2013年1月22日火曜日

ベタニヤへ行こう

ベタニヤへ行こう
2013年1月22日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
11:2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。

11:21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。


11:35 イエスは涙を流された。
11:36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」

11:43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

12:1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
12:2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
12:3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。

12:9 大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。
12:10 祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。
12:11 それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。

この今、読んできてくださった箇所は、非常に有名な箇所です。イエス様とはどういうお方であるかと考えるとき、この十一章は非常に適切なのではないかと思います。

イエス様は、よろこんでエルサレム、また、宮の中には、居なかったようです。できたら、ベタニヤへ行きたいと望まれたのです。エルサレムで結局、自分の信じているものは正しい、自分と主なる神との関係は間違いないと、思う人々が非常に多かったんです。結局、イエス様の救いだって、別に必要ない。

けれども、ベタニヤとは、エルサレムから、そんなに遠く離れている町ではないんですけども、イエス様は、よろこんでベタニヤまで行きました。どうしてであるかと言いますと、やはり、ベタニヤの人々は、聞く耳を持っていたんです。「イエス様、話して、聞かせて」と、そういう気持ちでいっぱいだったからです。イエス様の好んでいた場所とは、エルサレムよりもベタニヤでした。

ルカ
24:50 それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。
24:51 そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。
24:52 彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、
24:53 いつも宮にいて神をほめたたえていた。

五十節の、「イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行かれた」というみことばをテーマにして、少し一緒に考えてみたいと思います。

イエス様が弟子たちをベタニヤの近くに導かれたことは、復活なさったイエス様のいちばん最後になされたことでした。自分でよく考えたことというよりも、父なる神に祈ったに違いない。『どこまで行ったらいいの。どうしたらいいの。教えて。』結果は、ベタニヤへ導かれたのです。イエス様が弟子たちをベタニヤへ導き、「さあ、ベタニヤに来た。この地を末永く、記憶に留めなさい。このベタニヤをいつまでも忘れないでいなさい」と言いながら、弟子たちを祝福されました。

ベタニヤは、どんな意味を持っている地なのでしょうか。ベタニヤには、ご存知のようにおのおの違った特徴を持った三人の兄弟姉妹、マルタ、マリヤ、ラザロが住んでいたところでした。イエス様は、いつも好んでこのベタニヤに来られて、三人の兄弟をお訪ねになりました。イエス様は、このベタニヤに住む三人の兄弟を訪ね、そこでお休みになり、また、食事をとったりされました。いつも楽しみにして、ベタニヤを訪れたイエス様でした。イエス様は、どうしてそんなにベタニヤを愛されたのでしょうか。私たちも、その理由を個人的に、また、共々に知りたいものなのではないでしょうか。イエス様がベタニヤを愛された理由は、三つでしょう。

第一番目、主に対する愛です。三人兄弟の一人の姉妹のマリヤは、生涯を通して、イエス様を愛しぬきました。イエス様は、彼女にとってすべてでした。二番目、主に対する奉仕です。もう一人の姉妹、マルタは、イエス様に心から奉仕した人でした。三番目、イエス様のよみがえりの力です。一人の兄弟ラザロは、ベタニヤのその家で、死よりよみがえらせられました。

この兄弟姉妹、三人をもう少し見てみたいと思います。

第一番目、マリヤですね。生涯を通して、彼女はイエス様を愛したのです。このベタニヤの家の雰囲気は、ただ一言で言いあらわすことができます。それは、愛です。三人兄弟の周りに住む人々も、この小さな家族を、主イエス様がどんなに愛しておられたかよく解かるほど、三人を愛しておられました。

マリヤは、イエス様が自分たちを全く欠けたところなく愛しておられることを知っていましたので、イエス様を少しも裏切ることなく愛したのです。聖書を見ると書いてありますとおり、このマリヤは、非常に値の高いナルドの匂い油を、イエス様の御頭(みかしら)に惜しげもなく、ふり注ぎました。ためらうことなく、余すところなく、匂い油をイエス様にふり注ぐことによって、実に高い、また、清い、主に対する愛を示したのです。

「ナルドの匂い油の匂いが家全体に満ちた」と、聖書は言っていますが、それと同じように愛の雰囲気が、三人兄弟の家を包んでいました。ベタニヤは、イエス様に対する愛が満ちあふれていたところです。そして、イエス様が、それを満足されたところです。イエス様に対する、このようなマリヤの愛は、イエス様が、何にも増して求めておられるところのものです。

イエス様は、私たちが心からすべてを捧げて、主を愛しているかどうかを見ておられます。私たちはどうでしょう?イエス様だけを見て、イエス様だけを愛しているのでしょうか。または、この世のものも目に入り、イエス様にすべてを捧げることをしないでいるのでしょうか。イエス様が、「汝、我を愛するか」と、お尋ねになったとしたら、私たちは、すぐ、「はい、あなたを愛しています」と答えることができるのでしょうか。

ベタニヤの三人は、イエス様を分裂のない、真実な愛をもって愛しました。だから、イエス様は今、天に行く前に弟子たちを、このベタニヤに導いたのです。イエス様は、今日もベタニヤを求めておられます。私たちの心は、主を愛するベタニヤとなっているのでしょうか。

我々の心の内には、深い、まったく分かたれざる、清いイエス様に対する愛があるのでしょうか。私たちの内には、主に対する初めの愛があるのでしょうか。あのベタニアの家を満たした愛が、心の内に漂っているのでしょうか。

主に対する愛だけではなく、第二番目、イエス様に忠実に仕えたマルタについて、ちょっと考えたいと思います。

私たちは、この主に対する愛に満ちた家の中で、同時に、主に対してなされた、忠実な奉仕を見ることができます。マルタは、イエス様のために、食事を準備しました。私たちも、マルタと同じように主に対して奉仕する者でしょうか。献身をし、できるだけ多くの奉仕をすることが問題なのではありません。

私たちが、イエス様ご自身に対して奉仕をしているかどうかが問題です。マルタが、イエス様のために食事を用意した時、マルタは何を考えていたのでしょうか。これを作ったらイエス様はおよろこびになるでしょうか。こうやったらイエス様は満足されるのでしょうか。それだけを考えていたに違いない。私たちは、イエス様の御前(みまえ)に出るときに、イエス様は我々の奉仕を心から喜び、満足しているのでしょうか。そうなったら、私たちは、はじめて主の喜びたもうベタニヤとなることができます。

主の憩いの場所となることができるのです。私たちがこの二人の姉妹を見ると、イエス様に対する真の愛と、真の奉仕という主の御心にかなった二つの大切な事柄を見ることができるのではないかと思います。

けれども、この二つのこと、主に対する愛、イエス様に対する奉仕が、最後ではありません。我々の主イエス様は、もっと大いなることを望んでおられる方です。ところで、何といっても、やはり、まず第一に、この愛と奉仕がなければ、主は、私たちをもっと先へ導くことができません。

もう一つのことについて、ちょっと考えたいと思います。すなわち、主イエス様のよみがえりの力こそ、我々も経験しなければなりません。イエス様は、何を願っておられるのでしょうか。イエス様は、今、死の暗やみを通り、その後、主のみことばによって、よみがえらされたラザロと食事を共にすること、交わりをもちたく願っておられることです。

聖書を読み、イエス様のために働いた人たちを見ると、また、いわゆる教会の歴史を見て、主に用いられた人々を見ると、それらの人々は主に対して、二つに分かれていない愛を持ち、また、忠実な奉仕をした結果、死ぬような苦しいところを通され、後によみがえりの力を持っていたことがわかります。

先ほどの二人の姉妹の弟、ラザロを、ちょっと見てみたいと思います。

彼はイエス様に愛されましたと、はっきり書かれています。ラザロについて書かれているヨハネ伝、十一章、いちばん初めは、「一人の病人がいた。それはラザロである。」という文章で始まっています。どうしてイエス様は、ラザロが病気になることをお許しになったのでしょうか。ラザロは、心からイエス様を愛し、また、イエス様は心からラザロを愛しておられましたのに、なぜ、ラザロは病気になったのでしょうか。

その時のラザロを想像してみましょう。ラザロは病(やまい)の床に倒れました。したがって、だんだん衰弱してきます。けど、イエス様は来られません。頼まれたのに。「もし、イエス様がここにおられたら・・・・。そうしたら何の問題もないのに。」本当にもしイエス様がおられるなら、問題はないのでしょうか。もちろん、ラザロにとっては、主がおられれば、何の問題もありません。病もすぐ治ったでしょう。しかし、それは、イエス様の御心ではなかったのです。ですから、イエス様は、すぐにラザロのもとに来ませんでした。心の中では、三人の兄弟姉妹をあわれみ、泣いておられましたのに。

イエス様は、一刻も早くラザロを助けたかったのですけど、父なる神の御心は違うところでした。ですから、すぐにはラザロのもとに、おいでになりませんでした。ラザロが、イエス様のよみがえりの力を経験するには、まず、死を通らなければならなかったからです。

我々の信仰生活におきましても、イエス様は、同じような導き方をされるのではないでしょうか。恐ろしい、自分を愛する愛と、イエス様を愛する愛とは、共にあることはできません。また、自分の名前を人に知ってもらおうというような気持ちと、イエス様に対する真(まこと)の奉仕は、両立しません。

己の考えと計画も、これらと一緒に、死に渡されなければ、よみがえりの力を自分のものにすることができないのです。我々の信仰生活には、いろいろ、思いがけないことが起こります。そうすると一体、どうしてだろう、なぜでしょうと考えます。しかし、それも乗り越え、見えないところを信仰によって希望を抱く、前進しますが、その結果は思いがけない悲劇に終わることもあるのです。すべてを主に委ねて進んでも、何の変化も起きてこないことが大いにあります。

信仰によって歩み、絶望し、その絶望の中から小さな光を見つけ、それに取りすがり、何とかして、浮かび上がろうとしますが、打ちのめされて、全く絶望してしまいます。自分は、もうダメだ。自分の前には、死が待っている、墓が待っているだけだとさえ、思うこともあるでしょう。そこにまで、主が我々をお導きくださるとき、そうなって初めて、絶望したとき、初めて、イエス様は我々をしっかりと握ってくださいます。

それは、いったい、どういうわけでしょうか。それは、イエス様は、我々を通してよみがえりの力を現したいからです。これは、理論でも説教でも、また、特別な教えでもなく、主の御心(みこころ)です。私たちの生活は、イエス様の証しのためでなければいけません。よみがえりの力の証しでなければいけません。

しかし、私たちは、『主の御心は、死ではなく、いのちである。しかし、このいのちは死を通して初めてやって来る』というところに目を留めなければなりません。前に読んでもらいましたヨハネ伝の十二章二節に、「主イエスといっしょに食卓についていた者のうちに、ラザロも加わっていた」とあります。

結論として、このベタニヤの証しの力を考えてみましょうか。聖書は、よみがえらされたラザロが、何かをしゃべった、証ししたとは書いてないのです。このラザロは、別段、説教者ではなかったのです。けど、このヨハネ伝、十二章の九節から十一節には、驚くべきラザロの証しが書かれています。ラザロは、口で証しをしなかったようです。よみがえらされた生きたいのちで証ししました。よみがえりの力で生活するとは、いったいどういうことでしょうか。「主よ、あなたが召してくださったご奉仕に力がありません。私は何一つ、できません。この奉仕をするのは、あなたでなければダメ。私を導き、力を与えてください」という、全く自分の無力を認めた生活がそれなのです。

すなわち、生まれながらの力、人間の知恵で送る生活ではなく、全く主に拠り頼む生活こそ、よみがえりの力による生活への道であります。多くの人々が、ラザロの証しを通して救われ、信者になったと書いてあります。しかし、それで終わりではありませんでした。ラザロが証ししたとき、悪魔も、当時の宗教家たちを通して、ラザロを殺そうと攻撃してきました。悪魔にとって、よみがえりの力より、嫌なものはありません。私たちは、ラザロと同じように、主と共なる交わりを持っているのでしょうか。

主と共なる交わりを得るには、苦しみも経験しなければいけないでしょう。第一に、死を通らなければなりません。誤解もあり、迫害もあるかもしれません。それでも、私たちは、もっと楽な道を選びたいのでしょうか。私たちは今、末の世に生きています。イエス様はまもなく、お出でになります。どこへ行っても、そこには暗黒と混乱があります。

しかし、もし、私たちがいつも、愛する主の御心が何であるかをよく知っているなら、大きな喜びをもって、信仰生活を前へ進めることができます。今、大切なことは、いわゆる真理や教えが大切なのではなく、主イエス様ご自身が、また、主の御心が大切であります。

今、イエス様は弟子たちをベタニヤへ導かれました。そこは、主に対する分かたれざる愛が満ちているところであり、主に対する忠実な奉仕がなされたところであり、イエス様のよみがえりの力が現されたところでもありました。そして、主は、間違いなく今日(こんにち)も、ベタニヤを探し求めておられます。

私たちは、深い、清い、分裂のない愛を持ってイエス様を愛し、また、主の御心にかなうようにと、心を用いて、主に奉仕し、暗黒と死と墓を通り過ぎ、よみがえりの力を経験した者として、その力を証しする者となりたいものなのではないでしょうか。

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