2013年1月16日水曜日

主の現われを慕う大切さ

主の現われを慕う大切さ 
2013年1月16日、春日部家庭集会 
ゴットホルド・ベック兄

第二テモテ
4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。
4:9 あなたは、何とかして、早く私のところに来てください。
4:10 デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行ったからです。
4:11 ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。

今、読んできてくださった箇所の中で、『主の現われを慕っている者』とあります。主の現われを慕うものこそが、探し求めてられているのではないでしょうか?

パウロは、ここでデマスという兄弟の名前を使ったんです。このデマスという男は、おそらくテサロニケ出身だったでしょう。パウロは、短かったですけど、二、三週間だけ、テサロニケでイエス様を紹介しました。けど、結果は驚くべきものでした。多くの人々がその三週間に導かれ、救われ、テサロニケの兄弟姉妹は、模範的な主の喜ぶ教会になりました。

デマスも、パウロも、もちろん、イエス様との出会いによって新しく生まれ変わりました。イエス様の流された血によって、自分のわがまま、自分の過ちが赦されているだけではなく、イエス様がすべてを消し去ったのだ。主は自分の罪を二度と思い出せない、心にとめない――と、彼らは確信するようになりました。

しかし、イエス様は罪を赦したり、重荷から解放したりするだけのお方ではなく、イエス様は救われたひとりひとりを、ご自分の器として用いようと望んでおられます。ちっぽけな被造物である人間は、偉大なる創造主の同労者――共に働くものとなるべきです。

デマスも、そのように福音を宣べ伝えていた者のひとりでした。このような奉仕は、もちろん、犠牲なしにはありえない。自己否定こそが、このような奉仕の土台であり、また、源なのではないでしょうか?

デマスは、あるとき、もう耐えられない、我慢できないと思い、パウロから離れました。もっと楽な道を選んだんです。それは、パウロにとってどうでもいいことではなかった。大きな悩みであり、悲しみだったでしょう。そういう人々は、イエス様の十字架に敵対して歩いている人々であると、パウロは判断したのです。デマスも、十字架に敵対して歩くものになってしまったんです。もちろん、デマスは、イエス様を捨てたとは思わなかったし、イエス様に敵対しようとも思わなかったのです。彼は、イエス様を知り、イエス様を信じ、罪の赦しをいただいた者であり、ある時は、よろこんで福音を宣べ伝え、イエス様を紹介したパウロの同労者でした。

しかし彼は、十字架に逆らうようになった。彼は誤解されたくない、あなどられたくない、イエス様のために恥を負いたくないと思うようになりました。デマスは、十字架に逆らうようになりました。見えない世界よりも、見える世界を愛するようになりました。いつまでも続かないものに頼る者になったのです。悲劇的なのではないでしょうか?

主を愛し、主のために命がけで働く。そして、急に離れ、用いられなくなってしまっている人は、もちろん、今日もいるでしょう。理由の一つは、地上における名声でありましょう。イエス様から目を離し、自分の栄誉のために奉仕する人々は、知らないうちに、妬みや闘争心、また、党派心、あるいは、脅威からイエス様を宣べ伝えるようになります。イエス様は、認められたい、何とかして信用を得て、名声を獲得したいと思う人々を用いられません。

もう一つの妨げについて、パウロはテモテ第一の手紙の6章に、次のように書き記したのであります。

第一テモテ
6:8 衣食があれば、それで満足すべきです。
6:9 金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。

もちろん、聖書全体を見ても分かります。不満足は罪です。ここで書かれているように、衣食があれば、それで満足すべきです。イスラエルの民について、聖書は、次のように言っています。

民数記
11:1 さて、民はひどく不平を鳴らして主につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。

『主なる民がひどく不平を鳴らした』とありますね。その民は、多くの奇蹟的な御業を経験しました。多くの御業によって救われ、自由の身となり、奴隷の状態から解放され、それから、雲の柱、火の柱について行きました。奇蹟ばかり、経験しました。これらの救われた信者たちは不平を鳴らした。なぜか、彼らは不満だったのです。不平を鳴らすものは、主を見失います。不平を鳴らす者は、それによって意識的、あるいは、無意識的に主に文句を言います。はっきりとした態度を取るべきです。

パウロは、不満を避けなさいと書いたのです。また、自分の証しとして、次のように言うことができたのであります。

ピリピ
4:11 ・・・・私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

パウロは、どうしてここで『学ぶ』という言葉を使ったのでしょうか?なぜなら、人はそれを生まれつき持っていないからです。いろいろな辛いことを通して、このことを学ぶようになるのであるからです。パウロは、学ばなければならなかったのです。

パウロの同労者であるデマスは、救われていたのであり、しかし、彼は走り続けなかったんです。イエス様から目をそらしたから、疲れ果ててしまい、用いられなくなってしまったのです。

旧約聖書のもっとも偉大なる預言者の一人はエリシャでした。このエリシャに仕えていた男、ゲハジという男も同じように、この世を愛するようになったから、結果として、らい病にかかり、そして、用いられなくなってしまったんです。このゲハジは本当に恵まれたものでした。なぜならば、神の使徒であるエリシャといっしょにいたからです。それによって、主は生きておられる、主は何でもできるお方であり、奇蹟を行う方であるという事実を、自分の眼で見ることができ、体験することができました。

このゲハジは、ナアマン将軍に主のメッセージを伝えたのです。何を伝えたかと言いますと、『七回、ヨルダン川に身を沈めなさい。』最後的に、ナアマンはそのとおりにしたことによって、らい病が癒され、真の神の癒す力を経験し、生けるまことの神を信じただけではなく、礼拝するようになりました。結局、このゲハジっという男は用いられました。しかし、主が働いて祝福してくださると、必ず悪魔は、用いられた人をめっちゃくちゃにしようと攻撃します。ゲハジの場合、悪魔は成功しました。彼は自分の仕えていた主人である預言者エリシャと全く違う態度を取りました。

ナウマン将軍は癒された後で、感謝の気持ちでいっぱいでした。結局、感謝したかった。お礼をしたかった。けど、エリシャは、ナアマンの富を意識して拒んだんです。けっこうです。私ではなかった。主のなしたことだよ。しかし、彼に仕えていたゲハジという男が、それをどうしても欲しがりました。この目で見えない世界から目をそらし、この世の富を自分のものにしようと思ってしまったんです。聖書は次のように言ってます。

第二列王記
5:20 そのとき、神の人エリシャに仕える若い者ゲハジはこう考えた。「なんとしたことか。私の主人は、あのアラム人ナアマンが持って来た物を受け取ろうとはしなかった。主は生きておられる。私は彼のあとを追いかけて行き、必ず何かをもらって来よう。」

結果は、ひどいものでした。

5:27 「ナアマンのらい病は、いつまでもあなたとあなたの子孫とにまといつく。」彼は、エリシャの前から、らい病にかかって雪のように白くなって、出て来た。

聖書は、ゲハジが嘘をつき、それによって金持ちになったことを示しています。しかし、結果として、彼はらい病になりました。彼は、金銭を愛することが、あらゆる悪の根であるという御言葉を経験しなければならなかったんです。

主よりも富を愛する者は、信仰から外れてしまいます。その人はもはや、主と結びついていません。ゲハジという男は、今までのように、主の器であるエリシャとともに働くことができなくなってしまったのです。主は、ゲハジを用いられなくなってしまったんです。主の祝福なし、主の交わりを通して得られるよろこびなしに、過ごすようになったのです。『彼は出てきた』と書いてあげます。すなわち、『らい病にかかって雪のように白くなって出てきた』とあります。

デマス、また、ゲハジはいったい、どうして、ダメになり、用いられなくなってしまったのでしょうか?自分のことを思うようになったからです。パウロは、彼が生きていた時代の救われた人々に、次のように書かなければならなかったんです。

ピリピ
2:21 だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。

もちろん、これはいわゆる未信者についての言葉ではないよ。主に出会って救われた人々、主を紹介すべき人々に書かれた言葉です。

デマスもゲハジも、結局、自分のことを大切にするようになりました。いわゆる山上の垂訓の中で有名な言葉なんですけど、地に宝を蓄えるな。思い煩ってはならない。まず、神の国と神の義と求めなさい。そうすれば――そうしなければ、もうちょっとダメ――そうすれば、これらのことは、すべてみんな、すべて与えられるとあります。

主に頼ると、全てを主に任すと、私たちは、確かにある意味で不安定なものになります。パウロも、人々に語ったとき、弱く不安であったことを、聖書は教えています。パウロは危険にさらされ、不安を身に感じ、死ぬのではないかと思ったときもありました。よく知られている箇所ですけど、読みましょうか。パウロは自分の経験について、あまりたくさん書かなかったんですけども、このコリント第二の手紙の中で、正直にいろいろな辛い経験について書いたのです。この箇所も、その一つでしょうね。

第二コリント
1:8 兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、
1:9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。

そうなっては、いなかったようです。

1:10 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。

パウロはまた、『私たちは圧迫されている。私たちには、逃れ道がない。迫害され、地に倒されたもののようになっている』と告白しました。これは、安全とおよそかけ離れた状態ではないでしょうか?人間が、心に深くに願っていることは、安楽な生活を送りたい、この身をいたわっていきたいという願いです。イエス様は、これを全然、願わなかったのです。マタイ伝の20章の中で、イエス様は、自分に与えられている使命について、書いたのですね。

マタイ
20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。

イエス様は、この地上にひとつの持ち物も持っていなかったんです。この世に故郷を持っておられなかったのです。文字通り、ホームレスでした。イエス様は、辱められて黙り、誤解されて、自らを弁護せず、黙々として歩まれたお方です。イエス様について、詩篇22篇に書いてあります。『わたしは虫であって、人ではない。』

【参考】詩篇
22:6 しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。

人間は自らを弁護することができます。けど、虫はそのようなことはできません。蛇と虫の違いは、大きさと力が違うだけではない。蛇は、身の危険を感じると、鎌首をもたげて向かってきます。しかし、虫は何もしないというところに違いがあります。私たちは、我々の自我は、あたかも蛇に似ているのではないでしょうか。虫はどんなにされても、逆らうことをしません。ただ成すがままにされています。イエス様は、「わたしは、虫である」と思われました。イエス様は辱められ、殺されました。イエス様はもちろん、我々のために、虫となってくださいました。

この主イエス様は、「父がわたしを遣わしてくださったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われました。イエス様は、私たちの自我が打ち砕かれ、ヤコブが主と相撲をとって、自我が砕かれたように、私たちも、己に死んで、主に仕えることを望んでおられます。

デマスとゲハジに戻りまして、ふたりは身の安全を願い、また、楽な生活を送りたいと思っただけではなく、楽しみたいという思いもあったから、『もう十分です、嫌です、耐えられない』という態度を取りました。この態度を取ると確かに疲れます。喜びがないし、どうしたらいいか、わからなくなってしまいます。しかし、この休みが、みことばを学ぶことを怠り、祈ることを休み、集会に集うことを辞めることを意味しているなら、それは、霊的な命を殺してしまうことを意味します。 

近くにはおられるイエスは、我々の心の奥底をよく知っておられ、私たちが自分のとき、自分の富、自分の計画、自分の魂を持っているかどうか、あるいは、『主よ、私も、私の持っているものも、みんなあなたのものです。あなたの御心をなさしめてください』と願っているかどうか、主は全部、知っておられます。

イエス様は、『わたしは自分の命を与えるために来た。わたしは仕えるために来た』と言われました。『わたしは自分の願いを持ちません、自分の立場を取りません。どうか、わたしの思いではなく、父よ、あなたの御心だけをなしてください。』イエス様が絶えず、取られ続けた態度とはそういうものでした。

また、人間の心に深く根ざしている願いは、認められたいという願いなのではないでしょうか。何とかして、自分の人気を集め、人に自分の力を及ぼしたいという願いを、心の中にひそませています。大切にされ、誉れを得、自分を忘れてもらいたくないという願いを持っているのは、みじめな人間です。人に認められたいと願う人は、みじめです。なぜならば、そういう人々は、主に用いられない、御用にかなわない者となってしまうからです。

ピリピ
2:25 しかし、私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデトは、あなたがたのところに送らねばならないと思っています。
2:26 彼は、あなたがたすべてを慕い求めており、また、自分の病気のことがあなたがたに伝わったことを気にしているからです。
2:27 ほんとうに、彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、神は彼をあわれんでくださいました。彼ばかりでなく私をもあわれんで、私にとって悲しみに悲しみが重なることのないようにしてくださいました。
2:28 そこで、私は大急ぎで彼を送ります。あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。
2:29 ですから、喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。また、彼のような人々には尊敬を払いなさい。
2:30 なぜなら、彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。彼は私に対して、あなたがたが私に仕えることのできなかった分を果たそうとしたのです。

パウロは、エパフロデトに対して、私の同労者、私の戦友、私の兄弟と呼びかけています。このエパフロデトは、パウロと同じく、永遠に朽ちない一つの目標を目指して走る競技者でした。この一つの目標を、心の目で見た者は、自分自身を顧みません。自我という足かせから解放されています。

このピリピ書2章の21節と30節は、実に、著しい対照を示してますね。21節は、はかない人の名声を求めて走るものの姿が描かれています。

ピリピ
2:21 だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。

そして、30節には、朽ちることのない天の御国を求めて走る人の姿が書かれています。

ピリピ
2:30 ・・・・彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。

パウロ自身、使徒行伝の中で告白しました。

使徒行伝
20:24 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

エパフロデトもパウロも、ただ一つの天の勝利を求めて走り続けました。

ピリピ
3:13 ・・・・ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

パウロは、こうピリピ書の中に書いたのであります。パウロは、確かに有能な伝道者として、当時、すでに認められていました。パウロは名声も得たし、残る天の栄誉を目指して走ることは、簡単なことだったという人もいるかもしれない。しかし、エパフロデトを考えてみたい。彼は何もない、誰の目にも目立たない当たり前の一人の信者にすぎなかったんです。しかし、主の目からは、パウロもエパフロデトも同じく、主に仕えるものとして見えたのです。問題は、私たちが何と何をやったということではなくて、私たちがどれだけ、主に忠実で、従順であったかということです。最後にもう一箇所を読んで終わります。

コロサイ
3:23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。

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