2013年7月28日日曜日

教会を建て上げる秘訣

教会を建て上げる秘訣

2013年7月28日、御代田福音センター
ゴットホルド・ベック

マタイ
16:13 「さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。『人々は、人の子をだれだと言っていますか。』
16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤという人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
16:17 するとイエスは、彼に答えて言った。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
16:19 わたしは、あなたに天の御国の鍵をあげます。何でも、あなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」
16:20 そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならないと、弟子たちを戒められた。
16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
16:22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずがありません。」
16:23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。
16:24 それから、イエスは弟子たちにいわれた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」

今、読んでくださった箇所は非常に大切な箇所です。結局イエス様の思っておられること、目指しておられる目的についてはっきり書かれています。

すなわち、「わたしは、わたしの教会を建てる。」イエス様は目的を持たないお方ではありませんでした。いつもはっきりとした一つの目的を持っておられました。この時代にはどのような目的を持つべきか、主イエス様は前からよく御存知でした。

イエス様は目的を持ち、目標を目ざして、死に向かって行かれたのです。そして、イエス様は死んだ後、三日目によみがえり、今、天の右の座に座しておられますが、イエス様はそこで休んでおられるわけではありません。そこから、御霊を送り、御自分の目的を完成なさろうとなさっておられます。しかし、イエス様の目的とは何でしょうか。

今、話したように、イエス様ははっきりと言われました。「わたしは、わたしの教会を建てよう。」イエス様の目的は御自分の教会を打ち建てることです。

イエス様がこの時代になそうとしておられるこの御わざを悪魔も知っています。もし、知っていなければ、こんなにこの御わざに反対し、逆らうはずがありませんから。けれども、イエス様は、かつて次のように言われました。「わたしは、わたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つ事はない。」

この教会を見させられた今までの幾世紀ものあいだに生きた人々は、教会に対する驚くべき激しい悪魔の働きを見てきました。もし、イエス様が、我々の心の目を開き、ご自分の目的である教会を我々に教えることができないなら、主は決して私たちに、『わたしのこころにかなった者である』というみことばをかけることができないでしょう。

我々の目的とはいったい、何でしょうか。悪魔がイエス様のご目的を絶えず心に留めているように、私たちも主のご目的をいつも心に留め、考えているのでしょうか。

多くの人々は、滅びゆく魂をイエス様の御許に導いて、それを一つの組織、団体に導き入れて、それで満足しています。しかし、イエス様はそれをもって満足されているのではない。

何十年前でしょうか。茨城県の那珂湊の時代だったのですけれども、一人の姉妹は次のように言われました。今日まで忘れられない。「私のいちばん番好きなみことばはエペソ書1章23節です。」

エペソ
1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

どうか、静かなところで、エペソ書1章15節から23節までを、「主よ、どうか私の心の目を新たにお開きになっててください」と祈りながらお読みになってください。三つの点について一緒に考えたいと思います。

第一番目、三つの大切な点、第二番目、重要な質問、第三番目、必要な材料。

教会を建てあげる秘訣について考えると、まず、どうしてもはっきりさせておかなければならない二、三の大切な点をあげて考えて見るべきなのではないかと思います。

【一】三つの大切な点


第一番目の三つの大切な点とは、新しい土台を持つこと、十字架が必要であること、イエス様の絶対的なご支配です。

<1>教会は新しい土台を持つ


イエス様ご自身は、「わたしは、わたしの教会を建てよう」と言われましたが、それはどこで言われたのでしょうか。マタイ伝6章13節を見ると、それは、ピリポ・カイザリヤの地方であったことがわかります。

この地方は、首都エルサレムからいちばん遠く離れた地方でした。また、この地はガリヤラ湖の北東に位置しています。このピリポ・カイザリヤの地で、イエス様はご自分の目的である「わたしは、わたしの教会を建てよう。」というみことばを語られたのですが、何故この地方で言われたのでしょうか。

それは、このご自分の目的は、今までの古い伝統とは何の関わりもない新しいものであることを教えることでした。それまでに、ユダヤにおいては、宗教組織として、宮にまつわる古い伝統がありました。

しかし、イエス様は、御自分の教会をこのような土台の上には建てないと言われました。教会はイエス様の教会でなければなりませんでした。ですから、イエス様は新しい土台をお建てになったのです。この土台は、言うまでもなく、イエス様ご自身です。

ペテロは、イエス様にはっきりと、「あなたこそ、生けるまことの神の御子キリストです」と言いました。教会がイエス様の教会でなければならないのなら、その教会は、肉の欲によらず、血筋にもよらず、人の欲にもよらず、ただイエス様によって生まれたものでなければなりません。従って、教会は決して、一つの組織であるべきものではないはずです。

人間は、一つの体を作って、そこで聖書を学ぶことはできますが、それは決して、主イエス様の体なる教会とは言えません。

教会は主なる神によって生まれた一つの生きた有機体です。伝統や人の力によって生まれ、人の努力、この世の力によって支えられていく教会は、本当の教会とは言えないわけです。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」このペテロの告白は、教会の秘密を解く鍵のようなものではないでしょうか。

このことばは教会の頭(かしら)が主イエス様であることを言い表しています。教会の頭であるイエス様は上から来られたお方です。ですから、イエス様の体である教会も、上から生まれたものでなければならないことは言うまでもありません。

教会という意味は、「この世から召しだされたもの」を意味します。従って教会は、この世に関わりを持ち、興味を持っていいはずがありません。

教会を建てあげて行くために、ここまで、一番目として、新しい土台が必要であると述べてきましたが、二番目、十字架がどうしても必要であることを、ちょっと考えてみたいと思います。

<2>十字架が必要である


ピリポ・カイザリヤの地方は、地理的に、首都エルサレムから離れた地方であるばかりではなく、霊的にも一つの意味があるのです。イエス様はこの地方で初めてご自分は十字架におかかりになることを明らかにされました。

マタイ
16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。

どのようにして、イエス様はご自分の教会を建て上げられていかなければならなかったのでしょうか。「多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえる」とイエス様ご自身が言われました。イエス様と共に教会を打ち建てるために働こうとする者は、教会を打ち建てるためにイエス様は死に渡されなければならなかったということを知らなければなりません。

イエス様は、ご自分のいのちを捨てて初めて教会を打ち建てることができました。ですから、イエス様とともに十字架につけられた者だけが、イエス様とともに働く者となることができると言えましょう。

教会を打ち建てるためにまず大切なことは、人間の努力をもって新約聖書の教会をよく考え、構想を練ることではありません。何にもまさって大切なことは、イエス様とともに十字架につけられて、この身が死に渡されるいうことです。

私たちは、パウロと等しく、「私たちはキリストとともに十字架につけられ、生きるのはもはや私ではなく、キリストが私の内にあって生きているのである」と言えるようにならなければなりません。イエス様の教会を建て上げるために必要なのは、いわゆるご奉仕なのではなく、十字架を背負って主に従うことです。

マタイ
16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

いつ教会が打ち建てられるのでしょうか。それは、人々(私たち)が主のみこころが何であるかを知り、そのためには、どんなに悩んでも、苦しんでも、誤解されてもよいと覚悟を決める時に主の教会が建て上げられていきます。

多くの人々は、熱心に主のために働き、仕えようとしますが、「わたしは、わたしの教会を建てよう」といわれる主のみこころを深く知っていない。それは、ひとつの悲劇と言わなければならないのではないでしょうか。また、ある人々は喜んで真理を述べ伝えますが、イエス様の十字架を担って主にどこまでも従おうといたしません。

「収穫は多いが、働き人は少ない」と言うみことばがあります。けれども、今あるいちばんの悩みは働き人が少ないことではない。働き人の量より質が問題です。イエス様はご自分の教会の土台を据えるために死に至りました。私たちは、主とともに十字架につけられ、すべてを主に明け渡す時、初めて、主とともに主の教会を建てることができるようになります。

<3>イエス様の絶対的ご支配


イエス様は決して、「わたしは一つの教会を建てよう」とは言われませんでした。「わたしは、わたしの教会を建てよう」と言われました。イエス様は、私たちが主と共に教会をうち建てる仕事にあたることを許してくださいましたけど、その教会をいかなる人間も自分の物として所有する者は許されていません。

イエス様の教会は、あくまでイエス様の教会であり、所有権はイエス様にあります。イエス様はご自分の教会を一つのミッション、一つの団体のために、一つの組織のために、一つの国民のために建てようとは言われなかったのです。

イエス様は、ご自分のために教会をお建てになります。多くの人々は「、私は主のために働いている。」教会の責任を持っていると言いますが、人間は教会を主に与えることはできません。イエス様は、ご自分の教会を、ご自分が、ご自分に迎えると言われました。

エペソ
5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

教会の所有者は、一つの組織、一つの国民ではありません。教会はただイエス様のものです。教会はある宣教師、ある牧師のものでもない。隅から隅まで主のものです。教会は聖霊の宮、主なる神の住まい、御子イエス様の花嫁であるとあります。パウロは愛弟子であるテモテに書いたのです。

第一テモテ
3:15 それは、たとい私がおそくなったばあいでも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生きる神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。

このみことばを読むと、我々にとって大切なのは、どのように教会を導くか、どのように教会を治めるか、どのように教会を建てるかなどということではない。自分自身、神の家でいかなる生活を送るべきかが大切であるということが、よくわかります。

教会は神の家であり、主なる神ご自身がそこに住んでおられます。教会は隅々まで主のものです。従って、教会を支配したもうお方はイエス様だけであるべきです。

イエス様は教会のお客様ではなく、教会の頭であり、支配者です。従って、教会はイエス様のみこころを行い、イエス様の願いを成していかなければならないはずのものです。ここまで、どうしても知らなければならない第一番目の三つのことを考えてきました。

その一番目に、教会の土台は、伝統や組織ではなく、新しい土台イエス様ご自身であることを見てきました。教会の頭であるイエス様は天から来られましたから、体である教会も上から生まれたものでなければなりません。教会は天的な有機体として、地のものとは何の関わりも持たないものです。

次に、二番目に、教会はキリストと共に死に、日々イエス様の十字架を担ってイエス様にだけ従って行く者だけが、この教会建設のみわざに参加することができるということも見てきました。

三番目に、教会の特徴はイエス様だけがご支配されなさるべきであるということです。我々の場合も、ある人、ある組織、ある団体、教派のものではなく隅から隅までイエス様のものであるべきなはずです。

【二】重要な質問


今まで私たちは、第一番目の三つの大切な点について考えましたが、今度は第二番目の点、すなわち、重要な質問について考えたいと思います。

私たちはイエス様とともに働く者でしょうか。それとも、イエス様の働きを妨げる者なのでしょうか。

「わたしは、わたしの教会を建てよう」とあるように、イエス様だけがこの霊の宮を建てることがおできになるお方です。どんな人間も、これを建てることはできません。私たちは主とともに働くことができます。けれども、優先権は常に主にあるべきです。人間は、自分の思い通りに、ここ、あそこに教会を建てようということはできません。

パウロでさえも、自分の教会を作ることはできなかったのです。パウロはタルソの町に生まれましたが、この町は大きな都市でした。パウロはこの町でも証しし、伝道したに違いない。人間的な考えではこの生まれ故郷に、教会を打ち建てたかったに違いない。

パウロは、やがてバルナバに導かれて、タルソからアンテオケに行き、そこですばらしい教会を打ち建てることができました。もちろん、主がお働きになったのですが、これを見ても、パウロは自分がどこで働くかということさえ、主の導きによらなければならなかったのであり、自分では、好きな所を選ぶことはできませんでした。パウロは、主のご目的とご予定をよく知っていました。

パウロは、イエス様がご自分でご自分の教会をお建てになることを知っていました。だから、パウロは、イエス様にその身を任せ、導いていただき、「我もはや生きるにあらず、キリストわが内にありて生きるなり」という態度を取り続けました。私たちも、パウロと同じように主とともに働く者となりたいものです。

もし、イエス様のみわざの邪魔をし、用いられないような状態になったなら、まことに悲しむべきこと、わざわいと言わなければなりません。主の御手を縛り、主のわざを妨げることが三つあります。自己中心の霊、二つに分かたれた霊、狭い心、狭い他を入れない霊です。

<1>自己中心の霊


イエス様は、「あなたを建て上げる」とはいわれませんでした。「わたしはわたしの教会を建てよう」と言われました。もちろん、イエス様は、我々を祝福してくださいますけど、それは、他の人々に、我々を通して祝福が及ぶための祝福です。もし、我々が、自分たちだけの祝福を願い求めるなら、それは、教会を打ち建てようとなさるイエス様の御手を縛り、主のみわざを妨げることになります。

イエス様が、「わたしはわたしの教会を建てよう」と言われた時、すぐにペテロは、その時、イエス様のみわざを妨げようとしてしまいました。ペテロは、自分のことばっかり考えていました。イエス様が十字架に行かなければならないと言われた時、もし、イエス様が十字架で亡くなられたなら、自分が困ってしまう。

そこで、イエス様に十字架にはかからないでくださいと頼みました。このようにペテロは、自分を中心に考えることにより、イエス様のみわざを妨げてしまう結果になったのです。

<2>二つに分かたれた霊


妥協することなく、主に従わなければなりません。主の恵みによって導かれ救われた人々は、互いに平和の紐をもって結ばれ、愛の交わりがなければ教会は建っていけません。これは、決して容易いことではありません。まことの愛を持つことは難しいことです。

しかし、私たちは、自分にとって難しいということに目をとどめず、主の恵みがそれを成してくださるということに目をとどめて行きたいものです。一致をはかるために真理を曲げることはできない。主のみこころと反対の思いを持っている人々と妥協してまで交わっていくことはできません。

しかし、どのように、また、どのような真理のためでも、兄弟姉妹に対して愛のない態度をとってはなりません。たとえ他の兄弟姉妹が、自分と違う考えを持っていても、その人の上に立って、その人をさばくようなことがあってはなりません。絶えず愛を持って、平和の絆を持って、ひとつの霊に結びついていかなければなりません。これが真の愛であり、この愛なくしてイエス様の体は建っていけません。

教会を建て上げて行くことは、決して簡単なことではない。主のみわざを妨げるものは、今、話したように、自己中心の霊であり、二つに分かたれた霊であります。

<3>狭い心、狭い他を入れない霊


狭い霊はイエス様の教会を建て上げる邪魔になります。主の目は、あまねく各教会を見渡し、ご自分の教会を建てようとなさっておられますが、イエス様は、「わたしは、わたしの多くの教会を建てよう」とは言われなかった。「わたしは、わたしの教会を建てよう」と一つの教会を建てることを願っておられます。

このイエス様のいわゆる一つの教会は、もちろん、世界的なものです。ある人々は、日本の教会を建てようと考えています。そして、日本人でない者は、外人として日本の教会から締め出そうとする人々もいます。これらの人々は、日本の教会は日本人が責任を取るべきであると考えますが、これらの人々は、教会はある特定の国民のものでも、団体のものでもなく、個人のものでもなく、ただ、教会はイエス様のものであることを知らない人々です。

もし、真の教会が何であるか、心の目で見ることができれば、主の真の働き人になることができる。狭い霊は、主イエス様の御手を縛り、その働きを妨げます。

【三】必要な材料


教会を建てるためには、どのような材料を使ったらいいのでしょうか。それは、ペテロのような男を使う必要があります。イエス様は、ペテロに、「あなたはペテロである」と言われ、すぐその後で、「わたしは、わたしの教会を建てよう」と言われました。

ペテロは、上よりの啓示によって、主イエス様がどのようなお方であるかを教えられ、ペテロという人間は変えられていきました。ペテロのように、上よりの啓示によって主を知った人々を、主は教会を建てる材料としてお用いになることができます。

マタイ
16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。『バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。』

イエス様は、ペテロをいつもヨナの子シモンと呼んでおられました。ペテロのお父さん、ヨナはどんな人だったでしょう。聖書は、ペテロのお父さんについて何にも教えていません。それを知っている者は誰もいない。シモンは、誰にも知られていない人の子どもです。名もない人でした。主は、このように取り得のない人を教会を建てるためにお用いになります。

イエス様は、シモンが生まれつきの力をもって主のみわざを助けるどころか、主のみわざの妨げになるので、彼を召しだすことはできませんでした。イエス様は、この生まれながらのペテロを見ないで、この駄目なペテロをご自分の恵みによって作り変えられることができるということをよく知っていました。シモンは、ヨナの子シモンのままではいませんでした。やがて、彼は変えられ、主に「汝はペテロである」と呼ばれるようになったのです。

ペテロは、キリストにある新しい人間に生まれ変わりました。ペテロは、イエス様に、「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白しました。イエス様も彼に向かって、「わたしも、あなたにあなたはペテロである」と言われたのであります。

人の心は、イエス様を知ることによって変えられていきます。イエス様は、我々のために、どのようなお方であるか、また、私たちの内にどのようなみわざをなさるお方であるかを知り、それに基づいて歩んでいくなら、そのような人をイエス様は教会を建てる材料としてお用いになることができます。

イエス様はどのような人を、教会を建てる材料としてお用いになることができるのでしょうか。イエス様は、ペテロのような人を教会を建てるために用いられます。「あなたはペテロである。わたしは、わたしの教会を建てよう。」

ペテロのような人は、堅くたって動かされない人であり、強い人であり、霊的な人を言います。シモンのような男が、主の恵みによって、ペテロと呼ばれる男に変えられました。ペテロという名前の意味は、岩ですが、岩のように、文字通り動くことのない者に、彼は変えられました。教会を建てるためには、ペテロのようにはっきりとした立場をとる動かされることのない性格の持ち主が必要です。

ペテロは、かつて海の砂のように定まりのない信頼のおけない人物でした。ある時は主を思い、その次の瞬間には主から目を離し、人のことを思う、といった人でした。

マタイ
16:23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。『下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』

イエス様は、彼に、「バルヨナシモン、あなたは幸いである。あなたにこのことを現わされたのは、血肉ではなく天にいますわたしの父である」と言われた直後に、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」と言われなければならないような定まりのない男でした。

天よりの啓示によって神の御子を知らされた直後、もう悪魔の手に用いられるといった有様でした。これは、彼の性格が弱く、まことに信頼のおけない人物であったことを表しています。このシモンは、いったいどのような経験を通してペテロのような男に変えられたのでしょうか。彼は、十字架と五旬節の経験を通して変えられました。我々の生まれながらの人間は、本質的に悪い性質を持っています。その人の持っているいちばん良い性質ですら、教会を建て上げるご奉仕には何の役にも立ちません。

私たちは、パウロのように、「生きているのはもはや私ではなく、キリストが私の内に生きておられるのである」との経験を得て、全生涯を御霊のご支配の内に委ねるのでなければ、シモンのように、揺り動く弱く不安定な砂のような状態に留まり、岩のような決して動かないもの、確かな歩みをなすことはできません。

イエス様はまた、五旬節の経験をしていない弟子たちに、ご自分のすべてを任せることがおできにならなかったのです。ですから、弟子たちに、ご自分がキリストであるということを、誰にも言ってはいけないと戒められました。

マタイ
16:20 そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちに戒められた。

弟子たちは、信頼のおけない自己中心的な人々ばっかりでした。私たちはどのようにしたら、信頼の置ける堅く立った者になることができるのでしょうか。

マタイ
16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』

ペテロは十字架と五旬節を通して、初めて岩のように動くことのない者になりました。ペテロは、自分で自分を、岩とは呼びませんでした。この名前は、主自らにつけてもらった名前です。自分でどんなに努力しても、自らを信頼のできる人間にすることはできません。

マタイ
26:33 すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」
26:34 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
26:35 ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。

26:73 しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、『確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。』と言った。すると彼は、『そんな人は知らない。』と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。

イエス様は、自らシモンにペテロという名前をお付けになり、そうすることによってご自分が、ゆるぎやすいシモンを岩のように動かない者に作り変えることができることをお教えになりました。ペテロは、名前だけではなく、その性質が変えられました。これを経験した者を通して、主は教会をお建てになるのです。

生まれながらの弱い性質を持ったままで留まっている人は、主のみわざを妨げ、主の御手を縛ってしまいます。十字架より、自己から解き放たれ、聖霊の支配に身を任せた人々だけが、イエス様がご自分の教会を建てるためにお用いになります。

もし、私たちがこのように作り変えられていかなければ、我々の交わりは、一つの仲良しクラブに留まり、決して教会とはなっていかないでしょう。ペテロのような人は、堅く立って動かされない人であり、それから強い人です。岩のもうひとつの特徴は強いことでしょう。

パウロはエペソ人への手紙で祈っています。

エペソ
3:16 どうか父がその栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。

もし、私たちが主のみこころにかなった教会でありたいと思うなら、我々には主よりの強さが必要です。シモンは、この主なる神の強さを持っていませんでした。ペテロは、全く主に従おうと決心したその時、反対のことをしてしまった。イエス様を三度も否んでしまいました。ペテロ自体、そんなに弱い男ではありませんでした。けれども、ペテロを引きとめようとする悪魔の力に抵抗するために、十分な強さを持っていなかったのです。

五旬節の後も、同じく悪魔の力は強く働いたのですけれど、イエス様は約束どおり黄泉に打ち勝つ教会をうち建てられました。この戦いは今日まで続いています。私たちは、ともにひとつになって心を合わせて生活し、主に、「これこそまことの教会である」と認められるような教会に建て上げられていきたいです。

主が、我々を十字架と御聖霊により、強い人としてくださったら幸いです。ペテロのような人とは、堅く立って動かされない人であり、それから強い人であり、霊的な人でしょう。

第一コリントの10章4節を見ると、「岩は霊である」と書かれています。ペテロは肉につける信者から霊的な信者に変えられるという段階を通らなければなりませんでした。

ペテロは人間の思いでことを成そうとした時、イエス様に邪魔者と呼ばれました。イエス様の教会は、霊の家と呼ばれています。

第一ペテロ
2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエスキリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

教会は、霊の家である以上、それに連なる信者もみな、霊的であるべき筈です。多くの人々は霊的とはどういうことであるか、正しく理解していないようです。何か漠然としたものを考えているようです。これは誤りです。イエス様は霊的なお方でした。イエス様は、心にあることをそのまま口に出し、説教されたことを身をもって、なしていかれました。

イエス様は、父なる神のみこころは、私たちが口先でなく、身をもって、みことばに、御心に忠実に従うべきであることを、自ら身をもって教えられたのです。

イエス様が建て上げようとなさっておられる真の教会では、兄弟姉妹が心を一つにして共に礼拝し、祈る人々がいます。このためには、それに連なる肢体である信者一人一人が霊的でなければなりません。

同じ霊、同じいのち、同じ思いをもって、御栄えのために心を用いていく者でなければなりません。従って、イエス様の教会を建て上げていくことは、第一に内面的な霊的な事柄であり、外面的な形は、第二、第三の問題であるべきです。

兄弟姉妹は、御霊に満たされ、日々刻々、主の御形に似せられていくことがまず大切です。このような者になりたいものなのではないでしょうか。主の満たしに満たされ、主の御形に似せられた教会になりたいものです。そして、イエス様の体の一部として、私たち一人一人が、イエス様の体に、欠けたところの無くなるまで満たされていきたいものなのではないでしょうか。

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