2012年2月7日火曜日

主イエスとその弟子

主イエスとその弟子
2012年2月7日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

マルコ
1:16 ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
1:17 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
1:18 すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。
1:19 また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。
1:20 すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。


マルコ
2:13 イエスはまた湖のほとりに出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。
2:14 イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。
2:15 それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。
2:16 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」
2:17 イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

マルコ
3:13 さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。

今日の集いも、いつもと同じように、勉強するための集いではなく、イエス様を紹介するための集いであります。

聖書の呼びかけとは、本物のイエスから目を離さないでいなさい。人間は確かに、簡単に惑わされます。人間によって作られた宗教に入っている人々とは、皆、騙されています。本物のイエス様は、どういうお方でしょうか?もちろん、要求するお方よりも、与えたいお方です。偽者ではなく、本物です。また、イエス様は、導きたい、教えたい、守りたいと、望んでおられます。本物のイエス様は、確かに、人間の罪とわがままを明るみに出すお方です。けれど、『明るみに出された罪は赦され、忘れられている』と聖書は言っているのです。本物のイエス様は、近づきたいお方であり、聞く耳を持つお方であり、応えてくださり、恵もうと望んでおられるお方です。そして、間違いなく、本物のイエス様を仰ぎ見ると、結果として、礼拝せざるを得なくなります。

今、読んできてもらいました箇所の中心になるのは、もちろん、イエス様です。そして、当時、イエス様と一緒に歩いた、イエス様に従った弟子たちです。イエス様は、『ただわたしについて来なさい。』理由としても、はっきり言われました。人間をとる漁師にしてあげよう。『あなた方を用いたい』と、主は願っておられます。そして、今、読んだ箇所を見てみると、「すぐに」という表現が、何回も出てきます。「彼らはすぐ、網を捨て置いて従った、」「すぐに、イエスについて行った、」「立ち上がって従った、」「おおぜいいて、イエスに従っていた」云々と、あります。

どうしてついて行ったかと言いますと、絶対に後悔しないと思ったからです。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。すなわち、イエス様に従うようになった人々とは、結局、自分のみじめさ、罪深さを、はっきり、解かったんです。

マルコ伝3章13節ですね。イエス様は、どうして彼らを選んだか、呼びかけてくださったかと言いますと、二つの理由です。彼らを身近におき、また、彼らを遣わして福音を述べさせるためです。「おいで、おいで。」それから、「出て行け。」イエス様のところに行った人々とは、結局、イエス様を紹介するためだったにちがいない。

福音書を見るとはっきり解かるのは、イエス様のいわゆる呼びかけとは、いつも、二種類の呼びかけでした。結局、救われるため、それから、弟子になるためです。救われることとは、生ける真(まこと)の神の子となることであり、そして、イエス様の弟子の務めは、イエス様を紹介することです。このマルコ伝全体が言わんとしていることは、イエス様を大いなる僕(しもべ)として、特徴づけることです。

これに対して、マタイ伝では、イエス様は、王として紹介されています。ルカ伝では、イエス様は、人間として描き出されています。そして、ヨハネ伝では、イエス様は、神の御子として、約束された救い主として、特徴づけられています。けれど、マルコ伝においては、初めに述べたとおり、神の僕(しもべ)としてのイエス様が、同労者たちを、結局、弟子たちを、探し求めておられることが描かれています。

イエス様の同労者であり、また、弟子とは、イエス様と共に奉仕する備えのできている人のことを言います。そして、このマルコ伝では、イエス様が、弟子たちに呼びかけて言われることが、はっきりと描き出されています。すべての中心人物は、言うまでもなくイエス様です。

イエス様は、呼びかけておられるお方です。中心人物とは、もちろん、イエス様であり、呼びかけておられる主イエス様です。今、読んだ箇所を見ても、いろいろな動詞が出てきます。イエス様は、常に、まず初めに行動なさり、率先して、行動を起こされる方であることが解かります。最後に読んだ箇所、三章の十三節、『イエスはご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられた』とあります。また、前に読んだ箇所ですね。一章十六節、十九節、二十四節、「イエスはご覧になった、」「イエスはご覧になった、」「イエスはお呼びになった」云々と、何回も出てきます。

イエス様は、ザアカイ、また、サウロの名前をお呼びになったように、弟子たちに対しても、決まった名前をお呼びになられた。このことは、非常に大切な意味を持つのではないでしょうか。なぜならば、イエス様と私、イエス様とあなたというふうに、イエス様との一対一の関係こそ、非常に、大切な関係であるからです。

また、人間がイエス様を選んだのではなく、イエス様が人間をお選びになって、その中に入って、関わりを持ってくださったからです。今日(こんにち)でも、人間の力によっては、また、人間の決定によっては、救われることはありません。主イエス様が我々の心の目を開いてくださり、自分の本当の姿を、イエス様によって完成された救いとを明らかに示してくださるのです。イエス様の呼びかけとは、いつも、すごい呼びかけです。皆さん、暗記している箇所でしょう。

マタイ
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

罪人のために、助けを求めている人のために、絶望している人のために、イエス様はおられます。悔い改めと信仰をとおして、イエス様の現実と救いが明らかになるのです。けれども、悔い改めと信仰は、決して、人間からやって来るものではなく、まさに、上から与えられた賜物です。それですから、信じる者とは、この贈り物を喜んで受け取った人であると言えます。

受け入れたかどうかこそが問題です。我々の人生にとって、いったい何が、どうしても必要なのでしょうか。一番、大切なことは、もちろん、真(まこと)の救いにあずかることです。救われることです。そのために、いったい何が必要なのでしょうか。

まず、第一に、自分の救われなければならないという必要を知ることです。第二に、人間的な努力は空しいということを知ることです。すなわち、自分も他人も、決して、自分を救うことができないということです。すべて、人間的な努力は、見込みなく、望みなきものです。

聖書が言っている救いとは、人間の思っている幸せではないでしょう。罪の問題の解決です。罪のゆえに、主なる神の怒りのもとにある人間は、主との平和を持ち、債務が支払われ、罪が赦され、永遠のいのちを持つと、聖書は言っているのです。けれど、これは人間や宗教によってではなく、イエス様によってのみ与えられるのです。なぜならば、イエス様は、罪に対する父なる神の裁きの的になられ、ご自身の聖い尊い血によって債務を支払い、罪を赦してくださったのです。この真理の事実を受け取る者は救われているのです。神との平和、罪の赦し、永遠のいのちを持つことができるのです。

すべての人間は、自分の力で罪の問題を解決することはできないため、どうしても、イエス様が必要であると、告白する状態に至らなければなりません。「主よ、私はどうしようもない者として、あなた様の御許にまいります。あなたが私の罪の問題を解決してくださり、私を贖ってくださったことを、心から感謝いたします。」このように、イエス様に向かって言うことができる人は、本当に幸せです。

もう一回、まとめましょうか。創造主なる神の子供となるために、二つのことが必要です。第一は、主なる神の言われることを認めることです。第二に、イエス様を意識して受け入れることです。

主なる神は、何と言っておられるのでしょうか。主は、絶対に癒されない罪の病(やまい)、それは、全く改善の望みがないと言っています。けれど、イエス様は、我々の身代わりになってくださいました。そして、イエス様が成してくださったことは充分です。

人間の考えていること、思っていることとは、そんなに大切ではない。聖書は何と言っているか。黙示録の一番、最後の二十二章の十七節の後半を見ると、次のように書かれています。『いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい(口語訳)。』

ここでいのちの水とは、イエス様による救いの贈り物に他ならない。ここで、『ほしい者は受けるがよい』と記されています。本当に欲しいかどうかが問題です。欲すれば、受けるにちがいない。けれど、欲しいと思わなければ、ちょっと大変、将来は真っ暗闇です。イエス様は永遠のいのちを与えるために、決して、強制なさいません。欲しければ与えられます。欲しくなければ、大変なことになる。欲しい者は受けると約束されています。受ける者は持つのです。すなわち、その人は神との平和を得、罪の赦しを受け、主なる神の子供とされた喜びを持ち、永遠のいのちを持つことができるのです。

イエス様の呼びかけとは、いったい、どういうものだったでしょう。

すなわち、弟子となるように。『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう』と。このイエス様の呼びかけとは、いったい、何を意味しているのでしょうかね。私たちは、救われるために救われているのではない。仕えるために、用いられるために、救われていると、聖書は、はっきり言っているのであります。

救われていることは、まだ、救われていない人々をも、救いたいという思いを持つことです。まだ、救われていない人々を救いたいという切なる思いが欠けている場合には、その人の信仰は、ちょっと、疑わしいものではないでしょうか。

イエス様は、救いを受け入れるように、重荷をおろしてあげようと、呼びかけられた後で、ご自分に仕えるようにとも、呼びかけられているのです。けれども、イエス様に仕えるということは、いったい、どういうことでしょうか。それは、あれこれ、行なうということではなく、イエス様に従って行くことを意味します。それでは、いったい、主イエス様に従って行くこととは、いったい、どういうことでしょうか。イエス様について行くとは、自分自身を否定すること、自分自身を捨てることを意味します。

マタイ
16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」

『いのちを救おうと思う者はそれを失う』と記されています。日本語の訳には、「いのち」という言葉が使われています。原語ではちょっと違う。「いのち」ではなくて、「魂」となっているのです。自分の魂を救おうと思うということは、自分勝手な道を歩んで行くことを意味します。いわゆる魂の働きとは、まず、第一に考えること、第二に感じること、そして、第三に欲することです。したがって、自分自身を否定するということは、自分の考えや、自分の感情や、自分の意思を支配させないことです。それに対して、魂を失うということは、自分自身の意思を心の座から降ろし、イエス様をそこに、第一の座に着けることです。これがなければ、決してイエス様に従って行くことはできません。

イエス様について行くこととは、自分自身を否定すること、自分自身を捨てることだけではなく、自分自身を憎むことを、意味しています。

ルカ
14:26 わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。
14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。

これは、もちろん、救われる条件ではなくて、イエス様に用いられる条件であります。『自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。』用いられる器になり得ない。

自分を憎むこととは、自分自身に対して、信用をおかないということが、どうしても必要です。自信に満ちた態度がダメにならないと、主に従うこともできません。『イエス様なしには、一歩も進むことができない』というふうにならなければなりません。イエス様は、よく証ししました。イエス様のことばは、『わたしは、自分の力だけではどうすることもできない』と、言っておられました。

イエス様の思いだけを大切にしないと、妨げになります。ところが、自分自身を信用しないどころか、自分自身を憎まなければ、わたしに従うことができないとイエス様は言っておられます。いったい、どうして、聖書は『憎む』というような、非常に厳しい言葉を使っているのでしょうか。パウロの答えは明確でしょう。ローマ書、七章十八節です。もちろん、パウロは救われて、主の恵みにあずかるようになった。何年間も、イエス様に仕えるようになったパウロの証しです。七章十八節、『私の肉のうちに善が住んでいないのを知っている』と、言っています。イザヤ書の中で、内容として、もちろん、同じようなことが書いてあります。

イザヤ
55:8 わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――
55:9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

これは、もちろん、信じる者、イスラエルのために言われたことばです。ペテロのことを見てみましょうか。

マタイ
16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
16:22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
16:23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

ペテロはイエス様を信じていたにもかかわらず、イエス様から十字架を取り除こうとしたときに、イエス様は、「サタンよ、引き下がれ」と、言われました。なぜ、そんなことになったのでしょうか。その時、ペテロは、本当の意味での弟子ではなかったのです。ペテロの目的と動機は、決して悪くなかったよ。けれど、ペテロが人間的に考えて、人間的に行動したから、イエス様は、「サタンよ」と、厳しいことばを発せられました。

すべてのことにおいて、『私の思いではなく、主の御旨が行なわれますように・・・』という思いをもって、行動しなければならないのではないでしょうか。自分の思いを捨て、主の御心だけを大切にすることが、どうしても必要です。マタイ伝の二十六章の三十九節、イエス様の耐えざる祈りとは、それなんです。

マタイ(口語訳)
26:39 わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい。

マタイ(口語訳)
26:42 どうか、みこころが行われますように。

イエス様に従うこととは、毎日、自分の意思と思いとを主に明け渡すことを意味します。さらに、ここで、自分自身を憎むということだけでなく、自分の家族をも、憎まなければならないと記されています。

ここで、自分の家族を憎むということは、本当に、自分の家族を無視して、全く顧みないということを意味しているのでしょうか。当たり前のことですが、私たちはひとつの問題について考えると、聖書から適当に一箇所だけを選んで、こう書いてあるではないかという態度をとることは危ない。非常に、危ないことです。何があっても、『この箇所だけではなくて、聖書全体が何と言っているのか』と思うべきなのではないでしょうか。

言うまでもなく、主は、人間一人ひとりの救いよりも、全家族の救いを、心から願っておられます。そうすると、家族を憎むとは、いったい、どういうことでしょうか。全く、反対らしいものが、テモテ第一の手紙に書かれています。

第一テモテ
5:8 もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。

このことばと、前のことばとは、一見したところ、全く正反対のことを言っているように見えます。聖書は、はっきりと、私たちが家族を大切にし、尊敬しなければならないと言っています。しかしながら、それと同時に、『私たちは、人間に対してよりも、主に対して、より忠実に従うべきである』と聖書は、はっきり言っているのです。主、また、主のみことばを第一の座につける者は、必ず、家族を大切にします。けれど、家族だけを大切にする者は、結局、主を否定するようになります。イエス様は、次のように言われました。

マタイ
10:34 わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
10:35 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
10:36 さらに、家族の者がその人の敵となります。
10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
10:38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

家族が救われることを望む者は、家族を捨てるべきであるとありますね。意味は、曖昧な態度と妥協によっては、救いは成就しない。百パーセント、主の側に立たなければなりません。すなわち、イエス様に従うということは、自分自身、および、家族を否定し、憎み、イエス様を第一にすることになります。妥協のない態度をとると、主は、まちがいなく、あふれるばかりの祝福を与えてくださり、家族も、必ず約束どおりに導かれ、救われます。

おわり

0 件のコメント:

コメントを投稿