2014年3月5日水曜日

あなたの口を大きく開けよ

あなたの口を大きく開けよ
2014年3月4日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ローマ
3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
3:13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
3:14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、
3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。
3:17 また、彼らは平和の道を知らない。」
3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

主は、詩篇の作者を通して言われました。

詩篇
81:10 あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。


これこそ主の願いであり、御心です。『満ちる』という言葉は、確かに、聖書の中によく出てくる言葉です。『満ちる』とは、終わりの時を意味しています。すなわち、終わりの時代には、悪が満ち満ちて成熟し、また、正義も満ち満ちて成熟に至ります。イエス様を退ける者は、いっそう遠く、イエス様から遠ざかるようになり、そして、イエス様を喜ばせようと思う人は、自分自身を無条件に、イエス様に明け渡すことによって、イエス様に似た者となります。

我々にとって、何よりも大切な事柄とは何でしょうか。私たちが、何によって満たされているのでしょうか・・・・ということなのではないかと思います。我々の動かす力が、どこから来るものであり、我々の支配者は、誰であるかということなのではないでしょうか。

今日は、簡単に一つの点について、一緒に考えてみたいと思います。あまり、おもしろくないことです。すなわち、人間の心について考えたいと思います。

聖書を見ると、大変なことが書いてあります。すなわち、人間の心は悪に満ちているものなんですって。いわゆるヒューマニズムの立場に立つ人々の考えは、全く違う。そういう人々は、人間の心の中には、本当は、なかなか良いものがあるという考えが基礎になってます。それらの人々は、人間の環境が改善され、人間が自分で努力をするならば、より良い者になることができるという考えです。主のみことばである聖書は、人間の心は――ちょっと違う――はなはだしく悪に染まっている。その中には、何一つ良いものがないとあります。もうすでに、創世記を見ると、次のように書かれています。「人の心の思い計ることは、初めから悪である」とあります。

【参考】創世記
8:21 主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。

エレミヤ記にも全く同じことが書かれています。

エレミヤ(口語訳)
17:9 心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。

イエス様は、この事実について、よく証ししてくださいました。例えば、マルコ伝を見ると、次のように書かれています。

マルコ
7:21 内側から、すなわち、人の・・・・

『人の』の代わりに、『人間の』と思っても、『全人類の』と考えてもいい。ここには、『未信者の』とは書いてないのです。

7:21 ・・・・心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
7:23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。

外側からではない。内側からと、イエス様は――真理そのものであるイエス様は――はっきり言われたのです。これこそが、人間が、誰でも心の中に抱いている思いです。私たちを取り囲んでいるいろいろなこの世のもの、つまり、週間、雑誌やテレビの番組や、人々の愛のない結婚生活、そういうものについて考えると、確かに聖書は正しいと認めざるを得ない。

伝道者
9:3 ・・・・人の子らの心は悪に満ち、生きている間、その心には狂気が満ち、それから後、死人のところに行く。

エゼキエル
9:9 ・・・・この国は虐殺の血で満ち、町も罪悪で満ちている。

これらの言葉は、まさに、現在の状態に対して語られているのではないでしょうか。人間の心が、いかに悪に染まっているかということを、新約聖書の三つの例を引いて、一緒に考えてみたいと思います。

第一番目は、使徒行伝、十三章から、魔術師エルマの例を見てみましょうか。使徒行伝、十三章を見ると解かります。パウロは、このエルマについて次のように言ったのです。

使徒行伝
13:10 ・・・・ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵。おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。

このエルマという男は、意識して、真理に敵対した者でした。真理のみことばの特徴は、ありのままであること、また、素直であることです。けども、このエルマは、意識して、真理に敵対した者でした。真理のみことばの特徴は、ありのままであること、また、素直であることです。けど、このエルマという男は、これとちょうど反対に、偽りの者、また、よこしまの者と言われています。

二番目の例は、ルカ伝、四章に出てくる、ナザレの人たちでした。ルカ伝、四章を見ると書かれています。イエス様が、国境の人たちに福音を宣べ伝えました時、彼らが初めて示した反応は、二十二節にありますように、イエス様を褒め称え、その口から出てくる恵みのことばに驚いたとあります。けどイエス様が、彼ら自身について、すなわち、彼らの悪に満ちた心について真実をありのままに語られた時から、彼らの反応は変わりました、一変に。

ルカ
4:22 みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか。」と彼らは言った。

4:28 これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、
4:29 立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。

なぜ、このナザレの人たちは、結局、ここで書かれたようにひどく怒り、つまり、怒りに満たされて、イエス様を追い出して殺そうとしたのでしょうか。彼らは、自分自身では敬虔な者であると自認していたのです。彼らは、必ず、安息日ごとに会堂に集い、神のことばを聞きました。けれども、自分自身の心をまっすぐに見つめて、悔い改めようとする気持ちが全くなかったのです。その結果、彼らの心を満たしていたものは、神にある喜びではなく、怒りでした。

三番目の例は、使徒行伝、五章に出てくる夫婦なんです。アナニヤとサッピラです。

使徒行伝
5:3 そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。」

ここで、「どうしてあなたはサタンに心を奪われたのか」と書かれていますが、原語によれば、ここでは、「サタンに心を満たされたのか」という意味になっています。アナニヤとサッピラは、もちろん、初代教会に属する者であり、自分の財産の大部分を捨てて、主に仕えようという気持ちを持っていました。誰も強制しなかったし、頼まなかったのです。結局、彼らは、うわべでは自分の持っている物をすべて捧げて、イエス様に仕えているのだ・・・・という態度を取りました。事実は、そうではなかったのです。彼らの取った態度は、偽善者の態度でした。それゆえ、彼らの心には、悪魔がつけ込む隙がありました。彼らの心を満たしているものは、イエス様の真実ではなく、悪魔の偽善でした。それゆえ、主なる神の裁きが、直ちに彼らの上に下されました。

私たちもまた、主のみことばによって、常に吟味されていなければならないのではないでしょうか。我々の言葉と行ないとのあいだには、隔たりがあるのでしょうか。我々は、いったい何によって、満たされているのでしょうか。我々の心を満たしているものは、悪い考えや汚れ、不品行、ねたみ、愛のないことではないでしょうか。

私たちは、聖書を読む時、単なる習慣や義務的な気持ちから読むのではなくて、「主よ、語ってください。しもべは聞いております」という態度を取るのでしょうか。我々の取るべき態度とは、今、話したように、「しもべは聞いております。主よ、お語りになってください。御心を明らかにしてください」という態度を取るべきなのではないでしょうか。

主の前にへりくだり、自分自身は粉々に砕かれてもかまわないという心の用意があるのでしょうか。これまで私たちは、主が人間に対してどのような判断を持っているかについて見てきました。この事柄を――前に読んでもらいました箇所ですね――もう一回、読みましょうか。もちろん、この箇所も、だいたい旧約聖書からの引用なんです。

ローマ
3:10 「義人はいない。ひとりもいない。
3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
3:13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
3:14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、
3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。
3:17 また、彼らは平和の道を知らない。」
3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

神に対する恐れがなければ、もうたいへんです。どうでしょうか。私たちは、本当の意味で主を恐れているのでしょうか。主を恐れないと祝福がないし、平安もないし、喜びもあり得ない。主を恐れる恐れを持つ必要性について、聖書の中でたくさん書かれています。

詩篇
111:10 主を恐れることは、知恵の初め。

今の世で求められているのは、どういう人々でしょうかね。頭の良い人々、優秀な人々です。魅力的な人々です。金、権力を持つ人々ではないでしょうか。主なる神の求めている人間とは、全く違う種類の人間です。すなわち、心砕かれ、神のみことばである聖書におののき、主を恐れている人々です。

砕かれている心を持たない人々は、祝福され得ない。みことばにおののかない人は、決して、祝福され得ません。主を恐れない人は、何があっても、祝福され得ないのです。主を恐れた人々について、聖書は、もちろん、たくさん報告しています。

例えば、アブラハム、信仰の父と呼ばれている男について、彼の告白が書かれています。彼は何と言ったかと言いますと、「私は、ちり灰にすぎません。」もちろん、そう思ったからです、心から。ちりと灰は、全く価値のない物であり、捨てられるべきです。アブラハムも、「私は、全く価値のない者であり、捨てられてもいい者です」と、告白しました。だから、大いに祝福されるようになりました。詩篇の作者であるアサフという男も、主を恐れた人でした。彼の告白とは次のものです。「私は、愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった」と、彼は告白したのです。結局、私はどうしようもない者です・・・・と。主を恐れる人々は、へりくだって。心砕かれた人々です。そしてまた、主の光によって自分のみじめさと空しさを知るようになった人々です。

今日、主は、いったいどういう人々を探し求めておられるのでしょうか。ひとつの答えは、イザヤ書の六十六章ではないかと思います。

イザヤ
66:2 ――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

主の救いにあずかるようになった人々に、パウロは、次のように書いたのです。未信者ではなくて、信じる者に書いたことばです。

ガラテヤ
5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。

なぜ、まだ滅びに向かって行く多くの人々が、一度もイエス様のことを聞かないまま、歩み続けているのでしょうか。言うまでもなく、それはみな、信じる者の罪のゆえです。自分のことを願っているからです。なぜ、イエス様のからだである私たち兄弟姉妹は、こんなに弱く、力なく、悪の霊と戦うのに弱いのでしょうか。それは、私たちが自分のことを考えているのではないでしょうか。なぜ、多くの兄弟姉妹は、生ぬるく、不熱心で、自己満足しているのでしょうか。それは、自分のことばかりを求めているからです。

聖霊の宮であるべき我々の心は、往々にして、悪魔の城となることがあります。聖霊の宮であるべき我々の心は、しばしば、強盗の巣となってしまいます。これ信じ、認めているのは、残念ながら、少数の信者でしかないのではないかと思います。

私たちは、主の器となるために、主に仕えるために救われました。けど、しばしば我々の内の古き人が、我々を支配し、指導してきたのではないでしょうか。我々の心の中に浮かぶ願いは、イエス様の目的にかなっているのでしょうか。私たちは、イエス様を見上げ、イエス様にご自分の形を内にかたち作っていただくという我々の思いは清められているのでしょうか。

パウロは、次のように言うことができたのです。「御霊によって、私たちが神と共に働く者となる」ということができたのですが、私たちは、本当にご用にかなう者なのでしょうか。イエス様は、ご自分の思うとおりに我々を用いることができるのでしょうか。それとも、私たちは、自分の思うことばかりをやっているのでしょうか。パウロは、信じる者の成長のために本当に戦い、祈り続けました。

第一コリント
6:13 食物は腹のためにあり、腹は食物のためにあります。ところが神は、そのどちらをも滅ぼされます。からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです。
6:14 神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。
6:15 あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。
6:16 遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。
6:17 しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。
6:18 不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。
6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

イエス様が、私たちを値を払って、買い取ってくださいました。ですから、私たちは、イエス様のからだの肢体となることができたのです。からだは、頭(かしら)に従わなければなりません。

私は、何と主に不従順なことでしょう。何と高ぶる者でしょう。イエス様の肢体として用いられる器ではなくて、違う方向へ行ったのではないでしょうか。ヤコブも、このことについて考えた時、厳しい言葉を書いたのです。信じる者に向かって、『愛する兄弟姉妹よ』ではない。

ヤコブ
4:4 貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。

主の御前に自分の本当の姿を知っている者は、あの取税人のように、『私は、強盗であり、姦淫を犯した者であり、御前に全く駄目な者です』と言うでしょう。主の祝福を得る道は、いったい、どういうものなのでしょうか。

主の祝福を得る道とは、初めに自分の汚れた様を見て、自らの物足りない様を知り、飢え渇きを持つことが必要です。多くの兄弟姉妹は、自分にではなく、他の人々に不満を投げかけています。批判したり、裁いたりします。他の兄弟姉妹にどんな不満を持っても、喜んでいるのは悪魔です。他の兄弟姉妹を不満に思うのではなく、まず、自分自身の物足りなさを思わなければならないのではないでしょうか。我々、信じる者として与えられている使命は、いったい何でしょうか。神の宮であることです。私たちは、自分のものではなく、主のものです。

最後にもう一箇所、読んで終わります。言うまでも無く、この言葉も、高く引き上げられたイエス様が信じる者に言われたことばです。

黙示録
2:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

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