2013年9月17日火曜日

主の愛にとどまりなさい

主の愛にとどまりなさい
2013年9月17日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
15:10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
15:11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
15:14 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。
15:15 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
15:17 あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。


ダビデは、次のように告白しました。

詩篇
18:1 主、わが力。私は、あなたを慕います。

心から愛している。そして、イエス様は、今、読まれた箇所の中にも出てきたように、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」三つに分けられます。第一番目、イエス様の証し、「父がわたしを愛された。」二番目、イエス様の告白、「わたしは、あなたがたを愛しました。」三番目、イエス様の命令、「わたしの愛の中にとどまりなさい」とあります。

イエス様の証しとは、すごい。すばらしいものです。「わたしの父が、わたしを愛された」ということでした。イエス様は、「わたしは、父によって信頼されている。心配されている。愛されている」と言われました。旧約聖書の中には、来るべき救い主について、次のように約束し、記されています。

マタイ
12:18 これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。

イエス様において、このみことばは成就されました。イエス様が、父なる神によって愛されているということは、聖書の中で、三つの表現をされています。第一番目、イエス様の体験。二番目、父なる神による証明。そして、三番目、パウロの証しによってです。

イエス様の体験について、ヨハネ伝の五章を見ると、次のように書かれています。

ヨハネ
5:20 それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。
5:21 父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。
5:22 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。
5:23 それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。
5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

10:17 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
10:18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。

17:26 そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。

イエス様は、こう言われました。「わたしは、父なる神から愛されている」という経験は、イエス様の一瞬一瞬の体験だったのです。愛されている。だから、心配する必要はない。これこそが、あらゆる不安からの解放、そのものです。「わたしは、父から愛されている。」けど、これは決してイエス様の考え、また、告白だけではなく、父なる神ご自身が、はっきり仰った事実です。マタイ伝十七章を見ると、次のように、父なる神のはっきり言われたことが書かれています。

マタイ
17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。

マタイだけではなく、マルコも同じ事実について書き記したのであります。

マルコ
1:11 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

イエス様の切に望んだことは、ただ父なる神のご栄光が現れることでした。ですから、主は、「わたしの思いではなく、あなたの御心が成るように」と、祈り続けました。けども、今、話したように、パウロもイエス様が神から愛されていることを証ししました。彼の書いたエペソ人への手紙の中で、次の表現が出てきます。

エペソ
1:6 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光 が、ほめたたえられるためです。

コロサイ
1:13 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

イエス様に対する父なる神の愛が何を意味していたか、私たちは考えることすらできないのではないでしょうか。父なる神の愛は、私たちの考えることのできるすべてのものよりも強く、大きいものです。

イエス様が父から愛されているだけではなく、我々もイエス様によって愛されていると、聖書は言っています。しかも、イエス様は、父なる神がイエス様を愛されたと同じ愛を持って、我々を愛しておられるのです。

確かに私たちには、この父なる神のすばらしさを考えることができませんし、聖書の言っていることも、ちょっとピンとこない。聖書の中のいちばん、短いことばの一つは、「神は愛なり。」意味は、神は愛することしかできません。人間がどういう態度を取っても関係なし。父の愛は変わらないものです。

イエス様は、「わたしは愛されている」と、いつも喜びを持って言うことができたのです。けども、イエス様だけではなく、我々も愛されています。しかも、イエス様は、父なる神がイエス様を愛されたと全く変わらない同じ愛を持って、私たちを愛しておられます。

一人の男性が、一人の女性を知り、「私はあなたを愛している」と、告白する時、その女性は全く変わったものに作り変えられるかもしれない。人間は誰でも、人から愛されたいと願うものです。誰からも愛されず、この世で全く孤独な状態にある人には、慰めもない、望みのない者として、毎日、生きると言えないけど、存在しなくてはいけないのではないでしょうか。

何十年前だったか、全く忘れましたけれども、ドイツである時、高速道路を車で走っていた時に、日本ではおそらくないことですが、一人のヒッチハイクをしていた人を、いっしょに乗せたことがあります。結局は、アウト・バーンの近くに手をふって止まるように、止まる人はめったにいないけど、僕は止まろうと思って、彼を乗せたんです。

彼は、私に三つの事を途中で話してくれました。まず、第一に、彼はお金をぜんぜん持たないで、二、三日のあいだ、何も食べていないと言ったんです。確かに、彼の着ているものは、古く薄汚れていましたから、彼の言ったことをそうだろうと信じました。二番目に、彼の言ったことは、彼には故郷がない、誰も彼のことを思っている人がいないということでした。彼の顔の表情が悲しげに沈んでいましたので、このこともそうだろうと信じました。第三に、彼の言うことは、たいがい悲しいことばっかりだったんです。彼は実はね、自分は本当に立派な人間だと言ったんです。そして、彼は、自分自身を哀れんでいたのです。同情してもらいたい気持ちがあったんです。このような会話を続けているうちに、彼は刑務所から釈放されて、出てきたばかりであることが解かったんです。けれど、私も彼に同情せざるを得なかったんです。それは、決して、彼が貧しかったからじゃない。彼は故郷がなかったからではない。結局、自分は立派な者だ、自分自身の過ちを我がままを認めようとしなかったのです。

話をしている時に、私は彼に、「確かにあなたは、めちゃくちゃな男でしょうけど、愛されている。しかも、生ける真の神によって愛されている。イエス様は、あなたに向かっても、『わたしはあなたを愛している』と言われています。」彼が、イエス様の元に来て、イエス様を信じるようになったかどうか、もちろん全く解かりません。

今日、ここまで来られたひとりひとりに、「わたしは、あなたを愛している」と、イエス様は間違いなく呼びかけておられます。

このまことの愛、すなわち、イエス様の愛について、三つの特長を中心に、考えてみたいと思います。

第一番目、イエス様の愛は、永遠であり、決して変わらないのです。

ヨハネ
13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

人間の愛は、いかに早く覚めて行くことでしょう。親の愛でさえも、子に対して、ある時には、憎しみに変わることもあります。多くの離婚は、人間の愛がいかに変わりやすいものであるかを、証明しているのではないでしょうか。離婚までいくことが少ないとしても、夫婦がお互いに心から愛し合っているかどうか、それは、また別問題です。これは、悲劇なのではないでしょうか。これに対して、イエス様の愛は、永久に変わらないものです。

エレミヤ
31:3 主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」

イエス様の愛は、永遠であり、決して変わることがない。

第二番目、神の愛です。これは、何を意味するのでしょうか。人間の愛は、自分自身、自分の夫、自分の家族、自分の子供などを愛する愛です。人は、愛されるために愛します。すなわち、自分に害を与えようとする者、自分の憎む者を避けてしまうのです。これに対して、神の愛は、その対象にかかわらず愛する愛です。

ローマ
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

また、みなも暗記している言葉です。聖書の中心なることばでしょう。

ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。(・・・・世とは、私のことであり、あなたのことです・・・・)それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

この場合、世とは主なる神に逆らう人類の意味です。また、もっとも極端な神の敵であるとも言えましょう。

ヨハネ第一の手紙にも、同じことばが書き記されています。

第一ヨハネ
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

神の愛は、罪人を罰せずにはおられません。十字架とは、人類の罪に対する罰でした。バプテスマのヨハネは、初めてイエス様を紹介した時、何と言ったかといいますと、ヨハネ伝一章の二十九節、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」そして、パウロは、コリントにいる兄弟姉妹に、この偉大なる事実について書いたのであります。

第二コリント
5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。・・・・

十字架につけられたイエス様は、永遠なる神ではなく、愛されている御子でもなく、罪の塊とされたのです。

第二コリント
5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

永遠なる神は、ご自分で罪に対する罰をお受けになるために、我々の身代わりとなってくださいました。

神の愛は、罪を罰せずにはおられませんが、罪人を救いたいと思っておられます。救いは、ただイエス様によってのみ可能です。というのもイエス様だけが、罪の罰を背負ってくださったからです。

負債を支払った者は、その負債証明書を破り捨てることができます。罪に対する罰を担う者のみが、罪を赦すことができるのです。このことは、私たちにとっても、大きな喜びです。すなわち、イエス様が我々の罪を赦してくださったということができるのですから。イエス様によって、罪が赦されるためには、そのための犠牲が支払われなければなりませんでした。

主なる神の愛は、もっとも大きな力であり、罪や死よりも、はるかに大きなものです。永遠なる神の愛のしるしは、イエス様が罪のために、すなわち、罪の赦しのためについてくださった十字架です。イエス様の愛は、永遠の愛であり、神の愛そのものです。

三番目、イエス様の愛は、自分自身を犠牲にする愛です。この愛は、自分を考える愛ではなく、他人のために存在しているのです。

ヨハネ
15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

ガラテヤ
2:20 ・・・・いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

キリストも、あなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神への捧げ物、また、供え物としてくださったと、エペソ書、五章二節に書かれています。

今までに、私たちは、まず第一に、イエス様の証しとして「父なる神がわたしを愛しておられる」というイエス様のみことばを学び、第二に、イエス様の告白を見てまいりました。すなわち、「わたしは、あなたがたを愛する」というイエス様のみことばを中心に見てきました。

最後に、イエス様の命令について見てみたいと思います。「わたしの愛のうちにとどまりなさい」と、イエス様は言われました。「絶えずわたしの愛を覚えて歩みなさい」と、イエス様は言われます。この人生において、もっとも大切なものはいったい何なのでしょうか。コリント第一の手紙、十三章は愛の章と呼ばれているところなんです。

第一コリント
13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

いちばん大切なものは、主イエス様に対する愛です。人間が宗教を持っているかいないかということは、別に大切ではない。あなたの仕事や家庭に忠実に尽くすことによっては、決して天国に行くことはできません。もっとも大切な問いは、「あなたはイエス様を愛しているの?」という問いです。パウロは、コリント第一の手紙の中で、非常に理解しにくい、強い言葉を書いたのです。

第一コリント
16:22 主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。

『主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。』

ヨハネ
3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

これは、真に重大なみことばですが、本当にそのとおりです。私たちがイエス様を愛しているか、いないかということは、次の三種類のかたちをとって現れてくるのではないかと思います。

第一番目、イエス様を愛することは、イエス様に仕えることです。もちろん、旧約聖書を見ても同じことが、何回も強調されています。二箇所だけ見てみましょうか。

申命記
10:12 イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え(ることである。)

主に仕えること。十一章にも同じことが書かれています。

11:13 もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、(・・・・雨を与えよう。)

イエス様を愛する者は、ただイエス様にのみ仕えたいと望む者です。イエス様を愛することは、イエス様に仕えることです。

第二番目、イエス様を愛することは、主の戒めを守ることです。

申命記
11:22 もし、あなたがたが、私の命じるこのすべての命令を忠実に守り行ない、あなたがたの神、主を愛して、主のすべての道に歩み、主にすがるなら、・・・・

19:9 ――私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令をあなたが守り行ない、あなたの神、主を愛し、いつまでもその道を歩むなら―・・・・

次のヨシュア記にも、同じ意味のことばがあります。

ヨシュア記
22:5 ただ主のしもべモーセが、あなたがたに命じた命令と律法をよく守り行ない、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道に歩み、その命令を守って、主にすがり、心を尽くし、精神を尽くして、主に仕えなさい。

イエス様も、弟子たちにはっきり言われました。

ヨハネ
14:15 もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。

14:23 だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

すごい約束です。これほどの大きな約束があるのでしょうか。イエス様に対する我々の愛は、イエス様の戒めを守ることによって現されます。

そして、第三番目、イエス様を愛することは、耐え忍んで主の再臨を待ち望むことです。パウロは、テサロニケにいる兄弟姉妹に書き記したのです。

第二テサロニケ
3:5 どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。

ユダ
1:21 神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

イエス様を愛する者は、心が燃えて、主の再臨を待ち望んでいます。私たちは、本当にイエス様を愛しているのでしょうか。ダビデは、「私は、主を愛している」と心から言うことができたのです。

詩篇
18:2 主はわが巌、わがとりで・・・・。

18:1 主、わが力。私は、あなたを慕います。

最後に、結論として、主の愛を体験的に知り、主の愛のうちにとどまる者の特長について、考えたいと思います。

第一番目、これらの人々は、イエス様の愛によって、取り囲まれている人々です。彼らは、自分自身のためではなくて、イエス様のために生きたいと切に望む者です。コリント第二の手紙の五章を見ると、初代教会の告白、証しのようなものが書かれています。

第二コリント
5:14 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

二番目、主の愛によって取り囲まれた人々とは、他人のために自らを犠牲にすることを意味します。

第一ヨハネ
3:16 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

主の愛を体験的に知り、主の愛のうちにとどまる者の特長は、今、話したように、イエス様の愛によって取り囲まれていること、また、他人のために自らを犠牲にすることであり、三番目の特長は、すべてのことにおいて、勝ち得て余りある。

皆、暗記している箇所だと思いますけど読みます。すばらしい告白です。

ローマ
8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
8:36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

私たちの大部分は、神の愛をイエス様を通して体験的に知ることができました。罪を赦されており、罪の奴隷から解放されており、永遠のいのちを持っていることを信じるようになりました。ですから、将来に対しても、大いなる希望を持つことができるのです。どうしてであるか。答えは、ローマ書の五章五節です。非常にすばらしい大切な約束です。

ローマ
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛
(・・・・神ご自身の愛・・・・)が私たちの心に注がれているからです。



イエス様は、私たちを心から愛しておられ、その愛は永遠に変わることがなく、主の愛であり、ご自身を犠牲にしてくださる愛です。イエス様が、我々のうちにとどまられるからこそ、イエス様を通して、この愛を持つことができるのです。初代教会の証しとは、すばらしい証しです。

第一ペテロ
1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

このことばが、そのまま我々にあてはまるみことばであれば、本当にすばらしいのではないでしょうか。

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