2013年7月7日日曜日

信ずる者の使命

信ずる者の使命
2013年7月7日、吉祥寺福音集会
ゴットホルド・ベック

エペソ
6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。


何回も何回も言いましたように、我々は、ただ救われるために救われたのではない。いつか、天国に行くために、永遠にわたって、イエス様といっしょになることのために救われたことよりも、今、生きているあいだに、主に用いられる器となるためです。ですから今日は、新たに主の恵みによって、救いにあずかった人々に与えられている使命とはいったい何のでしょうか?

もちろん、我々の人生においてもっとも大切なことは、救い主、主イエス様を持つことです。イエス様を体験的に知ることです。

救いの神を知るようになった人々の証しとは、いったいどういうものでしょうか。

もうすでに、三千年前に、救いの神に出会ったダビデは何と言ったかと言いますと、

詩篇
118:14 主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。

救いとはものではない、救い主ご自身です。イザヤも同じ救いにあずかった男でした。

イザヤ
12:2 見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は私の力、私のほめ歌。 私のために救いとなられた。

救いとは、結局、救い主を持つことです。救い主によって守られ、導かれることです。イエス様を生んだマリヤは、次のように告白しました。

ルカ
1:46 ・・・・わがたましいは主をあがめ、
1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。

救いの神を知ることによって、はじめて、私たちは、この地上において、本当に満たされた生活を送ることができます。満たされた人生を送るためには、永遠のいのち、主なる神との平和、罪の赦し、従って、主イエス様が私を心配し、導き、そして、守っていてくださるという確信が、生活の土台とならなければなりません。そして、私たちが死んだ後は、永遠にイエス様と交わり、栄光をともにすることになるという確信こそが、最高の宝物なのです。いつまでも、主イエス様とともになるという事実について考えると、主を礼拝せざるを得ないのではないでしょうか。

このような人間の永遠の栄光というものは、新しく生まれ変わることによって、初めて可能となるものですから、そのことこそ、我々の人生において、もっとも大切なことに他なりません。けれども、聖書は、新しく生まれ変わったばかりのキリスト者は、幼子のようなものに過ぎないと言っているんです。次のようにペテロは書いたのです。結局、主イエス様に出会ってからの人々です。

第一ペテロ
2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

ここで、乳飲み子は、いつまでも乳飲み子の状態にとどまっているのではなく、成長しなければならないということは、言わなくても、明らかなことです。

コリント第一の手紙にまた、似ている言葉があります。コリントにいる確かにイエス様を信じるようになった人々とは、なかなか成長しなかったのです。パウロの痛みのたね、悩みのたねでもありました。

第一コリント
3:2 私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。・・・・実は、今でもまだ無理なのです。

パウロは、コリントにいる信者たちに対して、乳飲み子にミルクを飲ませるようなことだけしか、することができなかった。ミルクは確かに消化のために、もっとも良い食糧であるけれど、それは救いの基礎を形成するものに他なりません。コリントにいる兄弟姉妹たちは、例えば、エペソにいる兄弟姉妹、あるいは、コロサイにいる兄弟姉妹に対して、パウロが書き送ったような性質の高等な真理を理解することができなかったのです。

このようにパウロは、多くの信者に対して、ちょうど、母がその子どもを育てるように振舞ったのです。しかし、パウロの目的は、いつまでも乳飲み子の世話をするのではなく、信者たちが全き人となることでした。エペソ書を見ると、この表現は、「大人にならなければいけない」となっているんですね。

エペソ
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
4:14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。

イエス様を持つことは、確かにすばらしいことです。けれど、それだけでは、決して、十分ではありません。むしろ、イエス様が我々を御手の中に置くことによって、我々の主として、我々の全てを支配なさることが大切です。イエス様を知ることは、恵みです。しかし、私たちがイエス様のために用いられる器となるためには、イエス様を我々の救い主だけではなくて、我々の主として、支配するお方として、より良く、体験的に知ることが大切です。従って、私たち信者は、全ての生活が絶えず、イエス様のために営まれているように、主に従って行かなければなりません。

私たちは、本当の信者の生活の目的、信じる者の使命について考えることが、本当に重要なのではないかと思います。別の言葉で表現するならば、私たちは、永遠の勝利の冠のために生きていくことが、大切なことであると言えるでしょう。

新約聖書の中には、この地上における普通のいわゆる競争と、我々信じる者の霊的、信仰的な戦いとが、対比されています。従って、競争、あるいは、戦いは、我々の信仰を励ますためのものとして考えられているということがわかります。

まず初めに、その当時のギリシヤ、ローマで行なわれたスポーツについて、ちょっとだけ見てみたいと思います。

その当時、ギリシヤ人は、ただ単に精神的な訓練だけでなく、肉体的な訓練をも大切なものであると考えていました。健全なる精神は健全なる肉体に宿るというように、一般に考えられていたのです。そのために、その当時のギリシヤ人は、男だけではなくて、女も七歳になると、激しい運動をやらさせられたのです。小さい時からそのような訓練を受けたために、大人になった時には、非常に美しく、健康な体が形作られたのでした。それが、その当時の彫刻などを見ればよくわかります。美と徳とは、切り離すことのできないものであるというのが、その当時のギリシヤ人に共通した考え方だったようです。従って、美しい心と健全な身体とが理想とされたのです。

ギリシヤ語以外の言葉では、良いものと美しいものとは区別され、別の表現でもって表わされるますが、ギリシヤ語ではそれらの言葉が同じ語源から創られています。

このように、ギリシヤでは、善と美とが理想とされたが、これに対して、ローマでは、正義と力とが理想とされていました。それにもかかわらず、それぞれの違った理想は、共に、スポーツによって達成されると考えられたのです。

ところが、ギリシヤやローマのスポーツは、常に偶像礼拝と結びついていました。例えば、オリンピック競技は、ゼウスの神の名誉のために行なわれました。別の競技は、コリントの近くで行なわれたために、海の神、いわゆるポセイドンを誉めたたえるために開かれたのです。また、ある競技は、太陽の神、いわゆるアポロを記念するために行なわれたのであります。オリンピアでは、中心にゼウスの祭壇が築かれており、全ての競技が終わった後で、この祭壇の前に華やかな行進が繰り広げられたのです。

ローマでは、スポーツを始める前に、神々の偶像が車に乗せられて、競技場を一回りすることが慣わしとされたのです。この競技は、非常に有名なので、人々はいろいろなことをよく知っていたのです。従って、パウロもその競技については、よく知っていたが、それが偶像崇拝であるために、彼は決して、それに参加したことも、見たこともなかったでしょう。

そのようなわけで、確かにこのスポーツは、偶像崇拝であったけれど、パウロはひとつの例として、この競技を使って説明したのです。けども、パウロは決して、妥協したのではなく、初めから終わりまで、真理だけを証ししました。

パウロは、ギリシヤ人の考え方や、ローマ人の考え方をよく知っており、それらの人々に分かりやすく説明するために、このような例を用いたのです。パウロがこのような一つの例を用いて宣べ伝えた福音は、主イエス様が救い主であるということに、他ならなかったのです。イエス様こそ、罪の債務と罪の力から解放される唯一の救い主です。このイエス様を信じる者は、新しいいのちを得ることができ、あらゆる問題を解決することができ、そして、喜びと力とが与えられるのです。それにもかかわらず、主は勝利の生涯、すなわち、栄光に満ちた永遠の目標と、生き生きとした望みとを、私たちに与えてくださるのでrす。

ローマ
1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

福音とは、ひとつの教えというよりも、神の力、救う力、そのものであると、パウロは証ししたのです。しかし、イエス様と結びついている時にだけ、この力が現われることを忘れてはなりません。神の霊である御霊が、この力を私たちに与えるようにとりなしておられます。しかし、大切なことは、私たちが全てを主イエス様にゆだねることです。

イエス様を信じることは、すなわち、勝利の戦いを勝ち取ることを意味します。従って私たちは、この力によって、主なる神の目的である勝利の冠を得るために走ることを急がなければなりません。

このように、我々にとって、主イエスから与えられた力を用いて、主の目的に向かって走ることが必要です。従って、救われた者の生涯は、おもむくままの散歩ではなく、まさに、勝利の冠を得るための戦いそのものです。私たちは自分自身の力によって戦うのではなく、主の恵み、主の憐れみによって与えられた上からの力によって戦わなければなりません。

新約聖書の中には、ギリシヤ、ローマ時代の競技のことが描かれているが、いったいこれは何のために書かれているのでしょうか。我々にとっては、救われた者であるということだけでは、決して十分ではありません。それは単に初めの第一歩にしか過ぎない。むしろ、永遠の戦いの目標が大切な問題です。そのためには私たちは、今まで以上にもっとイエス様を信頼し、イエス様に全てをゆだねなければなりません。

私たちは真剣に、そして、喜びに満ちて、主に従って行くべきです。今以上に、もっとイエス様を信頼し、イエス様に全てをゆだねなければなりません。私たちは、真剣に、そして、喜びに満ちて、主に従って行くべきです。私たちは、主の証し人として用いられなければなりません。従って、私たちは、主のご目的を目指して走り、イエス様において上に召してくださる主の勝利を得ようと努めるべきです。

全て、この世のものは、過ぎ行くはかないものです。ただ、永遠なるものだけが、いつまでも存続するのです。そのために、永遠なるものを目指して、私たちは、一生懸命にならなければなりません。従って、私たちはこのような信仰の戦いをする時、私たちが持っている霊的なエネルギーを全部、出し切って、主のために生きなければなりません。

私たちが目指して走っている目的、目標は、本当にすばらしい栄光に満ちています。私たちが、忠実な主のしもべとして最後までご奉仕するならば、それによって得られる報いは、考えられないほど大きいものです。

生きておられるイエス様は、私たち信者に霊の力を充分に備えていてくださいます。イエス様は、私たちに大胆な証しをする勇気と、信仰の確信と、確実な勝利を与えてくださいます。パウロが言ったように、信者の生涯とは、言わば、組みうちのようなものである。つまり、悪霊に対する戦いであると書いてあります。

エペソ
6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。

6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

別の言葉で言えば、競技場で走る競走のようなものです。ピリピ人への手紙の3章を見てみると、この競争について、次のように書かれています。

ピリピ
3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

私たちは、この世のいろいろな力に対して、霊の戦いをしなければならない。ある場合には、救いのかぶとをかぶり、御霊の剣を持って、白兵戦を行ない、また、ある場合には、火の矢が飛ぶ遠隔地の戦争を行なわなければならない。

エペソ
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

提案ではなくて、命令です。勝利者となるために必要な命令です。そこでは、打ち砕かれた悪魔の要塞が問題となります。

第二コリント
10:4 私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。
10:5 私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、
10:6 また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。

私たち、主の恵みによって救われた者は、その意味で、戦士であると言えます。

第二テモテ
2:3 キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。

パウロは、愛弟子であるテモテにこう書き送ったのです。

イエス様のためにご奉仕することは、すなわち、聖なる戦いです。イエス様のしもべとして、証し人として、固く立とうと思う者は、この戦いの意味を、おのずずから感じ取るはずです。私たちがイエス様と共に行こうとする時には、この世の未信者から強い攻撃を受けることが明らかです。何故ならば、それが、イエス様を受け入れないもの、すなわち、生まれながらの人間の性質だからです。彼らは皆、口を揃えて反対します。ルカ伝19章に、何が書かれてあるかと言いますと、『我々はイエスが王になることを望んでいない。』

【参考】ルカ
19:14 しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。』と言った。

これこそ、生まれつきの人間が語る言葉なのではないでしょうか。

最後に二箇所、読んで終わります。ひとつはバプテスマのヨハネの心からの告白、証しです。

ヨハネ
3:30 あの方は(・・・・すなわち、イエス様は・・・・)盛んになり私は衰えなければなりません。

彼はこういうふうに、証ししてよろこんで、殉教者として自分のいのちを捧げました。そうすると、イエス様は盛んになると確信したからです。

もう一つの箇所は、信じる者にとっていちばん、大切な箇所かな。パウロの心からの証しです。

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。(・・・・もう、アウトです・・・・)もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

私たちも、心からこういうふうに言うことができれば、本当に幸いだと思います。

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