2014年3月16日日曜日

みじめな我々と満ち満ちておられる主

みじめな我々と満ち満ちておられる主
2014年3月16日、高知喜びの集い
ゴットホルド・ベック

黙示録

3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

第二コリント

8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

今日、いっしょに考えてみたい題名とは、みじめである我々と満ち満ちている主についてです。主を知れば知るほど自分はもうだめとしか言えないのではないでしょうか?けれども、イエス様は変わっておられる方ですから、ダメな者を捨てません。へりくだれば、主は恵んでくださり、祝福してくださり、用いてくださるのです。



聖書の中で多くの祈りの言葉が出てきます。とんでもない祈りもあります。ペテロ、イエス様の弟子はとんでもない祈りを捧げたんです。絶対に聞かれ得ない祈りです。なんと言ったかといいますと、『主よ、お願いします、私から離れてください、私は罪深いものだからです。』主は離れようとしなかった。彼を、自分の弟子としてくださったし、そして、大いに用いてくださったのです。



あのどうしようもないペテロは、ご存知ですけど、五旬節の時に旧約聖書のあちこちの箇所を選んで、イエス様のことを紹介しました。結果は、3000人以上の人々が導かれ、救われた。考えられない奇跡です。もちろん、もっと大きな奇跡は、成功したペテロが傲慢にならなかった。不思議です。


どうしてであるかと言いますと、彼はその前に誓って、イエスとは誰であるか分からない、関係ないといったんです。三年半、いっしょに生活したのにずるい男です。自分の身の危険を感じたから、自分を守ろうと思っちゃったから、平気でうそをついた。けどもこの失敗のおかげで、彼は傲慢になりえなかったのです。失敗したから、いくら用いられても誇るものはひとつもない。


今、読んできてくださった箇所はラオデキヤと言う町に住んでる兄弟姉妹に書かれた言葉です。ちょっと大変な言葉です。


黙示録

3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

知っていればまだいい。知らなければもう悲劇です。たとえば、自分がガンだと思えば、医者に行ったり、病院に行ったりすることができる。知らなければ、もちろん誰もいけないでしょう。ラオデキヤの人々は知らなかった。これこそ、悲劇なのではないでしょうか。


ダビデという男は有名な詩篇の23篇の中で主を紹介しました。


詩篇

23:1 主は私の羊飼い。

結局、主は私のものです。


詩篇23

23:1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:5 私の杯は、あふれています。

意味は、私はうれしくてうれしくて仕方ない。主は私のものであるからです。パウロも同じことを経験しました。


彼がピリピ4:19を見ると次のように書いたのです。彼は刑務所に入ったから急に暇人になっちゃった。刑務所に入る前は手紙を書く暇はなかった。忙しくて大変だった。刑務所に入って急に暇になってたくさんの手紙を書くようになりました。この刑務所の中で書いたのです。


ピリピ

4:19 また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

どうしてこのように明かし、告白することができたかと言うと自分で経験したからです。彼は刑務所の中で大いに喜ぶことができたのです。あるときイエス様は叫んだのです。


ヨハネ

7:37 イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

満ち満ちておられる主は、どうしようもない人間も満たしたいと望んでおられるのは、何と言う幸いでありましょうか。主の切なる願いは、ご自分の満たしでもって、我々をも満たす事です。主の満たしとは、もちろん、イエス様の内で形を取って現れて来る物であり、そしてイエス様と結びついてる者は、結局満たされている。


もう一箇所読みます。今度はコロサイ書の2章、同じくパウロの書いたところですね。次のように書いてあります。


コロサイ

2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、…

キリストと結びついているから


2:10 …満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。


私達はどんな困った事があっても、その時こそイエス様の御許に行き、その事を包み隠さず主に打ち明けると、罪、咎を赦され、束縛から解放され、用いられるようになります。


聖書の言われいる満たしとは、もちろん、物ではない、イエス様です。そして、このイエス様はどうしようもない人間を満たしたいと切に望んでおられます。詩篇の作者、ダビデの口を通して書かれています。


詩篇

81:10 わたしが、あなたの神、主である。…あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。

これこそが主の変わらない恵みの言葉です。主は我々にほんの少しの物だけを上げたいとは思わない、満たしたいと望んでおられます。残念ながら多くの人は祈りのために、また祈りを通して、心を大きく開けようとはしないのではないでしょうか。


マタイ

25:34 王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

われわれ人間を本当の意味で満たしてくれるものは、目に見えるものではなく、ここに書かれてあるように、世の初めから備えられた御国のみです。父なる神はわれわれにイエス様を通して、最も良い物を与えて下さったのです。イエス様は私達のために苦しんで下さり、十字架の上で代わりに死んでくださいました。


イエス様によって、われわれに必要な物を全て与えられています。ローマ書8章32節、皆さんよく暗記してる言葉でしょうけれでも、全部含まれています。


ローマ

8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

一言で言いますと主なる神は我々に神の満たしを与えようとなさっておられ、完全な満足を与えたいと切に望んでおられます。そのことを聖書は何度も何度も繰り返して語っているにもかかわらず、なぜ、多くの信じるものが惨めな状態にとどまり、主御自信の満たしに与ることができないのか、不思議なのではないでしょうか?


主の満たしついて、色々な事が考えられますが、ここではちょっと簡単に4つの点について考えましょうか。第一番目、命の満たし、すなわち命によって満たされる事です。第二番目、愛の満たし、すなわち愛によって満たされる事です。第三番目、喜びの満たし、喜びに満たされる事です。そして、第四番目、平和の満たし、すなわち平和に満たされる事です。


それでは、先ず命の満たしについてちょっと考えてみたいと思います。ここで一つの例えを申し上げると、もし、重病人を病院に尋ねたとします。そして、その人の名前を呼んだ時、その人が一度はかすかに目を開けても、また、すぐ瞼を閉じてしまうと、どうでしょうかね?確かにその人には命はあるけど、命に満たされていない。


旧約聖書の中では、例えばサムソンと言う男について書いてある。彼はライオンを裂きました。ダビデもライオンも熊も殺したとあります。確かにこの二人は命に満たされていたでしょう。多くの人は、新しく生まれ変わっていますけど、証しをする備えも意思も持っていません。パウロはよく証ししました。今日は暇がないんですけど、うちへ帰ってから、使途行伝の9章と22章と26章をお読みになってください。全部パウロの詳しい証しが書き記されています。


イエス様はご自分の証し人を求めておられ、私達がその証し人となる事、そしてどの様にして主イエス様の命を頂いたかを他の人々に述べ伝えて貰いたいと願っておられます。


ヨハネ

10:10 わたしが来たのは羊が命を得、またそれを豊かに持つためである

これこそ主がこの地上に来て下さった目的であり、その意味において、私達は自分だけが満たしを受けるだけではなくて、その命の満たしを一人でも多くの人々に伝える使命を持っています。この使命に邁進するために祈り、またその様な器として用いられる様に祈ろうではないでしょうか。


イザヤ

60:22 最も小さい者も氏族となり、最も弱い者も強国となる。時が来れば、わたし、主が、すみやかにそれをする。

こう予言され、また、約束されています。いのちにみたされているイエス様だけが、私たちをいのちに満たしてくださることができ、それだけでなく、他の人々にもいのちの満たしを持つようにすることがおできになるのです。けれど主は、それをすみやかにしてくださると約束されています。


第二番目、愛の満たし、すなわち愛に満たされることです。


これはどんな人でも、その人が敵であっても、愛する事が出来ると言う事を意味しています。一つの実例は、初代教会の初めて殉教者だったんじゃないでしょうか、ステパノ・・・・ステパノは愛に満たされた男でした。石を投げつけられて息を引き取る時、祈ったんです。主よ、この罪を彼らに負わせないで下さいと、彼は膝まづいて、大声で叫んだのです。これこそ、彼の切なる願いでした。これこそが愛の満たしです。


我々もまた、我々の関係者、隣り人また兄弟姉妹、そして敵でさえも愛すべきであるあります。もちろん、この様な愛は、私達が生まれつき持っているものではない。またどんなに努力しても、持つことができないものですけども、パウロはその秘訣についてローマ書5章5節に書いたのです。


ローマ

5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛(神御自信の愛)が私たちの心に注がれているからです。

注がれているから、だからできる。


三番目、喜びの満たし、すなわち喜びによって満たされる事です。ダビデと言う男は祈りの中で告白しました。


詩篇

16:11 …あなたの御前には喜びが満ちています。

これはダビデの証しですが、しかし主なる神の御前で光りの中を歩む者は誰でもこの喜びに満たされます。この喜びを主は私達にももちろん与えたいと望んでおられます。主の喜びは波の様に変わらない、絶えざる変わらない喜びです。

ハバククと言う預言者もこの事を経験しました。非常に多くの人々にとって大好きな箇所のひとつです。開きましょうか?

ハバクク

3:17 そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。

だから、ぺちゃんこなのではない。


ハバクク

3:18 しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。

喜ぼうとは、結局、意志の問題です。気持ち、感謝の問題じゃないよ。現実を見ると、彼はぜんぜん、喜ぶことなどできなかったのです。


この喜びの満たしはこの世の財産、また、様々な事情にかかっているものではない。この喜びは理解する事も説明する事も出来ない物です。けれでも、初代教会の人々はもちろん、当時、誤解され、迫害され、いじめられました。けど、それにも拘わらず、聖書はなんと言っているかといいますと、『言葉に尽くす事も出来ない栄えに満ちた喜びに踊りました。』


四番目、平和の満たし、すなわち平和によって満たされる事です。イエス様はご自分の全き平安を人間ひとりひとりにも与えたいと願っておられます。イザヤ26:3を見ると次のように書かれています。


イザヤ

26:3 志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。

イエス様は平和の君であるから、このイエス様なしには誰も全き平安を持つ事は出来ません。イエス様がこの世に来られたのはご自分の平安をどうしようもない人間に与えるためでした。


イエス様に信頼するならば、必ず主は私達にご自身の平安を与えて下さいます。イエス様は考えられない平安を持っていました。マタイ伝26:30を見ると次のように書かれています。


マタイ

26:30 そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。

イエス様はゲツセマネの園に行く前に賛美の歌を歌いました。イエス様はまもなく捕らえられ、5~6時間後には十字架に釘付けられ、われわれの全ての罪の苦しみを受けて下さり、父なる神によって捨てられると言う事を知っておられたにも拘わらず、賛美の歌を歌ってくださいました。


イエス様は十字架の上で考えられない程の苦しみと悩みを経験なさり、『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』、と叫ばれました。この様な苦しみを前もって知っていながら、どうしてイエス様は賛美の歌を歌う事が出来たのでしょうか。それはイエス様が、全き平安を持っていたからです。


主はわれわれにも同じ平安を与えたいと願っておられます。そのためには何が必要であるかと言いますと、一言で言えばイエス様に満たされる事、すなわち主の命、主の愛、主の喜び、主の平安に満たされる事です。満たされるためには何をしたらいいのでしょうか。主の満たしを受ける秘訣は一体どういうものなのでしょうか。


先ず、第一に私達自身が空っぽの者であると言うことを知る必要があります。もしも私達が本当に正直であるならば、自分の内には何も良き物がないと言う事を認めざるを得ません。けど、すばらしい約束のみ言葉があります。第1ヨハネ1:9に書かれてあります。


1ヨハネ

1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

これは初代教会の兄弟姉妹の告白です。どうして告白したかと言いますと、体験的に知るようになったからです。イエス様は既にご自身の血潮によって尊い代価を払ってくださいました。だからこそ、イエス様はどういうわがまま、過ちを許したいと心から望んでおられます。ある人は自分の罪はあまりにも多すぎるから、果たして主はこの罪を赦すのだろうかと言う疑いを持っています。


しかし主は必ずその様な罪をも赦して下さるのであり、その時を待っておられるお方です。満たされる根拠は全ての罪は赦されており忘れられていると言う確信です。


けども、大切な事はただ単に空の器としてありのままの状態で、主の御前に行くだけではなく、すなわちただ単に自分の罪を認めて言い現すだけではなく、第二番目に幼子の様な信仰を持つ事です。主の約束を掴む事が要求されています。


悔い改めた後で、主が自分の罪を本当に洗い清めて下さったと言う確信を持つことができる。そういう気持ちになったからではない。聖書全体がそういっているからです。この確信の土台となる物は、人間の感情でもないし、人間の理解力でもありません。主の約束の御言葉こそまことの土台です。中途半端な信仰は何にもならず、イエス様が求めておられることは徹頭徹尾、主に信頼する信仰です。マルコ伝9:23を見るとすばらしい約束があります。


マルコ

9:23 イエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

イエス様は約束してくださいました。信仰とは主の贈り物をいただく空の手の様なものです。しかしまことの信仰とは提供された主の贈り物を意識的に受け取って、それを自分の物にする事です。主の目から見て、最も恐ろしい罪は、どういうものでしょうか。言うまでもなく不信仰の罪です。


この不信仰の罪の故に、救われていない人は滅びる様になります。そしてこの不信仰の故に、既に救われている人々は成長しなくなり、用いられていない。信仰のある所では悪魔は逃げざるを得なくなる。信仰のある所には、主がご栄光を現す事がお出来になり、奇跡を行う事がお出来になります。


そして信仰のある所には、主は礼拝され、誉れを受ける様になります。我々の信仰生活において何時も別れ道に立たされています。すなわち目に見える現実の世界を見て、それにうごかされ支配されているか、あるいは御言葉を自分の物として主に拠り頼むかのどちらかです。


これこそが主の望んでおられる信仰であり、この信仰によって私達は主を喜ばせる事が出来るのです。現代人の多くはみな自分のことだけを考えてるので、不幸になってます。


それでは、どうすれば幸せになれるのでしょうか。それはイエス様と結びつく事によってのみ実現されます。


そのための段階は、先ず第一段階として、ありのままの状態でイエス様の身元に行き、全てを包み隠さずイエス様に打ち明け、罪を言い現す事です。それから第二段階は幼子の様に素直な信仰と信頼を持って、イエス様を見上げ、主の約束を掴み、赦しのために、主に感謝する事です。


そして第三段階は何かと言うと、それは聖霊に満たされる事によって幸せになる事です。信ずる者は誰でも聖霊の宮であり、聖霊を宿しています。けど、多くの信者の場合、聖霊は、イエス様の栄光を現す事が出来ませんが、これは本当に悲しい事実と言わざるを得ません。もちろん、聖霊に満たされるとは、奇跡を体験したり、異言を語ったりする事じゃなくて、従順に主に従う事であり、結局、自分の支配権を主に明け渡す事です。そうすると、その結果として二つの事が言えます。その一つは、イエス様が信ずる者が喜んで主を証しする事、すなわち主の証人となり、そして、他の人達を主に導く事です。使徒の働き1:8を見ると次のように約束されたのです。


使徒

1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

多くの人は自分は聖霊に満たされていると思い込んで、傲慢な生活を送っています。けど、聖霊に満たされた事の特徴はなんでしょうか?すなわち、滅びゆく人達のために最善を尽くす事であり、イエス様を証しする事です。それは、自分を否定する事、また犠牲を払う事なしには決して出来ません。もうひとつ、御霊の実が結ばれる事も聖霊に満たされた事のひとつの特徴ではないでしょうか。


皆さん、よく知ってる箇所です。ガラテヤ5:22に次のように書かれています。すなわち、御霊の実とはどういうものか。


ガラテヤ

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。

この様な御霊の実が実らないと言う事は、その人は御霊に満たされていない事の現れです。言うまでもなくこの御霊の実は人間の自分の努力の結果ではなく、聖霊の支配の結果です。ありのままの状態でイエス様の御許に行き、全てを包み隠さず打ち明け、幼子の様な信仰を持って、イエス様を見上げ、自分の支配権を主に明け渡す事によって、我々は主の満たしをいただくく事が出来ます。


これこそがパウロの救われた人々に対する戦い、祈りでした。一箇所読みましょうか。


エペソ

3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

こういう風にパウロは救われた人々のために、戦い、祈り続けました。


私達が主の命、主の愛、主の喜び、主の平安に満たされるために、第四の段階は、主を信ずる者同士の交わりの必要性を知る事。そして実際に交わりを持つ事です。


ですから、18節に『全ての聖徒と共に』と言う表現が使われています。私達は特別な人たちだけではなく、イエス様を信ずる者、全ての兄弟姉妹を愛する事を学ばなければなりません。


これもまた自己否定を通してのみ実現される事です。自分自身を守ろうとする努力はやめましょう。主に満たされるために、喜んで犠牲を払い、そのためには自分が犠牲になってもいいと言う人は幸いなのではないでしょうか?その人は決して損を受ける事がなく、必ず主の命、主の愛、主の喜び、主の平安に満たされます。


これもまた決して私たちだけが、独り占めする物ではなく、悩み、苦しみ、悲しんでいる人々に対して、私達を通して彼らもまた、主の命、主の愛、主の喜び、主の平安で満たされるためのものです。私達がこの様に用いられる様に、切に今までよりも祈ろうではないでしょうか。


ヨハネ

7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

こう、約束してくださいました。


2コリント

8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

富む者となるべきです。だから、語られます。あなたの口を大きく開けよ。私がそれを満たそうとあります。



終わり

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