2012年2月12日日曜日

ベッサイダの盲人とイエス様

ベッサイダの盲人とイエス様
2012年2月12日、吉祥寺福音集会 
ゴットホルド・ベック

マルコ
8:22 彼らはベツサイダに着いた。すると人々が、盲人を連れて来て、さわってやってくださるようにイエスに願った。
8:23 イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、「何か見えるか。」と聞かれた。
8:24 すると彼は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」と言った。
8:25 それから、イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。

今日も、イエス様を紹介することができるのは、本当に感謝です。イエス様だけを、紹介するべきなのではないでしょうか。

ダビデという王様は、心から叫んだか、祈ったか、分からない。主よ、私たちではなく、あなたにだけ、栄光がありますようにと告白したのであります。この態度こそが、まことの礼拝なのではないでしょうか。我々の主イエス様とは、もちろん、あまりに偉大ですから、想像することができない。もちろん、理解することもできない。けど、我々は恵まれた者として、信じるようになったのは本当に感謝であります。


人間は確かに簡単に惑わされます。人間は、どのような宗教に入っていても必ず、遅かれ、早かれ、分かる。すなわち、だまされた。だから、聖書の命令とは、イエスから目を離さないでいなさい。離す瞬間、落ち込みます。惑わされます。イエス様とは、もちろん、おもに人間から要求するお方ではなく、与えたいと望んでおられます。言うまでもなく、ニセ物ではなく、本物を与えられるのは、イエス様しかいない。そして、今日の今、読んでもらいました箇所を通しても、イエス様は、やはり、どういうお方であるか、知ることができるのではないでしょうか。

イエス様は目に見えるものだけではなくて、人間には見えないものをも、もちろん、見ることができるお方です。イエス様は、人間の心の奥底にある思いや、感情を見ておられるお方です。

けども、ここに出てくる盲人は、ちょうど逆なんですね。周囲の世界から分けられ、人々とゆっくり話すことも、交わることもできない。まったく、孤独な状態でした。この盲人とイエス様とは、そのような事情からして、相容れないことは明らかではないでしょうけど、イエス様と一緒になればいっぺんに変わる。イエス様はいつ、いかなる場合にも、決して、望みいき状態に陥ることはない。それに対して、盲人は、光無く、望みの無い状態だけしか知らない者であります。けども、このイエス様と盲人は、お互いに相容れない正反対の関係にあるにも関わらず、両者はひとつにならなければならない。もし、そうでなければ、盲人の人生は、まさに悲劇そのものに終わってしまうから。

このようにして、イエス様が盲人にさわること、盲人との出会いが、大切な問題となってくるわけです。イエス様は言われました、『わたしは、失われた人を捜して救うために――納得させるためではない――救うために来たのです』と。イエス様の変わらない喜びとは、招きのことばとは、すべて疲れている人、孤独になっている人はおいで。わたしのところに来なさい。間違いなく、休ませてあげます。

マルコ
8:22 彼らはベツサイダに着いた。すると人々が、盲人を連れて来て、さわってやってくださるようにイエスに願った。

この節によると、イエス様がベツサイダに来られたことが分かるけど、イエス様はそのとき、ベツサイダの人々に食べ物や住まいのことについて用意させることはなさいませんでした。実際は、彼らが、イエス様に対して全く無関心であると言った方が正しいのではないでしょうか。

彼らは、自分たちではどうすることもできない、全く絶望的に思われる者、すなわち、ひとりの盲人を、イエス様のみもとに連れてきました。彼らは、イエス様にとって不可能なことはないということをよく知っていたからです。病人も、イエス様との出会いを経験すればいやされるということも、分かったのです。

このマルコ伝を読むと、もちろん、多くの癒しについて書いてあります。例えば、1章の31節を見ると、イエス様がシモン・ペテロの姑に現れたとき、熱病はいやされ、熱が引いたとあります。41節を見ると、らい病人に触られると、らい病はただちに去って、その人がきよめられたと、書き記されています。それから、5章の41節を見ると、死んだヤイロの娘にさわられると、その少女はすぐに起き上がって、歩き出したとあります。7章32節を見ると、イエス様が耳が聞こえず、口の聞けない人の耳と舌にさわられるとき、すぐに彼の耳が開き、舌のもつれも解けて、はっきりと話すようになったとあります。9章27節を見ると、悪霊にとりつかれた人の手を取ると、その人は正気に戻ったと書いてあります。

このようにイエス様が病人に触られると、病気はすぐに退散してしまった。イエス様は、この盲人の手を取りましたと、書いてありますね。

マルコ
8:23 イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、「何か見えるか。」と聞かれた。

お互いに手を取り合うということは、友情の表われであり、手助けをすることのしるしであります。有名な詩篇の作者の証しを見るとわかります。

詩篇
73:23 しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。
73:24 あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。

このみことばを、盲人はイエス様を通して経験しました。イエス様は、望み無く、全く孤独な盲人の手を取って、導かれました。イエス様は少しも恥じることなく、大胆にそれをなさいました。そのことによって、盲人はイエス様のなさることに安心して、全てをゆだねることができたのです。私たち自身も、そのように全てを主の御手にゆだね(なければならず)、自分勝手なことをすることは許されません。

イエス様は、彼をベツサイダの村の外に連れ出し、群衆から離れたところで、二人だけになられました。なぜならば、群衆は彼らのためにイエス様を利用し、イエス様を心の底から受け入れようとはしなかったために、イエス様はこのようにせざるを得なかったのです。

病人だけが、必要とするのです。イエス様は病人のためにだけ生きておられ、病人、悩んでいる人とともになろうと望んでおられるお方です。また、あなただけともいっしょになることを、イエス様は心から望んでおられます。

私たちは、愛する者が死んだり、友だちから捨てられたり、病気になったりして、ひとり寂しくなることがある。けど、病気、その他の問題だけを見て、その背後にイエス様のみこころを、すなわち、イエス様と二人だけになることができる幸いを見失ってはなりません。イエス様は盲人に触り、尋ねられたり、誠心誠意、盲人のために愛の限りを尽くされました。その結果は、どうだったのでしょう。始めは何も見えなかった盲人も、イエス様との出会いによって、次第に見えるようになり、やがて、全てがはっきりと見えるようになりました。

この盲人は、『イエス様が私を癒してくださった。イエス様とのこの出会いによって、私は根本から新しくされた』と証しするようになりました。この人は、本当に新しく生まれ変わりました。以前は、イエス様に対して、全く無関心で、メクラであった者が、今やイエス様こそが生涯の全てとなったのです。

今日なお、イエス様がいやす力を持っておられるお方であることを覚えると、それは、私たちにとって大きな喜びです。けれども、肉眼が開かれるよりも、はるかにすばらしい奇蹟は、心の目が開かれることです。肉体の目が不自由なくても、悩みや苦しみによって生きる屍(しかばね)となっている人々がどうして幸せであり得ましょうか。もし、肉体の目は見えなくても、心の目がイエス様に対して、開かれている者のほうが、どれほど幸せであるかわかりません。

何十年前か分かりませんけど、軽井沢のお祭り伝道のとき、一人の盲人が立って、イエス様が取り去られるならば、肉眼は欲しくない。目は見えなくても、イエス様とともにいることが最高のよろこびであると、もう輝きながら、証しをしたのであります。イエス様こそ、人間の心を満たすことができるお方であるからです。

イエス様なくしては、まったく盲人に他ならない。イエス様を体験的に知らないことは、主なる神に対して、メクラであると、聖書は言っています。

マタイ
13:13 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。
13:14 こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
13:15 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』
13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。

本当に見ることができる目を持っている人は、罪を悔い改めて、新しく生まれ変わって、イエス様を信じた人です。心の目が開くということこそ、主の目的です。それは、パウロに与えられた使命でもありました。彼は、次のように証ししました。

使徒行伝
26:18 それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ・・・・るためである。

心の目を開かせるということは、もちろん、主だけがおできになることです。そのことを、詩篇の作者であるダビデも経験したでしょう。

詩篇
119:18 私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。

彼はこう祈ったのです。主はこう言う祈りを聞きたい、聞き届けたいのではないでしょうか。

イースターの朝でした。ふたりの弟子たちが、エマオに行く途中で、イエス様が彼らの心の目を開いたとあります。

ルカ
24:16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。

ずっと、何年間も親しい交わりを持ったイエス様を、まったく分からなかった。もちろん、復活なさったことを、想像することもできなかったのです。けども、後で、イエス様は彼らの心の目を開いたのです。

ルカ
24:31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。

イエス様とともにいることによって、我々の心の目は開かれます。これこそが、彼らの経験でした。もちろん、ほかの弟子たちも、このことを体験するようになりました。ヨハネ第一の手紙を見ると、一人の弟子であるヨハネは書いたのであります。

第一ヨハネ
1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
1:2 ――このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。

これはまた、パウロの体験でもありました。それによって彼は、完全に変わったのです。使徒行伝に、彼について、次のように書かれています。

使徒行伝
9:18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、
9:19 食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。
9:20 そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。

考えられない奇蹟です。シメオンという老人は、救い主イエスが生まれたとき、幼子を胸に抱き、神をほめたたえて言いました。『私の目が今、あなたの救いを見たのです。』信ずる者はだれでも、次のように証しをすることができるのです。『イエス様は、私の目を開いてくださいました。私はイエス様によって罪を赦され、救いの体験をもたせていただいた。私は、考えられなかったほど、すばらしい救いを体験をした』と。

パウロも、救われた人々の成長のために必死になって祈りました。エペソ書の中で、彼もやはり、『心の目』という表現を使いました。

エペソ
1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

パウロは、こう信じるもののために祈りました。これは、パウロの信じる者のために捧げられた祈りの内容でした。パウロは、未信者のためではなく、信じる者のために、こういうふうに祈りました。私たちは救われるだけでは、決して、十分ではない。救われることだけが問題なのではなく、さらに、そこから出発して、霊的な成長(をすること)こそが大切です。主の栄光をよく見ることが必要です。

どれだけ多くの人が救われたかということが、喜ばしいことは言うまでもないけど、さらに大切なことは、主にふさわしく歩むことではないでしょうか。すなわち、イエス様の花嫁として、ふさわしく歩むことです。パウロはこの表現を使ったんですね。『花嫁』という表現です。あまりパウロのよろこびではなかったコリントの人々に書いたのです。コリントの人々とは結局、イエス様のことよりも、自分、自分、自分のことを考えた人々だったのです。パウロは彼らに、この言葉を書いたのです。

第二コリント
11:2 というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。

結局、コリントにいる兄弟姉妹とは、イエス様の花嫁のようなものであったということです。

ひとつの質問について考えたいと思います。すなわち、イエス様の花嫁として、ふさわしく歩む(人々)とは、いったいどういう人々なのでしょうか。かつて、罪の泥沼から救い上げられたという事実を忘れない人々です。イエス様の尊い血潮によって、罪は洗い聖められ、永遠の栄光のために召し出されたことを知っている人です。天におられる花婿であるイエス様の愛を、絶対に疑わない人です。いかなるときでも、イエス様が私をも愛し、決して、忘れたり、捨てたりすることがないことを確信している人です。イエス様のために喜んで汚名を負い、迫害されることも恐れない人・・・・むしろ、イエス様のために苦しみを受けることが自分の喜びであり、特権であり、賜物であり、誉れであると信じる人。イエス様だけを喜ばせ、イエス様に栄光を帰することを心から望んでいる人です。また、イエス様に対する礼拝のまことなる思いで、常に満たされている人です。すべてのことにおいて、ただイエス様だけにより頼み、絶対的な信頼を持っている人です。また、イエス様なしに、イエス様から離れて話したり、考えたり、願ったり、行なったりすることのない人です。常にただ、イエス様との交わりだけに、本当の喜びを持っている人。そのしるしは、謙遜、心の純粋さ、自分を考えない愛、喜んでする従順な奉仕などのかたちで現われ来ます。その人にとって、イエス様が全てを意味しているのです。

全て、主にあって行ない、主とともに生きる人。御霊を悲しませることを恐れている人。もはや、自分だけの利益を考えようとしない人。全てのもの、すなわち、賜物や、才能や、財産などを主のためにささげることができる人。何とかしてイエス様をよりよく知りたいと願うことです。目標を目指して走り抜くことができる人なのではないでしょうか。

そのような人を、イエス様は許嫁(いいなずけ)とされたのです。私たちの場合には、いったいどうでしょうかね。私たちはいったい、イエス様とどのような関係があるのでしょうか。イエス様が私たちをご覧になられたとき、喜ぶのでしょうか。あるいは、悲しむのでしょうか。私たちは、本当にイエス様とひとつになることだけを望んでいるのでしょうか。

最後に、そのとき、当時、周囲の状態がいかなるものであったかをちょっと考えてっましょう。なぜ、イエス様は、その悩んでいる盲人をベツサイダから、外へ連れ出したのでしょうか。

主は宗教的な指導者たちについて、当時の聖書学者について、パリサイ人のパン種を警戒せよ。十分、気をつけなさいと、8章15節に言われました。

【参考】マルコ
8:15 そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」

イエス様は、弟子たちがまだ、霊的な理解力がなく、心が鈍いことを厳しく咎めました。

マルコ
8:17 それに気づいてイエスは言われた。「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。
8:18 目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。」

なぜ、イエス様はベツサイダをあとにしたのでしょうか。なぜ、このいやしの奇蹟がベツサイダの中で行なわれなかったのでしょうか。まず、第一に、イエス様は先導的なことをするのを嫌われたからです。

私たちは聖書によって大いなる御業が、公けにではなく、隠れたところで行われたことを知っています。例えば、エリヤという偉大なる預言者は、ツァレファテの寡婦の息子を、誰もいないところで生き返らせました。

第一列王記
17:19 彼は彼女に、「あなたの息子を私によこしなさい。」と言って、その子を彼女のふところから受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋にかかえて上がり、その子を自分の寝台の上に横たえた。
17:20 彼は主に祈って言った。「私の神、主よ。私を世話してくれたこのやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」
17:21 そして、彼は三度、その子の上に身を伏せて、主に祈って言った。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください。」
17:22 主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のうちに返り、その子は生き返った。

あるいは、エリヤの後継ぎであるエリシャという預言者も、同じようなことを経験しました。シュネムの女の子どもを誰もいない部屋で生き返らせました。

第二列王記
4:33 エリシャは中にはいり、戸をしめて、ふたりだけになって、主に祈った。
4:34 それから、寝台の上に上がり、その子の上に身を伏せ、自分の口を子どもの口の上に、自分の目を子どもの目の上に、自分の両手を子どもの両手の上に重ねて、子どもの上に身をかがめると、子どものからだが暖かくなってきた。
4:35 それから彼は降りて、部屋の中をあちら、こちらと歩き回り、また、寝台の上に上がり、子どもの上に身をかがめると、子どもは七回くしゃみをして目を開いた。

新約聖書を見ても、同じ事実について書かれています。たとえば、イエス様は、ヤイロの娘を少ない人数だけがいる部屋で生き返らせました。

マルコ
5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた。
5:41 そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)
5:42 すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。

使徒行伝を見ても分かります。ペテロは、ヨッパのタビタという弟子をだれもいないところで生き返らせました。

質問は、イエス様はどうして、ベツサイダの外へ行かれたのでしょうか?第二の答えとして考えられる理由とは、イエス様は、悪や不信仰や悔い改めたくないかたくなな心が支配しているところから、身を退かせたからです。マタイ伝の中で、非常に厳しいことばが書かれています。

マタイ
11:20 それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。
11:21 「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。
11:22 しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。
11:23 カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。
11:24 しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」

ベツサイダという町は、ある意味で悔い改めることをしなかった町であり、イエス様を受け入れず、拒み続けた町でした。そのために、イエス様はベツサイダに、次のように言わざるを得なかったのです。わざいわいだ。ベツサイダよ。

黙示録にイエス様のすばらしい・・・・嘆きのことばもになりますけども、書かれています。

黙示録
3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

イエス様は、教会や心の戸の外に立って、たたいておられるのです。イエス様は、本来は教会の中心におられ、我々のいのちであり、全てであられるにも関わらず、ここでは外に立っておられたのです。追い出されたのか、自分で出たのか、分かりません。

イエス様が、外で戸をたたき続けているにも関わらず、中へ招き入れようともせず、無関心でいるならば、そのような人を――たいへんです――黙示録によると、口からその人を出す、『吐き出される』とあります。

黙示録
3:16 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。

イエス様が、盲人をベツサイダの村から外へ連れ出されたとき、盲人は不信仰の村から出ることによって、イエス様によてきよめられ、いやされたのです。

今日も恵みのときであり、少なからぬ人が不信仰の時代から外に出て、イエス様と出会うことによって、すばらしいいやしの奇蹟を体験しているのです。私たちがイエス様の御手によって救われたとき、霊的な心の目が開き、イエス様を心の目で見ることができるようになり、全く新しい世界に入ることができたのです。

この盲人がいやされて初めて見たものはなんでしょうかね?必ず、イエス様の目でした。イエス様の愛のまなざしを見たとき、かつての盲人は、今や、イエス様だけが主の主となられたため、その結果、その後のことは第二次的なことになってしまったに違いない。

私たちはいったい何を見ているのでしょうか。自身のうちにある悩みや苦しみ、いろいろな問題ばかりを見て、また、それによって絶望してしまっているのでしょうか?それとも、イエス様だけを見て、イエス様だけを見上げて、感謝の喜びに満たされているのでしょうか。

黙示録
2:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

イエス様の昔の問いかけ、昔の質問とまったく同じでしょう。ペテロに言われた言葉です。あなたはわたしを愛しているのか。

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