2014年3月2日日曜日

主は近い(2014年)

主は近い
2014年3月2日、吉祥寺福音集会
ゴットホルド・ベック

第一テサロニケ

4:13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。

ちょっと、寂しかった。けども、今日はまた、うれしい。一緒になって、御名を褒めたたえることができるのは、本当に、すばらしい恵みなのではないでしょうか。



黙示録

1:8 神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

始めのない、終わりのない、永遠なる方です。


黙示録

22:20 「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

初代教会の心からの気持ちの表れなのではないでしょうか。主イエスよ、来てください。当時だけではなく、イエス様は今日も、同じように言われるのではないかと思います。


ヨハネ

16:33 あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

イエス様は勝利者です。私たちは、本当に幸せなのではないでしょか。なんでも、イエス様のせいにすることができるから。イエス様が許さなければ、何に起こらないよ。イエス様が、(これを)赦したと考えれば楽になります。イエス様は最善のことしか、考えられないお方であるからです。



確かに、今日の時代のすべてのものは、ひとつの目標に向かって殺到しています。このことは、取りも直さず、我々の今日(こんにち)の不気味さなのではないでしょうか。それは何に向かって行くのか、非常な速さで進んで行きます。だいたいの人々は、どこへ行くのか、もちろん、考えられないし、信じませんし、目標も知りません。私たちはみな、何か大変なことが起こるということを知っていますけど、それはいったい何なのでしょうか。


このままの状態が続くはずはありません。けども、この次に起こることはいったい、何でしょうか。この不安が、今の時代の多くの人々を重苦しく、意味なく、押さえつけて、また、しびれさせています。この質問に対して、私たちに答えようとする者は誰でしょうか。多くの人は、自分の頭でこの謎を解こうとしますけど、その結果は、別のものとなります。他の人々は、易者や星占師、また、トランプ占いによって、結局、悪魔に尋ねています。その結果、魔術や悪魔の力の中に堕ちこむようになります。希望が無くなってしまいます。


我々は、誰に尋ねようとするのでしょうか。将来に関しては、ひとつの権威あるものがあります。すなわち、皆さん、ご存知です。聖書です。私たちは、この神のみことばの権威を、認めるべきです。真理そのものであり、嘘を知らないイエス様は言われました。皆、暗記している箇所です。


マタイ

24:35 この天地は滅び去ります。しかし、わたしの言葉は決して滅びることがありません。

5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。


こう、イエス様ははっきり、約束してくださいました。あらゆる言葉だけではなくて、ある言葉のつづりも、すたることはないと、イエス様は約束してくださったのです。我々の聖書の主張が真実であり、全ての人がこの主の言葉を信じないならば、その人は、主と人間に対する犯罪人であり、この聖書の主張を信じていなければ、聖書は我々にとって、いったい、何の役に立ちましょうか。聖書自身の権威に思い迷っていることになるでしょう。もしそうなら、私たちはもはや、聖書の言葉を信じることはできないし、我々の理解力は、誤った聖書よりも、より高い権威になるでしょう。


(聖書は)主の言葉を含んでいるが、神のことばではないと、多くの人々は考えています。その(ような)考えを持つ人々は我々の信仰の岩のような基礎となることはできません。しかし、主に感謝すべきなのではないでしょうか。なぜならば、主のことばに歯向かう敵は、まだ、うまく行ったことがない、成功したことがないからです。完全な欠けたところのない聖書として、この聖書を信じる、信じている兄弟姉妹だけが、反対する人々に対して、主の言葉をもって、立ち向かうことができ、罪に勝利を得ることができます。我々は自信をもって、将来を聖書に尋ね、聖書に目を光らせたいものなのではないでしょうか。


2200年前、イエス様は、嬰児(みどりご)として、この我々の罪だらけの世界にお入りになりました。けど、近いうちに同じイエス様はまた、お出でになります。けど、嬰児(みどりご)として、また、救いを成し遂げるためではなくて、今度は、花婿として、イエス様に受け入れられたものたちを迎えるために、また、お出でになります。イエス様は、自分自身を紹介したとき、次のように言われました。


ヨハネ

12:46 わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。

イエス様は、宗教家ではなく、光です。昨日も今日も、いつまでも、イエス様は、光そのものです。イエス様は、愛と平和と希望と慰めの光です。イエス様を光として知るようになる者は、誰でも、その人の人生の中で、すべてのものが新しくなります。


今日(こんにち)の多くの人々は暗闇の中に生きています。すなわち、何ゆえにこの地上に存在しているか、知らないし、自分たちの人生の内容が何であるかを知らないし、死後に、どこへ行くのかもわかりません。そして、これらのことを知らない人々は、暗闇の中で、手探りするような暗中模索の人生を過ごしています。主の御言葉の光を通して、私たちが本当はどのようなものであるかを、認識することができます。イエス様の判断は、あまり、おもしろくないけど、次ののようなものです。『義人(正しい人)はいない。ひとりもいない。善を行なう人はいない。ひとりもいない。』それだけではなく、『信仰から出ていないことは、みな罪です。』ここで、『信仰』とはイエス様とのつながりを意味しています。したがって、『イエス様とのつながりを持っていない状態は罪である』と、いうことができます。


光に照らされることを拒まない人、そして、過ちを犯す者として、まことの光であるイエス様の御許に来る者は、拒まれません。間違いなく受け入れられます。永久的に。その人は受け入れられ、まことの救いに与かるものとなります。光に来る人は、罪から離れます。聖書は次のように言っています。


第2コリント

6:14 光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。

ただ、イエス様お一人だけが、言えました。すなわち、『わたしは、まことの光です。』我々人間は、闇であり、我々の内側には、暗さと不純とよこしまと偽善があります。だから多くの人々は、光であるイエス様と関係を持ちたくない。当時もそうでした。


ヨハネ

3:19 光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。

光よりもやみを愛したとありますが、どうしてであるかと言いますと、


3:19 ・・・その行ないが悪かったからである。


へりくだろうとしなかったからです。光である救い主について、もう既に、イザヤという預言者は書いていたのであります。


イザヤ

9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。

60:2 見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。


光であるイエス様が来られたから、希望があります。イエス様は光として、我々の暗闇の中を照らしてくださり、罪を明らかにしてくださいます。けども、イエス様は罪を赦し、明るみに出されるお方だけではなく、まことの救いを成就してくださったお方です。パウロの回心について、聖書は次のように言っています。


使徒行伝

9:3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。
9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

サウロ(パウロ)がこの言葉を聞いたとき、いかなるショックを受けたのか、想像できません。聖書は、彼は三日間、メクラになったし、必ず、食べようとしなかったし、寝られなかったし、結局、今まで、信じていたことは間違っていたと、認めざるを得なかったのです。光に照らされたとき、はじめて彼は、自分のやったことはとんでもないことであり、全く、悪魔的であり、的外れの行いであったことが分かりました。


旧約聖書の中で、ヨナという預言者についても書かれています、彼も似ていることを経験したのではないでしょうか。すなわち、開いた口によって主の御顔を避けてしまったようなところが明るみに出されました。ペテロも同じようなことを経験したのではないでしょうか。女中の指差しによって、彼というイエス様を裏切った弟子を明るみに出されてしまったのです。遣わされた預言者であるナタンによって、ダビデ王様も明るみに出されたのです。私たちはどうでしょうか。明るみに出されたのでしょうか。主によって見つけ出され、明るみに出されることを望むのでしょうか。全てを隠さず、告白しようではないでしょうか。


『わたしのもとに来なさい。わたしは光です。』これは主イエス様の呼びかけであります。光のもとに行きたくない人は、自分の罪を隠す者であり、正直になりたくない思いの現われです。すなわち、不幸への道です。人間にとって、もっとも必要なのは光に照らされることです。罪の赦しを得ることです。そして、光であるイエス様との交わりを持つことです。イエス様を信ずることとは、取りも直さず、光に来ること、すなわち、イエス様のみもとに来ることです。そして、イエス様のみもとに行く者はまちがいなく受け入れられます。また、その債務は赦されます。第一ヨハネの手紙の1章7節は、皆さん暗記していることばです。すばらしい言葉です。


第一ヨハネ

1:7 もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。まことの満足の秘訣は、暗やみから脱出して、光であるイエス様のみもとに行くことです。イエス様はすべてを新しくしてくださるお方であるからです。


イエス様は、結局、いつも呼びかけておられます。闇の中を歩かなくてもいい。何も隠さなくてもけっこう。私に従いなさい。光である私に従う者は決して闇の中を歩むことがない。いのちの光を持つ。すなわち、いのちの光とはもちろん、イエス様ご自身です。パウロは、エペソという町に住んでいる、主に出会った人々に書き記したのです。


エペソ

5:8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。

光の子どもらしく歩みなさい。あなたがたは光となったから、だから、オーケーなのではない。あなたがたは、主にあってのみ光である。すなわち、光であるイエス様から離れて、自分勝手な生活をすると、自分の知恵や自分の力に頼ると、いっぺんにダメになります。光であるイエス様とつながっている時のみ、信じる者は光である、とイエス様ははっきり言われました。私を離れては、あなたがたは何もすることができない。私から離れたら、あなたがたは相変わらず暗やみです。


コロサイ

1:13 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

『暗やみの圧制』と、『御子のご支配』とありますが、何という違いなのでしょうか。ここでも同じことが言えるのではないでしょうか。すなわち、もし、私たち信ずる者がイエス様に頼らなければ、すべての努力はまったく無駄であり、的はずれの行動です。将来についての呼びかけとは、前に読んでもらいました個所をもう一回、開きましょうか。テサロニケ第一の手紙4章ですね。パウロが、テサロニケにいる兄弟姉妹に書かれたものです。どうして書いたかというと、もちろん、主に導かれたから、彼らにとって、どうしても必要であったからです。結局、前向きに生活することができなければ、もうお終い。そのために、パウロが書いたテサロニケ第一の手紙4章、16節と17節をもう一回、読みます。


第1テサロニケ

4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

私たちは、いつまでも主とともになる。この幸いについて、いくら考えても、ちょっと、ピンときません。考えられない恵みです。同じ事実について、今度は同じく、パウロはコリントにいる人々に書いたのです。内容として同じです。


第一コリント

15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。


『主にあってむだでない』と、約束されています。主に頼ると、私たちは守られ、導かれ、満たされ、用いられます。 主に頼らなければ、主は私たちを守ることができないし、導くこともできないし、満たすこともできないし、また、用いられ得ないのです。パウロは、ピリピにいる人々に、次のように書いたのです。


ピリピ

4:5 主は近いのです。

毎日、何回も覚えるべき事実です。主は近いのです。すなわち、イエス様の再臨を喜びつつ、生活しなさい、という意味です。やがて行なわれるイエス様の再臨に対して、心の備えをすることが要求されています。主の再臨が近いということを喜びつつ、生き生きとした信仰生活を送っている信者が、ちょっと少ないのではないでしょうか。主は、今日来られるかも知れません。今日が、この地上での我々の最後の日となるかも知れない、という思いをもって、今朝、起きた人はいるのでしょうか。


生まれ変わった人は、誰ひとりイエス様の再臨を疑いません。というのは、それが新約聖書の中だけでも430回、書いてある事実だからです。しかし、問題は私たちが主の再臨を待ち望みつつ生活しているかどうかということです。ただ、イエス様の再臨を信ずるだけではなく、日々、主の再臨を待ち望みつつ生きることが、考えられないほど大切です。


私たちは、今日かもしれないと考えるべきです。二、三日自分のところに泊まりたいという特別なお客さんが来るのを待つとき、特別な準備を行ない、きれいに掃除したり、買い物に行ったりして準備するでしょう。けど、私たちは大宇宙を創造され、尊い代価を払って、我々を贖なってくださったイエス様を待ち望んでいるのです。もし、主が明日いらっしゃるということが分かれば、最近、出した手紙の内容を書き直したり、悪口を言われて、興奮したのとはちがった反応を示したりすることでしょう。ヨハネは当時の信ずる者を励ますために、次のように書いたのです。


第一ヨハネ

3:3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

別のことばで表現するならば、私たちは、主の再臨を意識しつつ、待ち望んで、生活しているならば、もっと注意深くなり、光の中を歩むでしょう。それは、今まで以上に待ち望みの生活をしなさいという意味です。イエス様の再臨を待ち望んでいない人々は、不従順です。そして、不従順は罪です。主と我々の間の隔ての壁です。今まで以上に主に喜ばれるような生活をしなさいという意味でしょう。それは、自分自身の気にいるようなことだけをするのではなくて、また、人の気にいられるようなことだけをするのではなく、ただ、主のみこころにかなうことだけをしなさいという意味です。パウロはこの態度を取りました。彼の分かりやすい証しは、ガラテヤ書の1章10節に書かれています。


ガラテヤ

1:10 いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。

もうひとつ、今までより以上に、まだイエス様を知らない人々のために祈り、かつ、戦いなさい、という意味です。イエス様は、我々に答えようとなさっておられるのです。我々の祈りに対して、いつも、答えようとされています。救い出しなさい。失われている魂の救いのために行きなさい。主の愛の対象である失われた魂の救いのために、燃えている愛が要求されています。もし、私たちは光の中を歩むならば、他の人々も、また、主の愛を経験し、闇から光へと移され、あらゆる束縛から、主の解放へと移されることが我々の関心事となります。イエス様について書かれています。


マタイ

9:36 (イエスは)群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。

私たちは、正直に自らに尋ねてみましょう。私たちが、心の支えもなく、生き甲斐のある人生の目標もなく、平和とまことの喜びのない人々を見ると、そして、また、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている人々を見ると、私たちも、心を動かされるのでしょうか。あるいは、無関心なのでしょうか。『火の中から、つかみだして救い出しなさい』と聖書は言ってます。魂を獲得すること、すなわち、イエス様だけを紹介することは、もっとも緊急を要する使命なのではないでしょうか。人々は、地獄に行かないように救われるべきです。ここで、世界観や宗教性ではなく、永遠の救いか、永遠の滅びかが問題であります。光のうちに歩む兄弟姉妹は、もはや、まだ救われていない大ぜいの人々に対して無関心でいることはできません。


パウロの証しとは、我々の証しともなるべきなのではないでしょうか。


第一コリント

9:16 私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。

9:22 (私は)すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。


これはパウロの願い、心からの祈りでした。最後に使徒パウロによる御霊の願い、また、呼びかけを読んで終わります。


第二コリント

7:1 愛する者たち。私たちはこのような約束を(・・・・すなわち、イエス様の再臨という約束を・・・・)与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。

私たちは、自発的に、断固として、この態度を取るときにのみ、光のうちを歩み、また、主に用いられるようになります。意識的に、主にだけより頼みましょう。主の再臨を喜びながら生きましょう。失われている魂の救いのために祈りましょう。イエス様への待ち望みが、我々の毎日の生活を決定するものでなければなりません。私たちが救われたことの理由の一つはなんでしょうか。主を待ち望むことです。



おわり

0 件のコメント:

コメントを投稿