2013年7月2日火曜日

御心にかなう信仰生活の特長

御心にかなう信仰生活の特長
2013年7月2日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第一テサロニケ
1:1 パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたの上にありますように。
1:2 私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、
1:3 絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。
1:4 神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。
1:5 なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。
1:6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。
1:7 こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。
1:8 主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。
1:9 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、
1:10 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。

今日の題名は、「御心にかなう信仰生活の特長」としたいのであります。


パウロのテサロニケへの手紙は、五章に分かれています。この五章を読むために、十分もあればいいでしょう。読みながら、次の事柄がすぐ解かります。すなわち、このテサロニケの兄弟姉妹は、新しく生まれたばかりの信者でした。だから、私たちは彼らの信仰生活の第一歩を観察することができます。したがって、テサロニケへの第一の手紙は、信仰生活の始まりについての手紙です。このテサロニケの兄弟姉妹たちの生活は、今、読んだところをみてもはっきりわかります。すなわち、模範的な生活でした。パウロはそう言っています。彼らについて、パウロは言ったのです。

第一テサロニケ
1:2 私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、

ここでアンダーラインすべきことばとは、「いつも」と、「すべて」です。

第一テサロニケ
1:7 こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。

パウロは、そう言うことができました。どうでしょうか?私たちも、他のところに住んでいる兄弟姉妹たちの模範となっているのでしょうか。読みながら、もうひとつのことを知ることができます。というのは、パウロは自分の宣べ伝えた福音が、どういうものであるかを説明しています。「私たちの福音」、また、「私の福音」という言葉を彼はよく使いました。この宣べ伝えた福音の結果は、このようなすばらしい模範的なキリスト者でした。パウロは、この福音を懸命に説明しています。これは、だいたい四つの事柄なのではないかと思います。

第一番目、あなたがたが、どのようにして、偶像を捨てて、神に立ち返ったか。二番目、あなたがたが、神の御子、イエスが天から下って来られるのを待つようになった。三番目、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、主イエス様に対する信仰。四番目、イエス様が、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるのであるということです。

まず、一番目、あなたがたが、どのようにして偶像から神に立ち返ったか・・・・ということは、信仰生活の第一歩です。このテサロニケ人は、もちろん、いわゆる特別に現れたイスラエルの民に属していなかったのです。いわゆる異邦人と呼ばれ、結局、偶像礼拝者でした。『そのように、あなたがたが偶像から神に立ち返って、生ける神に仕えるようになった』とあります。原語を見ると、「仕える」ばかりでなく、「礼拝」するようになったとなっています。

彼らは、信じるようになり、従うようになり、仕えるようになり、礼拝するようになり、また、待ち望むようになりました。もし、ある人が生けるまことの神ではなくて、他のものを大切にし、礼拝すると、この人は異邦人であり、偶像礼拝者と呼ばれます。生けるまことの神を礼拝することが、本当の礼拝であり、他のものは全部が、いわゆる偶像礼拝です。

エペソ
5:3 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。

5:5 あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。――

全部を主イエス様の足もとに捧げることは、信仰生活の第一の特長です。どうでしょうか、私たちは、いったいどうして、イエス様を信じるようになったのでしょうか。何回も聖書の話を聞いて、そして、罪と悔い改めの大切さ、新しく生まれなければならない必要性についての話を聞いて、だいたい理解されたからでしょうか。

もちろん、悔い改め、また、罪を告白することは、決して、悪いことではありません。けど、これは、教えのひとつでしょう。そして、人間はひとつの教えを信じ込むことによっては救われ得ません。聖書の中心は、生きておられる主イエス様ご自身です。十字架につけられ、代わりに犠牲になられたイエス様です。パウロは告白しました。何回も何回も読んだ箇所ですけど、大切な箇所です。

ガラテヤ
1:12 私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。・・・・

パウロの信仰とは、一つの教えではなかった。

ガラテヤ
1:12 ・・・・ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

啓示という言葉は、十六節にも出てきますね。

ガラテヤ
1:16 異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、・・・・

唯一の生けるまことの神ご自身が、御子、主イエス様を我々の内に啓示してくださる時、私たちは新しく造られた者となります。すなわち、改心を経験した者です。本当の悔い改め、また、我々の罪の深さ、また、十字架の深い意味などは、だんだん聖霊の働きによって解かるようになります。しかし、これらの事柄は、信仰生活の根本ではありません。主なる神が、御子を我々の内に啓示してくださること、それが問題です。これこそ、信仰生活の根本です。

生けるまことの主なる神が、御子である主イエス様を、我々の内に啓示してくださると、私たちは、『イエス様のみが価値あるお方です。イエス様はすごい!すばらしい救い主である』と、喜びながら歌うことができます。すなわち、私たちは主を礼拝せざるを得なくなります。

私たちは、いったいどうして、救いにあずかる者となったでしょうか。聖書の事実を理解したからではなく、単純に信じたからです。結果として、イエス様の偉大さ、主イエス様のすばらしさを、また、イエス様の価値を、体験的に知るようになりました。生けるまことの神の御子である主イエス様は、我々のために死を感じ、我々のために罪とされ、十字架につけられたということを、心の目で見ることができたからです。勉強したのか、あるいは、理解したのかではなくて、救いの御業の偉大さ、救いのすばらしさを心の目で見たから・・・・これが問題です。

主なる神が、御子、主イエス様を我々の内に啓示なさると、私たちはただ一つのことをすることができます。すなわち、偶像を捨て、生けるまことの神を崇拝せざるを得ない。これが本当の根本的なことです。

人はどうして救われるのでしょうか。聖書の教えを理解し、教理問答書を研究し、理解したとき、信じたのでしょうか。それとも、聖霊の啓示によって、イエス様の十字架の偉大さ、イエス様ご自身を心の目で見ることによって、イエス様のみが価値あるお方であると叫ぶようになったのでしょうか。

主イエス様の価値を見ることこそ、絶対に必要です。なぜならば、後の信仰生活において、この点に対する悪魔の試みが来るからです。私たちは、いつも一つの問題にぶつかるのではないでしょうか。すなわち、このものは主に勝る価値を持っているのでしょうか。あの人は、イエス様に勝る価値を持っているのでしょうか・・・・と。

全体の要点は、イエス様が我々のために、いかほどの価値があるかということになります。イエス様が、我々にとって真に尊い方であれば、あまりに良いというものは、ひとつもありません。あまりに高いというものも、ひとつもありません。我々のあらゆるものは、それがもっとも深い、もっともすばらしくあっても、イエス様に対して捧げます。全部、イエス様の足もとに捧げることは、まことの信仰生活の第一の特長です。

テサロニケの信じる者たちは、マケドニヤとアカヤとにいる信者全体の模範になったとあります。なぜならば、彼らはこの世のいちばん、尊いものでさえも、主イエス様に勝る価値を持ってはいないということを、信仰生活のはじめに確信していたからです。どうでしょうか?イエス様は、我々にとってどんな価値があるのでしょうか。金や他の人物が、また、仕事や遊びが、イエス様よりも勝っていると考えているのでしょうか。

これは非常に大切な、根本的な問題です。毎日の生活のさなかに、この問題は、実際的なものになります。もし、私たちがある程度まで、聖書の教えを理解しても、啓示によって主イエス様を心の目で見なければ、私たちは、遅かれ早かれ失敗するでしょう。人間は、自分の力で救いにあずかることはできません。けど、多くの人は、「あの人は、キリスト教に入ってしまった」と言います。実に、これは愚かなことばです。なぜなら、イエス様によって捕らえられることが問題であるからです。

イエス様に対する啓示が必要です。私たちは、主イエス様の偉大なる価値を、心の目で見なければなりません。私たちも本当に、イエス様によって閉じ込められ、監禁された者になったのでしょうか。イエス様は、我々の全生涯の支配を持っているのでしょうか。

イエス様は、我々の聖書に対する頭の知識を、別に要求なさいません。大切なのは、イエス様が我々の心の内に、どれほどの余地を持っているかが問題です。イエス様は、パウロに言ったのです。「わたしは、あなたを捕まえた。あなたを捕らえるために、長いあいだ、努力したが、今、あなたを捕まえた」と、言いました。パウロは、その時から、自分の思い、自分の計画、自分の目的は絶対、ダメだということを知っていました。そして、彼は大喜びで、「私は、キリスト・イエスによって捕らえられている。私は、イエスの奴隷になった」と、告白したのです。その時から、自分の思い、自分の目的は間違っていたということを、知るようになったのです。そして、聖霊の支配のもとに、生まれつきの裁きと決定、生まれつきの能力などは使わないで、聖霊と一つになることによって、聖霊の判断、聖霊の思い、聖霊の標準を持つようになりました。

私たちもパウロと同じように、イエス様によって閉じ込められ、監禁された者なのでしょうか。イエス様は、私たちに、『どれほど、あなたは理解したのか』などとは聞こうとしません。私たちは、自分の道を持って、自分の考えによって、前進しようと思うのでしょうか。自分のプログラム、自分の目的、自分の興味の方が大切だと考えているのでしょうか。

このようにイエス様は、お聞きになります。私たちが、どれほど頭で理解しても、問題ではない。イエス様ご自身が、我々をどれほど閉じ込められて、監禁されたかが問題です。テサロニケの信仰者たちは、はっきりとした答えを持っていました。彼らはこの問題を、信仰生活の始めに解決したのです。だから、パウロは、彼らについて、「祈りのときにあなたがたを覚え、あなたがた一同のことを、いつも神に感謝します」と、言うことができました。テサロニケの兄弟姉妹たちは、啓示によってイエス様を見、イエス様によって閉じ込められた者として、自分の全生涯を主に捧げたのです。

私たちの場合はどうでしょうか?「あなたがたは、神に立ち返り、生けるまことの神に仕えるようになり、生けるまことの神に礼拝するようになった」とあります。『生けるまことの神。』なんという言葉でしょう。「生けるまことの神に礼拝するようになった」と、書いてあります。

もし、私たちが生けるまことの神に仕えるのではなく、他の人物や他のものに仕えると、これは終わり、あるいは、死を意味します。すなわち、答えがないし、永遠の実も残らないからです。生けるまことの神以外のものは全部、偶像です。そして、偶像に一生懸命、仕えても答えがない。そして、遅かれ早かれ、これは死だということに気づくことになります。

生けるまことの神。聖書に記されている神は、生ける神であり、まことの神です。他の生けるまことの神は存在していない。もし、私たちがこの生けるまことの神ではなく、他のものに全生涯を捧げれば、それは大間違いで、空虚さだけが残ります。

聖書に示されている神が、生けるまことの神です。信仰生活において、この生けるまことの神は、生き生きとした現実です。もちろん、この現実は、いつも楽しいことばかりではありません。なぜなら主は、困難と苦しみによって教育されますから。しかし、困難のさなかにおいて、信者は主の尊いご臨在を確信することができます。悩みながら喜ぶことができます。

偶像礼拝者は、生けるまことの神を持っていませんし、そして自分の持っている偶像は、祈りを聞くかどうかと、いつもこの疑問を持っているはずです。生まれ変わったキリスト者にとっては、実に生けるまことの神は現実です。全部をこの生けるまことの神の足もとに捧げることは、信仰生活の第一の特長です。

二番目の特長は、このテサロニケ第一の手紙の一章、九節、十節に書かれています。「あなたがたが、神の御子イエスが天から下ってこられるのを、待つようになった。」主は来たりたもう。まもなく、イエス様は迎えに来るという確信は、模範的な信仰生活のために、絶対に必要です。神の御子、主イエス様が、再び、天から下って来られることが、福音のメッセージの中心であります。大切な事実です。これは信仰生活の根本であるべきです。

どうして、テサロニケの兄弟姉妹たちは、模範となったのでしょうか。彼らは、主イエス様ご自身が、まもなくおいでになると確信したからです。心から祈り続けたからです。「主イエスよ、来てください」と。けども、これは、テサロニケにとって何を意味していたのでしょうか。というのは、全部の事柄が、この主イエス様の再臨にかかっていると、彼らは知っていたからです。イエス様の再臨なしに、自分の生活を主に捧げることは、ばかげたことであり、そうなれば、この世と自分たちの生活は、ただ大きな謎です。

イエス様が天から下ってこられることがなく、イエス様の来るべき王国がなければ、信じる者は非常に騙されたようなものです。テサロニケの兄弟姉妹たちは、聖霊の啓示によって改心したときに、主は、また来られるという堅い確信を、自分のものとすることができました。

各々の時代で、世界を良くするために、いろいろな運動があったのですが、今まで、成功しませんでした。かえって、だんだん悪くなりました。実にそれは、空しい努力です。ある人は、次のように言いました。『私たちは、一生懸命、歴史を勉強するのですが、しかし、この勉強によって、何を習ったのでしょうか。というのは、私たちは歴史から少しも習っていないということに私たちは気づいたのです。』

世界を良くするために、平和が現実になるように、何と多くの人々は努力するでしょう。実にこの空しい努力は、失望への道です。しかし、聖書は我々に逃れ道を示しています。その希望とは、イエス様の王国、主イエス様の絶対的な支配によって、あらゆる問題が解決されるということです。

テサロニケの兄弟姉妹たちは、これを見、また、確信したのです。彼らは、『この世は争い、不一致、失望と欠乏に満ちている。また、この世から少しも得ることがない』ということを知るようになりました。けれども、このテサロニケの兄弟姉妹は、悲しくなりませんでした。なぜなら、イエス様はご自分の再臨を約束なさいましたから、主は来てくださるという確信を持って、前進したのです。

イエス様が、天から下って来られるとき、このような失望と欠乏は終わります。テサロニケの兄弟姉妹たちは、神の御子であるイエス様が、天から下って来られるのを待つようになった。信じただけではない。今日かもしれない!これこそ、根本的な問題です。この問題は、我々の信仰生活の始めに解決しなければなりません。我々の希望は、この世ではない。我々の望みは、イエス様のご支配です。イエス様がなければ、私たちに希望はなく、非常に騙された者です。

けれども、イエス様とともに、私たちは身を起こし、頭をもたげることができるのです。イエス様は、近いうちに来られます。これは、真の解放を意味しているのです。聖霊の目的は、やはり、この主の再臨です。したがって、もし、私たちが再臨について話し、また、再臨について考えるとき、聖霊の働きを感じるのです。何と多くの信者は、困難と言い現すことのできない苦しみのさなかに、再臨を覚えて、大喜びで主を賛美したことでしょう。我々の主イエス様は来られます。近いうちに来ます。その日は、失望や戦いの終わりを意味します。

私の一人の友だちが、何年間も毎週、ある夫婦を訪問しました。ご主人は、少しも歩くことができませんでした。二十年間、夫婦はただ一つの部屋しか持っていましたし、この世の財産は少しも持っていませんでした。しかし、彼らは絶望した者だったでしょうか?いいえ、そうではない。友だちが来たときは、いつも大喜びで、主イエス様はまもなく来られると話あって、これこそが彼らの力の源でした。

テサロニケの兄弟姉妹も、苦しみと艱難を知っていたのです。

第一テサロニケ
2:14 兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。

3:3 このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。
3:4 あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。

テサロニケの信者たちは、敵対、迫害、困難、苦しみを知っていましたが、前進しました。彼らは、こうしてマケドニヤとアカヤにいる信者全体の模範になりました。どうしてでしょう?彼らは、「主は来たりたもう」と確信したからです。「あなたがたが、神の御子イエスが、天から下って来られるのを待つようになった。」

私たちにも、このみことばが当てはまるのでしょうか。これは、模範的な信仰生活の根本の特長であります。

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