2013年9月3日火曜日

主のみもとに立ち返ろう

主のみもとに立ち返ろう
2013年9月3日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

哀歌
3:22 私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。
3:23 それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。
3:24 主こそ、私の受ける分です。」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。
3:25 主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。
3:26 主の救いを黙って待つのは良い。

3:31 主は、いつまでも見放してはおられない。
3:32 たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。

3:40 私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。

今、最後にお読みになってくださった箇所は、今日のテーマです。「主のみもとに立ち返ろう。」これも、聖霊の呼びかけでもあります。主のみもとに立ち返ることができるからこそ、今日の集いも、喜びの集いです。悔い改められるからです。主は、待っておられるお方であるからです。


このエレミヤ哀歌の中で、私たちはエルサレムの荒廃について、すなわち、このエルサレムという町が、主なる神の裁きによって、いかに荒れ果てたものとなるかについて読むことができます。ユダヤ人にとっても、考えられない悲劇でした。けれども、三章の半ばを見ると、私たちは、力を与え、高く引き上げてくれる励ましのことばを読むことができますね。

主の救いを黙って待つのは良い。主は、いつまでも見放してはおられない。たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。すばらしい約束なのではないでしょうか。

私たちは、いつも励まされることを必要とします。そのため主は、私たちに多くの約束のみことばを与えてくださいました。けれど、私たちが自分たちを吟味し、探求し、尋ね調べることは、ちょうどそれと同じように必要です。だから、この四十節に書かれています。「私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。」私たちが、静かに主によって吟味していただくことは、非常に大切です。

主が我々に語ってくださり、妨げとなっているものをすべて明らかにしてくださるように、調べてもらう必要があります。詩篇の作者であるダビデも、同じ思いを持っていました。ダビデの心がまえとは、どういうものであったかと言いますと、よく引用される箇所です。

詩篇
139:23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
139:24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

こういうふうに、ダビデは心から祈ったのです。「私」ということばが六回も出てきます。他の人々ではない。「私」・・・・彼は思ったのです。もちろん、私たちが、はっきりと知っていなければならないことは、いくら私たち自身を見つめても、実際は何の役にも立たないのではないでしょうか。

自分自身を見つめることは、打ちのめされた気持ちにならざるを得ないからです。私たちは、自分自身を見つめるならば、少なくても千回、偉大なるイエス様を見なければなりません。

聖書のもっとも大切な呼びかけ、また、戒めとは、「主イエスから目を離さないでいなさい。」離した瞬間、悩むようになります。しかも、私たちは、まず第一に、私たちの動機が、本当に正しいものであるかどうか、主の御顔によって自分たちを吟味すべきです。そうでなければ、私たちは、簡単に流されてしまい、いかに下へ向かって行くかに全然、気がつかないようなことになり得るのです。絶対的なより頼みを意識しないで生きる者は、ちょっと気の毒、災いです。

私たちは、自分のみじめさ、無力さ、すべての失敗を認め、そのままの状態でイエス様のみもとに行くことができます。赦されています。結果として、主は必ず、新しい力を与えてくださいます。四十節は本当に大切な戒めです。

哀歌
3:40 私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。

この四十節に記されているように、主を信じる者は誰でも、何度も何度も悔い改めて、主に立ち返ることが必要です。それによってのみ、私たちを新たに生かすことがおできになるからです。

私たちは、御心にかなう者なのでしょうか。「はい、そうです!」と言える人は、おそらく一人もいません。それだからこそ、私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ることが、どうしても必要です。私たちが、もはや主と結びつかないことや、主の愛がもはや我々を駆り立てないということはあり得ることです。そのときも、私たちは主の栄光のための器となる、主のために役に立つのです・・・・主に立ち返れば。

パウロは、同じ意味で愛弟子であるテモテに、次のように書いたのであります。

第二テモテ
2:21 ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。(・・・・ひとつの事実ですね・・・・)すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。

これは、可能性ではなく、事実として書かれています。

我々の生活を尋ね調べる大切さについて書かれています。我々の道を尋ね調べましょう。

ここで大切なのは、『私たちの』ということが強調されていることです。すなわち、他の人ではなく、私たち自身の道が吟味され、究明され、尋ね調べられるべきであって、他の人々の道を判断したり、調べたりすべきではない。主の導きは、人によって違います。

パウロは、二箇所で、私たちがまず、自分自身の生活を吟味、調べなければならないこと、問題となっているのは、他の人ではなく、私たち自身であることを指摘しています。すなわち、一人ひとりが主の前に静まり、次のような願いを持って、主の光に自分自身を照らし出してもらうべきです。「主よ、どうかあなたの前に、妨げとなっているものを尋ね調べ、明るみに出してください」と。それから、次の二番目の箇所は、コリント第二の手紙の十三章です。

第二コリント
13:5 あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。

普通、私たちは、まず先に、他の人を吟味したり、判断して裁いたり、他の人のいろいろの点を詮索したりしがちです。私たちは、福音を聞くときでさえ、聞いた事柄が自分自身に関係のあることではない、これはあの人に当てはまる、そのことはあの人に当てはまるのではないかと思うようになります。

私たちが自分たちの生活を尋ね調べ、意識的に主の光の中に、自分自身を置くことの必要性について書かれています。「そのことがどのようにして行なわれるべきなのでしょうか」という質問は、もちろん、出てくるでしょう。すなわち、規則正しく、行なうことが非常に大切です。規則正しく、我々の生活を尋ね調べなければならない。

コリント第一の手紙、十一章二十八節のみことばは、本当は日曜日にいつも行なうパン裂きについて述べていますが、聖書によると、パン裂きは、たまに行なわれるのではなく、しばしば規則正しく行なわれるべきであるとあります。すなわち、私たちは、しばしば我々の主について、イエス様の苦しみについて、主の死について、また、イエス様の成就された勝利について考えるべきです。

【参考】第一コリント
11:28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。

パン裂きの時、私たちはゴルゴタ、すなわち、イエス様の十字架における犠牲を思い出し、御座と引き上げられたイエス様を見上げ、そして、すぐ実現される主の再臨を待ち望みます。しかし、『私たちは我々の生活をも尋ね調べなければなりません』と、パウロは主の使命を持って語っています。

私たちは、イエス様が祝福し、ご自身を啓示し、奇跡の御業を成してくださる妨げとなるものがないかどうか、尋ね調べなければなりません。明らかに私たちが要求されていることは、「あなたの生活を尋ね調べなさい」ということですが、それは、妨げるものを思い調べなさいということですが、それは妨げるものが思い当たったときに、主の聖餐から遠ざかるためではなくて、悔い改めてパンを食べ、杯を飲むためです。

このことは、一人ひとりが自分自身を吟味して、ふさわしくなければ、パンと葡萄酒を隣に回すことを意味しているのではなく、大切なことは、一人ひとりが自分を尋ね調べて、赦しを必要とする事柄を私たちに示されるためです。

実際、私たちは、主の前にへり下って、身をかがめ、罪過を告白するならば、主はすべてを赦してくださり、その赦しが受け入れられた後で、私たちはパンを食べ、杯にあずかるべきです。したがって、精密検査の目標は、私たちが、がっかりして身を退くことや、断念しようとすることではなくて、イエス様とのさらに親密な交わり、さらに大いなる祝福、新たに用いられるためなのです。

もちろん、私たちは、日曜日の朝、パン裂きのときだけに、自分の生活を検査するだけではなく、規則正しく、しばしば、成されるべきです。たとえば、大晦日、新年、修養会、そして、特別な祝福を受けた時も、自分を吟味することが必要です。というのは、私たちは、ともにすると、主に対して感謝の少ない者となり、自分自身のことを考えてしまいがちです。

また、試練の時にも、私たちが自分の生活を検査することが必要です。しかし、その際に、「なぜ、どうして」と尋ねるのではなく、「主よ、あなたの目標は何でしょうか?あなたは、そのことを通し、て私に何をお語りになりたいのでしょうか」と、尋ねることが大切です。

私たちが主から離れているとき、我々と主との間に妨げるものが入ってくるとき、主は、我々を教育してくださいます。すなわち、主は我々を罰するのではなく、そのことを通して、私たちをさらにみもと近くに呼び寄せる、引き寄せるために我々を教育なさるのです。それですから、悩みや試練のときに、私たちが主の光を主に願い求め、我々の生活を検査し、主がすべてを明らかにしてくださることが大切です。

しばしば、主の御手が働けないようにしてしまうものは、我々の不信仰であり、我々の不従順であり、我々の不純な動機なのです。私たちが主に仕えても、ほとんど、あるいは、全く実を結ぶことができないとき、私たちは改めて、自分たちの生活を調べてみることが、どうしても必要であり、また、大切です。

もうひとつ、大切なことは、徹底的な精密検査です。究明するとか、吟味するという言葉は、うわべだけでなく、徹底的に行なわれるべきであることを、私たちに示しています。何度も何度も、私たちは、主に真剣に願い求めるべきです。すべての隠れている障害物と、私たちを妨げ、邪魔をしているすべてのものを、私たちがさらに大いなることに対する障害物のすべてを明らかに示してくださいと。詩篇の作者であるモーセは、次のように書いたのです。

詩篇
90:8 あなたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。

モーセは、こう祈ったのです。不義と秘めごとは、光の中に置かれなければなりません。

たとえば、あなたが歯医者さんに行き、痛んでいるところが発見され、しかし、その歯は抜かなくてもいい場合、まず、皆が嫌がる歯の穿孔機(ドリル)、すなわち、その歯に穴を開ける機械が使われ、痛んでいるところはすべて徹底的に除去されます。そうすると、その歯には突然、大きな穴が開くことになりますが、使うことができるようになります。このやり方は、痛みを伴うかもしれないが、やる甲斐のあるものです。ちょうど、それと同じように、私たちも徹底的に、我々の生活を検査しなければなりません。

何年か前だったのですが、タケモト・タダシ兄弟の家に尋ねたのです。彼は、さっそく頼まないのに、「ちょっと歯を見せて」と言ったのです。もう全部の歯を、レントゲンで調べてくれました。私は大したことはないと思っていたのですけど、至るところに、痛んでいる箇所があったんですって。もっと早く行って、治療してもらうべきだったでしょう。

彼は、何年間かで全部やったし、後で必ず、昼ごはん、コーヒーとケーキももらったし、最後に金を取らなかった。そうすると商売にならない。

私たちが、主の器として主に用いていただくため、主との交わりを持ちたいと願うならば、何度も何度も、自分自身を徹底的に検査していただく必要があります。以上のことをまとめてみると、我々の生活の精密検査は、まず規則正しく、それから、また徹底的に行なわなければならない。もうひとつ、どこまでも正直であることが要求されています。

私たちの人生について、四つの価値判断があるのではないでしょうか。

第一に、我々の周囲が自分について、何を考え、また、どのように自分を評価しているかということです。第二に、自分と一緒に住んでいる家族が、自分について何を考え、どのように評価するか。そして、第三に、自分自身が、自分について何を考え、自分をどのように評価するか。そして、第四に、もっとも大切なことですが、生けるまことの主なる神が、自分について何を考え、どのように評価するかということです。

なぜ精密検査が必要なのでしょうか。なぜならば、主が我々の人生をご覧になるのと同じように、我々も自分の人生を見ることができるため、すなわち、自分自身を本当に知るようになるためです。

他の人たちが我々について、何を考え、どのように見ているか、これは私たちが自分自身について、何を考えて、どのように自分自身を見ているのかということではない。決定的に大切なのは、燃える炎のような目を持ち、造られた者で主なる神の前で、隠れおおせるものは何一つなく、主なる神の目には、すべてがさらけ出されてしまう・・・・その神が、我々をどのようにご覧になるかということです。

私たちは、他の人の目には模範的に思われることはあり得ることです。また、私たちは、自分の過ちを他の人の目から隠すこともできます。けど、主の前に隠れおおせるものは何ひとつありません。ダビデは、有名な詩篇の百三十九篇で、主がすべてをご存知であると告白しています。

詩篇
139:1 主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
139:2 あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
139:3 あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
139:4 ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。

主の目に隠れおおせるものは、何一つありません。それですから、私たちは主に近づくとき、全く正直でなければなりません。

エレミヤ
23:24 人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。天にも地にも、わたしは満ちているではないか。

私たちは、「主よ、どうかすべてを明らかにしてください。私を尋ね調べ、あなたを悲しませたところをお示しください」と、祈ることができれば、本当に幸いと思います。というのは、主はいつも、私たちを赦してくださるおつもりですから。主は、私たちをあらゆる不義からきよめることを待っておられます。

私たちは、私たちの道を尋ね調べましょう。

これは必要なことです。そのことを私たちは、規則正しく、徹底的に、正直に行なうべきです。けども、必要な精密検査に属するものは、私たちの人生の検査だけではなく、我々の障害物を認めることでもあります。エレミヤは、「私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。」

主は立ち返るべきであると言っておられますが、どうしてでしょう?それは、私たちが間違った方向に進んでしまう者だからです。私たちも戻らなければなりません。どうして?それは、私たちが主から離れてしまったからです。戻ると主は大いに祝福してくださるに違いない。

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