2013年1月6日日曜日

比類なき主とどうしようもない私たち

比類なき主とどうしようもない私たち
2013年1月6日、吉祥寺福音集会
ゴットホルド・ベック

黙示録
3:14 また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。
3:15 「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
3:16 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
3:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
3:21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
3:22 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』」

当時のいちばん、だめな教会にいちばん、すばらしい約束が与えられた。ちょっと、不思議なのではないでしょうか。まことの幸せを得る道とは、主の富を見出すことではないでしょうか。そして、主の富を見出すための必要条件は、自分のみじめさを認めることなのではないのでしょうか。

今日の題は、おもしろいかも知れないけど、「比類なき主とどうしようもない私たち。」この17節は、本当に不思議な節です。主の考えと、いわゆる信ずる者の考えとは全く違う。

黙示録
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

知っていれば、認めればいいんですけれど、知らなければ、もう悲劇的そのものではないでしょうか。

満ち満ちておられる主が、私たちの様な者を満たしたいと望んでおられるのは、何と言う幸いでしょうか。主の切なる願いは、ご自分の満たしをもって、私たちのような者を満たすことです。主の満たしとは、イエス様の内で形を取って現れて来るものであり、そして、イエス様と結びついてる者は、結局、満たされています。私たちはどんな困ったことがあっても、その時こそ、イエス様のみもとに行き、そのことを包み隠さず、主に打ち明けると、罪咎を赦され、束縛から解放され、用いられる器となります。

聖書に言われいる満たしとは、もちろん、いわゆる物ではない。宝物でもない。イエス様です。イエス様の内に全部。備えられています。そして、このイエス様は私たちのような者を満たしたいと切に望んでおられます。詩篇の作者は――ダビデですけど――次のように書いたのです。

詩篇
81:10 わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。

主は我々に、ほんの少しの物だけを上げたいとは思っていない。完全に満たしたいと願っておられます。残念ながら、多くの人は祈りのために、また、祈りを通して、口を大きく開けようとはしないのではないでしょうか。われら人間を本当の意味で満たしてくれるものは、もちろん、目に見えるものではない。世の初めから備えられている御国だと、書いてあります。

父なる神は、われわれにイエス様を通して、もっとも良い物を与えてくださいました。主イエス様は私たちのために、苦しんでくださり、十字架上で犯罪人のように殺されてしまいました。イエス様によって、われわれの必要なものは全部、備えられています。

ローマ
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

主なる神の満たしについて、いろいろなことが考えられますが、ちょっとだけ、四つの点について、一緒に考えたいと思います。第一番目、命の満たし、命によって満たされることですね。そして、第二番目、愛の満たし、すなわち、愛によって満たされること。第三番目、喜びの満たし、すなわち、喜びに満たされること。そして、四番目、平和の満たし、すなわち、平和に満たされること。

それでは、先ず命の満たしについて、一緒に考えてみたいと思います。ここで一つの例えを申し上げると、もし、私たちが重病人を病院に尋ねたとします。このあいだ、小諸病院で、一人の方、見舞いに行きました。ちょうど、一日に天に召されました。そう言う病院に行くと、例えば、その人の名前を呼んだ時、その人が一度だけ、ちょっと目を開けても、すぐまたまぶたを閉じてしまうと、私たちは確かに認めざるを得ない。まだ生きているけど、何時い死ぬのか解らない。命に満たされていない。

旧約聖書の中では、例えば、サムソンと言う男は、ライオンを裂きました。ダビデは、ライオンだけではなく、熊も殺してしまったんです。確かにこの二人は、命に満たされたと誰でもわかります。多くの人々は、新しく生まれ変わっていますが、証しをする備えも意思もない、ペテロは使途行伝の中で、今日は読む時間がないけど、9章と22章と26章の中で、三度、詳しくおおやけに証ししたのです。

主は、ご自分の証し人を求めておられ、私たちがその証し人となること、そして、どのようにして主イエス様の命をいただいたかを他の人々に述べ伝えてもらいたいと願っておられます。わたしが来たのは羊が命を得、また、それを豊かに持つためであると、イエス様は言われました。

これこそ、イエス様がこの地上に来てくださったことの目的であり、その意味において、私たちは自分だけが満たしを受けるだけではなくて、その命の満たしを、一人でも多くの人々に伝える使命を持っています。この使命に邁進するために祈り、また、そのような器として用いられるように祈ろうではありませんか。

二番目、愛の満たし、すなわち、愛に満たされる大切さについて。

これは、あなたがどんな人をも、その人が敵であっても愛することができると言うことを意味します。一つの実例は、ステパノ――初代教会で初めて、イエス様のために殺された男でした。彼の特徴とは、彼は愛に満たされた男でした。石を投げつけられて、息を引き取る時、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください!』と、ひざまづいて、大声で叫びました。これこそ愛の満たしです。

私たちもまた、隣人、また、兄弟姉妹、そして、敵でさえも愛すべきであると、聖書ははっきりと言っているのです。もちろん、このような愛は、私たちが生まれつき持っているものではない。愛そうと思っても無理。聖書の大部分の戒めはそう言うものなんです。普通の人は、『ああ、これも守らなくてはいけない。』守るためではなくて、破るために書かれている。自分の力のなさ、無力さを解るために書かれてる。けど、『無理!できません!』と、叫ぶようになれば、もちろん、主は憐れんでくださるのです。

ローマ書5章5節、皆さん、良くご存じの箇所です。『私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているから』とあります。神の愛が与えられている。だから、愛することができるのです。

【参考】ローマ
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

三番目、よろこびの満たし、すなわち、喜びに満たされることです。

ダビデは、喜びに満たされた男でした。けども、悩みの多い男でした。彼の証し、詩篇を読むとわかる。ときどき、いろいろな人の話しを聞くと、あんまり長くしゃべるから、『今のことをイエス様に話したことあるの?』と時々、聞くんです。それを先にしないとだめだよ。ダビデは悩んだ人でした。けど、それだけではなく、祈りの人でした。結果として喜びに満たされた。問題は解決されても、されなくても関係ない。詩篇16篇に、彼は証ししたのです。『あなたの御前には喜びが満ちています。』

【参考】詩篇
16:11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

静まれ。主の前に喜びが満ちている。これは、ダビデの証しでした。しかし、主の御前で光りの中を歩む者は誰でもこの喜びに満たされます。この喜びを、主は私たちにも、もちろん、与えたいと望んでおられます。主の喜びは波のように変わらない、絶えざる喜び、変わらない喜びです。

ハバククと言う預言者も、このことを体験的に知るようになりました。聖書の中で、もっともすばらしい証しのひとつではないでしょうか。

ハバクク
3:17: そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。

今まで働いた結果は全部パーになった。本当はもうガッカリ、どうして、何故と、思うのが普通でしょう。けども、ハバククは違う態度を取った。

ハバクク
3:18 しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。

『喜ぼう!』と読むと解るでしょう。意志の問題です。気持の問題ではないよ。目に見える現実を見ると、もうどうしようもない。落ち込む。けども、ハバククは、『私は主にあって』、すなわち、全部、主から受けたから、喜ぶことができたのです。この喜びの満たしは、この世の財産や、様々な事情にかかっているものではない。この喜びは理解することも、説明することもできないほどのものです。

初代教会の信者たちは誤解されたり、迫害されたり、いじめられましたが、しかし、それにもかかわらず、言葉に尽くすこともできない栄えに満ちた喜びに踊った人々でした。これこそ、本当の証しだったのではないでしょうか。

四番目。平和の満たし、すなわち、平和によって満たされることです。

イエス様は、ご自分の全き平安を私たちにも、もちろん、与えたいと願っておられます。イザヤと言う預言者は次のように書いたのです。平安に満たされる秘訣についてでしょうね。イザヤ書の26章3節になります。

イザヤ
26:3 志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。 

任せると、信頼すると、平和に満たされる。これこそがイザヤの経験でした。

イエス様は平和の君ですから、イエス様なしには、誰も全き平安を持つことはできません。イエス様がこの世に来られたのは、ご自分の平安を我々に与えるためです。主に信頼するならば、必ず主は我々にご自身の平安を与えてくださいます。マタイ伝の26章の中で、イエス様が十字架に付けられる前のことが書かれていますが、26章の30節、一文章だけです。『賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山に出かけて行った』と、書いてありますが、イエス様はゲッセマネの園に行く前に、賛美の歌を歌いました。

イエス様はまもなく捕らえられ、五~六時間後には、十字架に釘付けられ、我々の全ての罪の苦しみを受けてくださり、主なる神によって捨てられると言うことを知っておられたにもかかわらず、イエス様は歌を歌ったとあります。

イエス様は、十字架の上で考えられないほどの苦しみと悩みを経験なさり、『わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』と、叫ばれました。このような苦しみを前もって知っていながら、どうしてイエス様は賛美の歌を歌うことができたのでしょうか。それは、イエス様が全き平安を持っておられたからです。

主は、われわれにも同じ平安を与えたいと思っておられます。そのためには何が必要であるかと言いますと、一言で言えば、イエス様に満たされること、すなわち、主のいのち、主の愛、主の喜び、主の平安に満たされることです。満たされるためには何をしたらいいのでしょうか?主の満たしを受ける秘訣は、いったい何なのでしょうか。

先ず第一に、私たちは自分が空っぽの者であると言うことを知る必要があります。もしも私たちが、本当に正直であるならば、自分の内には何も良き物がないと言うことを認めざるを得ません。

第一ヨハネ
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

主は既に、ご自身の血潮によって尊い代価を払ってくださいましたので、われわれの罪を赦したいと切に願っておられます。ある人は、自分の罪はあまりにも大き過ぎる。果たして主は、この罪を赦すことができるだろうかと言う疑いを持っています。しかし、主は必ず、そのような罪をも赦してくださるのであり、その時を待っておられるのです。満たされる根拠は、全ての罪は赦されており、忘れられていると言う確信です。

しかし、大切なことは、ただ単に、空の器として、ありのままの状態で、主の御前に行くだけではなく、すなわち、ただ単に、自分の罪を認めて言い現すだけではなく、第二番目に、幼子のような信仰を持つこと、主の約束を掴むことこそが要求されています。

悔い改めた後で、主が自分の罪を、本当に洗い清めてくださったと言う確信を持たなければなりません。この確信の土台となるものは、もちろん、人間の感情でもないし、人間の理解力でもありません。神の約束の御言葉こそ、本当の土台です。中途半端な信仰は何にもならず、主が求められておられることは、徹頭徹尾、主に信頼する信仰です。

マルコ
9:23 するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

この言葉は、もちろん、時代遅れの言葉ではない。われわれに対する呼びかけでもあります。信ずる者には、どんなことでもできる。もちろん、信ずることとは、イエス様と繋がっていることです。イエス様と一つになることです。もっともひどい罪は何でしょうかね。不信仰です。

信ずる者にはどんなことでもできると、イエス様は約束しておられました。信仰とは、主の贈り物をいただく空の手のようなものです。しかし、真の信仰とは、提供された主なる神の贈り物を意識的に受け取って、それを自分のものにすることです。

主の目から見て、もっとも恐ろしい罪は、今、話したように不信仰です。この不信仰の罪の故に、救われていない人々は滅ぶようになります。そして、この不信仰の故に、既に救われている人々は、成長しなくなってしまい、用いられなくなってしまいます。信仰と言うところには悪魔は逃げざるを得ません。そして、信仰のあるところには、主が栄光を現すことがおできになり、奇跡を行うことができるのです。そして、信仰のある所には、言うまでもなく、主は礼拝され、誉れを受ける様になります。

私たちは信仰生活において、いつも別れ道に立たされています。すなわち、目に見える現実の世界を見て、それによって動かされ支配されているか、あるいは、御言葉を自分のものとして、主に拠り頼むかのどちらかです。これこそが、主の望んでおられる信仰であり、この信仰によって、私たちは主を喜ばせることができます。

現代人はみな、自分のことだけ考えるので、不幸になってます。それでは、どうすればしあわせになり、用いられることができるのでしょうか。それは、イエス様と結びつくことによってのみ、実現されます。そのための段階は、先ず、第一段階として、ありのままの状態で、イエス様のみもとに行き、全てを包み隠さず、イエス様に打ち明け、罪を言い現すことです。それから、第二段階は、幼子のように素直な信仰と信頼を持って主を見上げ、主の約束を掴み、赦しのために主に感謝することです。そして、第三段階は、何かと言うと、それは聖霊に満たされることによって幸せになることです。

信ずる者は誰でも、聖霊の宮であり、聖霊を宿しています。しかし、多くの信者の場合、聖霊は、主の栄光を現すことができませんが、これは本当に悲しい事実と言わざるを得ません。もちろん、聖霊に満たされるとは、奇跡を経験することでもないし、異言を語ることでもないし、従順に主に従うことであり、自分の支配権を主に明け渡すことです。私の思いではなく、御心だけがなるように――この態度を取ることだけでなくて、取り続けることです。

そうするとい、その結果として、二つのことが言えます。その一つは、イエス様を信ずる者が喜んで主と証しすること、すなわち、イエス様の証人となり、そして、他の人たちを主に導くことです。

使徒行伝
1:8 聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

『なるべき』なのではない。なる。多くの人は自分は聖霊に満たされていると思い込んで、傲慢な生活を送っています。けど、聖霊に満たされることの特徴は、滅びゆく人たちのために最善を尽くすことであり、イエス様を証しすることです。それは、自分を否定すること、また、犠牲を払うことなしには、決してできません。もうひとつ、御霊の実が結ばれることも聖霊に満たされたことの、もう一つの特徴なのではないでしょうか。

ガラテヤ
5:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。・・・・

このような御霊の実が実らないと言うことは、その人は御霊に満たされていないことの現れです。言うまでもなく、この御霊の実は、人間の自分の努力の結果ではない。聖霊の支配の結果です。ありのままの状態でイエス様の御許に行き、全てを包み隠さず打ち明け、幼子のような信仰をもって、主を見上げ、自分の支配権を主に明け渡すことによって、私たちは主の満たしをいただくことができます。

私たちが、主のいのち、主の愛、主の喜び、主の平安に満たされるために、第四の段階は、主を信ずる者どおしの交わりの大切さ、必要性を知ること。そして、実際に交わりを持つことです。

ですから、エペソ書3章18節に、『すべての聖徒とともに』・・・・よく御言葉の中に出てくる表現です。『すべての聖徒とともに。』そして、私たちは特別な人々だけではなく、主を信ずる者、全ての兄弟姉妹を愛することを学ばなければなりません。これもまた、自己否定を通してのみ実現されることです。自分自身を守ろうとする努力はやめましょう。主に満たされるために、喜んで犠牲を払い、そのために自分が犠牲になってもいいと言える人は幸いです。その人は、決して、損を受けることがなく、必ず主のいのち、主の愛、主の喜び、主の平安に満たされます。

これもまた、決して、我々だけが、独り占めするものではなく、悩み、苦しみ、悲しんでいる人々に対して、私たちを通して、彼らもまた、主のいのち、愛、喜び、平安に満たされるためなんです。私たちがこのように用いられるように、切に祈ろうではありませんか。

イエス様は言われました。大声でです。

ヨハネ
7:37 ・・・・イエスは・・・・、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

また、パウロは言いました。

第二コリント
8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

あなたがたは、富む者となるべきである。もう一ヵ所、読んで終わります。

詩篇
81:10 わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。
81:11 しかしわが民は、わたしの声を聞かず、イスラエルは、わたしに従わなかった。
81:12 それでわたしは、彼らをかたくなな心のままに任せ、自分たちのおもんぱかりのままに歩かせた。
81:13 ああ、ただ、わが民がわたしに聞き従い、イスラエルが、わたしの道を歩いたのだったら。
81:14 わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らの仇に、わたしの手を向けたのに。

主は満たしたい。比類なき主は、どうしようもない我々を満たしたい。どうしてであるかと言いますと、用いられるためです。

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