2012年2月28日火曜日

主イエス様に喜ばれる人生の秘訣[一]

主イエス様に喜ばれる人生の秘訣[一]
2012年2月28日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

イエス様を信じる者にとって、もっとも大切な箇所は今、読んでもらった箇所ではないかと思います。

今日の主題は、『主イエス様に喜ばれる人生の秘訣』であります。今、読んでもらいましたガラテヤ書、2章20節の中で、パウロは七つの根本的な真理を証ししています。すなわち、第一番目、信じる者の人生は、全く新たなる歩みであり、二番目、信じる者の人生は、死ぬべきからだでもっての歩みであり、三番目、信じる者の人生は、絶えざる勝利の歩みであり、四番目、信じる者の人生は、信仰の歩みであるということです。パウロは、これら四つの事実を述べた後で、主に喜ばれる人生の秘訣を明らかにしています。第五番目の真理として挙げられるべきものは、主イエス様が、私たちのために、ご自身のいのちを捧げてくださったということであり、第六は、イエス様が私たちから、我々の古いいのちを取ってくださったということであり、そして、第七は、イエス様が、ご自分のいのちを私たちの内に生きておられるということです。そこで、この大切な事実について、もう少し、詳しく考えてみたいと思います。


パウロは、この言葉を証しとして書いたのです。やはり、彼は、嬉しくて嬉しくて、しかたがなかったのです。

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。・・・

もうアウトです。私は、もう大切ではない。もう、つけられた。

2:20 ・・・もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

昔のパウロのことを考えた場合、やはり、奇跡、そのものです。『私のためにご自身をお捨てになった方、私を愛していてくださるお方』と、彼は喜びをもって、告白することができたのです。パウロは、このみことばの一節でもって、個人的な証しをしています。

二千年以来、この証しによって、あらゆる国の人々が祝福されたのであり、今日も臨在している主は、今もなお、このみことばを通して、我々をも祝福なさりたいと思っておられます。多くの人にとって、このみ言葉は未解決の奥義であります。というのは、パウロは、『自分は十字架につけられて死んだ』と言っているのに、また、同時に、彼が生きていることを強調しています。人はどうして死ぬことと、生きていることとを、同時にできるのでしょうか。パウロが証ししている最初の真理は、次のことです。すなわち、その第一の真理として挙げられていることは、先ほど申しあげましたように、信者の人生が、全く新たなる人生であるということです。

今日、信じる者の人生というものは、以前の人生とは違って、教会に行き、聖書をあちこち読み、より良い人間になろうと努力するという具合に、変わるものだと思っている人々が確かにいます。けど、今日、教会には、このようないわゆる『ヒューマニスト』たちが大勢いるでしょう。彼らは、自分はクリスチャンであると自称し、イエス様について、たくさんのことを知っておりますけど、一度もイエス様に出会ったことがなく、したがって、イエス様を個人的に知ることもないのです。ついでに申しあげるならば、こうした理由から今日の組織されたキリスト教と関係を持ったり、そうした教会の会員になることは、真(まこと)のキリスト者とは無縁のものであるということです。

神のみことばである聖書は、真(まこと)の信者の人生が、全く新たなる人生であるということを、はっきりと証ししています。すなわち、それは、新しく生まれ変わることによって、上から与えられるいのちなのです。イエス様は、新しく生まれ変わることの必要性を、きわめて明確に指摘しています。有名なヨハネ伝三章三節、『人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない』と、イエス様は、当時のある立派な聖書学者に言われました。

この改心は、人間の努力の結果ではなく、もっぱら、聖霊の成してくださる御業(みわざ)です。聖霊の働きを通して、自分の人生には罪と債務があるということ、そして、この罪と債務は贖われなければならないということを、知るようになりました。それから、どうしようもない者として、イエス様のところに行き、主を自分たちの人生の中に受け入れたのです。しかし、イエス様ご自身は、永遠のいのちそのものです。ですから、イエス様を自分の内に受け入れる者は、そのことによって、新しいいのち、主なる神のいのち、永遠のいのちを持っているのです。救われるということは、古きいのちが変えられたり、改正されたり、新しく造られることを意味するのではなく、私たちが、全く新たなるいのちを得ることを意味しているのです。

ペテロは、次のように言ったのです、『主イエスを受け入れた者は、誰でも神のご性質にあずかる者だ』と、あります。今まで、自分の古い罪の性質に支配され、がんじがらめになった者、罪の奴隷となっていた者は、今や、神のご性質にあずかる者となっている。別のことばで表現するならば、パウロは、『あなたがたは、キリストをその身に着たのです』と言ったのです。ガラテヤ書三章の二十七節です。

パウロは、『私はキリストとともに十字架につけられました』と言っています。それによって、彼は自分の今までの人生を指摘しているのです。すなわち、彼は、真面目一徹(いってつ)であり、最高の教養を身につけ、聖書に精通しており、道徳的に最高の生活を送り、神に喜ばれる願いを持っていたのです。しかし、実際はどうかと言いますと、彼は全くメクラでした。彼は、ナザレのイエスが人を惑わす者、偽る者、神を否定する者だと思いこんでしまいました。彼は、救われ、イエス様を信じたすべての人を迫害しました。けど、よみがえられたイエス様は、彼に出会いました。その瞬間、彼は、自分が今まで考えていたことは、間違っていたこと、また、今までの歩んだ道も間違った道であったことを知りました。しかし、パウロは、そのことを正直に告白することができるほど、正直な男でした。パウロは降参し、イエス様を自分の内に受け入れました。古きいのちは十字架につけられ、債務は帳消しにされ、罪は赦され、贖われたのです。

パウロは、自分の経験したことを次のように書きしるしています。

第2コリント
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

新しく造られた者とは、全く新たなるいのち、すなわち、主イエス様のいのちのことであり、永遠のいのちを意味しています。

第二の真理は、信じる者の人生は、肉の内にある人生であるということです。主なる神から与えられた、この新たなるいのちは、私たちのからだを通して、すなわち、日常生活を通して、明らかにされるべきです。この体、この世において明らかにされるべきものとは、主なる神のご性質が、古き罪の性質よりも、強くなることなのです。肉にある人生は、試練、苦しみ、悩み、痛みをもたらします。けど、自分自身に対する自分の権利を放棄する準備のできている者は、神の力、すなわち、守ってくださり、活力を与えてくださり、高めてくださる、主なる神の力を経験します。

第三の真理は、信じる者の人生は、絶えざる勝利の人生であるということです。私たちは、このガラテヤ書二章二十節を読むと、勝利の喜びを感じることができます。しかし、非常に多くの人々の人生は、失望、落胆、失敗によって、特徴づけられているのではないでしょうか。けど、イエス様のいのちは、いかなる失望も、落胆も、失敗も知りません。それは、勝利のいのちなのですから。この克服しているいのち、勝利のいのちは、私たちのために備えられ、提供されています。パウロは、このいのちが、実際にどのようなものであるか、我々にはっきり告白しています。

第2コリント
4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
4:10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。

第四の真理は、信じる者の人生は、信仰の人生であるということです。多くの人々の問題は、彼らが信じたいと思わないことです。信じるかどうか、それは別です。信じたいかどうかが問題です。信じたいと思えば必ず、信仰の創始者であるイエス様が、喜んで我々の持っていない信仰を与えてくださるのです。信仰なしには、主に喜ばれる人生を送ることも不可能です。ですから、聖書は、次のように言われています。今度は、ヘブル人への手紙の三章。このヘブル書の著者は、これは、もちろん未信者ではなくて、救われた人々に書かれたことばです。

ヘブル
3:12 ・・・あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。

信じる者の人生は、信仰の人生であり、ということはこれらのことからも明らかです。信仰の対象は、もちろん、イエス様です。信仰の土台は、神のみことばである聖書です。パウロは、次のように証ししています、『私は、神の御子を信じる信仰によって生きています』と。信仰とは、何を意味しているのでしょうか。主なる神の約束を真理として認め、信頼することです。私は、意識してみことばに頼り、主なる神が仰ることを信じ、その上で、それに基づいて、主の言われたとおり行動します。私は、幼子のように信じることができます。なぜなら、主なる神は、偽ることがおできにならないお方であるからです。約束されているから、もう決まり。解かっても、解からなくても、全く関係ない。

信じる者は、本当に救われた者の人生は、今、考えたように全く新たなるいのちであり、死ぬべきからだでもっての歩みであり、絶えざる勝利の生活であり、そして、信仰の生活です。このような人生は、主なる神に喜ばれる人生です。しかし、私たちはどうすれば、このような人生を送ることができるのでしょうかという問いが、表れてきます。

パウロは、三つの事実を指摘して、それとともに、その秘訣、奥義を我々に示しています。まず、ひとつの事実は、イエス様が我々のために、ご自分のいのちを捧げてくださったということです。それから、イエス様が、私たちから古いいのちを取り去ってくださったという、別の表現をすれば、私たちを我々の古い性質から解放してくださったということであり、もうひとつの真理、および、事実は、主イエス様が、すなわち、イエス様のいのちが、我々の内に生きておられるということです。

生ける主なる神は、ここで御子、すなわち、イエス様について、そして、また、あらゆるキリスト者について、三つのことを言っておられます。本当のキリスト者は、誰でもこれらの三つの事実を信じています。なぜなら、主なる神は、それらを真理として証しし、嘘偽りを仰らないからです。主なる神が、御子と私について、また、御子イエス様とあなたについて、そして、御子イエス様とあらゆるキリスト者について語っておられる、最上の事実は次のことです。すなわち、イエス様は、私たちのために、ご自分のいのちを捧げてくださったということです。

ガラテヤ書、二章二十節にもどりまして、『私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子』というみとこばは、このことを表しています。真(まこと)のキリスト者は、誰でもこの事実を信じ、身をもって体験しています。私たちが救われた時の最初の経験は、みじめな、滅びゆく、罪深い者として、イエス様に祈ったということでした。なぜイエス様に祈ったかと言いますと、イエス様だけが、我々の身代わりになってくださり、我々のために身代わりとして、ご自分のいのちを捧げてくださったからです。十字架の上で、イエス様は、私たちが受けなければならなかった罰を、ご自身の身に受けてくださったのです。ペテロは、次のように書いたのです。

第1ペテロ
3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、・・・私たちを神のみもとに導くためでした。

罪なき方が、我々の身代わりとなってくださり、死刑の罰をご自身の身に受けてくださいました。キリスト者の最初の経験は、次のようなものです。イエス様は、罰をご自分の身の上に受けてくださり、そのような恥を恥とは思わず、流された血潮によって、我々の罪と債務は贖われたのです。イエス様を受け入れた者は、このことを、自分の経験として証しすることができます。これこそが、我々の喜びと平安の根拠でもあります。

キリスト者の生活の初めは、私たちが、イザヤ書五十三章を、身をもって、自分自身に当てはまることができる時に始まります。五十三章の五節だけ、読みましょうか。『主イエスは・・・』聖書は複数形になっているけど、たまに自分勝手に変えて、単数形で読んでもいいかもしれない、『主イエスは、私のそむきの罪のために刺し通され、私の咎のために砕かれた。主イエスへの懲らしめが私に平安をもたらし、主イエスの打ち傷によって、私はいやされた』と言うことができる人は、本当に幸せです。

イエス様は、私たちの罪深い、望みなき状態をよくご存知でした。そして、また、罪が罰せられなければならないということも、イエス様はご存知でした。罰せられることなしには、罪の赦しはあり得ない。血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない。これは、主なる神のご判断です。それですから、イエス様は、私たちのために罰を、ご自身の身に受ける決心をなさいました。このことをパウロは、次のようなことばで言い表しています。すなわち、『主は私のためにご自身をお捨てになりました。』

第1テモテ
2:3 そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。
2:4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
2:5 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
2:6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。・・・

主イエス様は、我々のために、ご自分のいのちをお捨てになってくださいました。これは、生ける神が、御子と我々について語られた、最初のすばらしい事実です。主イエス様は、私たちのために、十字架でご自身のいのちをお捨てになってくださいました。イエス様を信じるということは、私たちがこの事実を信じ、自分のものにし、そのために感謝することを意味しています。主なる神の愛は、主イエス様が我々の代わりに罰を受けてくださり、ご自身のいのちを捧げてくださったことを通して明らかにされました。

まことの愛は、自分のことを考えません。まことの愛は、ただ、他の人の幸せだけを考えます。まことの愛は、どのような犠牲を払うことも、覚悟しています。『神の御子は、私を愛し、私のために、ご自身をお捨てになった。』このようにパウロとともに言うことができれば、本当に幸いです。

どうして、私は、六十七年前に、イエス様を信じるようになったのでしょうか。どうして、日本まで来たのでしょうか。どうして、愛の福音を述べ伝えることが許されているのでしょうか。唯一の答えは、パウロの答えでしょう。『主イエスは、私を愛し、私のために、ご自身をお捨てになった』ということです。このことを経験した者は、もはや、自分自身のために生きることはできません。喜んで、イエス様のために生きたいと願わざるを得ないのです。主なる神の愛は、御子、主イエス様の犠牲の中に表されました。有名なヨハネ伝三章十六節、

ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

けど、主なる神は、ただ単に、世を愛されただけではなく、神の愛は、一人ひとりの人間に向けられています。今日、ここにお集まりになっておられるお一人お一人が、神の愛の対象そのものです。だから、『おめでとう!』と言わざるを得ないのではないでしょうか。

人間は、全く個人的に、主によって愛されています。主は、一人ひとりに対して、無関心ではありません。主は、一人ひとりの永遠の救いのことを、たまにではなくて、いつも、考えておられます。主は、あなたを愛し、あなたのために御子、主イエス様を与えてくださいました。イエス様は、この地上におられた時、あざけられ、捨てられ、憎まれ、誤解されたお方でした。氷(こおり)のように冷たい無関心が、主に向けられましたが、主は、ご自分が犠牲になってくださる備えをしてくださったのです。だから、喜ぶことができるのではないでしょうか。

おわり

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