2012年2月20日月曜日

用意ができているの?

用意ができているの?
2012年2月21日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

マタイ
25:1 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
25:2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
25:3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
25:4 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
25:5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
25:6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
25:7 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
25:8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
25:9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
25:10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
25:11 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
25:12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。
25:13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

今日は少し、主イエス様の再臨について考えてみたいと思います。題名は、『用意ができてるの』、あるいは、『愚かか、賢いか、どちらですか?』、『備えあれば憂いなし』と言っても、いいでしょう。

ここで、愚かな五人、そして、賢い五人について、書かれています。ちょっと、驚くべき言葉も出てきます。十節、『戸がしめられた。』もう、終わり!どうしてであるかと言いますと、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』そうすると、確かにおしまいです。我々は今、世界の歴史の夜の時に生きているのではないかと思います。真っ暗な夜の時に向かっています。もし、私たちが毎日、ラジオや新聞、また、テレビで、世界の動きを眺めると、世界は、ますます深く、主なる神を無視し、主なる神のみことばに対して無関心になり、そして、真っ暗な、雲のような暗やみの力の中に沈んでいく様子がよく解かります。

次の大きな世界の出来事は、主イエス様の日、すなわち、イエス様が雲に乗って、再びお出でになり、そして、信じる兄弟姉妹をご自身のもとに引き寄せ、空で彼らにお会いになる――その日の出来事です。聖書は、この将来の偉大なる出来事について、何と言っているのでしょうか。おそらく皆、思い出す箇所は、テサロニケ第一の手紙、四章なのではないでしょうか。パウロは、どうしてあの手紙を書いたのか。結局、当時の誤解され、憎まれ、迫害された人々を励ますためです。

第一テサロニケ
4:13 眠った人々(・・・意味は、先に死んだ人々・・・)のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。(・・・どうしても、知ってもらいたい・・・)あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。

この箇所に、三つの事実が明らかにされているのではないでしょうか。第一番目、イエス様ご自身が、天から、再びおいでになるということです。二番目、主イエス様にあって、死んだ人々のからだが、よみがえるということです。三番目、それから、生き残っている、主の恵みによって救われた一人ひとりが変えられ、よみがえった主のものになった人々と共に、雲の中で、主イエス様に会うということです。

イエス様は、おいでになります。私たちも、準備をしなければなりません。もし、準備がなければ、後で後悔します。将来に備えるために、私たちは、確かに将来のことを知らなければなりません。だから、パウロは、知ってもらいたいと、はっきり書いたのであります。イエス様の最後の日は、大きな啓示の日です。すなわち、第一番目、イエス様が、信じる者の前に姿を現す日です。二番目、イエス様に属する者が、イエス様の前に姿を現す日です。

私たちは、イエス様の真(まこと)の姿を見るようになります。それは、考えられないほどすばらしい瞬間でしょう。イエス様の真の姿を見るとは、考えられない栄光です。目に見えない方が、その覆いをぬぐい捨て、イエス様は我々の目の前に、深い愛と聖さに包まれて、また、この上もなく力強い神聖さと栄光に包まれて立つのです。マタイ伝十七章を見ると、イエス様の当時の変えられた姿について、書いてあります。

マタイ
17:1 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。
17:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。

この山の上における主イエス様の変容は、来るべき日に、私たちが見るであろうところのものの単なる予感にすぎません。

使徒行伝
1:11 ・・・ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。

イエス様が、再び来られます。この日は、イエス様が昇天された日と全く同様に、確かであり、事実であり、歴史的な真実です。イエス様は、あの時、信者たちの目の前に消えたと同じように現れます。

けれど、最後の日は、信者たちの前にイエス様が姿を現す日ばかりでなく――二番目ですね――、イエス様の前に信じる者が現れる日です。その日には、本当に信じていた者、すなわち、主イエス様との有機的な結びつきを持っていた者が明らかにされるのです。ただ口で、「主よ、主よ」と言っているのか、それとも、本当に主の恵みによって、永遠のいのちを持つようになったかが、明らかになります。次の箇所を見ると解かります。

マタイ
25:22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
25:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

何と良い言葉、褒め言葉なのではないでしょうか。けれど、同じくマタイ伝、七章の中で、ちょっと考えられないことばが書かれています。

マタイ
7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
7:22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

どれだけ愚かな羊でさえも、羊飼いをわかる。ここで、『わたしはあなたがたを全然知らない』と書いているから、彼らは、自分は信じてるからオーケーと、思い込んでしまっただけで、本当の意味で新しく生まれ変わっていなかった。

このマタイ伝、二十五章に出てくる五人の愚かな乙女と、五人の思慮深い乙女の二つに分けられる――この大きな決定が行なわれるのです。この愚かな乙女たちは、ランプ――形式、外部の入れ物――を持っていますが、彼女たちは、油と中身と、真のいのちを持っていなかった。すなわち、彼女たちは、みことばを聞き、祈り、聖書も読みますが、かたちだけだったのです。けれども、思慮深い乙女たちは、油、すなわち、聖霊と、まことのいのち、そのものを、かたちも含めて持っていました。その日は、愚か者と思慮深い者を分かち、その一方は、『わたしはお前たちを知らない』と言われ、もう一方は、『お入りなさい』と言われるのです。イエス様のからだの肢体である者が、確実に明らかになります。

エペソ書五章三十節に、「私たちはキリストのからだの部分だからです」とあります。イエス様は、信者たちを呼び、そして、彼らは、主イエス様の方に向かって急ぎます。すなわち、墓場から、海から、または、信じる者のからだのあるところ、どこからも、信じる者のからだは、この偉大な第一の復活の日を共に祝うために、よみがえるようになります。また、その日、この地上に永遠のいのちを持っている救われた者たちは、特別な特権を持っているのです。すなわち、彼らは、死を見ず、墓を知らないのです。すなわち、彼らは、一瞬にして変えられ、一瞬にしてよみがえりのからだを得るのです。

すべての本当の救われた人々のために、その救われた者たちが、その日に、死んだにしろ、生きる者に数えられるにしろ、この日は死に対する勝利です。救われた人々は、新しいからだをもって、イエス様に会うようになります。このからだとは、イエス様が、よみがえりの日に身につけたと全く同じ、よみがえりのからだです。コリント第一の手紙の十五章は、いわゆる、『よみがえりの書』と呼ばれているものです。そこから、二、三節を読みましょうか。

第一コリント
15:23 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。

15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、・・・・
15:52 ・・・・一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

その日には、多くのことが起こります。私たちがキリストにあったということが明らかになります。そして、主イエス様において新しく造られた者は、一瞬にして、完全にされます。すなわち、ヨハネ第一の手紙を見ると、私たちはキリストに似た者となると、約束されています。

第一ヨハネ
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています(・・・原本を見ると確信している・・・)。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

なお、私たちの身についているすべての汚いものは清めおち、私たちの内にある主イエス様は、すばらしきかたちの内に姿を現すのです。その時、次のことばが全く完成されます。すなわち、「古いものは去って、見よ、すべてが新しくなった。」

ちょうちょがサナギを脱ぎ捨てて、翼を広げると同様に、古きものは、私たちの中から取り去られ、そこには、ただ新しいものがあるのです。この瞬間に、すなわち、この世で最も大きな悩みであった私たちの内にある罪が、もはや、なくなる時、そして、罪の元、すなわち、私たちの生活の最も深い悩みである、その元がなくなる時、すべてが新しくなり変わり、我々の願いは、完全に満たされるのです。けれど、その偉大な日には、私たちの全生活も、また、主イエス様の光の前に現れるのです。心の中に、イエス様の姿を宿している救われた一人ひとりは、イエス様の恵みの座の前に立つようになります。

聖書は、裁きの座と言っているのですけれど、本当は、恵みの座なのではないでしょうか。

第二コリント
5:10 私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

聖書には、二つの裁きがありますが、これは、栄光か、または、破滅かを決定する裁きではありません。その日、この世における一人ひとりの救われた者の生活、働きが、主の火によって試されるのです。すなわち、信じる者の行なった結果によって、主は、報酬、褒章、王冠を、救われた人々に分け与えるのです。コリント第一の手紙を見ると、この事実について、次のように書き記されています。

第一コリント
3:11 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
3:12 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、
3:13 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
3:14 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
3:15 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

その火が、我々の生活を明らかにします。すなわち、聖い火が、金、銀、宝石と木、枯れ草、わら、すなわち、イエス様から出たものか、または、自分から出たものかを明らかにするのです。失われるいのちは、何と悔やまれることか。それは、取り戻すことも、取り替えることもできません。永遠の実を結んだいのち――これは、大きな喜びであり、勝利です。もし、その日、イエス様が私たちに、次のように言うことができれば、感謝です。

マタイ
25:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

世の中の人々の目に大きく映り、そして、多分、信じる者たちの前にも、大きく見られる、多くの人々は、彼らの生活が、木や枯れ草やわらのように、火の中に消えるのを見るでしょう。それとは反対に、人々から忘れられ、隠れて生活した人々、そして、信じる者どおしに語られなかった多くの人々は、金を与えられるでしょう。

我々の生活に何が残るのでしょうか。私たちが本当に、イエス様から出て、イエス様のために生活したか、それとも、自分から自分のために生活したか、どちらでしょう。この火が、それを明らかにします。その日は、真の救われた人々にとって、すばらしい日です。聖書は、そのすばらしさを表現するために、ただひとつのことばで表現しています。すなわち、栄光ということばです。

第一コリント
2:9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

パウロも、ローマ書、八章十八節に、「今の時のいろいろの苦しみは、将来、私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」と、書いたのです。今の時の我々の悩みは、いかに重く、深いことでしょう。けれど、この栄光は、それに比べると、限りなく大きいものであり、この世の苦しみは、将来の栄光に比べると取るに足りないと、パウロは判断したのであります。

初代教会の特徴とは何であるかと言いますと、『イエス様は近い、イエス様はすぐ来られる。』こういう待ち望みでした。『イエス様は来られる。』このことばは、初代教会において、口から口へ語り伝えられ、そして、このことばは、当時の証し人たちに、迫害のさなかにおいて、絶えず力を与え、喜んで、死の旅路につかせたのです。彼らは、欺かれたのでしょうか。それとも、彼らは、空しく待っていたのでしょうか。

イエス様が、『わたしは再び来る。しかし、その時と場合は、父が定めておられる』と、語られてからというもの、このことばは、生き生きとした信仰の本質を成すものであり、イエス様の再臨の事実が、目の前に生き生きと認められるのです。すなわち、多分、今日にも来られる。

ある信者が、この世に生きていて、イエス様の再臨の日を、あたかも、彼がその日をこの肉体で体験するように、生き生きと目の前に感じていないかぎり、その信者は、イエス様の戒めに逆らって行動しているのです。イエス様は、私たちが、『その日は今日かもしれない』という希望の光によって、毎日を捧げることを望んでおられます。再臨の日は、五旬節に始まったことが、完成される日であり、五旬節は、この世におけるイエス様の教会の始まりであり、そして、イエス様が姿を現されるこの日は、この世における教会の時代の終わりです。イエス様が再臨され、信じる者、一人ひとりを引き上げになる時、聖霊も一緒に引き上げられます。なぜなら、聖霊は、信じる者の内に住んでいるからです。もし、聖霊がないなら、悪魔が完全に支配するようになります。

最近の新聞、ラジオ、テレビなどの報道を見たり、聞いたりすれば、悪魔の活躍がよく解かる。けれど、悪魔はその目的を達していないこともわかります。それは、この世に聖霊の宮になった兄弟姉妹がいるからです。地上に取り残された人々には、何が起こるのでしょうか。それは、恐ろしいことであり、彼らは、非常な困難の内に生きねばならない。信じる者にとって、過ごす一秒一秒は、失われていく者を救うために、そして、彼らが恐るべき運命と、非常な悲しみに入ることがないように、利用することが大切です。

イエス様の再臨という希望は、初代教会の時ほど、生き生きとしていた時はなかったんです。そして、当時ほど、イエス様のお告げが、生き生きと力強かった時はなかったんです。主は、すぐ来られる・・・・と期待している者は、誰でも、イエス様の使命を一秒でも早く行なわなければなりません。すなわち、『全世界に出て行って、すべての造られた者に福音を述べ伝えよ』という使命です。私たちは、すでに何と多くの無駄な時を過ごしてきたでしょう。私たちは、『私たちの主がなかなか来ない、だから、私たちの主の使命を怠けるのだ』と考えたことがありませんでしょうか。私たちは、イエス様が我々と雲の中でお会いになる、その偉大な日に、信じない人々に起こることを、あまり、しばしば考えません。その日をはっきりと、目の前に感じている人々は、その者の隣人や知り合いの人々を心から案じます。

イエス様は、私たちにその日は、ノアが箱舟に入った日と同じであろうと言われました。すなわち、人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようである。そして、洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらっていくまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろうと言っておられます。そのように恐るべき滅亡が、信じない者の上に来るのです。私たちが、まだ救われていない人々に、我々が何を体験したかを話すだけで、なお多くの人々を、私たちは導くことができるでしょう。

あなたが今、汽車が、壊れている橋に差しかかったのを見たとします。その時、あなたはどうしますかね。汽車を止めようとして、あらゆる努力をするのか、それとも、そこにつっ立ったまま、ただ見ているのでしょうか。何という恐ろしいことでしょう。あなたは、汽車の中の幾百人の滅亡に、責任を持っているのです。

私たちの近くには、幾千の人が深みに落ち込んで行くのを見ませんか。そして、私たちは、その人たちに注意しないのでしょうか。私たちには責任がある。我々の生活における生き生きとした希望の力、強い原動力に、私たち信じる者は、欠けているのではないでしょうか。

イエス様は、みことばの内に、非常にはっきりと語っておられます。イエス様は、今日の時代においても、世界の出来事を通して、はっきりとわかるように語っておられます。『その時は近い!』と、主は、我々に呼びかけておられます。イエス様は、すぐ来られるという事実を信じましょう。

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