2013年9月22日日曜日

みことばを食べる必要性

みことばを食べる必要性
2013年9月22日、吉祥寺福音集会
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
17:1 イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。
17:2 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
17:3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
17:4 あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。
17:5 今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。
17:6 わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。
17:7 いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。
17:8 それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。
17:9 わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。
17:10 わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。
17:11 わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。
17:12 わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。
17:13 わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。
17:14 わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
17:15 彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。
17:16 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
17:17 真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。

今、読んできてくださった箇所はイエス様の祈りです。

イエス様のように祈っていた人はいないと思う。我々はいつ祈るか、助けを求めるかと言いますと、困ったときです。自分で考えて、自分の思いで、壁にぶつかってから初めて助けを求めます。イエス様の場合はそうではなかった。

イエス様の特徴とはなんであったかと言いますと、わたしは何も分からない。何もできない。父に用いられなければ終わり。ですから、結果としてイエス様は、祈ったというよりも、祈り続けたのです。そして、この祈りの中で、イエス様は――最後の17節ですね――イエス様は、『あなたのみことばは真理です。』イエス様にとってみ言葉は全ての全てでした。

聖書を学ぶ場合に、いちばん大切なことは、次のことでしょう。すなわち、聖書自身が自らを明らかにするということです。したがって、みことばを学ぼうとする時には、聖書全体が何を言っているかを、正しく理解しなければならないのではないでしょうか。たとえば、新約聖書の中の福音書、あるいは、手紙を学ぼうとする時には、絶えず、新約聖書と旧約聖書の関係の中で、そのところを読まなければなりません。それですから、聖書の中の一部分を読む場合などには、それが聖書全体の中で、どのように位置付けられているかに注意しなければならないし、そのところだけでなく、ある場合には、前の方にさかのぼり、ある場合には、後の方を見なければなりません。

みことばを読む目的は大切です。単なる知識を得るためではなく、心から真剣に真理を求めて行くという飢え渇きを持つことが大切です。聖書は、神のみことばですから、私たちはみことばを主なる神のことばとして学び、主のみことばとして、素直に受け入れることが大切です。

私は聖書を読んでいる人の絵を四枚、持っています。一枚目の絵を見ると、大きな大きな人が小さな聖書を読んでいます。二枚目の絵になると、その大きな人は、前よりも少し小さくなり、その代わりに聖書は、前よりも少し大きくなります。三枚目の絵を見ると、その人は前よりもさらに小さくなり、聖書はその人と同じくらいの大きさになりました。四枚目の絵を見ると、その人は非常に小さくなり、それとは反対に、聖書は比較にならないほど、大きなものとなりました。

これから分かることは、始めは自分の考えによって聖書を解釈していた人が、聖書を読むうちに、聖書が絶対的な権威を持つに至ったということです。つまり、この人は聖書を主なる神のみことばとして真剣に読み、このみことばに耳を傾け、注意して聴きましたから、みことばがその人の血となり、肉となって、自分の思いが消えてしまったわけす。その結果、みことばがすべてとなり、主イエス様がますます大きくなったということです。

今日、多くの人々は、みことばを軽く考えて、自分の考えで勝手に解釈したり、みことばに対して耳を傾けることをしなくなってしまいました。しかし、正しくみことばを学ぶ時には、聖書のみことばこそ、絶対的な権威を持たなければなりません。聖書というものは、決して研究するためのものではなく、それを通して、主なる神がわれわれに語りかけてくださるみことばですから、私たちは注意深く聞かなければならない。サムエルのような態度を取るべきです。主よ語ってください。しもべは、聞いております。

主のみことばを聞き、それに従うときには、ローマ書10章のみことばを体験できるでしょう。

ローマ
10:17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

聖書に書かれていることがらを、絶対的な権威を持った神のみことばとして受け入れ、それに耳を傾けない者は、決して、生き生きとした信仰を持ち得ないのです。聖書は確かに世界のベストセラーですけれど、聖書を読むことによって、教養を身につけ、足りないところを補っていこうとするのでしょうか。それとも、別にはっきりとした目標を持たずに、気の向いたまま、あっちを読んだり、こっちを読んだりすればよいのでしょうか。決して、そうではありません。みことばを読む場合、本当の目標は、イエス様を体験的に、よりよく知るために、イエス様に出会い、そして、イエス様を受け入れること、また、主イエス様をより良く知ることであるべきです。

イエス様は自分自身について証ししてくださいました。わたしはいのちのパンです。それから、わたしを食べる者は永遠に生きると言われました。

【参考】ヨハネ
6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」

6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

パンは、見て驚くために博物館の中に飾られているものではありませんし、また、そうしておいて良いものではありません。食べなければ何の価値もないものです。イエス様を信ずる兄弟姉妹の霊的ないのちは、このいのちのパンを食べる量りにしたがって、程度にしたがって、成長してまいります。いのちのパンであるイエス様ご自身が我々の食べ物とならなければいけませんし、また、イエス様ご自身は、そうなりたく思っておられ、願っておられます。

エレミヤという預言者は、いろいろなことで苦労しました。悩みました。彼は、次のように証しします。彼は、あるとき、『主よ、私はどうしましょうか』と言って、『わたしのみ言葉を述べ伝えなさい』と言われたんです。彼は、ちょっと反発したんです。主よ、無理!若い。何もできない。けども、彼はこのへりくだった態度をとったからこそ用いられました。『私はあなたのみことばを見つけ出し・・・・。』どうして見つけ出したのか?探したからです。主よ、語ってくださいという態度をとったからです。

15:16 私はあなたのみことばを見つけ出し、それを(・・・・分かったのではない。暗記したのでもない・・・・)食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。

このエレミヤの勧めの言葉は、「喜ぼうと思えば、みことばを食べなさい」ということなのではないでしょうか。

詩篇の作者であるダビデも、みことばの大切さを、何回も何回も経験しました。いちばん長い詩篇ですね――119篇から、二節だけ読みます。

詩篇
119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

119:162 私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。

私たちが何かを表現しようとするなら、ことばをもってしなければいけません。もし、私たちが何も話さないでいるならば、皆さんは私の心の奥底を知ることができないでしょう。いったい、どうしたらイエス様をもっと知ることができ、理解することができるのでしょうか。答えは、みことばによってです。

聖書は、主のみことばです。みことばは、主ご自身の啓示です。すなわち、単なる教理、学説ではなく、主の啓示、そのものです。だから、聖書を読むことは大切ですが、しかし、聖書を研究し、また、いわゆるキリスト教の教えを知るためではなくて、聖書を読むことにより、イエス様ご自身を知ること、より親しい交わりを得んがために読むべきです。

確かに、誤った聖書の読み方もあるでしょう。ある人は、聖書の中の主の愛について書かれたところだけが好きなのであり、いつもその箇所だけを読みます。そして、主の愛だけを口にします。また、少し謙遜な人は、『主なる神は柔和である』との箇所を好んで読み、主の柔和だけを云々します。これに対し、少し激しい気性の人は、主の裁きだけを口にするようになります。

これは、自分の考えを入れて聖書を読む結果です。それは、あたかもいろいろな色のセロファン紙を聖書の上に置いて読むようなものです。そのようなことをすれば、聖書がいろいろな色に見えるのは当たり前ですし、その色のセロファン紙を取り除き、自分の考えを除くなら、イエス様はご自分を啓示なさることができるのです。また、理解力を持って聖書を理解しようと思えば、うまく行きません。当時、イエス様の時代の聖書学者たちは、よく勉強した人々だったでしょうし、表面的にはりっぱな生活をした人々でした。けども、イエス様の彼らに対する判断とは厳しかった。

ヨハネ
5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
5:40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

聖書の単なる教理が問題なのではありません。イエス様ご自身が問題です。なぜなら、イエス様は、『聖書がわたしについて証言している』と言われたから大切です。『わたしのことばは永遠に残る』と、イエス様は約束してくださいました。

聖書を読むことと、いのちを得ることとは、ひとつのことがらであり、決して、二つのものではありません。モーセは、何千年か前に書いたのです。

申命記
32:47 これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。

次は、パウロの教え子であるテモテに書かれた言葉です。

第二テモテ
3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

全聖書は、主なる神の息が吹き込まれることによって書かれたものです。主なる神の感動により、主の息吹により、霊感によって書かれた書物です。ですから、聖書は、主なる神の単なる教えではなくして、主なる神の啓示、そのものです。主は、みことばをもって自身を現わしてくださいます。主のみことばは、我々にとって、いのちのパン、全てとならなければいけません。なぜなら、聖書は教理や真理の原則を語っているのでなく、いのちのパン、そのものであるからです。イエス様は言われました。

マタイ
4:4 ・・・・『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』

主イエス様ご自身は、私たちがそれによって生きる、自分のいのちのパンとなりたく思っておられます。私たちは、イエス様によって生きているなのでしょうか?主のみことばによって生きているなのでしょうか?

ヨハネ
6:63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

主のことばは、主ご自身を啓示するのです。みことばを食べることは、いのちを得ることを意味しているのです。生けるみことばが、我々のうちに入るなら、その必然的な結果として、いのちがやってまいります。理解力をもってしては、決して、いのちは訪れてまいりません。もし、聖書が我々にとって単なる掟であり、また、真理であるならば、それは、自分にとって重荷であり、不自由なものです。しかし、いのちならば、自由と喜びをもたらすのです。

もう一回、言いましょうか。聖書は、学問のために書かれたものでもないし、新しい真理を打ち立てるために書かれたものでもありません。聖書は、主なる神の呼吸です。主なる神の息です。すなわち、主なる神は、ご自身をこのみことばによって、みことばで包んで、みことばにご自身を含んで、あらわされているのですから、私たちはそのみことばを――イエス様を――、いのちのパンとして受け入れ、食べなければ、自分のものにしなければなりません。食べるなら味がするはずです。

何年前か忘れましたが、私たちはとってもおいしい支那料理を食べたことがあります。今まで食べたことのない料理が、次から次へとたくさん出ましたが、私はどんな味がするのかと隣の人に聞くようなことはしなかった。すぐそれをちょうだいいたしました。あれやこれを理解したり、他の人に訊ねてみたり、聖書の註解書を見たりする必要はない。ただ、いのちのパンを食べ、満腹することが大切なのではないでしょうか。

心の目が一回、開かれるには、真理を理解することなど問題ではありません。ただ、自分が主のみこころにかなっているかどうか、また、いかにしてみことばによって満腹するかどうかが問題なのではないでしょうか。満腹させないものは全く役に立ちません。そのようなものはすべて、満腹させるいのちのパンを、主ご自身を食べましょう。食べたら消化して、その結果、力が与えられるのです。食べるなら、それは体の一部分となり、そうすることによって、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられてまいります。一日の最良の時をこのいのちのパンを食べるために用いましょう。

前に、次の文章を読んだことがあります。題名は、「ある聖書の日記」――聖書が、話しをしている。

1月15日、静かな一週間を過ごした。新年の数日間の晩、私の持ち主は私を規則正しく読んだ。しかし、今は私を忘れているらしい。
1月22日、今日、整頓された。他のものと一緒にほこりを払われた。そして、元の場所に戻された。
2月8日、持ち主が朝飯を終わってから、少しのあいだ、用いられた。持ち主は、二、三箇所を読んだ。持ち主と一緒に教会へ行った。
3月7日、整頓され、ほこりを払われ、もとの場所へ置かれた。教会に行ってから、玄関に置きっ放しになっていたから。
4月2日、今日は忙しかった。持ち主は司会をやったので、私を読まなければならなかったのである。ちゃんとその場所にあるのに、その聖句を長いあいだ、持ち主は見つけることができなかった。
5月5日、午後いっぱい、おばあちゃんの膝の上にいた。おばあちゃんが僕を訪ねたのだ。コロサイ書2章5節から7節を読んで、おばあちゃんは涙を流した。
5月9日、今は毎日、午後おばあちゃんの膝の上にいる。私はそこを居心地の良く感ずる。おばあちゃんはしばらく読み、私に語りかける。
5月10日、おばあさんは出かけた。私はもとの場所に戻された。お別れの時、接吻してもらった。
6月3日、今日、誰かが私の頁のあいだにクローバーの葉を二、三枚挿んだ。
7月1日、着物や他のものと一緒にトランクに詰められた。休みにどこかへ出かけるらしい。
7月7日、まだ、トランクの中にいる。
7月10日、他のものはほとんど皆、取り出されたのに、私はまだトランクの中だ。
7月14日、再び家に帰って、もとの場所にいる。かなり長い旅行だった。しかし、私は読まれなかったなのに、なぜ一緒に行かなければならなかったのか、理解に苦しむ。
8月1日、ひどく息苦しく暑い。二冊の雑誌と小説が一冊、それに古い帽子が私の上に乗っかっている。取り除かれたら、うれしいのだがなあ。
9月5日、整頓され、ほこりを払われ、きちんと置かれた。
9月10日、今日、花子が私を少しのあいだ使った。花子は、お兄さんを亡くした友だちに手紙を書いた。それで、適当な聖句を用いたのだ。
9月30日、またほこりが払われた。

霊的いのちにも、食べ物が必要です。この霊的な食べ物を私たちは、どこで見つけるのでしょうか?聖書、すなわち、主のみことばの中に見つけるのです。聖書は、イエス様を啓示します。そして、イエス様こそが我々の渇ける魂にとっていのちの糧です。みことばを読んで、深く考えて、心にとどめましょう。イエス様を知る者として経験する難しい問題の九十五パーセントは聖書を読まないからなのではないでしょうか。聖書を読まない怠慢と言う罪を、主に告白しましょう。

もし、私たちが飢え渇きをもって聖書に接しなければ、また、みことばを深く味わわなければ、霊的に一歩も前進しないからと言って、不思議はありません。みことばを読まない罪を言い表わすならば、主は我々にみことばに対する飢え渇きを新たに与えてくださいます。また、主が新しい御声をもって、我々に語りかけてくださるにちがいない。

申命記
17:19 自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。

ヨシュア
1:8 この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。

詩篇の中のいちばん長いところは、皆さんもご存じのように、詩篇の119篇――ダビデの告白です。ダビデとは、どうして、御言葉にかなう人となったのでしょうか。二、三節を読めば分かります。

詩篇
119:72 あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。

119:97 どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。

119:140 あなたのみことばは、よく練られていて、あなたのしもべは、それを愛しています。

イエス様を愛することとは、結局、みことばを愛することです。イエス様にとって、御言葉は全てでした。ですから、祈りの中で告白してくださったのですね、『あなたのみことばは真理です。』

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