2012年2月14日火曜日

主イエスと病人(2012年)

主イエスと病人(2012年)
2012年2月14日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

マルコ
7:31 それから、イエスはツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖に来られた。
7:32 人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるように願った。
7:33 そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。
7:34 そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ。」すなわち、「開け。」と言われた。
7:35 すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。
7:36 イエスは、このことをだれにも言ってはならない、と命じられたが、彼らは口止めされればされるほど、かえって言いふらした。
7:37 人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。耳が聞こえない人を聞こえるようにし、口のきけない人を話せるようにしてくださった。」

今の世界は問題だらけです。『わからない、どうしたらいいか、全くわからない、どうすればいいのでしょうか』と、多くの人々が思っています。けれど、聖書の中でも、同じようなことばが出てきます。『私は出入りするすべを知りません』と、ソロモン大王は告白しました。王様として、彼は、本当に正直でした。『私はできません。何も知らない。』彼は、自分の無力さを知るようになりました。


人間は、自分の無力さを知るようになると、絶望するか、祈るかのどちらかなのではないでしょうか。ソロモンは、祈りました。私は、小さい子供で、出入りするすべを知りません。どうか、聞き分ける心を僕(しもべ)に与えてください。聖書の報告とは、『主は、この祈りを聞いた時、嬉しくなった。喜ぶことができた』とあります。この願い事は、主の御心にかなったとあります。ソロモンは祈りました。意識して、主に頼ろうとしたのです。

今、読んできてくださった箇所は、よく知られている箇所です。シゲタ兄姉の軽井沢のセカンド・ハウスですか、その名前は、同じ名前です。エパタ。そして、シゲタ兄姉の切なる願いとは、家まで来る人々が、皆、主との出会いによって、救われ、導かれることです。

この箇所のために、ひとつの題名をつけようと思えば、だいたいいつも、同じ題名です。『主イエスと病人。』

イエス様は、いのちそのものです。イエス様の中に、喜び、平安、力が満ちています。それとは反対に、病人には、苦しみ、悩み、孤独、弱さなどが渦巻いています。そして、病人は、ここに出て来るオシと同じように、結局、病気のために、人間社会からは締め出されてしまっている。その意味で、イエス様と病人とは、お互いに相容れない関係にあるわけです。けれども、二人が一緒にならなければ、新しい救いの道を得られない。どうしても、一緒にならなければならない。イエス様は、病人のために来られたのですから、イエス様と病人とは、一緒にならなければならないのです。

健康な者は、医者を必要としないが、病人は、医者を必要とする。『悩んでいる人々、孤独になっている人々、困っている人々こそが、わたしを必要とする』と、イエス様は言い続けたのです。『わたしは、失われた者を見いだして、救いだすためにこの世に来た』と、イエス様は、自分の与えられた使命について、証ししてくださったのです。病人、すなわち、喜びと希望を失った者は、イエス様を必要とします。イエス様は、病人のために来られ、病人のために生きておられます。

ここに登場するオシでツンボの人は、耳と舌とを持っていたのですけど、あまり役に立たないものでした。使えないものだったから。口のきけない人、耳が聞こえない人とは、もちろん、悩む人々です。彼は当時、あちこち歩いた時、『あの人は誰、あの孤独な人は誰』と皆、解かったんです。淋しかった。もちろん、この人はただ単に表面的な外側の苦しみだけではなくて、心の奥底に悩みと苦しみを持っていました。耳と舌とを持っていましたけれども、使うことができなかったから。そうすると、使えなければ役に立たないのではないでしょうか。

このようにして、必然的に彼は、周囲の世界から切り離され、孤独になったから、そのことによって、外側の苦しみだけではなくて、心の悩みと苦しみとは、大きかったのではないでしょうか。

この人に対しては、多くの医者も、どうすることもできませんでした。長いあいだ、非常な苦しみと悲しみの中に閉ざされていたのです。この苦しみは、非常に深かったから、人間的な同情、人間的な慰めでは、どうすることもできませんでした。この病(やまい)は単なる空想や夢ではなく、恐るべき現実でした。

イエス様は、この病人をいったい、いかにして癒したのでしょうか。イエス様は、『彼を一人、連れ出した』と書いてあります。イエス様は、彼と二人だけになりたかったんです。この病人にとって、イエス様との出会いは、彼の一生を根本から変えてしまう転換点を意味していました。

私たち一人ひとりも、苦しみ、悩む時には、イエス様と二人だけになれる時間を持つようになれば幸せです。ただ一人になるということは、もちろん、あまりおもしろくない。恐ろしいほど、無力の状態に置かれることを意味しているのではないでしょうか。現代人は、ただ一人になることを恐れるため、テレビを見たりして、気を紛らわさざるを得ない。人間は孤独になることを欲しくない。その状態から逃げることを考えています。イエス様なく、一人でいることは、確かにもっとも恐ろしいことです。けれど、イエス様と二人だけでいることは、もっともすばらしいことなのではないでしょうか。

いろいろな問題、苦しみ、悩み、不安などに取り囲まれて、一人でいることは、確かにいやです。けれど、そこにイエス様が入ってこられると、喜び、力、平安に満ちた新しい変化が起こるのです。普通、イエス様が癒しをなさる時――だいたい、九十九パーセントでしょう――、みことばをもって、奇蹟を瞬間に行なわれましたけれど、この場合は、ことばではなくて行ないによって、病人に接近されました。

イエス様は、病人の両耳に指を差し入れ、それから、舌に触れました。それによって、もちろん、病人は解かった。イエス様が、耳と舌に触れることによって、何かをなさるということを、もちろん、感じました。

イエス様は、話し合いによって、病人に近づかれたのではなく、行ないによって、病人に近づかれました。それから、イエス様は、天を仰ぎ見ました。病人も、もちろん、イエス様がなさるのを見て、同じように天を見上げたことでしょう。そのことによって、病人は解かった。すなわち、本当の救いが、上から来るものであると解かったのです。それから、イエス様は、その人に、『開け!』と言われました。このイエス様のみことばは、もちろん、単なる音ではありませんでした。普通、人間が同じように言っても、それは単なる一時的な音にすぎない。すぐに消えてしまうけれど、イエス様のみことばは、そうではない。イエス様のみことばは、決して、単なる慰めや願望の言葉ではありません。

群衆は、オシが癒されたのを見て、ひとかたならず、驚いて言いました。(マルコ7章)37節ですね、『この方のなさったことは、みな、すべてすばらしい。ツンボが聞こえるようになって、オシを話せるようにしてくださった。』この男の人生は、イエス様との出会いによって、根本から新しく、造り変えられたのです。疑いと絶望とは、その瞬間に、いっぺんに消えてしまいました。それこそ、まさに、喜びと祝福に満ちた新しい『いのち』が生まれたのであります。このように、喜びと祝福に満たされた新しいいのちは、もちろん、誰にも提供されているすばらしい主イエス様の贈り物です。

聖書によると、生まれつきの人間の霊的な状態は、オシであり、ツンボですって。ちょうど、オシでツンボの男が、周囲の人々から切り離されていたのと同じように、主なる神によって新しく生まれ変わっていない人は、主なる神との交わりを持つことができない。断絶の状態に置かれています。

耳を持ち、舌を持っていても、耳が聞こえず、口のきけない人が、おおぜいいるのではないでしょうか。聖書は言っています。『耳のある者は聞くがよい。』この意味は、耳があっても、聞こえない可能性があり得るということです。このような状態について書かれている聖書を見てみましょうか。

イザヤ
6:9 すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』
6:10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」

主は、イザヤという預言者を通して語ったのであります。私たちは、主に対してツンボなのでしょうか。本当に動かない土台を持っているのでしょうか。孤独ではないでしょうか。

今の箇所から明らかなように、主なる神によって新しく生まれ変わった人々だけが、主のみことばを聞くことができる。自分のわがままを悔い改めたくない人は、みことばを心の耳で聞くことができません。もちろん、それは、決して、未信者だけではなく、信じる者であっても、気がつかない罪を犯している場合にも、みことばを聞くことができないということです。ソロモンという大王は、大切なことばを書いたのです。

箴言
28:13 自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。

隠さない者はあわれみを受ける。人間にとって必要なのは、それだけなのではないでしょうか。『主はあわれんでくださった』と言える人は、本当に幸せです。ヨハネは次のように書いたのです。

第一ヨハネ
1:9 もし、私たちが(・・・すなわち、もうすでに救われた人々が・・・)自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

自分の罪、苦しみ、悩み、煩いを主に告白すれば、結局、新しい喜びが与えられます。

『聞く耳と見る目とは、二つとも主が造られたもの(箴言20:12)』ですと、ソロモン王は、言ったのであります。また、イザヤは、言いました。

イザヤ
50:4 神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。

ダビデという王様は、悔い改めた結果、証ししました。彼の告白とは、次のものです。あなたは、私の耳を開いてくださいました。『あなたは、私の耳を開いてくださった』と、書いてありますけど、これはいったい、何を意味しているのでしょうか。これは、新しいいのちが贈り物として、与えられているということです。『あなたは、私の耳を開いてくださった』と、言える人は本当に幸せです。

【参考】詩篇
40:6 あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。

前に読みました病人は、以前はオシであったため、周囲の人々と話をすることができなかったけど、癒された後では、必ず、大声で賛美をし、イエス様を褒め称えたにちがいない。イエス様と出会って、救いの体験をし、意識的に罪の生活から離れている者は、ただ昼夜、イエス様を賛美し、証しをする幸いにあずかっているのです。パウロも、同じようなことを経験しました。

第一コリント
9:16 というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。

パウロは、こう言ったのであります。主の声を聞くことと、主を証しすることとは、平行して行なわれるものです。たとえば、『あなたの罪は赦されている、わたしはあなたを贖ったのだ』と、主の声を聞き、救いの体験を持った者は、必ず、そのことを証しせずにはおられない者となります。けれど、多くの人は、本当の出会い、救いの体験を持っていないため、主の証し人となることが少ないのではないでしょうか。

なぜ、当時の病人は癒されたのでしょうか。耳が聞こえず、口のきけない人が、何人かの人々によって、イエス様のみもとに連れて来られたからです。

マルコ
7:32 人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるように願った。

主に祈ったんです。したがって、この病人にとっては、それらの人々の手助けが、どうしても必要でした。つまり、このように、みじめな哀れむべき病人を助けた人々が、そこにいたのです。彼らは、望みなき者を、イエス様のもとに連れて来ました。彼らは、また、この病人のために祈ったんです。『手を置いてやっていたただきたい』と、彼らは心から祈りました。彼らは、イエス様が、その病人にさわれること、そして、それと同時に病が癒されたことを、もちろん信じました。

イエス様は、いのちそのものです。そのいのちであられるイエス様が、病人にさわると、病気は逃げてしまいました。イエス様は、いのちそのものです。そのいのちであられるイエス様が、病人にさわると、もちろん、病人は癒されます。病気が癒され、病人は健康になることができるのです。

私たちは、病人をイエス様のみもとに連れて来た人々と同じ者であると言えるのでしょうか。私たちも、イエス様が病人にさわられるようにと、病人のために手助けをしているのでしょうか。私たちは、自分自身のことに忙しく、悩んでいる人々をイエス様のみもとに連れて行く時間すらないということが、しばしばあるのではないでしょうか。すなわち、私たちは、悩んでいる人々に対して、心の目を開いているのでしょうか。あるいは、閉ざしているのでしょうか。もしも、心の目を開いているならば、悩んでいる人々を、一人でも多く、主のみもとに連れて行かなければなりません。

イエス様にとって、不可能なことはありません。だから、祈るべきなのではないでしょうか。『イエス様、どうか、家の親、家の主人、子供、友人に手を置いてやってください』と、心から、主にお願いし、祈らなければならないのではないでしょうか。私たちは、救われていない人々に対して、無関心であったり、無責任であったりすることは許されません。その病める人に対して、主が我々を通し、主の大いなる御業(みわざ)を表すための器となり、通り良き管となることこそ、いちばん、大切なのではないでしょうか。

イエス様が我々をお用いになる秘密は何でしょうかね。

イエス様は、我々の模範なのではないでしょうか。何と書いてあるかと言いますと、『主イエスは天を仰いだ』と、記されています。このことは、イエス様自身が、自分の力によらず、父なる神にすべてをゆだねられたことを意味します。このように、私たちも全く、主により頼むならば、いかに苦しい状態であっても、主に対する目が開かれ、新しい道が開かれます。けれど、主により頼まないないならば、他の人々の苦しみや悩みを通して、目が開かれることがない。そして、私たちが、悩んでいる人々をイエス様のみもとに連れて行き、その人々がイエス様と出会い、交わりを持つことができる時、本当の救いが体験され、豊かな祝福を得ることができるのです。それは、主の一言によって行なわれるのです。

私たちは、他の病人――ここではオシですけれど――彼らに向かって、癒しのことばを語ることができるのでしょうか。あるいは、このオシのようにだまっているのでしょうか。

イエス様は、常に変わることのないお方です。すべての力がイエス様によって、自由自在に用いられるのです。我々の周囲にある苦しみや悩みは、ますます、大きなものとなりつつあります。私たちは、主の妨げとなることなく、主の器として用いられるように祈れば、主は、必ず応えてくださるのです。

前に、ひとつのドイツ語の歌を紹介したことがあります。あの歌を始めて読んだ時、もうびっくりして、深いことを思うようになりました。その元なることばとは、エレミヤ書の八章二十節です。

エレミヤ
8:20 刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。それなのに、私たちは救われない。

こういうことばでもって、アレキサンダーというスイスのゲンフの神学校の校長先生が作った歌です。

恵みの時は、終わりに近づいている。
広い世界に今や、静かに終わりの日が近づいている。
遠い裁きの底から、不安の叫びが聞こえてくる。
私たちの真っ暗な夜には、決して、光が差し込まない。
私たちを照らす神の恵みなくしては、
私たちは苦しみと闇の中、
暗い道を行かねばならない。
永遠に、永遠に。

あなたたちは歌い、喜びに満ちている。
自分は神の子であるという。
私たちは、死のいけにえであり、
恐怖に満ち、ひどい苦しみに満ちている。
あなたがたは、なぜ、立ち止まっていて、
夜の始まる今、私たちを救おうとしないのか。

あなたがたは、なぜ、神様がそのひとり子を遣わして、
自分たちを愛していることを教えないのか。
あなたがたのおかげで、自分たちはそれを知らずに、
希望なく、滅び行くのだ。
自分たちは、死ぬために生まれたのであり、
死は永遠から永遠に至る我々の運命なのだろうか。

私たちには、星が輝かない。
約束の光も照らされない。
遠くの方に裁きの雷が聞こえる。

なぜ、なぜ、あなたがたは急がないのか。
神は、『行って、全世界に十字架の勝利者を述べ伝えよ』と、言っているのに。
あなたがたは、私たちのあわれな心のために、
喜ばしき知らせを持っている。
傷を癒す薬、苦痛を永遠に癒す薬を持っているのに、
なぜ、そんなに長く、沈黙しているのですか。

あなたたちの信仰の岩に至る道を示すことばを、
私たちに聞かせてください。
私たちの涙をぬぐってください。
私たちが、死につくのもあなたがたのせいです。
私たちの罪は悩ませ、夜は近づいています。
私たちは、私たちの魂をサタンの力に与えなければならない。
永遠に、永遠に。

遠くの国々から、幾百万という人が、
『収穫の主よ、聞きたまえ』と呼んでいる。
私たち信者に、新しい恵みを与えてください。
私たちの罪を赦してください。
待ち焦がれている魂のところへ、
十字架のことばを運ぶ者と成さしめたまえ。
彼らが永遠に滅びないように。

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