2013年9月11日水曜日

大いなる発見

大いなる発見
2013年9月10日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
3:9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。
3:11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。
3:12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。
3:13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。
3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

すべての人は、平和を欲します。けれど、すべての人は次の戦争が、遅かれ早かれやって来ることを、もちろん、知っています。神のみことばである聖書は、将来は薔薇色ではないとはっきり言っています。


政治家たちは成す術を知りません。将来の戦争について、聖書は何と言っているかと言いますと、人類の三分の一が、いっぺんに殺されます。想像できませんし、長いあいだ、誰も考えられなかったんです。なぜならば、いっぺんに人類の三分の一を殺すことなどあり得ないと思っていたんですけれど、現代人はもう疑いません。原子爆弾を持つ国々が、この武器を使いますと五分以内に、人類の三分の一を殺すことができる。いつになるかわからない。けれど、将来いつか、なります。イエス様を信じる者は、おそらく、その時、この地上にいないでしょう。先に、イエス様に迎えられるようになるのではないでしょうか。

人間は、何を共通して持つべきなのでしょうか。平和に対するあこがれ、それから、自由への意思、それから、一致への願望です。人間は皆、絶えざる平和にあこがれていますが、けれど、事実はいかなる世界政府も、いかなる宗教も、本当の平和を与えることができません。初代教会の人々は喜んで告白しました。

エペソ
2:14 キリストこそ私たちの平和です。

イエス様の一つの名前は、「平和の君」です。イエス様に出会って、主イエス様をわが身の内に受け入れた者は、絶えざる平和を持っています。すべての人間は、自由への意思を持っています。束縛されたい人は一人もいないでしょう。けれど、事実はどうかと言いますと、自分のしたいことをする者は、自分の情欲に縛られ、自我の奴隷と罪のしもべになります。罪はメクラにします。

真の自由は、ただイエス様に従うときにのみ存在します。そして、すべての人間は、一致への願望を持っています。というのは、不一致はいろいろな問題、煩わしさ、苦悩をもたらすからです。人間的に成されたすべての一致は、時間的に制限されており、すぐに壊れてしまいます。しかし、初代教会について、聖書は言っています。

使徒行伝
2:46 (彼らは)毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし(た。)

まことの一致は、ただイエス様を通してだけ存在します。私たちは、あらゆる錯覚から逃げ出なければならない。大切なことは、巌(いわお)のように動かず、昨日も今日も永遠に変わらないイエス様と出会うことです。

イエス様と出会うことによって、イエス様を本当の意味で知ることです。今、読んでもらいました箇所は、聖書の中でいちばん知られ、読まれている箇所ではないでしょうか。一人の宗教家、聖書学者であるニコデモという男は、イエス様との出会いによって変わりました。彼の発見とはどういうものだったのでしょうか。

このニコデモという男は、本当に真理を求める男でした。彼は、イスラエルの民に属して、広く認められた教師でした。三章十節によると、「あなたはイスラエルの教師である」と、イエス様は言われました。けれど、原語を見ると、『イスラエルの中でただ一人の特別教師』という表現が使われていることが解かります。

三章一節によると、彼がユダヤ人の指導者の一人であったことが解かりますが、教師としては別格の人であったのです。ニコデモは、最高の教育を納めた男で、彼は、広く一般に認められた人格者でした。道徳的に彼は高尚な模範的な生活を送ったのです。けど、心の奥底では彼は、孤独でした。満たされていなかったのです。

だから、高齢に至るまで、真理の探究者であり続けました。諦めようとしなかったのです。偽物はけっこう!本物が欲しいと、彼は切に望んだのです。もちろん、旧約聖書を徹底的に知り尽くした男でした。もちろん、来るべき救い主の約束を良く解かっていたはずです。彼は、イエス様について、イエス様の教えたことについて、イエス様の成された奇跡について、いろいろなことを聞いたのです。

けれども彼は、真理を求め続けたから、イエス様を個人的に訪ね、もっと良く知りたいと思って、その決心をいたしました。私たちは、イエス様が我々よりもはるかに忙しく、大変な毎日を過ごしておられたことを、福音書を読むと解かります。あらゆる地方から、病人がイエス様の御許に連れて来られ、それらすべての人をイエス様は癒してくださったのです。

ただで!金を取らないで。イエス様は、忙しさに忙殺され、しばしば、何かを食べる時間さえ見いだせないほどであったと、聖書は言っています。そして、弟子たちが疲れ果てて横たわっていたとき、イエス様は立ち上がって、何時間も山の中で、ただ一人で祈りました。そういうことですから、昼間、イエス様と個人的に話し合うことは、実際問題として、不可能に近いことでした。

そこで、ニコデモは夜、イエス様のところにやって来たのです。彼は、正直、かつ、率直に、自分の問題を持ってやって来ました。そして、イエス様のもとに来る者は、決して、無駄にはならないということを経験したのです。イエス様は、すべての質問に答えてくださり、あらゆる問題を解決なさり、真理へと導いてくださるのです。

イエス様のご臨在のもとで、ニコデモは驚くべき発見をしました。すなわち、模範的で正直な努力にもかかわらず、自分が霊的にはメクラで死んだ者であり、失われた者であるということが解かったのです。

神の国についてのもっとも根本的な真理は、彼には全く解かっていなかったのです。今日も、ある人々は忠実に礼拝に参加し、洗礼を受けて熱心にご奉仕し、多くの良いことを行なっているにもかかわらず、主なる神の目には、ニコデモのように霊的にメクラで死んだ者であり、失われている人が大勢いるのではないでしょうか。

パウロの時代には、そういう人々は多かったらしいです。一箇所、見てみますか。

第二テモテ
3:5 見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。
3:6 こういう人々の中には、家々にはいり込み、愚かな女たちをたぶらかしている者がいます。その女たちは、さまざまの情欲に引き回されて罪に罪を重ね、
3:7 いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たちです。

「いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない」のは、悲劇的ではないでしょうか。もちろん、動機は純粋ではない。へりくだることを考えようとしない。頭を下げたくない人々です。

イエス様との会話を通して、ニコデモは七つの発見をしました。そのことについて、少し考えたいと思います。

第一の発見とは何だったでしょう。すなわち、イエス様が求める魂には、出会ってくださる備えを持っておられるということです。イエス様は、拒もうとしない。受け入れてくださる、耳を貸してくださる、もちろん、助けてくださるお方です。

イエス様は、個人に対する神の配慮を知ることができました。ニコデモは、次のことばでイエス様に語ったのですね。

ヨハネ
3:2 ・・・・先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。

ここで、ニコデモは三つのことについて語っていますね。すなわち、第一番目、イエス様は、主なる神のもとから来られたお方です。二番目、主なる神が、イエス様と共におられるということ。そして、第三に、主はおできになるということです。

ニコデモの心の奥底にあった問題は、「私は、いかにして永遠なる神の国に入ることができるのでしょうか」という問題でした。けれども、ニコデモがこの問いをことばで質問する前に、イエス様はその答えを彼に与えてくださった。真理を求め、救われたいと思う者には、イエス様は必ず答えてくださるということを知ることができます。というのは、イエス様は、昨日も今日もいつまでも変わらないお方であるからです。私たちも、主の招きのことばが当てはまります。

ヨハネ
7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

マタイ
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

『宗教家になれ』ではない。『聖書を読んで勉強せよ』ではない。『しっかりしなさい、立派になれ』ではない。ただ、ありのままでおいで。わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

詩篇
107:9 まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。

真理に飢え乾いている者は、イエス様がこの心の飢え渇きを満たしてくださることがおできになることを、経験するようになります。ニコデモは求めた。求めると与えられると、彼は経験しました。結局、彼は真理の探究者でした。彼の飢え乾いた魂は、聖書の知識によっては満たされませんでした。

というのは、彼は広く認められた立派な聖書学者でした。豊富な聖書知識を持っていたにもかかわらず、その聖書知識によっても、真(まこと)の救いを、彼はまだ、知っていなかったのです。聖書の戒めを守ることによっても、真の満たしは与えられませんでした。彼が必要としたものは、いのちの水であり、心の安らぎでした。永遠の救いを本当に得たいと思うならば、先入観を捨て、自分自身に頼ることを止め、生ける救いの神を求めるべきです。

旧約聖書の福音書であるイザヤ書の中に、次のような言葉があります。

イザヤ
55:6 主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。
55:7 悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。

すばらしい約束ではないでしょうか。ニコデモは、イエス様のご臨在において、すべての自分の努力、あらゆる宗教性、自分の正義というものが、永遠なる主の前に全く無価値なものであることを知りました。

彼は経験しました。主は、イエス様は、求める魂を迎えてくださるのです。イエス様は、あらゆる人のために、時間を作ってくださいます。イエス様は、苦しみや悩みをご存知であられ、解決することがおできになる。これこそがニコデモの経験した、最初の発見でした。

第二の大発見は、イエス様は、偉大な教師以上のお方であるということを知ったことでした。すでに、ニコデモがイエス様と出会う前に、教えと行ないにおいて比類のないお方であると確信しました。それだから、ニコデモが掃き出した結論は、イエス様が神から来られたお方であるということ、そして、主なる神ご自身がイエス様と共におられるということでした。

しかし、ニコデモがイエス様に出合ったとき、イエス様はそれ以上のお方であることが、いっぺんに解かりました。もちろん、イエス様はあらゆる時代の最大の教師です。誰もイエス様のように、そのような言葉を語った者はいませんでした。イエス様は、人間のあらゆる教えをはるかに超えています。そのことは当時、一般に認められていました。疑う人はいなかったでしょう。有名な山上の垂訓の最後のことばを読むと解かります。

マタイ
7:28 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。
7:29 というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。

けれども、イエス様は教師であるよりも、まず第一に、救い主です。というのは、私たちは、私たちに教えてくれる誰かを必要としているのではなく、我々を救ってくださるお方を必要としているからです。最大の聖書知識でさえも、我々を救ってくれません。救いは人間の心の中で、主なる神だけが成してくださる行ないであるから。つまり救いは、罪の問題の解決です。御使いはイエス様のご降誕の前に、なぜイエス様が来てくださるのかを発表しました。

マタイ
1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。

イエスという名前は、罪からの救い主です。

ニコデモの第三の大発見は何であったかと言いますと、すなわち、肉によって生まれた者は、肉であるということでした。肉は、いつまでも肉に留まります。すなわち、私たちは、我々の生まれつきの性質を変えることはできません。我々の生まれつきの性質は、罪を犯すことしかできない罪の性質です。

よく言われることわざは、果たして本当でしょうか。すなわち、失敗は成功のもと。昔よく歌われた歌は、本当なのではないでしょうか。すなわち、「わかっちゃいるけれど、やめられない。」ダビデは三千年前に、そのことを経験しました。

詩篇
51:5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。

ある人は、罪を犯すから人間は罪人ですと言います。聖書は逆のことを言っている。人間は、罪人だから罪を犯すのです。

イザヤ
64:6 私たちはみな(・・・・例外なく・・・・)、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。

人間の生まれつきの性質、すなわち、肉は、非常に礼儀正しく、敬虔で、外から見ると良いように見えるかもしれないけれど、主なる神の目には、とても受け入れられないほど、罪に汚れています。私たちは、まだ、肉の中にいるのでしょうか、あるいは、主なる神の霊によって、新生を経験したのでしょうか。

ニコデモの第四の発見とは、何であったかと言いますと、まことの救いは、宗教とは何の関係もないということ、したがって、単なる頭の知識とも関係ないということでした。すべての人間の行ないは、救われることにとって、妨げとなるだけです。イエス様は、そのことをはっきりと仰いましたね。

ヨハネ
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。」

救われたいと思う人は、新生を経験しなければなりません。ここで大切なことは、外側の変化ではなく、全く新たなる創造です。パウロは、コリントへの第二の手紙の中で、この事実について、次のように書いたのです。

第二コリント
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

新生は、ただ単に決断ではありません。今から集会に行きます。私は聖書を読む。私は祈ることもする。このことはすべて、外側のことです。主なる神の救いは、新生から始まります。

人はどうしようもない者として、イエス様の御許に来て、イエス様を自分の救い主として受け入れることによって、全く新しいいのちを持つようになります。イエス様を持つ者は、永遠のいのちを持ちます。永遠のいのちを持つことこそ、要求されている新生であります。

ニコデモの第五の大発見は、この新生が絶対に必要であるということでした。もう一回、三章三節において、イエス様は、「あなたが新しく生まれなければ、何をやっても無駄で空しい、役に立たない」ということばを使っています。七節において、イエス様は、はっきりと、「あなたがたは新しく生まれなければならない」ということばを用いておられます。

救われたいと思う者は、新しく生まれなければなりません。天国に行きたいと思う者は、新しく生まれなければなりません。ですから、私たちが、本当に新しく生まれ変わっているかどうかということは、もっとも大切な問題です。新生なしには、人間は永遠の滅びに定められています。新生なしには、まことの喜びも平安もありません。新生なしには、生き生きとした望みも存在しないのです。

ニコデモの経験した第六番目の発見は、新しく生まれ変わるのに、誰も歳とりすぎていることはないということでした。

ヨハネ
3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」

イエス様は、彼にはっきりとした答えを与えました。「ニコデモよ、あなたも新しく生まれることができるのです。もちろん、これは自然の事柄ではなく、超自然の事柄であり、霊的な覚醒を意味している。今まで霊的に死んでいたあなたも、新しく生まれることができます。あなたは生ける神と結びつくことができ、あなたの債務が帳消しにされ、あなたが本当の救いの確信を得ることを経験できます。」イエス様を信じ、受け入れた者は救われ、父なる神の子となるのです。

ヨハネ
1:12 この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

ニコデモの第七の発見は何であったかと言いますと、新しく生まれるためには、ただひとつの道だけが存在するということでした。富士山の頂上に至るための道はたくさんあります。けれど、救われるためには、ただひとつの道しかない。ですから、前に読んでもらいましたヨハネ伝の箇所は、非常に大切です。

ヨハネ 
3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。

5:24 ・・・・わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

イエス様と主の御言葉を信じる者は、永遠のいのちを持っています。永遠のいのちを持つ者は、もはや裁きにあうことはありません。というのは、身代わりとなって裁かれたお方ご自身が、今や我々のためにとりなしてくださり、弁護してくださるからです。イエス様を持つ者は、死からいのちへ移されています。救われた人々はみんな、ニコデモが発見したと同じ七つの大発見をした者です。彼らは次のように告白しています。

第一番目、イエス様は、私を迎え入れてくださり、私が求める前に、イエス様は私を探し出してくださった。イエス様は、ただ単に私の苦悩を理解してくださっただけではなく、私の罪の問題を解決し、すべての悩みを解決してくださいました。

二番目、イエス様は、偉大なる教師以上のお方であり、私の救い主、私の贖い主です。イエス様は、私の罪と債務を赦してくださいました。イエス様は、私にまことの安らぎを与えてくださった。

三番目、肉は肉でとどまり、決して良くなることはないというイエス様の言明は、共通して経験したのです。自分の努力は、どんなものであっても、まことの救いの喜びを得るためには、助けとならなかった。

四番目、イエス様は、別の宗教をお与えになりません。新生を通して、私たちは永遠のいのちをいただきましたと信じる者は、証しすることができます。

五番目、イエス様は、新生を通して、私に新しいいのちを与えてくださっただけではなく、まことの喜び、深い平安、生ける望みをも与えてくださいました。新生なしには、私はおしまいだったでしょう。

第六番目、私は救われましたので、私でさえ贖われましたので、この可能性は、どなたに対してもあり得ることです。イエス様の恵みは、誰に対しても充分であり、イエス様は、すべての人を憐れもうと望んでおられます。

そして、七番目、永遠のいのちに至る唯一の道は、イエス様です。イエス様を知ることは、本当の意味で生きがいのある人生を知る土台です。というのは、イエス様は完全な満足を与えてくださるからです。これこそ、救われた兄弟姉妹の証しです。

この大いなる主が、すべての兄弟姉妹の生活を通して、褒め称えられ、崇められるように。

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