2013年1月8日火曜日

用意ができたか

用意ができたか
2013年1月8日、火曜学び会
ゴットホルド・ベック

マタイ
25:1 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
25:2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
25:3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
25:4 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
25:5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
25:6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
25:7 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
25:8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
25:9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
25:10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
25:11 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
25:12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。
25:13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

今日のテーマは、「用意ができているの」、あるいは、「愚かか、賢いかのどちらですか」、あるいは、「備えあれば憂いなし」と付けることができるのではないかと思います。

我々にとって、もっとも大切なのは、主の再臨を待ち望むことなのではないでしょうか。間違いなく、私たちは今、いわゆる世界の歴史の夜の時に生きている者です。そして、真っ暗な夜の時に向かって歩く者です。毎日、ラジオや新聞、テレビで世界の動きを見ると、世界は、ますます深く、主なる神を無視するようになり、主の言葉に対して、無関心となり、そして、真っ暗な雲のような暗やみの力の中に沈んでゆく様子が、よく解かるのではないでしょうか。

次の大きな出来事は、言うまでもなく、イエス様の再臨、イエス様の日、すなわち、イエス様が雲に乗って、再びおいでになることです。そして、信じる人々を、ご自身のもとに引き寄せることです。空で、彼らにお会いになるその日の出来事です。

聖書は、この将来の偉大なる出来事について、何と言っているのでしょうか。よく知られている箇所ですけども、もう一回、読みましょう。

第一テサロニケ
4:13 眠った人々(・・・・先に死んだ人々・・・)のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。

この箇所に、三つの事実が明らかにされているのではないでしょうか。第一番目、イエス様ご自身が、天から再びおいでになるということです。二番目、イエス様にあって死んだ人々の体がよみがえるということです。三番目、それから生き残っている、主の恵みによって救われた人々が変えられます。よみがえった、主のものになった人々と共に、雲の中で主に会うということです。

イエス様は、おいでになります。私たちも準備をしなければなりません。もし準備がなければ、後で後悔します。将来に備えるために、私たちは、将来のことを知らなければなりません。

イエス様の再臨の日は、大きな啓示の日です。すなわち、第一番目、イエス様が、信じる者の前に姿を現されるのであり、第二番目、イエス様に属する者が、イエス様の前に姿を現す日でもあります。私たちは、イエス様の真の姿を見得るのです。それは、想像できないほど、考えられないすばらしい瞬間です。イエス様の真の姿を見るということは、考えられない栄光であります。目に見えない方は、その覆いを脱ぎ捨て、イエス様は我々の目の前に、深い愛と聖さに包まれて、また、この上もなく力強い神聖さと栄光に包まれて立つのです。

マタイ伝の中で、三人が、ちょっとだけ主の栄光を見たと書いてあります。

マタイ
17:1 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。
17:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。

この山の上におけるイエス様の変容は、来るべき日に私たちが見るであろうところのものの、単なる予感にすぎません。

使徒行伝
1:11 ・・・・「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

イエス様はこう言われたのです。イエス様が、再び来られます。この日は、イエス様が昇天された日と全く同様に確かであり、事実であり、歴史的な真実です。イエス様はあの時、信者たちの目の前で消えたと同じように現れます。しかし、再臨の日は、信者たちの前にイエス様が姿を現す日だけではない。イエス様の前に、信じる者が現れる日でもあります。その日には、本当に信じていた者、すなわち、イエス様との有機的な結びつきを持っていた者が明らかにされます。ただ口で、「主よ。主よ。」と言っているのか、それとも、本当にイエス様によって、恵みを得、永遠のいのちを持つようになったかが明らかになります。次の二箇所を見ると解かります。

マタイ
25:22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
25:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

褒めことばですね。逆のことばが、七章に書かれているのです。新約聖書の中の最も厳しいことばのひとつではないかと思います。

マタイ
7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
7:22 その日には、大ぜいの者が(・・・・『ある者が』と書いてあれば、まだいいんですけど、『大ぜいの者が』と書いてあります・・・・)わたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

このような言葉を聞くようになる者は、悲劇そのものです。

マタイ伝25章に出て来る五人の愚かな乙女と、五人の思慮深い乙女の二つに分けられる、この大きな決定が行なわれるのです。この愚かな乙女たちはランプ――形式、外部の入れ物――を持っていますが、彼女たちは油と中身と真のいのちを持っていませんでした。すなわち、彼女たちは、みことばを聞き、祈り、聖書を読みますが、形だけだったんです。しかし、思慮深い乙女たちは、油、すなわち、聖霊と真のいのちそのものを、形も含めて持っていました。その日は、愚かな者たちと思慮深い者たちを分かち、その一方は、「わたしは、お前たちを知らない」と言われ、もう一方は、「お入りなさい」と言われるのです。

イエス様のからだの肢体である者が、確実に明らかになります。

エペソ
5:30 私たちはキリストのからだの部分だからです。

イエス様は、信者たちを呼び、そして、彼らは、主イエス様の方に向かって急ぎます。すなわち、墓場から、海から、または、信じる者の体のある所、どこからも、信じる者のからだは、この偉大な第一の復活の日を、ともに祝うためによみがえるようになります。また、その日に、この地上に永遠のいのちを持っている救われた者たちは、特別な特権を持つようになるのです。すなわち、彼らは、死を見ないで、墓を知らないのです。すなわち、彼らは、一瞬にして変えられ、一瞬にしてよみがえりのからだを得るのです。

すべての本当の救われた人々のために、その救われた者たちが、その日に死んだにしろ、生きる者に数えられるにしろ、この日は死に対する勝利です。救われた人々は、新しいからだを持ってイエス様に会うようになります。このからだとは、イエス様がよみがえりの日に、身につけたのと全く同じ、よみがえりのからだです。

コリント第一の手紙の15章は、いわゆるよみがえりの書と呼ばれているところです。

第一コリント
15:23 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。

15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく(・・・・死んでしまうのではなく・・・・)、みな変えられるのです。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

その日には、また、多くのことが起こります。『私たちがキリストにあって』ということが明らかになります。すべてキリストにおける新しく造られた者は、一瞬にして完全にされます。すなわち、ヨハネ第一の手紙の3章2節のことばが実現されます。

第一ヨハネ
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

なお私たちの身についているすべての汚いものは、清め落ち、私たちの内にある主イエス様は、すばらしく形のうちに姿を現すのです。その時、次のことばが全く完成されます。すなわち、「古いものは去って、見よ、すべてが新しくなった。」

ちょうど、その実例として言えますけど、いわゆるチョウチョがさなぎを脱ぎ捨て、翼を広げると同様に、古きものは私たちの中から取り去られ、そこにはただ新しいものがあります。この瞬間に、すなわち、この世で最も大きな悩みであった我々の内にある罪が、もはやなくなる時、そして、罪のもと、すなわち、我々の生活のもっとも深い悩みであるその元がなくなる時、すべてが新しくなり変わり、我々の願いは、完全に満たされるのです。

しかし、その偉大な日には、我々の全生活も、また、イエス様の光の前に現れるのです。心の中にイエス様の姿を宿している、救われた一人ひとりは、イエス様の恵みの座の前に立つようになります。パウロは、このことについて、コリント第二の手紙の中で、次のように書き記したのであります。

第二コリント
5:10 なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

聖書には、二つの裁きがありますが、これは、栄光か、または、破滅かを決定する裁きではありません。その日、この世における一人ひとりの救われた者の生活、働きが、主の火によって、試されるということです。すなわち、信じる者の行なった結果によって、イエス様は救われた人々に、報酬、褒章、王冠を分け与えるのです。パウロは、それを非常に解かりやすく、コリント第一の手紙の中で、次のことばで述べたのであります。

第一コリント
3:11 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
3:12 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、
3:13 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
3:14 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
3:15 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

その火が、私たちの生活を明らかにします。すなわち聖い火が、金、銀、宝石、木、草、わら、すなわちイエス様から出たものか、または、自分から出たものかを明らかにします。失われたいのちは、何と悔やまれることか!それは取り戻すことも、取り代えることもできません。永遠の実を結んだいのちは、これは大きな喜びであり勝利です。もし、その時、イエス様が、私たちに次のように言うことができれば本当に幸いです。

マタイ
25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

世の中の人々の目に大きく映り、そして、多分、信じる者たちの前にも大きく見られる多くの人々は、彼らの生活が、木や枯れ草やわらのように、火の中に消えるのを見るでしょう。それとは反対に、人々から忘れられ、隠れた生活をした人々、そして、信じる者どおしに語られなかった多くの人々は、金を与えられるでしょう。

我々の生活に何が残るのでしょうか。私たちが本当にイエス様から出て、イエス様のために生活したか、それとも、自分から自分のために生活したか。どちらでしょうか。この火が、それを明らかにするのです。その日は、真の救われた人々にとって、すばらしい日でしょう。聖書は、そのすばらしさを表現するために、ただ一つのことばで、表現しています。すなわち、『栄光』ということばです。パウロは、コリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。

第一コリント
2:9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

また、ローマ書の8章にも、パウロは書いたのです。

ローマ
8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

今の時の我々の悩みは、いかに重く、深いことでしょう。しかし、この栄光は、それに比べると、限りなく大きいものであり、この世の苦しみは、将来の栄光に比べると、取るに足らないことです。また、ローマ書の中で、パウロは、当時の信じる者を力づけるためでしょう、励ますために書いたのです。

ローマ
13:11 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。
13:12 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。
13:13 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。
13:14 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

イエス様の再臨の日のカーテンの後ろに、私たちの信仰の表れがあります。イエス様は、私たちに見えるようになるのです。私たちは、イエス様はすべてのすべてであるという目標を持っています。イエス様のこの再臨の日は、我々の生活におけるもっとも大きな大切な日です。ですから、我々の生活にとって、この日が力強い原動力となるべきなのではないでしょうか。

イエス様の再臨は、我々に道を示してくれます。この目標の偉大さが、道をまっすぐに、はっきりと示すのに役立っています。イエス様の啓示の日を、目の前に見ている者は、その再臨の日に生きられるような生活をするはずです。

私たちがある認識を信仰の中に、はっきりと自分のものとすれば、その認識は、我々の生活に意味を持ち、役に立ちます。すなわち、イエス様の将来、私たちがイエス様と会う日が、信仰によって自分のものとならなければなりません。再臨の日が、自分にとって、事実とならなければなりません。そして、この事実が、我々の日ごとの生活に役割を演ずるのです。もしも、イエス様と会うことに向かって急ぎたいならば、私たちは、もちろん、イエス様のものとならなければならない。なぜならば、イエス様に属する者だけがその日、みそばでイエス様に会うのであるからです。

パウロは、ローマ書の中で、強いことばを書いたのです。

ローマ
8:9 キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

「我々に与えられた聖霊。」大切なのはそれです。

同じ事実について、パウロは、コリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。

第一コリント
12:13 一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。

イエス様の再臨は、イエス様の死と、イエス様の復活と、五旬節と、実に密接な繋がりがあります。私たちは、すべての救いのための事実を自分のものとするならば、私たちは再臨の日に、燃えることない金や銀となって、耐えとおすことができます。

イエス様の十字架において、イエス様とともに変えられた者が、イエス様に属するのです。私たちはイエス様に、我々自身、および、我々の持っているものすべて、すなわち、我々の罪、悩み、病、困難など、すべてを捧げるのです。すると、イエス様は、それらすべてを受け取り、我々の罪の結果を担ってくださるのです。すなわち、その表れは、十字架の死です。

けども、私たちがイエス様を、主のいのちを、そして、イエス様が持っておられるすべてのものを、すなわち、罪の赦し、イエス様の義、また、主のいのちを受け取るのです。いのちのやり取り、それは、完全にお互いに値することです。イエス様は、我々の罪の罰を十字架で担い、そして、イエス様のよみがえりのゆえに、イエス様のいのちは、我々の内によみがえっているのです。

これが、信じる者のいちばん初めの経験です。すなわち、イエス様が我々の救い主となり、私たちがイエス様のからだの肢体となることです。

イエス様は、信じる者すべてに与える聖霊によって、我々の内に生きておられるのです。私たちは、この最初の経験を体験的に知っているのでしょうか。イエス様の再臨の日を考える時、もっとも大切な、そして、個人的な質問がそこにあります。すなわち、「私は本当に生まれ変わっているのだろうか。私は、イエス様を私自身の救い主として、経験しているのでしょうか。」このことを知ることができるのでしょうか。もちろん、そうです。

イエス様は、五旬節の時に、弟子たちに与えられた力、また、装備を我々にも与えたいのです。使徒行伝2章をみると、書かれています。「一同は聖霊に満たされた」と、書かれているような聖霊の力を、我々に与えたく思っておられるのです。この装備なしに、私たちは、再臨の日に、主の前に耐えることができるような生活をすることができません。聖霊の力なしには、誰でも聖霊による生活をすることができません。すなわち、イエス様の光に耐えたいと思う者は、聖霊で満たされなければならない。

私たちが自分の生活に、聖霊が通行権をいかに充分、持っているか。また、私たちが聖霊に、聖霊が主であることを、どれだけ許しているかは、我々の意思の決定にかかっています。もし、私たちが聖霊に、我々のすべてを捧げるならば、聖霊はすべてを受け取り、そして、我々を完全に満たしてくださいます。もし、あなたが本当にイエス様のものであるならば、聖霊は、あなたの内に宿っているはずです。それは、私たちの内に住まれる聖霊の第一の働きの結果は、聖霊が我々をイエス様とのより深い交わりに導くということです。

聖霊は、我々を祈りに追いやります。聖霊は、我々に主の前にあって正しい道を差し示すのです。聖霊は、ただひとつの願い、すなわち、私たちがより良く、より深くイエス様を知るという要求を持っています。

聖霊に満たされている人は、いつも平安を好む人であり、そして、祈りの人です。聖霊は、信者を主の姿に立ち返らせるという大きな使命を成し遂げるために、主の前に過ごす時間が、何という必要なことでありましょうか。再び来られるイエス様に対する愛は、我々が過ごす時間の静かな時の中で、養われていかなければなりません。私たちが過ごす静かな祈りの時ばかりでなく、働いている時も、我々の実際生活の毎日が、イエス様の再臨の備えとしてあるのです。イエス様は、私たちのいのちであります。このいのちは、私たちとの、私たちの非常に多忙な働きの日の合言葉であり、毎日の光と力であるべきなのではないでしょうか。

イエス様の再臨に対する、生き生きとした希望から清くなるという力も湧き出てきます。実際生活において、罪に仕えている者が、イエス様の再臨を待っているなどということはあり得ないことです。

第一ヨハネ
3:3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

コロサイ
3:3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
3:4 私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。

3:1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
3:2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。

イエス様の再臨に対する希望から、力強い力が湧き出てきます。私たちがもし、今日、我々の主を待っているのであれば、私たちは罪の中に生活することはできません。もしも、主の炎のような眼(まなこ)が、我々に隠された罪でくもるならば、また私たちがイエス様の再臨の時に、私たちの罪の驚きに心打たれるならば、それは非常に恐ろしいことではないでしょうか。

生き生きとした望みを心に抱いている者は、毎日、毎時間、主イエス様の血によって清められていくにちがいない。再臨の日が突然、不意に襲いかかって来ないように、そして、イエス様が清くない者としないために、この世の生活において、希望は絶対に必要なものです。

人が希望を持っている限り、その人は、ひどい困難にも耐えることができます。たとえば、生き埋めにされた鉱夫が、救われるという希望を持っていれば、超人間的に耐えとおすことができます。けどその希望が、彼らから消えてしまいますと、彼らは、すぐにダメになってしまいます。

我々の生活において、イエス様の再臨に対する希望が、あらゆる悩みに耐えるためのもっとも大きな力です。イエス様は近い。イエス様はすぐ来られます。この言葉は、初代教会において、口から口へ語り告げられ、そして、この言葉は、当時の証し人に、迫害の最中(さなか)において、絶えず力を与え、喜んで死の旅路につかせたのでした。彼らは、欺かれたのでしょうか。それとも、彼らは空しく待っていたのでしょうか。

イエス様が、「わたしは再び来る。しかし、その時と場合は、父が定めておられる」と語られたから、というのもこのことばは、生き生きとした信仰の本質をなすものであり、イエス様の再臨の事実が目の前に、生き生きと認められるのです。すなわち、多分、今日にも来られる。

ある信者が、この世に生きていて、主の再臨の日を、あたかも彼が、その日をこの肉体で体験するかどうかによって、生き生きと目の前に感じていない限り、その信者は、主イエス様の戒めに逆らっていこうとするのです。イエス様は、私たちが、その日は今日かもしれないという希望の光によって、毎日を捧げることを望んでおられるに違いない。

イエス様は来られます。その時は近い。ですから、何があっても、『今日かもしれない』と思うべきなのではないでしょうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿