2014年3月11日火曜日

祈ろう

祈ろう
2014年3月11日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
6:37 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

第一ヨハネ
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

時々、いろいろな人々から、いろいろなことを聞くのですけれど、答えられないことが多い。正しい答えは、祈りましょうよ。祈ると必ず、主は生きておられるから、答えてくださる。もちろん、『困った時、祈りなさい』ではない。絶えず、結局、いつも祈りなさい。これは主の提案ではなくて、主ご自身の命令、そのものです。


各集会が祈りの集会になることこそが、主の御心なのではないでしょうか。祈りほど大切なものはありません。また、祈りほど必要なものもありません。では、いったい、祈りとは何でしょうか。イエス様の御許(みもと)に行くことです。

マタイ
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。

疲れていない人、重荷を知らない人々は、どうせ、行く気持ちにならない。だから、いろいろなことで苦しむこと、悩むこととは祝福です。結果として、助けを求めれば、助け主を知るようになるからです。本当の祈りを通して、人は偽善者になるのではなく、贈り物をいただくことです。わたしは、与えよう。これこそが、主の願望です。あなたがたの父である神は、喜んでお与えになると、イエス様は、約束してくださいました。

私たちの中には、イエス様を信じ、救いの確信を持っている・・・・だいたいがそういう方々なのではないかと思うのです。自分の罪と債務は、赦された。この知識は、本当に、まことの喜びの源です。けど、我々の中には、この喜びを知らない人々もいるかもしれない。しかし、すべての人に「祈れ」、すなわち、イエス様の御許に行きなさいという要求が向けられています。なぜならば、イエス様は、罪を赦してくださるお方であるからです。また、イエス様は、どのような状態からでも、逃れ道を知っておられます。

イエス様は、完全に人を満たすことができます。イエス様は、決して、失望させることはなさらないお方であるからです。祈りは、聞かれます。けども、聞かれる祈りの条件もあるのではないかと思います。

三つの問いについて考えましょうか。第一番目、聞かれる祈りの秘訣とは、いったい何でしょうかね。二番目、イエス様の名によって祈ることとは、いったいどういうことなのでしょうか。三番目、いったい誰が、イエス様の御名によって祈ることができるのでしょうか。この三つの簡単な質問について、ちょっと考えたいと思います。

ヨハネ
14:13 わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。

15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

15:16 ・・・・わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、・・・・あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

16:23 まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
16:24 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。

16:26 その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。

イエス様はこう、当時の弟子たちに、約束してくださいました。現実問題として、イエス様が生きておられるあいだに、弟子たちはそうしなかったし、だから、この約束を経験しなかったのです。五旬節のあとで、「やはり、イエス様は、本当のことを言った。祈れば必ず答えられる」と、彼らは、何回も何回も経験したのであります。ここに無制限の祈りの約束があります。「求めなさい。そうすれば与えられるのです。」これは、我々に対する、全知全能の主が提供してくださるものです。このすばらしい約束によって、私たちはしばしば、多くのことを願い求めるように励まされるのです。

聞かれる祈りの条件とは、何でしょうか。その条件とは、上に引用したみことばに六回も登場する。「わたしの名によって」という言葉です。別の言葉では、「あなたがたが、わたしの上に留まるなら。」結局、わたしとつながっていれば・・・・という条件です。それでは、イエス様の名によって祈るとは、いったいどういうことなのでしょうか。その名前が、所属している方の交わりの内に留まることです。それは、イエス様に拠り頼むことであり、自己支配、自己決定とは反対のものです。したがって、それはまた、主の内に生き、主の内に留まることをも意味するわけです。私たちがイエス様の名によって祈るということは、何を意味しているのでしょうか。これこそ、正しく知るべきです。というのは、これこそ聞かれる祈りの秘訣であるからです。

マタイ
24:5 わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。

それと全く同じように、次のようなことも言わなければならないのではないでしょうか。多くの人々は、イエスの名によって、父なる神に祈っていると思っていますが、彼らは惑わされているのであり、自分自身を欺いているのであると。イエス様の名によって祈るとは、もちろん、祈りの最後の文章として、『イエスの名によって』と付け加えるということを、もちろん、意味するのではありません。多くの人々は、自分のことだけしか考えないで、その全体の祈りは、自己中心の言い表しにすぎない。ですから最後に、『イエス様の名によって』と付け加えるとしても、そういう祈りは聞かれ得ないのです。

ヤコブ書を見ると、次のように書いてあります。悪い動機で願うこともできる。

ヤコブ
4:3 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

動機は、結局、大切です。『イエス様の御名によって』という言葉が使われるかどうかが大切なのではなく、大切なのは、私たちの心の状態であり、イエス様だけがすべてに勝って栄光をお受けになってもらいたいという思いが、我々の心を支配しているかどうかこそが問題です。

このヨハネ伝14章13節によると、イエス様は、父が子によって栄光をお受けになるためであれば、我々の祈りは聞かれると言っておられます。

【参考】ヨハネ
14:13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。

我々の祈りの目的は、自分の富とか自分の健康だとか、あるいは、成功とか快楽、さらには、奉仕の実であってはいけません。ただ、イエス様の栄光が現れることこそ、祈りの本当の目的です。

実際は、イエス様の血潮による力を体験した者だけが、イエス様の名によって祈ることができます。キリスト者は、主の血潮によって義と認められて、しかも、イエス様の血潮によって贖い、また、罪の赦しを与えられています。ある人は、神は信じるが、イエス様は別に必要ない。けども、イエス様なしの祈りは、もちろん、全く的外れです。

非常に頭の良い裁判官は、そのような方の一人だったのです。彼の妻は、イエス様を信じる者であったため、当時有名なムーディという伝道者のところへ行き、夫と話してくれるように頼みました。けども、ムーディは、いくら話しあっても、議論してもむだであるということを知っていましたから、その婦人の申し入れを断りました。それから、ムーディは、その裁判官のために祈り始めました。すると、遠からずして裁判官は、導かれ、救われました。

祈りの力を確信することこそが大切です。そのときの様子は、次のようなものでありました。祈りの答えとして、裁判官は、心に不安と動揺を感じるようになりました。ある日、彼の妻が祈り会に行っているあいだ、彼の心の中にある動揺は、恐ろしく大きなものになりました。そこで彼は、すぐ寝ようと思いましたが、一晩中、眠れなかったのです。翌日、彼は、朝食も取らずに事務所に行きました。そして、彼は、従業員に休暇を与え、事務所を閉めました。その後で彼は、祈り始めたのです。「神よ。私の罪を赦してください。」けど、彼の祈りは、全く価値がないように思われました。最後に彼は、絶望的になって、突然、大声で叫びました。「神よ、イエスの名によって、イエスのゆえに、私を赦してください。」すると、その瞬間に平安が心を満たしたのです。

このようにして、その裁判官は救われました。イエス様こそ、生けるまことの神を知るための、ただ一つの道です。道しるべではない。道そのものです。私たちは、流されたイエス様の血潮のゆえにのみ、生けるまことの神に近づくことができるのです。イエス様の名によって祈るということは、流された血潮のゆえに、生ける神に近づくことを意味します。イエスの名によって祈るということは、緊急ではない小切手を銀行に持って行って、現金に換えると同じことを意味します。私たちは、たとえば、三菱銀行に預金口座を持っていれば、そこに行って、小切手で現金をもらうことができます。けど、その小切手に私の証明があれば、誰でもそれを持ってお金を引き出すことができるのですけど、私の証明がなければ、私の子供といえども、お金をもらうことができません。

また、たとえば、富士銀行に何の預金口座も持っていなければ、もちろん、富士銀行からは何ももらうことができません。祈りとは、このような無金融の小切手のようなものです。主は言っておられます、「何でも欲しいものがあれば、その無金融の小切手に記入して、わたしに願い求めなさい。そうすれば、わたしは、あなたがたに願ったものを与えましょう。ただし、わたしの名前によって与えましょう。」

私たちは、イエス様により頼んで生活しないで、イエス様と結びついていないかぎり、天国に私は何の口座も持っておらず、私の願いは満たされず、また、私の祈りは聞かれないのです。けど、イエス様の名によって祈る者は、聞かれます。イエス様の豊かさは尽きることはなく、それゆえに、私たちは、いくらでも願い求めるようにと要求されています。主は、たくさんのものを与えたいと望んでおられますが、それは、イエス様の御名が損なわれず、すべての誉れが主に帰される時にのみ、このことを、主は行なうことができるのです。また、私たちが損なわれないときにのみ、主は祈りを聞いてくださいます。

主の御名によって祈るということは、主の御心を知ること、そして、主の御心だけがなるようにと願うことです。このような心の備えがあれば、その祈りは、どんな場合でも、必ず聞かれます。主は、我々一人ひとりのために、備えられた道を持っておられますから、私たちは、祈る前に私たち自身にとって、この備えられた道、すなわち、主の御心が何であるかを正しく知ることが大切なのではないでしょうか。私たちは、主の御心を知るならば、自由に祈ることができ、ひとつの願い、すなわち、主の御名が崇められることを切に望むようになります。

第一ヨハネ
5:14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。

望んでいることだけではなく、動かすことのできない確信です。

次のことに充分、気をつけましょう。すなわち、イエス様の名によって祈るということは、主の御心を知ることであり、それに基づいて祈り、それを自分のものとすることを意味します。主なる神の御心を知らない者は、もちろん、イエス様の御名によって祈ることができません。

イエス様の名によって祈るということは、自分の名前によってではなく、イエス様の名前によって、何かを願い求めることを意味します。多くの人は、誰かある人を保障したり、誰か他人に実印を与えたりして、自分の名前を使うことを許してしまったことを、たいそう後悔しています。なぜならば、その人たちは、騙されてしまったからです。ですから、私たちは、信用できない人に、自分の名前を使わせる権利を、そのような人たちに与えることはできません。

そのようなことの一つの例を、私たちは預言者、エリシャの僕(しもべ)であるゲハジに見ることができます。ゲハジという男は、エリシャの名前を使ってしまったのです。主の栄光が現れるためではなくて、自分だけのことを考えて、金持ちになりたいと思ったからです。確かに、彼は、金持ちになってしまったけど、主の祝福が無くなってしまいました。そして、彼は呪われたことのしるしとして、病気、らい病に侵されてしまったのです。

ここで、もう一度、今まで話したことをまとめましょうか。イエス様の名によって祈るということは、聖霊に、より頼みながら、御心にかなった祈りをすることです。したがって、イエス様の名によって祈るということは、主が望むことを望み、主が願うことを願い、聖霊が持っているのと同じ目的を持つこと、すなわち、聖霊が、どんなことがあっても、ただイエス様の栄光だけを求めることです。

主の御心が、我々の願いとならなければいけません。そして、それはただ、私たちが妥協しないで、徹頭徹尾、主に自分自身を明け渡すときにだけ可能です。我々の心がまえが正しければ、我々は主の名によって祈ることもできるのです。結局、条件付きです。よく知られている個所を読みます。

ヨハネ
15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

弟子たちだけにではなく、我々にも与えられているすばらしい約束なのではないでしょうか。「なら」と書いているから、条件つきです。もう一箇所、読みます。内容として全く同じです。

第一ヨハネ
3:22 また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。

初代教会の兄弟姉妹は、この確信を持っていたのです。私たちが、主のお望みになることを行なうならば、主は私たちが望むことを行なってくださいます。どうか、主の声を聞きましょう。そうすれば、主は聞いてくださいます。計り知れないほどの富が、我々に提供されています。

けれども、それには、ただひとつだけ条件がいります。それは、すなわち、主の内に留まること、また、イエス様の名によって祈ることです。けれども、このことは、私たちが主の御心を知るときだけ可能です。ですから、日々、私たちが切に求めることは、主の御心、主の願い、そして、主のうかがいを知ることです。私たちは皆、主の御心は、我々にとって最高のものであることを知っています。また、私たちは主が我々を祝福したいと望んでおられ、我々をお用いになりたいということをも知っています。さらに、私たちは皆、私たちが自分自身の意思に従う時は、自分自身だけではなく、他人にも害となることを知っています。私たちが、主の御心を求めないならば、我々の生活は、まさに悲劇そのものです。私たちは、すべての自己追及の目的を捨てて、自分自身を主の導きに委ねようではありませんか。

私たちが祈っても、何の答えも得られない時には、それは主の責任ではない。私たちが、間違った心の姿勢で、主に向かっているところに責任があることを知ることが必要です。私たちが祈っても、何の答えも得られない時には、それは、主の約束が信頼するに値しないということに原因があるのではなく、むしろ、その原因は、我々の不信仰と不従順にあるのです。私たちが祈っても何の答えも得られない時には、それはいつもただ、我々の最善だけを思っておられる主に対する悔い改めと徹底的な献身への絶えざる招きに他なりません。

今まで、何度も申し上げましたが、それでもまだ申し上げたいことは、私たちはどんなことがあっても、主の御心を知らなければならないということ。それは可能でしょうか。神のみことばである聖書は、この問いに対してはっきりと、可能であると答えています。ピリピ書を見ると、パウロはピリピにいる兄弟姉妹に次のように書いたのです、『キリストのうちにも見られる心構えでいなさい。』

【参考】ピリピ
2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

もし、これが不可能であれば、パウロはこういうふうに書かなかったでしょう。

第一コリント
2:16 私たちには、キリストの心があるのです。

詩篇の作者であるダビデは、また、書き記したのです。

詩篇
25:14 主はご自身を恐れる者と親しくされる。

大切なことは、主は、私たちが本当に、主を知りたいと願い、御心を行いたいという心の備えができている時にだけ、御心を明らかにされるということです。つまり、神の御心を知ることと、主の御心が行なわれるということは切り離すことができない。もし、誰かが、「私は、まず神の御心を知りたいと思うが、それから、御心を行いたいと思うかどうかを考えたい」と、そのように思っているならば、その人の一生は、破局に終わります。

ヨハネ
7:17 だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。

神のみことばは、聖書の中に明らかに示されています。主がみことばの中で、約束しておられることは、主の御心の表れです。たとえば、私たちは期待を持って、知恵を祈り求めることができます。なぜなら、私たちは、そのための明確な約束を持っているからです。

ヤコブ
1:5 あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。

ヤコブも、それを必ず何回も何回も経験したにちがいない。御心にかなう祈り人となりたいと切に望む人は、主の御心を知るために、みことばを読むべきです。大きな励ましは、信者が誰でも聖霊を持っているという事実です。しかも、その聖霊は、祈りの助け手として与えられているということです。

ローマ
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

すばらしい約束です。このみことばによれば、次のことが言われていますね。すなわち、私たちが何を祈るべきか解からず、望みのない状態に置かれ、聖霊が我々を導くことができるならば、私たちは幸いです。祈らない者は、何の言い訳もできません。絶えず祈りなさい。これは、主のはっきりとした命令です。

けれども、私たちは、ただ単に祈らなければならないだけではなく、祈ることもできるのです。なぜならば、聖霊が与えられているからです。中途半端なキリスト者であることは、何の甲斐もありません。意識してイエス様に従わない者は、主のためにも、人間のためにも、実際の価値を持っていません。ただ一つの罪ぐらいは大したことではないと、自分の生活の中で考えたならば、主は、そのような者をお用いになることができないし、私たちからあらゆる喜びを取り去り、我々の祈りは実りのないものになってしまいます。

大切なことは、私たちがパウロと同じように、「主よ。私は何をなすべきか」と、問うことですけども、それから、また、主の力によって、主の御心を行なう心の備えを持つことです。パウロは、主に尋ね、そして、彼は明確な答えを得ることができた。この答えは、もちろん、我々にも当てはまるでしょう。

コロサイ
3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。
3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。
3:16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。
3:17 あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。

我々が信じ、愛し、仕えたいと思っている主イエス様は、祈るお方でした。キリストの名によって、祈りたいと願う者は、祈りの生活を知らなければならない。イエス様が、この地上におられた時、主にとっていちばん大切だったのは、何でしょうかね。祈ることです。そして、今日も、天におられるイエス様にとっても、いちばん大切なのは祈ること、とりなすことです。

我々にとって、祈りがいちばん大切なものでないならば、ちょっと大変です。私たちは、間違った状態に置かれるようになります。イエス様は、絶えず祈られたのです。そして、我々に対する呼びかけとは、結局、同じです。絶えず祈りなさい。

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