになった。

17:2 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子に(・・・私に・・・)お与えになった。

こう、イエス様は言うことができたのです。

マタイ
11:27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。

私たちは、自分の理性で持って、また、理解力で持って、イエス様を知ることはできません。主が、上からの光を与えてくださらなければ、主が恵んでくださらなければ、イエス様を知ることも、愛することもできません。けど、求めれば、間違いなく、与えられます。イエス様に対する知識を持つよりも、イエス様を救い主として、また、自分を支配なさる主として迎えることこそが、大切です。彼ら(カペナウムの人々)は、なんといったかと言いますと、『私たちには一人の父がある、それは、神である』と。しかし、イエスは、彼らに向かっ(て言っ)た、『あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきたもの』と、言われました。

今日(こんにち)、一番、足りないことは何なのでしょうか。今、話したように、必要なのは、徹底的に悔い改めることです。それから、誠実な心を持つことです。最後に、ちょっとだけ、必要なのは、心からの献身です。

今、話したようにイエス様はご自身を、知恵あるものや賢いものたちに明らかにしようと、しなかったのです。けど、病人たち、罪を犯すことしかできないと、悩んでいる人々に、イエス様は救いの御手を伸ばすお方です。恵みに富みたもう主は招いておられます。『私のもとに来なさいよ。全て、重荷をおっているものは、おいで。』どなたを、呼ばれているのでしょうか?重荷を負って苦労しているもの。多くのことに心を奪われて、思い煩っているかもしれないが、無くてはならないものは多くはない。いや、ひとつだけです。どうしようもない者として、イエス様に祈ること、また、イエス様は必ず、報いてくださる。心配、また、不安から解放してくださいます。

まことのイエス様は私たちの病いを負い、我々の悲しみを担ったと、イザヤ書53章に書かれています。イエス様は、もう既に、我々の病いを負い、我々の悲しみを担ったのです。おいで、私のところに来なさい。『休ませてあげます』と、主イエス様は約束しておられます。

マタイ
11:28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。

休ませてあげようと。我々に必要なのはこのイエス様です。イエス様しか、言えなかったことでしょう。

マタイ
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

私たちは、律法と罪のくびきを知っていますから、イエス様のくびきとは、まったく違うものです。イエス様のくびきは、恵みのくびきであり、自由を与えるくびきです。イエス様のくびきは、イエス様とともになることであり、イエス様との交わりによって、元気付けられることです。自我の奴隷、罪の奴隷、悪魔の奴隷であった者が、今や、イエス様の奴隷、イエス様に仕えるしもべとなったことは、まことの喜び、また、幸せのもとなのではないでしょうか。


終わり

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