2014年3月18日火曜日

考えなさい

考えなさい
2014年3月18日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第一ヨハネ
3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
3:3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。
3:4 罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。
3:5 キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。
3:6 だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。
3:7 子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。
3:8 罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。
3:9 だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。
3:10 そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。

人間と動物の違いは、いったい何なのでしょうか。いちばんの違いは、人間は神意識を持っているのです。動物には、神意識がない。困ったとしても祈ろうとしない。人間は、神意識を持っているだけではなく、考える能力も持っています。ですから、聖書の中で、「覚えなさい、考えなさい」とよく出てくることばです。


考えなさい。私たちが昨日、イエス様に感謝するために、時間を作らなかったから、主は今日、我々を祝福するためにひまを持っていなければ困る。私たちが今日、主に従順に従わなかったから、主は、明日、我々を導こうとしなければ、いったい、どういうことになるでしょうか。私たちが今日、みことばを読まなかったから、主は明日、我々の聖書を取ろうと思えば、どうでしょう。

もし、私たちが、みことばを伝える人に耳を貸さず、主が我々に語ることを止めれば、いったいどうでしょう。私たちが隣の人のために心配し、愛していると同じように、主が私たちに配慮し、また、同じだけ我々を愛し、心配してくだされば、どうでしょう。私たちが昨日、主の声に耳を貸さなかったから、主が今日、私たちの祈りを聞きとどけようとしなければ、考えられないことになります。私たちが、すべてを主に捧げようとしなかったから、主が、今から聞く耳を持とうとしなければ、これこそ悲劇そのものなのではないでしょうか。私たちが、主を第一にしなかったから、主が我々の必要に対して知らん顔をしたら、いったいどうなるでしょう。我々の主は、「痛んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす」と、書いてあります。もう一回、すばらしい箇所を読みます。

哀歌
3:22 私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。
3:23 それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。
3:24 主こそ、私の受ける分です。」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。
3:25 主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。
3:26 主の救いを黙って待つのは良い。

先に読んでもらいましたヨハネ第一の手紙の箇所は、確かにすばらしい告白です。ヨハネは、その時、ある意味で寂しかったでしょう。パトモス島に追放されてしまったし、けれども彼は、信じる者のために書いたのです。聖書の中で、確かに複数形になっているのですね。ヨハネ第一の手紙、三章の一節から読むと、いつも、私たち、私たち、私たちとなっているんですけど、ちょっと複数形ではなくて、単数形で読んだら、すごいのではないでしょうか。

第一ヨハネ(置き換え)
3:1 <<<私>>>が神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま<<<私>>>は神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が<<<私>>>を知らないのは、御父を知らないからです。
3:2 愛する者たち。<<<私>>>は、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、<<<私>>>はキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、<<<私>>>はキリストのありのままの姿を見るからです。
3:3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

ヨハネは、当時の兄弟姉妹を励ますために、この節を書いたのですが、もし、私たち一人ひとりも同じように言うことができれば、本当に幸いです。ヨハネは、当時の信じる者に書いたのですけれど、「私たちは解かっています。」想像している、望んでいるのではない。はっきり、確信しているのです。この確信こそ、信じる者の幸せなのではないでしょうか。第一番目、私たちは、今すでに神の子供です。二番目、私たちは、キリストに似た者となる。三番目、私たちは、キリストのありのままの姿を見るようになる。

現在について、ひとつの事実が述べられています。すなわち、私たちは、今すでに神の子供です。そして、将来について、二つの事実が述べられています。すなわち、まず、私たちはキリストに似た者となり、そして、二番目、キリストのありのままの姿を見るようになる。現在について、ひとつの事実、そして、将来について、ふたつの事実が述べられていますから、現在よりも、将来は大切であると、はっきり書き記されています。

今、述べた事実について、少しだけ一緒に考えたいと思います。

信じる者の幸せの根拠は、第一番目、私たちは、今すでに神の子供です。神の子供となることこそが、いちばん大切です。唯一の生けるまことの神は、天地万物をお造りになられた方です。そして、この主なる神は、主イエス様を通して、救いの道を開いてくださいました。我々、信じる者は、自分の過去を振り返って見ると、必ず、次のように言わざるを得ません。すなわち、私たちは主なる神を知らなかったし、もちろん、主なる神を恐れなかったし、また、拝もうとしませんでした。

私たちは、真理を信じるよりも、真理に逆らった者でした。けど、主なる神の働きの結果として、次のことを知るようになりました。つまり、私は、主なる神の前に罪がある。私は、神の怒りのもとにいる。私は、主なる神から遠ざかっているのであるから、望みのない者ですと。そして、神なき人生の無意味さ、空しさを認識するようになり、また、いかなる尽力も努力も、自分の罪をも解決することはできないと認識するようになりました。そして、上からの光に照らされた者として、私たちは、破産を宣告し、自分の債務、また、わがままを、主に告白する恵みにあずかるようになりました。結果として、私たちは、イエス様の流された血潮によって贖われ、主なる神の子供とされたことを確信するようになりました。

我々の信仰生活の初めとは、何だったでしょう。私たちは、十字架につけられたイエス様を、心の目で見たのです。聖書は次のように言っています。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」信じるとは、十字架につけられたイエス様を、自分のために死なれたお方として見ることです。十字架につけられたイエス様は、我々の罪のために、ちょうど避雷針のように我々の罪の上に、来るべき聖なる神の怒りを受けてくださり、尊い贖いの代価を支払ってくださり、借用証書を無効にしてくださいました。十字架につけられたイエス様を心の目で見て、イエス様の成された救いの御業のために感謝をする者は、永遠のいのちを持つことができると。

イザヤ書、四十五章の二十二節、一文章だけですけど、福音そのものです。良き知らせです。

イザヤ
45:22 地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。

十字架にかけられたイエス様こそ、我々が仰ぎ見なければならないお方です。仰ぎ見ることとは、すなわち、受け入れることです。

ヨハネ
1:12 この方を受け入れた人々(・・・・理解した人々ではない・・・・)、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

信じる者は、『私たちは今すでに神の子供です』と、喜びをもって告白することができます。生けるまことの唯一の神の子供となることは、最大の喜びです。全能なるお方は、我々を神の子供としてくださいました。主なる神は、イエス様のゆえに、あなたがたの父となってくださいました。私たちは、もはや決して、一人ぼっちではなく、この偉大なる主が、常に共にいてくださる。

信じる者は、いったいどうして、主なる神の子供となったのでしょうか。主があわれんでくださったからです。新しく生まれ変わることによって、私たちは神の子供となることができたのです。そして、ちょうど、この世に生まれて来たことが一回限りのことであるのと同じように、新しく造り変えられるということも、一回だけの事柄です。改心の種は、聖書に書かれてある神のことばであり、神の霊の働きです。

けど、この世に生まれてきたことが、人生の始まりであるのと同じように、改心も一つの始まりを意味しています。赤ちゃんは、両親にとって最初は、喜びの種でありますが、けれども、生まれてから全然、成長しなければ、かえって悲しみの種になってしまうわけです。改心しても、成長しなければなりません。改心は、新しく造り変えられることの始まりですが、この変化と成長は全生涯を通じて、絶えず行なわれなければなりません。

初代教会の救われた人々は、喜びをもって、また、確信をもって、告白することができたのです。すなわち、『私たちは今現在、もうすでに神の子供です』と。現在として、どうして喜ぶことができるかといいますと、自分の汚い過去が計算され、自分の過ち、また、わがままは、流された血潮によって洗い消されたのです。

将来について、すなわち、今からの成長について、また、次のように書いてありますね。第二番目の点についてですが、「私たちは、キリストに似た者となる」とありますね。

今まで言いましたように、救われるために、すなわち、神の子供となるために、私たちは、イエス様を自分の救い主として見上げることです。「地の果てのすべての者よ、わたしを仰ぎ見て救われよ。」「見よ。あなたの罪を取り除かれた、約束されている主イエス。」イエス様は、次のように約束してくださいました。

ヨハネ
6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て(・・・・結局、わたしを見て・・・・)信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。

救われた人々について、ここで、「私たちは、キリストに似た者となる」と書かれています。どういうふうに、キリストに似た者となるのでしょうか。答えは、コリント第二の手紙の三章なのではないかと思います。

第二コリント
3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

イエス様と同じ姿に変えられる秘訣は、高く引き上げられたイエス様を見上げることです。主を見上げると、知らないうちに変えられるようになり、勝利が与えられ、大いに祝福されます。人間は、その人が見る者の姿に変えられます。詩篇の作者であるダビデは、次のように言ったのです。

詩篇
34:5 彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。

あなたの目が捜し求めているものは、あなたの人生を反映するでしょう。あなたの目が向けられているものにあなたはついて行き、その姿に変えられます。イエス様を見上げないかぎり、私たちは目に見えるものだけを見ても、決して、満足することができません。

イエス様を仰ぎ見なければ、我々を導き、支えてくれるものは、何ひとつありません。悪魔の誘惑の目的は、知らず知らずのうちに、イエス様を見上げる代わりに、自分自身だけを見つめるようにと、我々をいざなうことです。イエス様を見上げることをしないで、自分だけを見つめる者は、傲慢や憂鬱に人間を導きます。イエス様を見上げない限り、人間は本当にみじめな自己中心に陥ってしまいます。私たちは、イエス様の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていきます。

私たちはいったいどこを見ているのでしょうか。いったい何に目を留めているのでしょうか。自分自身を見たり、他人を見たりすることは、劣等感の気持ちをもたらしたりするものです。そのような状態になる人は、イエス様は用いる、また、祝福することができません。むしろ、悪魔の道具にされてしまいます。自分自身を見たり、他人を見たり、周囲を見たりしないで、ただ高く引き上げられたイエス様だけを見上げることが、主と同じ姿に変えられていく秘訣です。

信じる者の幸せの土台は何でしょうか。信じる者の土台は、次の確信です。前に話したように、私たちは、今すでに神の子供です。二番目、私たちは、キリストに似た者となります。そして、三番目、私たちは、キリストのありのままの姿を見るようになると。

何十年も前だったんですけど、病院に行って、よくテレビに出た山川千秋兄弟に出会いました。状態は、決して良くないし意識不明だったらしいんですけど、祈った後で、涙が出たから、間違いなく聞いたに違いない。その時、奥様である穆子(きよこ)姉妹は、何回も、「もう少しで、イエス様と一緒になりますよ。もうすぐ、イエス様と一緒になりますよ」と、御主人に言ったのです。もう少しで、私たちもイエス様をありのままの姿で見ることができる、これは、考えられない、表現できない、すばらしい事実です。

私たちは、キリストのありのままの姿を見るようになるとあります。その時、私たちは想像もできず、説明することもできませんが、我々はその時、主に似た者となります。もちろん、私たちは、主の御姿に似た者とされることが、我々の手柄ではなく、ただ主の恵みによるのであることを知るようになり、主を崇拝せざるを得なくなります。

私たちが造り変えられるために、私たちがすることのできることといえば、ただ意識的に、自分自身から目をそらし、周囲の人々からも目をそらし、主お一人だけを見上げること、そして、主のみことばと主の霊が、我々の心に働くことができることを妨げないことです。

私たちは皆、次のように告白すべきではないでしょうか。多くの不十分さ、未熟さ、欠点、不完全さを持ったみじめであわれな自分の姿を見て、日々、痛いほどにその自分自身の姿を示される時、その自分が、主の御姿に似た者とされるなどということは、どんなに考えても考えられないことであり、自分の内にはそのような可能性はひとつもないと言わざるを得ません。

けれども、聖書は、主の御契約と約束として、次のことをはっきり書いてあります。『私たちは、主を見つめながら主と同じ姿に変えられていきます。』

第一ヨハネ
3:2 ・・・・私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

望んでいる、希望しているのではない。確信しているのです。大切なことは、我々の考えではありません。考えられるかどうかでもない。主のみことばは、そう語っています。だから私たちは、それを安心して信じることが許されています。私たちは、主イエス様と全く同じ姿に変えられます。

ローマ
8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

我々の人生において、いろいろ、我々の重荷となるもの、我々の力を無力にするものがあれば、その結果、私たちはすべてを投げ出して、あきらめてしまいたいと思うような気持ちになることもあるでしょう。けれども、イエス様が我々の内に新しく形造られるべきであるという切なる願いをもって、主の前に立つ者は、引き続き導かれ、いかなる困難をも通り抜け、新しく形造られるようになります。私たちは、キリストのありのままの姿を見るようになります。

将来について、主の再臨について考えると必ず誰でも、テサロニケ第一の手紙の箇所を思い出すのではないでしょうか。

第一テサロニケ
4:13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。

私たちは、いつまでも主とともになる。

何十年前だったかちょっと忘れました。マルヤマ・ノブヨ姉のお母様のことなんですけども、テラカド・セツコお母様でした。もう手足も使えませんし、人間的に言うならば、かわいそう、惨めだった。ある時、何を言いたかったのか、コンピューターと繋がっていたから、自分の気持ちを表すことができたんです。

『痛みのかたまりです。だからいつも祈っています。耳も聞こえないし、食べることもできず、ラッパの音を待つばかり。早く駆け足で迎えに来てください。再臨が近いものと首を長くして待っております。」

結局、この姉妹は、悩みながら喜ぶことができた。主は全部、知っているし、そして、もうちょっとで、この主と一緒になることを確信したからです。コリント第一の手紙、十五章の中で、内容的に全く同じことが書かれています。

第一コリント
15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

ヨハネは、当時の信じる者を励ました。

第一ヨハネ
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見る(ことができる。)

私たちは、主とともになる。いつまでも、主と一つになることを考えれば、やはり、うれしくなる。再臨を待ち望む者は、イエス様のために生きたいという目標を持っています。だからパウロは、コロサイにいる人々に書いたのです。

コロサイ
3:1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
3:2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
3:3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
3:4 私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。

ヘブル
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

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