2013年8月18日日曜日

弟子と盲人

弟子と盲人
2013年8月18日、御代田喜びの集い
ゴットホルド・ベック

ルカ
18:31 さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。
18:32 人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。
18:33 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
18:34 しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。
18:35 イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。
18:36 群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。
18:37 ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、
18:38 彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と言った。
18:39 彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。
18:40 イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。
18:41 彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです。」と言った。
18:42 イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、
18:43 彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。

今日の題名を、「よく知っていた弟子たちと何もわからない盲人」と付ければ、誰でもなるほどと思うのではないでしょうか。けれども、今、読んだ箇所によると、逆のことが書いてある。すなわち、何もわからなかった弟子たち、そして、よくわかっていた盲人について書いてあります。

ルカ
18:31 さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。
18:32 人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。
18:33 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
18:34 しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。

イエス様が自分のこの世に来られた目的について話されたとき、弟子たちは何もわからなかった。ちょっと悲劇的なのではないでしょうか。その後の節を見ると、一人の盲人について書いてあります。

ルカ
18:35 イエスがエリコに近づかれると、ある盲人が道端に座り物乞いをしていた。

当時のイエス様は、ナザレのイエス様と呼ばれたのです。もちろん、間違っていた。イエス様はベツレヘムのイエス様でした。ナザレのイエス様ではなかった。けれども、当時の人々はそう思った。彼らは何もわからなかった。わかったのは、あの盲人です。

ルカ
18:38 彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と言った。

ダビデの子のイエス様。結局、約束された救い主であるイエス様!と叫んだのです。必ずいつも聞かれる祈りです。私を憐れんでください。彼を黙らせようとして、先頭にいた人たちがいさめたが、盲人はますます、『ダビデの子よ。私をあわれんでください』と、叫びたてた。あなたはできる。期待してます。結局、イエス様の弟子の一人となった。

もう一か所、ちょっと見てみましょうか。同じ人についての、マルコ伝10章、これもよく知られている箇所であります。マルコ伝の中で、いちばん大切な節です。

マルコ
10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
10:46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
10:47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。
10:48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。
10:49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。
10:50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。
10:51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
10:52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

解放され、喜びに満たされた。イエス様の弟子になりました。このバルテマイについて考えたいと思います。彼は、マルコ伝に出てくる病人の中でも、ただ一人、名前がわかっている病人です。イエス様は数えられないほど多くの病人を癒しましたけど、名前はわかっていない。このバルテマイの名前だけ、はっきりわかってます。恐らく、この盲人の態度は、弟子たちにとって非常に印象深かったから、忘れることができなかったのです。

このバルテマイについて、三つのことが考えられます。第一番目、イエス様がいなかったときのバルテマイ。二番目、イエス様のそばにいたバルテマイ。そして、三番目、主イエスに従ったバルテマイであります。

まずはじめに、イエス様がいなかったときのバルテマイについて考えると、もちろんわかります。すなわち、我々人間にとっていちばん大きな苦しみは、イエス様と共にいることのない状態です。バルテマイにとっても、イエス様に出会わなかったことは、いちばん大きな問題でした。彼にとって、イエス様が共におられないことは、癒しと救いの希望がないことを意味していました。そして、癒しと救いの希望のないことは、喜びと平安のない恐るべき人生を意味します。

ここに出てくるバルテマイの動作を表す動詞を見ると、彼のことについてよく知ることができます。46節、道端に座っていてこじきをしていた。47節、彼はイエスだと知って、そして、叫びだした。48節、彼はますます、激しく叫び続けた。50節、彼は上着を脱ぎ捨てた。そして、52節、彼は見えるようになり、主イエスに従っていった。これらの動詞を見ると、バルテマイの人生の歩みが要約してわかります。

始めは盲人のこじきであったバルテマイが、最後は見えるようになって、イエス様に従っていったのです。これはなんという違い、言い表せないコントラストと示されていることなのではないでしょうか。イエス様との出会いによって彼の人生そのものは、喜び、平安、そして、目的を持つものとなりました。

どのようにして、そのようになったのでしょうか。まず第一に、彼はイエス様のことを聞きました。疑いもなく彼はイエス様のことについて、もっと多くのことを聞きたかったに違いない。色々な人の噂を通して、彼は、主イエスが比類ないお方であり、不可能なことは何一つなく、彼をも癒すことができると思うようになりました。

彼の心には、主イエス様は救い主であられる、約束された救い主であるという確信が強くありました。約束されたメサイアについては、メサイアが盲人の目を開くことができると予言されました。

イザヤ
42:6 「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。
42:7 こうして、盲人の目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。

第二に、バルテマイはイエス様を100パーセント信頼し、心から信じていました。人々はみな、イエス様のことをナザレのイエスと語り合っていましたが、バルテマイがイエス様と出会ったとき、ナザレのイエスと言わなかった。ダビデの子イエスよ、と叫んだのです。すなわち、ダビデの子とは約束された救い主という意味です。バルテマイは、イエス様に向かって、ラボニ、すなわち、「主よ」と言いましたが、同じ主を表す、ラピよりもはるかに尊敬の念を込めた意味での主、すなわち、ラボニという言葉を使ったのです。

第三に、バルテマイはただ単にイエス様の噂を聞いたり信頼を寄せただけでなく、どうしてもイエス様を、イエス様ご自身を体験的に知りたいという、やむにやまれぬ気持ちが強かったんです。ですから、彼は叫び、かつ、ますます激しく叫び続けたのです。彼の全生涯は、助けを求める叫びそのものでした。それは、ささやきではなく、叫びだったのです。私はイエス様の御許にいかなければならない、そういう気持ちでいっぱいでした。

48節を見ると、彼は激しく叫び続けるので、多くの人々が彼をしかった。黙らさせようとしたが、だめでした。どうすることもできませんでしたと記されています。50節を見ると、彼は上着を脱ぎ捨て、躍り上がって、できるだけ早くイエス様の御許に行こうと一生懸命だったんです。彼の悩みは、群衆を恐れる恐れよりもはるかに大きく、かつ深かったため、必死にイエス様のところへ走っていったのです。彼は上着を二つも持っていなかったでしょうけど、彼にとっては上着のことなどどうでもよかったのです。

彼はいちばん大切なこと、すなわち、イエス様の御許に行くということを行ったのです。その時、彼は人々が、「喜べ、立て。お前を呼んでおられる」と叫ぶのを聞きました。バルテマイ以外は、誰も呼ばれなかったんです。なぜ、イエス様は彼だけに呼び求められたのでしょうか。それは、彼だけが心から助けを求めたからです。正直な心をもって、主イエス様を呼び求める者に対して、必ずイエス様は答えてくださいます。

バルテマイは主の招きにしたがって、御許にやってきました。盲人はイエス様のところに行く道を見出すことができたのです。そして、このことが彼の人生の転換点となりました。イエス様のところに来る者は、まったく新しく作り変えられた者になります。

二番目、イエス様のそばに来た時のバルテマイについてちょっと考えたいと思います。イエス様は絶望した盲人に向かって、私に何をして欲しいのかと尋ねられました。「わたしに何をして欲しいのか」。いかなる権威と崇高なる者が、このような問いを発することができるのでしょうか。「主よ、見えるようになることです」と、盲人は答えました。この答えの中には、決して揺るぐことのない確固、不動たるものがありました。そのような態度には必ず報いがあるものです。

その瞬間、彼は見えるようになり、イエス様がじっと、彼の新しい世界が開かれたのです。その時、彼はその日もらったお賽銭や今まで持っていた杖、また、上着のことはすっかり忘れてしまいました。それから、彼のいるところは道角ではなく、イエス様のおそばであることを知りました。そして、その時、彼ができたことは、イエス様に従っていくことだけでした。イエス様の御許にいること、そして、イエス様に従っていくことは、彼の切なる願いであり、望みでした。

イエス様と出会い、知るようになってから、彼の闇はすべて消え去りました。解放された。イエス様の御許にいるときには、全てのことが満たされているということを、この盲人は身をもって体験したのであります。

ドイツのひとつの歌を紹介したいのです。次のような歌です。祈りでもあるし、告白でもあるし、証でもあります。

主イエス様、私は今、
本当の心の憩う所が、
あなた様ご自身の中にのみあることを見出しました。
多くの悩みののちに、全き平安を得ることができた。
私は長いあいだ、安らぎと幸せを探し求めてきました。
しかし、それをあなたに求めることをしませんでした。
それなのに、あなたの愛が私の心を捕えてくださり、
今や私はあなたのものとなりました。
この世の快楽の泉はむなしく、
誰も満ち足らせることはできない。
しかし、あなたの命の泉を飲む者は、
決して渇くことがない。

あなたは私の目を開いてくださり、
それほどまでも私を愛してくださる。
主イエスよ。
あなたは ご自身の命を私に与えてくださり、
すべてを新しく作り変えてくださった。
私の心は感謝と喜びに満ち溢れ、
やがて、父の家であなたと共に新しい歌を歌う時まで、
私はあなたを昼も夜も賛美し続けます。
私を満ち足らせて下さる方は、
あなた以外にこの世にはいません。

私は、これほどまでに私を愛してくださるあなたの中にのみ、
本当の喜びを見出すことができる。

そのように、かつてはメクラであったバルテマイは、今や喜び勇んで主イエス様に従っていく者に変えられました。同じように言うことのできる者は誠に幸せなのではないでしょうか。

最後に、イエス様のことについて、ちょっと考えたいと思います。簡単に考えてみるとこう言えます。いつもそうであるのと同じように、ここでもイエス様は中心人物です。イエス様の動作を表す動詞を見ると、前に読みました49節ですね、「イエスは立ち止まって、彼を呼べと命じられた」。51節、「イエスは彼に向って言われた。わたしに何をして欲しいのか」。52節、「イエスは行け、と言われた」。

イエス様は、一人の哀れな乞食が叫ぶのを聞いて立ち止まりました。そのときイエス様は、ご自身の生涯の中で、もっとも大切な道を歩んでおられました。すなわち、エルサレムに向かうときでした。殺される道でした。その途中で、主は一人の乞食の叫びを聞きました。その時、イエス様は、『わたしは、もっともっと大切なことをしなくちゃいけない』と言って歩み去ることは、しなかったのです。立ち止まられた。

それがイエス様でなくて、もしも皇帝や皇太子だったならば、乞食の叫び声などは耳を聞かさず、通り過ぎてしまったことでしょう。けど、イエス様はそうしなかった。立ち止まられました。

この世はすべてイエス様によってイエス様のために造られました。すべての権威の力はイエス様にあり、王の王、主の主であられます。そのお方が、一人の哀れなメクラの乞食のために立ち止まりました。イエス様はただ単に立ち止まって乞食の叫び声を聞いただけではない。全人格をもってこの乞食に立ち向かわれました。

イエス様はこの乞食の願いが何であるか、もちろん、訊かなくてもわかったんです。けれども、それにもかかわらず、何が欲しいのかとお聞きになられました。それは、罪人が正直になり、助けを求め、そして、それによってその人の信仰が現れることを待ち望んでおられたからです。

イエス様はどういうお方でしょうかね。光です。しかし、その他の者は暗闇であり、望み無き者です。とくにメクラは、何も見ることができず、逃れ道を見出すことはできなかったのです。本当にみじめです。そして、イエス様は光だけでなく、道です。そして、メクラは道を見ることができません。メクラは街かどで物乞いをするように定められており、そのほかのことは何もできません。

また、イエス様はいのちそのものです。そして、メクラは生きる望みを持たず、もはや明るい希望を持つことができません。これら両者は両極にあって、互いに相容れない関係にありました。そうであるがゆえに、一つにならなければならなかったんです。

彼の住んでいた町はエリコでした。旧約聖書を見るとわかります。エリコは呪われた町だった。このエリコという町だけではなく、バルテマイもなんら祝福されることがなかったのです。彼は、ぼろぼろで疲れ果てており、喜びや希望をまったく失ったのです。彼は働くこともできないし、生きる目的、人生の目標を持っていなかったのです。なぜこのような苦しみがあったのでしょう。なぜならば、イエス様が共におられなかったからです。

さきほども申しましたように、そのとき、イエス様は、死の犠牲を捧げるため、エルサレムに向かう途中にありました。エルサレムと、そこにいる宗教家たちは、イエス様に対して霊的にまったくメクラでした。バルテマイはその反対でした。確かに彼はメクラでしたが、自分がメクラであることを知っていました。それだからこそ、彼は真剣に祈り、癒されました。

イエス様を受け入れようとしなかった人々は、自分たちはオーケー、すなわち、自分たちは見えると言い張ったんです。けれども、実際、彼らはメクラでした。ヨハネ伝の九章を見ると、イエス様はこの事実について、次のように言われました。

ヨハネ
9:39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
9:40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
9:41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」

実際は見えない者が見えると思い込んでしまうことが、考えられないほど恐ろしいことなのではないでしょうか。けれども、メクラであることを知って、心の目で真の光を見る者には、なんという恵みと祝福とが与えられることでしょうか。

私たちは、我々の人生にとっていちばん大切なことを要約していうと何であるということができるのでしょうか。ある人が、東大で勉強し、博士になり、やがて名誉教授となって、文化勲章をもらうと、だいたいの人はたいしたものだと思うでしょう。それも確かに人生の歴史でありますけど、それがすべてとなって終わってしまうならば、ほんとに憐れむべきものです。

私たちはみな、イエス様に出会ったのでしょうか。イエス様について聞いたとき、結果として何を祈ったのでしょうか。もし祈らなかったならば、どうか今日そのようにしてください。イエス様は、バルテマイの場合とまったく同じように立ち止まって、あなたの祈りを聞かれるに違いない。イエス様について聞いたものは心静めて、静かに考え、主になんとお答えしたらよいかと祈らなければなりません。誰でも彼でも、イエス様のみもとに行って目が見えるようになり、イエス様に従っていくことができるならば、ほんとに幸いなのではないでしょうか。

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