2012年3月6日火曜日

主イエス様に喜ばれる人生の秘訣[二]

主イエス様に喜ばれる人生の秘訣[二]
2012年3月6日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

今、読んできてくださった箇所は、信じる者にとって、間違いなく一番、大切な言葉なのではないかと思います。

パウロは、このみことばの一節で、個人的な証しをしています。二千年以来、この証しによって、あらゆる国の信者は、大いに祝福されたのであり、今日も、臨在しておられるイエス様は、このみとこばを通して、我々をも祝福なさりたいと、思っておられます。


パウロが証ししている最初の真理は、次のようなことです。すなわち、信者の人生が、全く新たなる人生であるということです。すなわち、それは、新しく生まれ変わることによって、上から与えられるいのちです。イエス様は、新しく生まれ変わることの必要性を、極めて明確にしてくださったのです。有名なヨハネ伝三章三節、『人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』この改心は、人間の努力の結果ではなく、もっぱら、聖霊の成してくださる御業そのものです。

パウロは、イエス様を信じたすべての人々を迫害する者でした。けれど、復活なさったイエス様は、彼に出会ってくださり、その瞬間、彼は、自分が今まで考えていたことは、根本的に間違っていた、また、今まで歩んだ道も間違った道であることを、いっぺんに悟りました。けれど、パウロは、そのことを正直に告白することができるほど、正直な人でした。パウロは降参して、イエス様を自分の内に受け入れたんです。古きいのちは、十字架につけられ、債務は帳消しにされ、罪は赦され、贖われた。

新しく造られた者とは、全く新たなるいのちを持っています。この新たなるいのちとは、もちろん、永遠のいのちであり、イエス様ご自身です。『わたしこそ、いのちそのものである』と、イエス様は言われました。

第二の真理は、信じる者の人生は、肉の内にある人生であるということです。肉にある人生は、試練、苦しみ、悩み、痛みをもたらします。けど、自分自身に対する自分の権利を放棄する準備のできている人は、主の力、すなわち、守ってくださり、活力を与えてくださり、高めてくださる、主なる神の力を経験します。

第三の真理は、信じる者の人生は、絶えざる勝利の人生であるということです。私たちは、このガラテヤ書二章二十節を読むと、勝利の喜びを感じることができます。けれど、イエス様のいのちは、いかなる失望も、落胆も、失敗も知りません。それは、勝利のいのちなのですから。この克服しているいのち、勝利のいのちは、我々のためにも、もちろん備えられ、提供されています。パウロは、このいのちが、実際にどのようなものであるか、我々に告白しています。『私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはない。途方に暮れていますが、行き詰ることはない。倒されますが滅びません。』すごい証しです。

第四の真理は、信じる者の人生は、信仰の人生であるということです。多くの人々の問題は、彼らが信じたいと思わないことです。けれど、信仰なしには、主に喜ばれる人生を送ることができません。全く不可能です。信仰の対象は、言うまでもなくイエス様です。信仰の土台は、神のみことばである聖書です。パウロは、次のように証ししています。『私は神の御子を信じる信仰によって生きている』と。

信仰とは、いったい、何を意味するのでしょうか。主の約束を真理として認め、信頼することです。私たちは意識して、みことばに頼り、主が仰ることを信じ、その上で、それに基づいて、主の言われたとおり行動します。私たちは、幼子のように信じることができます。なぜならば、主は、偽ることがおできにならないお方であるからです。

私たちが救われた時の最初の経験は、みじめな、滅び行く、罪深い、どうしようもない者としてイエス様に祈ったということです。なぜ主に祈ったかと言いますと、イエス様だけが我々の身代わりになってくださり、私たちのために、身代わりとして、ご自身のいのちを捧げてくださったからです。罪なき方が、我々の身代わりとなってくださり、死刑の罰をご自身の身に受けてくださいました。信じる者の最初の経験は、結局、そういうものでしょう。イエス様は、罰をご自身の身の上に受けてくださり、そのような恥を恥とは思わず、流された血潮によって、我々の罪と債務は贖われたのです。イエス様を受け入れた者は、このことを、ご自分の経験として、証しすることができます。これこそが、我々の喜びと平安の根拠でもあります。

信じる者の生活の初めは、私たちが、イザヤ書五十三章を、身をもって、自分自身にあてはめることができる時に始まります。一節だけ、読みます。イザヤ書、五十三章五節を、『主イエス様は、私の背きの罪のために刺しとおされ、私の咎のために砕かれた。主イエスへの懲らしめが私に平安をもたらし、主イエスの打ち傷によって私は癒された。』こういうふうに、複数形ではなくて、単数形でお読みになれば、本当にありがたいのではないでしょうか。

【参考】イザヤ
53:5 彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

イエス様は、我々の罪深い、望みなき状態をよく御存知でした。そして、また、罪が罰せられなければならないということも、もちろん、イエス様は知っておられました。罰せられることなしには、罪の赦しはあり得ない。これが、主なる神のご判断です。それですから、イエス様は、私たちのために罰をご自身の身に受ける決心をなさってくださったのです。代わりに死なれたイエス様こそが、考えられない比類なきお方です。結局、イエス様は、私のために、ご自身でご自分のいのちをお捨てになってくださいました。イエス様を信じるということは、私たちがこの事実を信じ、自分のものにし、そのために感謝することを意味します。

主なる神の愛は、イエス様が我々の代わりに罰を受けてくださり、ご自分のいのちを捧げてくださったことを通して、明らかになったのです。『神の御子は、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった。』このようにパウロと共に言うことができれば、本当に幸いです。けど、主は、ただ単に世を愛されただけではなく、神の愛は、一人ひとりの人間に向けられている。今日、ここでお集まりになったお一人おひとりが、主の大いなる愛の対象そのものであると聖書は、はっきり言っています。

主なる神に喜ばれる人生の秘訣としての、第二番目の大いなる事実は、次のようなことでしょう。イエス様が私たちから、我々の自己に支配された生活を取り去ってくださり、私たちを自己中心的な生活から解放してくださったということです。イエス様は、私たちのために、十字架で死んでくださった時、ただ単に私たちのためにご自身を捧げてくださっただけではなく、我々を自己中心的な生活から、解放してくださいました。パウロは、次のように、証ししています。主イエス様が十字架で死んでくださった時、私もまた、主と共に死にました。イエス様の死にあずかることによって、私たちは、私たちの自分自身の自己追及的な、自分勝手な罪深い生活から解放されるべきです。

ここで大切なことは、私たちが理解したり、感じたりすることではなく、事実そのものなのです。生ける主は、この事実を、次のように証ししています。主イエスが死んでくださった時、罪の力は破られました。信じる者は、もはや、罪の中に留まることも、罪の中に生きることも、必要ないということです。

ローマ
6:1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
6:2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
6:9 キリスト(・・・主イエス様・・・)は死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリスト(・・・イエス様・・・)を支配しないことを、私たちは知っています。
6:10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

『死んでしまった者は、罪から解放されている』と、ここで書かれています。死者は、もはや、罪を犯すことができません。死者は、もはや、常軌を逸することはできません。死者は、もはや、愛のない態度をとることはできません。死者は、もはや、嘘偽りを言うことができません。もしも、誘惑が、我々に近づいてくるならば、私たちはイエス様のところに逃げて行き、次のように言うことができます。『イエス様、私はあなたと共に、私の古い自己的な生活に別れを告げ、古い自分は死にました。私はもはや、私のことを考える必要はないことを感謝します。どうか私を守り、導き、助けてください。』私たちは、この態度を取る時、主の勝利にあずかる者となるようになります。

世界的な有名なジョージ・ミュラーという男は、かつて、ドイツから、イギリスに渡るようになり、そこで、大勢の孤児たちのために、孤児院を造りましたが、そこで、彼は、数々の不思議な主の御業(みわざ)を経験したのです。彼は、ある時、自分の祝福された人生の秘訣について、訊かれたことがありました。その時、彼の答えは、次のようなものでした。『ある日、私は、古い自分が死んだことを経験した。その時から、もはや、自分自身のこと、すなわち、自分が考えたり、欲したり、感じたりすることは、もはや、大切ではなくなりました。なぜなら、私は、自分に対して死んだからです』と。

最後に、主なる神に喜ばれる人生の秘訣としての大いなる事実について、考えてみましょう。それは、次の事実です。主イエス様が、私の内に生きておられるということ、したがって、主のいのちが、私の内に生きておられるということです。イエス様は、ただ単に、私のために、ご自身のいのちを捨ててくださっただけではありません。イエス様は、ただ単に、自己中心的な生活から、私を解放してくださっただけではありません。イエス様は、私の内に生きておられるのです。だから、パウロは喜んで証ししたのですね。

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

パウロがよみがえられたイエス様に出会った時、彼は降参し、自分の全生涯をこのイエス様に明け渡すことをいたしました。その時、すべてのものが新しくなったのです。すなわち、真(まこと)の喜び、本当の平安、生ける望みが彼を満たしたのです。イエス様こそが、全てを新しくしてくださいました。しかし、パウロについて、言われ得ることは、新しく生まれ変わったすべての人についても、言われ得るのです。我々の証しとは、いったいどうあるべきなのでしょうか。『私は、いわゆるキリスト教の中に入ったのでもなければ、何かひとつの教えを受け入れたのでもありません。生ける真(まこと)の神が、イエス様を通して私の内に住むようになりました』と。

あらゆるキリスト者にとって、主のご目的は、イエス様のいのちが一人ひとりの中に生き、その一人ひとりの中で、自由に働くことができることです。パウロは、次のように証ししました。『私にとっては、生きることはキリスト』、『あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み』、『私たちのいのちであるキリスト』云々と、あります。

マルティン・ルターという男は、かつて、次のように言ったことがある。『もし、誰かが、私の心の戸をたたいて、この中に誰が住んでいるの』と尋ねるなら、『ここには、イエス・キリストが住んでおられます。以前には、マルティン・ルターがいましたが、彼は死んで、今やイエス・キリストがおられます』と、宗教改革者であるルターは答えたそうです。私たちが成すべきただひとつのことは、生ける真の神がお語りになることを、素直に信じることです。主が仰ることは、それを、私たちが理解しようが、しまいが事実です。

三つの大いなる事実を、私たちは、今まで、学んでまいりました。第一番目、イエス様が死んだ時、主は、私たちのために死んでくださった。第二番目、イエス様が死んだ時、私たちは、主とともに死んだということ。そして、第三番目、イエス様はよみがえられた方として、我々の内に、聖霊を通して生きたいと願っておられるのです。生ける真(まこと)の神は、主の語られることを、私たちが信じることを期待しておられます。そして、また、生ける真の神は、私たちが、喜んで次のように主に答えることを望んでおられます。すなわち、『私たちは、主が私たちのために死んでくださったことを信じます。私たちは、イエス様とともに、死んだことを信じます。そして、私たちは、イエス様が今、私たちの内に生きておられることを信じます』と。『私は、あなたのみことばに頼り、信頼します。私は、みことばをはっきりと理解することができます。何も感じることができません。けど、あなたがそのように仰っておられ、あなたのみことばが真理です。』

ガラテヤ
6:14 私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。

十字架におけるイエス様の贖(あがな)いの御業によって、私たちは救われ、真(まこと)の平安と、どうしても必要な罪の赦しが与えられました。それですから、パウロは、次のように歓喜の声をあげたのです。『キリストは、私を愛し、私のためにご自身を捧げてくださった。』しかし、この十字架は、キリスト者の生活の中で、働くことができなければなりません。十字架の働きの結果は、ますます、自分の罪深さを認識するようになり、次のように叫ばざるを得ないのです。『わざわいなるかな、私の内に良いものは何ひとつない。私はもはや、少しも自分に信頼できませんし、誇るべき何ものも持っていません』と。

信じる者にとって最大の敵は何でしょうか。もちろん、それは自分です。自我です。聖霊の働きを妨げるものは、自己中心の生活、すなわち、自分の意思、自分の願い、自分の感情です。主は、強制的に人を救おうと思っていません。また、自己中心の生活をやめることを、誰にも強制なさいません。救われたくない者は、主の怒りに留まります。自己中心の生活を捨てたくない者の人生は、絶えず、上がったり下がったりし続けます。自分勝手に生活し、自分の名誉を求め、自分自身の権利を放棄したくない者は、惑わされて、また、他人を惑わします。それですから、イエス様が、私たちの古い人と共に十字架につけられた。私たちの、『自己追求的な自我から解放された』という事実は、聖書の喜ばしい知らせです。

イエス様は、私たちを主の栄光のためにお用いになりたいと、切に願っておられます。実際、主は、主を信じる者を誰でもお用いになりたいと思っておられます。奉仕の条件とは何でしょう。用いられる条件とは、秘密とは、何でしょうか。今日いっしょに学んだ、ガラテヤ書二章二十節です。もう一回、読みましょう。

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

どうか自分自身に対する、また、あなたの権利を断念し、そうすれば、あなたは新しい歩みをすることができ、新たなる霊でもって、主に仕えることができるようになります。主が、私たちすべての者に、日々、そして、一瞬一瞬、主に喜ばれる人生を賜(たま)わりますように。

最後にまとめましょう。主に喜ばれる人生の秘訣とは、一番目、全く新たなる歩み、二番目、死ぬべきからだでもっての歩み、三番目、絶えざる勝利の歩み、四番目、信仰の歩み、五番目、ご自身を捧げてくださったイエス様、六番目、自己追求的な生活から解放された私たち、そして、七番目、私たちの内に生きておられるキリストです。

おわり

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