2023年5月28日日曜日

私の心はあなたの救いを喜びます

私の心はあなたの救いを喜びます

2023年5月28日、吉祥寺福音集会
重田定義兄

詩篇
13:5 私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。
13:6 私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。

今から四十数年前、私がそれまで行っていた教会に決別し、吉祥寺キリスト集会に移る決心をして、既に吉祥寺集会に移っておりました家内と一緒に、初めて軽井沢のバイブル・キャンプ場で行われておりました集会のキャンプに参加した時のことでありました。

キャンプ場の中庭で、兄弟姉妹がたと昼食をしておりました時に、一人の吉祥寺集会、生抜きの兄弟が、私に突然、『あなたは救われていますか』と話しかけてこられたのです。私は一瞬、答えに詰まって、黙っていました。その様子を見た兄弟はすぐに話題を変え、私は答えないままに終わってしまいました。

その当時、私は喜びのないまま、教会の礼拝に出席し、役員として、礼拝の司会や時には牧師に代わってメッセージを取り次ぐというような信仰生活を送っておりました。その集会の兄弟から、あなたは救われていますか?と問いかけをされたその時、私は兄弟の口を通して、主が私の喜びのない信仰を鋭く指摘されたような気がいたしました。

では、救いの喜びはどこから来るのでしょうか?詩篇の作家は、次のように主を賛美しております。

詩篇
92:4 主よ。あなたは、あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいましたから、私は、あなたの御手のわざを、喜び歌います。
92:5 主よ。あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御計らいは、いとも深いのです。

このようにこの作家は、主の御手のみわざの大きさ、主のご計画の深さを知ったことを喜んでおります。では、その主の御手のわざ、主のご計画とはいったいどんなものでありましょうか?

私たち人間は、神様に愛され、神様と親しく交わるように造られたものにもかかわらず、神様の御心に背くという罪を犯したアダムとエバの子孫であり、生まれながらにして神様に対するそむきの罪を負い、その報いとして、死に定められ、滅びるしかないものでありました。けれども、神様は、そのような人間をも、お見捨てにならずに愛してくださり、哀れんでくださり、滅びの罪から救おうというご計画をお立てになり、そのみわざを実行に移されたのであります。

そして、その救いの御業というのは、具体的には、言うまでもなく、御子イエス様に全人類の罪を負わせて十字架に架け、そのあがないの御業を信じる者の罪を赦し、死ぬことのない永遠のいのちを与えようという私たち人間の理解をはるかに超えた大きく深いものでありました。まさに聖書の哀歌三章22節、『私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ』と、あるとおりであります。

神様から背き離れた人間は、自分の知恵や思いだけで生きております。そのような人間は、人間に対する罪は知っていても、神様に対する罪意識を持つことができません。したがって、神様に犯した罪がどんなに大きいか、どんなに恐ろしいかを知ることができません。

神様の御愛によって自我が砕かれ、閉ざされていた霊の目が開かれた時に始めて、神様に背いた罪の大きさ、恐ろしさを知ることができ、心から罪の告白と悔い改めができるのであります。

ダビデ王もその一人でした。彼は王の権力によって、自分の部下の妻を奪い、部下を死に追いやるという神様から与えられた十戒のうちの殺人、姦淫、貪りという三つの戒めを破りながらも、それを王として当然のこととし、罪の意識など全く持っておりませんでした。しかしながら、預言者ナタンによって自分のしたことが、神様の戒めを破る死罪に値する罪であることを知って、次のように祈りました。

詩篇
51:1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
51:2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。
51:3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。
51:4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。・・・・

51:14 神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。・・・・

このようにダビデは、神様に罪を告白し、心から悔い改めて、罪の赦しを請い願いました。自我が砕かれ、霊の目が開かれて、自分が神に背いた罪の大きさ、恐ろしさを知れば、誰でも、どなたでも、ダビデと同じように神様に心から罪の赦しを乞うようになります。神様に心から罪の赦しを請い求める者に対して、次のように約束してくださいます。

イザヤ
43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

では、神様は、このお約束をどのようなかたちで私たちに与えてくださるのでありましょうか?神様は、預言者イザヤの口を通して、次のようにお告げになっております。

イザヤ
53:1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。
53:2 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

彼とはもちろん、イエス様であります。イエス様は神の御子であられながら、父なる神様の御心に従い、私たち人間と同じ血と肉を持った人のかたちを取って、この世にお生まれになって、人々から蔑まれ、はげしい迫害をお受けになりながら、三十三年の御生涯をすごされ、最後には、十字架におかかりになり、全人類の罪の贖いのみわざを成し遂げられたのであります。

自我が砕かれ、霊の目が開かれて、このイエス様の十字架の贖(あがな)いの御業が、自分のような者にも及んだ恵みを覚え、イエス様を信じて救われた者ならば、その救いを心から感謝し、よろこびます。

では、その喜びは、信仰生活の上に、どのような変化をもたらすのでありましょうか?これについては、集会の多くの兄弟姉妹が証しをされております。そこで今日は、私自身について、思いつくままに挙げてみたいと思います。

一つ目は、礼拝に対する態度が変わります。かつて、喜びのなかったときは、礼拝は、信者の義務と考えておりました。時には、毎週、礼拝に行くことをさえも、重荷と思うことがありました。しかしながら、救われた喜びを与えられてからは、礼拝が主なる神様、主イエス様に心からの感謝と賛美をお捧げすることが、どんなに幸いなことか、また、礼拝を通して、神様、イエス様と霊的なお交わりができることがどんなに大きな喜びであるかを覚えるように変えられたのであります。

二つ目は、生活の軸が変わったことであります。喜びのなかったときは、まだイエス様により頼むこと、イエス様に自分を明け渡すことの恵みが、どんなに大きいのかが分からないで、実はイエス様が助けてくださっていたのにもかかわらず、愚かにも、自分の力で、自分の知恵で、生活上の問題をなんとか解決したと思い込んでいたような愚かな者でありました。しかしながら、救われた喜びを知ってからは、自分の過去、現在、将来の生活、一切はイエス様の御手の中にあり、いつもイエス様がともにいて導いてくださり、時には手を引いてくださり、時には背負ってまでして守ってくださるから、自分はただ、イエス様により頼み、お委ねし、明け渡し、導かれるままに歩めばよいと言うように、生活の軸を、イエス様に変えることができるようになりました。

三つ目は、とりなしの祈りの変化であります。喜びのなかったときは、心からではなく、形だけの祈りにすぎないような祈りをしておりました。けれども、救われた喜びを知ってからは、イエス様が私のような者を救うために、また、救われた後も、ご自分から離れないようにと、サタンの餌食にならないようにと、どんなに愛をもって祈ってくださっているかを覚えることができ、また、まだ救われていない親族、友人、知人の救いの祈りを、そして、艱難、試練の中にいる兄弟姉妹のための祈りを毎日、心から主に捧げるように変えられたのであります。

四つ目は、教会に対する姿勢であります。喜びのなかった時には、教会は主の御体であると、聖書にはっきり記してあるにもかかわらず、教会は礼拝を行う場所という思いが強くて、教会に対する親しみというものは、あまり感じられませんでした。けれども、救われた喜びを知ってからは、自分も主の御体なる教会であるキリスト集会に組み込まれたひとりとして、同じように教会の体の部分部分として集っておられる兄弟姉妹がたとともに、心を一つにして、教会を愛し、集会を愛し、集会がイエス様をかしらとする御体なる教会として、主のご栄光を現すようにと祈るように変えられました。

五つ目は、御再臨待望についての態度であります。喜びのなかった時でも、イエス様の御再臨が聖書のどこに何と記してあるか、知識としては知っておりました。信者が御再臨をもっとも大きな希望として待ち望む思いも、理解はできておりましたつもりであります。けれども、自分にとって、ご再臨を現実の問題として受け止め、真剣に待ち望む思いを持つまでには至っておりませんでした。しかしながら、救われた喜びを知ってからは、イエス様が間もなく、今のこの悪に満ちた、罪に穢れた闇の世界を滅ぼし、新しい聖い世界に作り替えられる時に、それまでお救いになった信者を、もうすでに骨になった信者まで聖い、朽ちない体に変えて、天の御国に携え上げてくださるために、再び天から迎えに来てくださるというすばらしいご再臨の約束が、一日も早く実現するように、毎日、『主イエス様、早く来てください』と、熱心に祈るようになりました。

以上、思い出すままに、救われた喜びが信仰生活にどのような変化を生じたかを、私自身の上に起こった変化としてお話しいたしました。けれども、この変化は、決して、私の意志によって、あるいは、私の働きによってなされたものではありません。私はただ、救いを喜んでいただけでありました。その喜んでいた私の心の中に住んでくださっている御霊の力、御霊の働きによって、自然に起こされたものであります。イエス様が私をこのように豊かに恵んでくださったことを、心から感謝するばかりであります。

最後に、もう一度、冒頭の御言葉をお読みいたします。

詩篇
13:5 私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。
13:6 私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。

ありがとうございました。

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